Interview With The Founder Of Kenzo, Kenzo Takada

PORTRAITS | Nov 1, 2017 9:02 PM
1970年代、パリのファッションシーンを牽引したKENZO (ケンゾー) の創始者・高田賢三 (たかだけんぞう) のインタビュー。現在もパリを拠点に世界を見ながらクリエイティブに生きる高田は、今自身の過去を振り返りどう思うのか?今のファッションに何を感じるのか?未来に何を見るのか?胸に秘めたファッションへの愛を、ファッション・ディレクターの萩原輝美がインタビューした。

*You’ll find the English text after the Japanese.

高田賢三

高田賢三

1970年代、パリのファッションシーンを牽引した KENZO (ケンゾー) の創始者・高田賢三 (たかだけんぞう)。1939年2月27日、兵庫の姫路に生まれた高田は姉たちの習う洋裁やファッション雑誌に影響を受け服飾に興味を抱く。そして学生時代から外国に興味があった同氏は、高校を卒業した後、神戸市外国語大学に進学。ただ、どうしてもファッションへの思いを忘れられなかった高田は大学を中退し、文化服装学院に入学する。そこから高田賢三のファッションの歴史がスタートした。(同期には、コシノジュンコや金子功、松田光弘など大成したデザイナーが多く在籍し、高田氏も含め「花の9期生」と呼ばれる)

文化服装学院卒業後、三愛に就職するも3年ほど働いたあと1965年に渡仏。1970年には独自のブランドを立ち上げる。これが後の「世界の KENZO」へと成長する。オートクチュールが主流だったパリで、プレタポルテのファッションを発表し新たな時代を切り開いていった KENZO は世界のファッションファンの憧れとなった。1993年に LVMH の傘下に入ると、1999年には「しばらく休んだらまた新しいことをやりたい」という言葉を残し高田はクリエイティブ・ディレクターの座を降りる。その後は、アテネオリンピックの式典、ユニフォームのデザインやセブン&アイ・ホールディングスのプライベートブランドのデザインなどを手がけた。現在もパリを拠点に世界を見ながらクリエイティブに生きる高田は、今自身の過去を振り返りどう思うのか?今のファッションに何を感じるのか?未来に何を見るのか?胸に秘めたファッションへの愛を、ファッション・ディレクターの萩原輝美がインタビューした。

—2016年の暮れに『日経新聞』の「私の履歴書」という企画で、賢三さんの30日間の凄い連載がありましたね。

そうですね。いろいろ思い出しながら書いてもらったんですけど、どういう反響が出るかすごく怖かったですね。

—生い立ちから、学生時代のこと、パリに片道切符で行ったこと。それからはじめは松田光弘さんとかいらっしゃったけど、ひとりでパリのファッション業界に乗り出して行ったことなど、赤裸々に語ってらっしゃいますよね。あの時の心境ってどうだったんですか?

僕、高校に入る頃から大学はどういうところに行きたいのか、よく分からなかったんです。ひとつだけはっきり覚えてるのは、絵に関われる仕事ができれば素晴らしいなと思っていました。

1971年の高田賢三

1971年の高田賢三

—まずはファッションというより絵という意識だったんですね。学生時代に絵のコンクールで優勝なさったとか。

僕の子供の頃というのは娯楽がほとんどなかったんです。テレビもない、ラジオと映画くらいですかね。なので学校以外の時間は、ほとんど映画館にいました。映画は邦画も洋画もたくさん観ました。映画で夢を見たり、希望を抱いたり。それで外国に住みたいという思いも出てきました。

—そうなんですね。それが、パリ行きに繋がったと。

そうですね。たまたま文化服装学院に入ったのですが、やっぱりファッションをやりだすとどうしても一度はパリに行きたいと思うようになりました。その後、文化服装学院を卒業して4〜5年経ってから、パリに行くチャンスがありまして。

—実は私も文化服装学院のデザイン科卒なので、賢三さんは大先輩にあたり光栄です。お話を伺っていても、賢三さんはいわゆる優等生だったと思います。姫路での学生時代の成績も良かったし、なにをやってもできちゃった少年が文化服装学院に行き、パリに行くという、すごいサクセスストーリーですね。

優等生でもなかったですよ。よく遊んでいましたし。とにかく何もない時代でしたので、色んなことに飢えていました。そういう反動もあったのか、当時の若者はこういうことやりたいとか、はっきりした夢があったんですよね。僕の場合は「ファッッションをやりたい」「パリに行きたい」そういう思いがはっきりしていました。若いし、何をやっても怖くありませんでした。そして24歳の終わり頃にパリに行きました。

—半年間の船の旅だったんですよね。

はい。その頃、ようやくパスポートを取れる時代になりました。パリ行きの飛行機もあったのですが、当時、文化服装学院の小池千枝先生が「どうせパリに行くなら絶対に船で行きなさい!船で行くと色んなことが見られるし、絶対にいい経験になります」とアドバイスをいただいたので、船で行くことにしました。当時働いていた三愛には、半年間の休職願いを出していて時間はありましたので。1964年の終わり頃ですね。日本からパリまで、ちょうど一ヶ月ぐらいかかりました。初めて見る外国は衝撃的でした。最初は横浜から出航して、そのあと3日ほど航海して香港に着いて3泊。そのあとはベトナム。ちょうどサイゴン (現ホーチミン市) が戦争に入る頃でした。そのあとはシンガポールに1〜2泊して、そのあとセイロン (現スリランカ共和国) のコロンボ、インドのボンベイ (現ムンバイ)、それから地中海に入って、紅海をずっと進み、エジプトのアレキサンドリアを通るという航路でパリに行きました。船ですから食事もついてきて、贅沢なバカンスのようで本当に最高の旅でした。同時に、大きなカルチャーショックもありました。香港の人たちはまだ昔の生活をしていましたし、ボンベイなんてもう本当にみんな貧しくて・・・。そういう日本とは違う、さまざまなカルチャーを感じられることがすごく刺激的でした。後で考えるとそういう経験がその後の仕事にいい影響を与えました。

—その1ヶ月間の旅でさまざまな国で受けたインスピレーションが、その後のデザインに反映されたんですね。また賢三さんは、Louis Feraud (ルイ フェロー) が大好きで、彼にデザイン画を見てください!と売り込みに行ったんですよね。

高田賢三 1960年代後半のパリの自宅にて

高田賢三 1960年代後半のパリの自宅にて

当時はデザイナーがデパートのオーナーだったりすることがよくあって、そこによく自分が描いた絵を持っていって直接意見をもらったりしていました。また、僕が文化服学院に入った時に、Pierre Cardin (ピエール・カルダン) がはじめて日本に来てショーをやったのですが、すごく衝撃をを受けました。そのすぐ後に、Louis Feraud が文化服装学院の講堂で、Brigitte Bardot (ブリジット・バルドー) が着てるようなギンガムチェックの可愛い服のショーをやったんです。それ以来ファンになってしまって。そしてパリに行って、市内に Louis Feraud の小さな店があったんですけど、毎日そこに行っていました。5ヶ月くらい経って、いよいよ日本に帰らないといけなくなりました。

—まだ日本に帰る気があったんですね。

それしか選択肢がなかったんです。パリに来てから何人か日本の方を紹介されて色々な話を聞いたんですけど、やはり日本人はパリのファッション界では絶対に仕事はできませんと言われまして。

—そうですか。まだまだハンディキャップがあったのですね。当時、先輩もいらっしゃらなかったですよね?

松本弘子さんという Pierre Cardin のモデルなどをやっていらっしゃった方がいましたが、ほとんどいませんでした。そのとき僕がすごくショックだったのは、東洋人というだけで軽蔑をされることでした。パリから少しはなれた田舎に行くと、特にそういう嫌悪感は強かったですね。当時の日本人に対するフランス人の感覚いうのは、小さなカメラを持って写真を撮って帰ってはコピー商品を作るという、オリジナリティのない国というイメージだったんです。1966〜67年頃になってから Sony (ソニー) とか Honda (ホンダ) などの日本ブランドがようやく世界でも認められるようになっていきました。なので60年代はやっぱり、厳しい時代でしたね。

—それでも日本に帰ろうとは思わなかったのは?

最初はお金はない、友達はいない、言葉もできない、で本当に辛くてすぐにホームシックになって帰りたくなりました。ただ、いい仕事も見つかり徐々に友達もでき、パリの街は素敵だし。デザイナーになりたいという思いもいっそう強くなりました。なので帰りたくなかったですね。そして日本に帰る前に、“旅の恥はかき捨て”というつもりで自分が描いた絵を抱えて、Louis Feraudに見せに行きました。

—そしたら奥さんに褒められ、どんどん値段が高くなるという…!

いま考えたらほんと信じられない話です。Louis Feraud の店に直接行ったんですが、本当は意見を聞けるだけで良いと思っていたんです。そしたら Louis Feraud 本人はいなくて、奥さんが来てくれて部屋に入れてくれたんです。そして「いくらで売るんですか?」と聞かれたので、僕は分からなかったので「いくらでもいいです」と答えたら、1枚25フランで5枚買ってくれたんです。お金とかじゃなくて、パリで絵を買ってもらえたということが本当に嬉しかったですね。そこで僕の人生は変わったと思います。

—それが自信になり、キャリアがスタートしたということですね。

1971年発売『ELLE』

1971年発売『ELLE』

それでもう元気が出て、僕が大好きな雑誌だった『Elle』を買って編集部の住所を探して、直接売り込みに行きました。その時、ちょうど『Elle』が服を作る企画をやっていて、そこにたまたまいたデザイナーを紹介してくれたんです。そのデザイナーが Jack Derail (ジャック・デライル) さんという方なのですが、彼が僕の絵の中から10枚ほど選んでくれて、こういうところに絵を持っていくと良いと、業界のバイヤーや百貨店の Printemps (プランタン)、Galeries Lafayette (ギャラリー・ラファイエット)とか、既製服の会社など、計5〜6件の住所を渡してくれました。そして彼のアドバイス通りに持って行くと、びっくりするぐらいに絵が売れました。値段も25フランが50フランに上がり。そして何社かとの間に仕事も決まりました。本当に怖いくらいツイていましたね。

—少し話が前後するのですが、パリに行ってすぐ Pierre Cardin のショーを見に行かれた時に、あまりの凄さにデザイナーを辞めようと思ったとか。

パリには松田光弘さんと一緒に行ったんですけど、すごくついてることに三愛の紹介のお陰で Chanel (シャネル)、Dior (ディオール)、Pierre Cardin、Balmain (バルマン) のオートクチュールのショーを見せてもらったんです。まだ Coco Chanel (ココ・シャネル) が存命で、ショー会場の階段に座っていましたね。僕は日本では三愛に就職してデザイナーになったつもりでいたのですが、それらのショーを目の当たりにしたときに、我々が作っている洋服とまったく違くて。松田くんともうデザイナー辞めようかと落ち込むぐらい、それはもうすごい洋服でした。

1970年代の高田賢三、松田光弘、コシノジュンコたち

1970年代の高田賢三、松田光弘、コシノジュンコたち

—今は、主にパリに住んでいらっしゃるのですか?

半分以上はパリにいます。日本には年に1回くらいですね。

—賢三といえば、やっぱりエスニックというのがメッセージとしてありますよね。それも日本人が考えるジャポニズムではなく、ヨーロッパの人が考えるジャポニズムという気がしていますが、ご自身では何か意識されましたか?

いや、初めの頃はジャポニズムとかよく分かりませんでした。日本にいるときも、パリ行ってからも。自分のお店を作るまでは日本ということをあまり意識していませんでした。

—好きだったわけでも嫌いだったわけでもないけど、自分はパリに行くというのが優先されていたのですね。

パリに住み始めてから、日本に帰ってくるたびに日本の良さに目が向くようになりました。例えば、デパートの呉服売り場に行ってたくさんの帯を目にすると、こんな綺麗なモノがあるのかと思ったり、歌舞伎や能など観て、本当に素晴らしいいなと再発見することがありました。

—30歳で、最初のコレクションとお店「JUNGLE JAP (ジャングル・ジャップ)」を作られてると思うのですが、その時に生地をわざわざ日本に買いに行かれたそうですね。

1970年代 初めてのコレクションのインビテーション。左から高田賢三、安斉敦子、近藤淳子

1970年代 初めてのコレクションのインビテーション。左から高田賢三、安斉敦子、近藤淳子

コレクションを作るというのはやっぱりお金が必要です。日本に帰ってきて、けっこうな額のお金を借りて、そのお金で洋服の生地を仕入れました。当時は60年代の終わり頃で、パリではリバティ柄が流行っていましたね。プリントというのはほとんどなく、僕自身もそれまでプリントはあまり使ったことありませんでした。そして日本に帰ってきて、布を探すときに何か自分のオリジナリティを作らなくてはと思い、意識的に日本のモノを使おうと探しました。浅草に行っては呉服屋さんの古い布とかいっぱい買いましたね。あと下北沢にも僕のお気に入りのお店があって、黄色の鮮やかな生地やタイの安い生地などを売っていましたね。そういうもので最初のお店の洋服を作ったんです。

そしてお店のコンセプトは、初めてパリに行った時に Henri Rousseau (アンリ・ルソー) のジャングルをテーマとする『夢』という絵をみてすごく感動したので、絶対にお店やるんだったら Henri Rousseau の『夢』をテーマにすると決めていました。お店は12月の終わり頃に物件を契約して、パリにいる日本の友達に手伝ってもらいながら3ヶ月かけて完成しました。お金がないですから、ドアとかも自分で作ったりして。

そして、お店を始めるにあたり、いろんなジャーナリストに知らせなくてはということで、完成した洋服を持って『Elle』や『Vogue』の編集部に持って行きました。オープン当日、30人くらいのファッションジャーナリストがきてくれて、ファッションショーというより3人くらいのモデルを起用したプレゼンテーションをやりました。モデルには三富邦子さんという当時、Pierre Cardin (ピエール カルダン) のモデルでパリに来てた方とか、フランス人の友達にも参加してもらいました。音楽も当時流行っていたウエスタンミュージックを流して。パリに来てからの4年間は、ニットの会社とかで大量生産のものをずっと作っていたので、自分が好きな洋服はやれていたなかったので、このコレクションは思いっきりやりたいことをやりました。そういう日本の着物や浴衣の柄や、日本で買ったいろんな素材の生地をつかった洋服が海外では新鮮に見えたのだと思います。

—賢三さんにとって色とはなんでしょう?一番好きな色はありますか?

実際に聞かれると意外と「白」「黒」「赤」 (笑)。でもやっぱり差し色とかはビビットな色ですね。おもいっきり色を使い始めたのは、ファーストコレクションから3〜4年経ってからです。最初はフォークロアな感じでもなく、フランスのオートクチュールのトレンド沿ってヨーロッパ風の洋服作っていたんです。ただ、やっぱりお店を出してからはなにか新しいことをやりたいと思い、ビビットな色でコレクションをやったり。そして少しずつ日本の平面的なファッションが急に新鮮に見え始めて。

—なるほど。逆にそこから立体裁断じゃなくて平面裁断が新鮮に見えたんですね。

文化服装学院で小池先生に立体裁断を教わっていたんですけど、パリで仕事をし始めてからも、毎日自分で絵を描いて立体裁断をして、それをまた平面に直して。そういう立体と平面の両方を使えるのが、色々な面でスキルとして強かったです。

—賢三さんはヨーロッパ式の完璧な立体裁断だけが服じゃないことを証明した最初のデザイナーとも言えます。

時代的な背景もあったと思います。

—まだその頃はどこのブランドもプレタポルテのコレクションやってない時代ですよね。

1968年頃ですかね。フランスで「パリ五月革命」があったり、ヒッピー・ムーブメントが起こったり。そうした運動の影響もあり、オートクチュールのファッションというのがどんどん下火になってきた時代でした。60年代の終わりは、ロンドンがすごくパワーがありました。音楽だと The Beatles (ザ・ビートルズ) や The Rolling Stones (ザ・ローリング・ストーンズ) などが登場して、ファッションだと MARY QUANT (マリー クヮント) が勢いがありました。なんでロンドンじゃなくてパリを選んだんだろうと、その時は一度だけ後悔しました。その頃は少し仕事も余裕ができてきて、月に一回くらいはロンドンに買い物に行っていました。そういう時に僕がはじめたので、時代的な面でも恵まれていたと思います。

—賢三さんのモノづくりのキーワードとして、衣服から身体の解放というのがありますね。

そうですね。立体裁断は身体にフィットするように作りますよね。でも平面の着物は余裕をもたせて作り、帯を使って着ます。その両方のファッションの違いがすごく面白いと思っています。また、小池先生の影響だと思うのですが、小池先生がパリから帰国された時に着ていた服には必ずどこかに綺麗なシワがあったんです。これはパリのエレガンスさだなというイメージがありました。ピチピチの洋服も可愛いのですが、ゆとりのある洋服というのはすごくエレガントに見えたんです。だから着物のもっているシワだとかを新しく解釈し直して、思いっきり正方形や四角形や直線断ちの洋服を作りました。

1979 Ete KENZO par Kenzo Takada | Photo by Peter Lindbergh

1979 Ete KENZO par Kenzo Takada | Photo by Peter Lindbergh

1979 Ete KENZO par Kenzo Takada | Photo by Peter Lindbergh

1979 Ete KENZO par Kenzo Takada | Photo by Peter Lindbergh

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—そういう意味でも賢三さんは、クチュールらしい曲線的なものに加えて、直線的なデザインを取り入れたパイオニアでもありました。そして60歳までコレクションを続けていらっしゃいました。

きつかったです・・・。

—きつかったですか!その後、KENZO は LVMH の傘下に入られました。途中からファッションビジネスが苦しくなったのでしょうか?

70年代というのは僕自身も元気でした。失敗したコレクションも結構ありましたが、今見て面白いのはやっぱり70年代の洋服ですね。その後、80年代に会社を新しくして、真面目な会社になるのですが、会社が大きくなるにつれて制約もどんどん増えていくんですよね。生地を一つ買うにしても信用できる真面目な取引先でなければいけないとか、高い生地ではなく誰でも買えるような生地しか使えないだとか。

—デザイナーとしては大きな会社になることで葛藤もあったのですね。ライセンスの仕事もたくさんやられていましたよね。

もちろん良い面もたくさんありますが、そういう制約も考えなくてはいけない。1985年くらいまではほぼライセンスはやっていなかったです。でも会社がどんどん大きくなるにつれて、ジーンズ部門を始めたり幅が広がっていきました。

—ライセンスは海外の仕事が多かったのですか?

フランスではタオルのライセンスなどをやりましたけど、やはり日本が多かったですね。

—デザイナーとしての喜びはあまりなかったのでしょうか?

ライセンスは営業利益の良い会社を選んでいたので、よく売れたので嬉しかったです。ただ色んな制約はでてきましたけど。それと80年代中頃になると、僕の感覚が時代からどんどん離れているなと感じるようになりました。僕はボディコンシャスとか弱いんですよね。だからそういう時代の変化も感じ始めていた。

1978年 日大講堂にて

1978年 日大講堂にて

—80年代半ばというと、COMME des GARÇONS (コム・デ・ギャルソン) の川久保玲さんとか Yohji Yamamoto (ヨウジヤマモト) の山本耀司さんがパリコレで始めた時ですけど、その時に「黒の衝撃」というのがありましたが、賢三さんはどういう印象を受けましたか?

すごいパワーだなと思いました。僕自身も黒は好きだし、アンバランスな洋服も結構やっていましたけど、あそこまでやるのはすごいなと。でも、自分のアイデンティティというのは貫きたいし、葛藤がありました。

—2016年、西武・そごうさんと「セットプルミエ バイ ケンゾータカダ」を作られましたね。それこそ80年代の賢三さんのお洋服を買ってた人たちも、懐かしく購入されたと聞きました。

そうですね。有り難いのは、いま40〜50代の方がけっこう楽しんでくれていることです。でも洋服作りというのは大変ですね。やはり毎シーズン続けていかないとですし、どういう生地がいま流行っているとかを常に見ておかないといけない。また形もどんどん変わります。今回感じたのは、洋服作りのシステム自体が昔と大きく変わったということですね。70年の頃と比べたらあらゆるものが変わりすぎて、僕なんかにとっては大変厳しかったです。

—60歳の時にご自分のブランドから離れましたが、今後、何かやってみたいことはありますか?

そうですね、やっぱり若い人と一緒に何かをやっていたいなと。若い人と一緒にいるとおもしろいので。毎年、精神的な歳だけはとりたくないなと思っています。仕事はファッションではなくてもファッションに近いところで続けられれば良いなと思ってます。例えばインテリアとか。

—いまは成熟の時代ですが、賢三さんは大量生産とかファストファッションについてはどう思われていますか?

ファストファッションというのは、今の洋服ですよね。オートクチュールなどのファッションとは、同じ着るものであってもまったく別モノだと思っています。でも僕は、ファストファッションってすごく良いなと思います。案外、僕はああいうのけっこう好きな方だから。(笑)

—今、進行されているプロジェクトなどはあるのでしょうか?

今、フランスで香水をやっているんですよ。僕自身は匂いの専門ではないですが、匂いの専門の人たちとやっています。

1970年代初頭の高田賢三

1970年代初頭の高田賢三

—ライフスタイルのお話がありましたが、80年代に賢三さんのパリのバスティーユのご自宅にお邪魔させていただきましたが、それはすごいお家でした。日本から職人を呼ばれて日本庭園なんかも作ったり、プールもあったり。外観は普通のパリのアパルトマンですが、ドアを開けると、もういきなり京都ですよね。

僕引っ越しは大好きなんですが、その時のお家はかなり好き放題にやっていたので大好きな家でしたね。あの和の空間はすごく和みました。今住んでいるアパートには和の部分がほとんどないんですよ。

—サン=ジェルマンの方に移られと聞いています。

現在はオスマン様式の建物に住んでいます。でも壁に屏風を貼ったりしているのですが、けっこう合いますね。オスマン様式と日本の塗りとかはけっこう相性が良いです。

—ちなみに今日、賢三さんがお召しのお洋服は Saint Laurent (サンローラン) みたいですね。

Hedi Slimane (エディ・スリマン) がやってた時の Saint Laurent が大好きです。既にある形をその時代に合わせて作れるというのは素晴らしい能力だと思います。 Balenciaga (バレンシアガ) などもずいぶん変わりましたが、良いなと思いますよ。

—最後に、メンズのコレクションを今後やるとかないでしょうか?!

あ、メンズのデザインはちょっとやってみたいですね。いま自分が着たいモノをやってみたいです。

<プロフィール>
高田賢三 (たかだけんぞう)/ファッションデザイナー
KENZO (ケンゾー)の創始者。1939年兵庫県生まれ。文化服装学院で服飾デザインを学び、1960年第8回「装苑賞」受賞。その後1964年に渡仏。1970年パリにブティックを開き、ブランド「JUNGLE JAP (ジャングル・ジャップ) として初コレクションを発表。1973年「KENZO (ケンゾー)」の名で、パリ・プレタポルテ デビューを果たす。まだ日本と言う国の存在をよく知られていない時代のパリで、平面裁断と立体裁断を融合。着物にインスピレーションを得た作品で、ゆとりのない服が主流だったフランスの人々を驚かせ、一世を風靡。花柄を多用し、そのカラフルな色彩使いから“色の魔術師”と呼ばれ、パリのプレタポルテを牽引するファッションデザイナーとなる。ニューヨーク、東京でコレクションを開催し、「日本エディターズ・クラブ賞」など数々の賞を受賞。1976年現在の KENZO ショップがあるヴィクトワールへ移転。1984年フランス政府から「芸術文化勲章 (シュヴァリエ位)」受章。1987年「ケンゾー パルファム」を設立。1988年初めてのフレグランス「サ サン ボー」を発表。1993年ブランドをLVMHに売却。自身はデザイナーとしてクリエーション活動を継続。1998年フランス政府から「芸術文化勲章 (コマンドゥール位)」受章。1999年ニューヨークにおいて「タイム・フォー・ピース・アワード (ファッション部門)」受賞。1999年「紫綬褒章」を受章。同年 KENZO のデザイナーを退く。2004年パリ高位勲章「パリ市大金章」受章。アテネオリンピック日本選手団公式服装をデザイン。2016年フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章」「名誉軍団国家勲章(シュヴァリエ位)」を受賞。

高田賢三

高田賢三

Kenzo Takada, the founder of Kenzo, led the Paris fashion scene in the 1970s. Born on February 27th 1939, in Himeji, Hyogo prefecture, Takada gained an interest in fashion design thanks being influenced by the craft of dressmaking, which his sisters learnt, as well as fashion magazines. He became interested in foreign countries during his school years and enrolled in Kobe City University of Foreign Studies after graduating from high school. However, Takada simply couldn’t forget his feelings towards fashion and so he dropped out of university and transferred to Bunka Fashion College. That’s where Kenzo Takada’s history of fashion began. (A plethora of successful designers such as Junko Koshino, Isao Kaneko, and Mitsuhiro Matsuda were in the same year as Takada. Including Takada himself, his year is known as ‘Hana No 9 Ki Sei.’) After graduating from Bunka Fashion College, he was employed by Sanai but quit after working there for about 3 years in 1965. He founded his brand in 1970. This grew into the global brand we know today. Whilst haute couture was trending in Paris, Kenzo paved the way for a new era with its prêt-a-porte sensibilities. Kenzo became a brand that fashion lovers look up to. The brand was purchased by LVMH in 1993 and Takada withdrew from his position as creative director in 1999, leaving behind the words, ‘I want to do something new after taking a break for awhile.’ After that, he designed the uniforms for the Athens Olympics, the private brand for Seven & i Holdings, and so forth. Takada is still currently based in Paris, where he sees the world from his perspective as he lives his life creatively. What does he think of his past in retrospect? What does he feel from looking at fashion today? What does he see in the future? Fashion director Terumi Hagiwara interviewed Takada about his deep love for fashion.

—There was a great series at the end of 2016 called ‘My Personal History,’ which was a great project done by Nikkei Shimbun in a span of 30 days.

That’s right. I was remembering a lot of things as they were writing it. I was scared as to what kind of reverberations would arise from it.

—You spoke about your background, your school years, and going to Paris with a one-way ticket. You also spoke about other things such as how you were with Mitsuhiro Matsuda at first but launched into the Paris fashion industry on your own in a raw way. What was your state of mind at the time?

From around the time I started high school, I didn’t really know what kind of university I wanted to go to. One thing I do remember clearly is thinking about how wonderful it would’ve been if I could work in a field related to drawing.

—You initially had the intention to pursue drawing rather than fashion. I heard you won a drawing contest whilst you were a student.

There wasn’t a lot of entertainment when I was a child. I didn’t have a T.V. The only forms of entertainment available were the radio and films. I spent most of my time at the movie theater when I wasn’t in the classroom. I saw a lot of foreign and domestic films. I was able to dream and have hope from watching films. I began to want to live abroad from them.

—I see. That led you to go to Paris.

Right. I accidentally got into Bunka Fashion College but once I started doing fashion, I began to want to go to Paris, at least once, even more. 4-5 years after I graduated from Bunka Fashion College, I got the opportunity to go to Paris.

—I actually also graduated from the department of design at Bunka Fashion College so it’s a great honor to have you as a venerable alumni. From listening to you talk, it seems like you’re what you call an honor student. Your grades from when you were a student in Himeji are good, you went to Bunka Fashion College as a young man who could do anything, and went to Paris after that. It’s an impressive success story.

I wasn’t an honor student, really. I messed about and whatnot too. It was just a time where there was nothing so I was hungry for a lot of things. Perhaps it was a reaction against that but young people at the time had clear dreams about what they wanted to do. For me, I had a lucid desire to do fashion and go to Paris. I was young and I wasn’t scared to do anything. And then I went to Paris right before I turned 25.

—It was a trip via ship that took about 6 months right?

Yes. It was around the time where you were finally able to obtain a passport. There were planes that went to Paris but at the time, a teacher at Bunka Fashion College, Chie Koike advised me and said the following: ‘if you’re going to Paris, go there by ship! If you do, you’ll see a lot of things and it’ll definitely be a good experience.’ And so I decided to go by ship. I asked to take a 6-month break from Sanai, where I worked at the time, so I had time. This was at the end of 1964. It took about a month to go to Paris from Tokyo. It was shocking to see a foreign country for the first time. We departed from Yokohama and spent 3 days on sea until we got to Hong Kong and stayed there for 3 nights. We then went to Vietnam. It was right before Saigon (currently known as Ho Chi Minh) went into war. We stayed in Singapore for 1-2 nights and then went to Colombo in Ceylon (currently known as Sri Lanka), Bombay (currently known as Mumbai) in India, until we entered the Mediterranean Sea. We followed the Red Sea for a while and then went through Alexandra in Egypt. That was the route we took to get to Paris via ship. Because it was a ship, it was a really great trip that was almost like a luxurious vacation where food was included. Simultaneously, I felt a big culture shock. The people in Hong Kong led a life that was from old times and everyone was just so poor in Bombay… It was stimulating to see a lot of different cultures from Japan. In hindsight, those experiences had a good influence on my work later on.

—The inspiration you gained from a lot of different countries in one month, was reflected in your later designs. You also loved Louis Feraud and promoted yourself to him by saying ‘let me see your designs!’

At the time, there were a lot of instances where designers would be the owners of department stores, and I would bring my own drawings and get their opinion directly from them. Also when I got into Bunka Fashion College, Pierre Cardin came to do a show in Japan for the first time and I was shocked. Right after that, Louis Feraud did a show at Bunka Fashion College’s auditorium. It was a show with cute gingham pattern clothes; the kind that Brigette Bardot might’ve worn. I became a fan right after that. Then I went to Paris. There was a small Louis Feraud store within the city and I went there everyday. Around 5 months past, and it was time for me to go back to Japan.

—You still had the will to go back to Japan.

That was the only option. I was introduced to several Japanese people when I got to Paris but I was told that it was impossible for Japanese people to make it in the Parisian fashion industry.

—I see. There were still a lot of obstacles. You didn’t have any superiors you knew at the time right?

There was a person called Hiroko Matsumoto who modeled for Pierre Cardin and such but other than her, I barely had any superiors I knew there. What shocked me was that I was treated with contempt just because I was East Asian. The disgust was especially strong once you went a little outside of Paris, in the countryside. The idea of Japanese people, from the perspective of French people at the time, was: a country with no originality due to its people making copies of photos they took with their small cameras. That was the image. Japanese brands like Sony and Honda were finally recognized by the world around 1966-67. So yes, the 60s was a tough time.

—And yet you didn’t (give up and) go back to Japan. Why?

A first, I didn’t have money and friends. I couldn’t speak the language and it was really tough, which made me homesick and want to go home. But I got a good job and I eventually made friends. Paris is also a lovely city. My desire to become a designer became even stronger. That’s why I didn’t want to go back. With ‘Once over the border, one may do anything’ in my mind and my own drawings in my arms, I went to show Louis Feraud my drawings.

—Then his wife complimented them and the price went higher and higher…!

Now that I think about it, it’s such an unbelievable story. I went to Louis Feraud’s store directly but I thought hearing his opinion would just be enough. Then, instead of Louis Feraud himself, his wife came to the door and let me in. She asked me, ‘how much are you going to sell those for?’ I didn’t know and so I said ‘anything is fine’ and then one piece was sold for 25 francs and she bought 5 in all. It wasn’t about the money but rather feeling happy because my drawings were bought in Paris. I think my life changed then.

—That added to your confidence and your career started.

I got so excited from that and bought a copy of a magazine I loved, Elle, and looked up the address of the editorial department. I went to promote myself. Elle had a project where they were making clothes and I luckily got introduced to a designer who was there. The designer was called Jack Derail. He picked about 10 drawings of mine and told me which places I should go to, to show my work. He gave me 5-6 addresses including buyers in the industry, the Printemps department store, Galeries Lafayette and other ready-made clothing companies. I followed his advice and brought my drawings to the places he told me about. To my surprise, I was able to sell a lot of them. The prices rose from 25 francs to 50 francs. I got some jobs with several companies too. It was scary how lucky I was.

—I’m going to go back a little bit but apparently you thought of quitting your job as a designer right after seeing Pierre Cardin’s show in Paris because it was just that good.

I went to Paris with Hiroko Matsumoto and luckily thanks to Sanai’s connection, we were able to see Chanel, Dior, Pierre Cardin, and Balmain’s haute couture shows. Coco Chanel was still alive and was sitting at the show’s stairs. I thought I had become a designer after being employed by Sanai but when I saw these shows in person, it struck me how different the clothes were from the ones we were making. Even Matsumoto felt defeated and wanted to quit designing because the clothes were amazing.

—Do you mainly live in Paris now?

I spend more than half of my time in Paris. I got to Japan about once a year.

—When one thinks of Kenzo, once could see that there’s an ethnic theme. I feel as though the type of Japonism seen in Kenzo isn’t from a Japanese person’s perspective but rather, a European person’s perspective. Is there anything you are particular about when it comes to the brand?

No. I didn’t really know what Japonism was at first when I was in Japan and even after I went to Paris. Until I made my own store, I didn’t really keep ‘Japan’ in mind.

—You didn’t like or hate Paris but going there was your priority.

Since I started living in Paris, I could direct my eyes to look at the good things in Japan whenever I went back there. For instance, I would go to a kimono shop in a department store, look at a lot of ‘obi’s and think, ‘I can’t believe things that are this lovely exist.’ I would watch Kabuki and Noh and re-discover these things, as they’re truly wonderful.

—I reckon you made your first collection and store, ‘Jungle Jap’ when you were 30. You went all the way to Japan just to buy fabric.

To make a collection, you need money. After I returned to Japan, I borrowed quite a lot of money and bought fabric for clothes. At the time, it was the end of the 60s and the Liberty print was trendy. There weren’t a lot of prints back then and I myself didn’t use a lot of print. When I came back to Japan, I knew that I had to make something original whilst I was looking for cloths. I willfully looked for Japanese materials. I would buy a lot of old cloths from a kimono shop in Asakusa. Also, my favorite store was in Shimokitazawa and they sold bright yellow fabric, cheap Thai fabric and more. I made clothes for my first shop from materials like that. About the concept of the store: when I went to Paris for the first time, I saw Henri Rousseau’s ‘The Dream,’ which uses the jungle as its theme, and I was deeply moved by it. I decided that I was going to use Henri Rousseau’s ‘The Dream’ as a theme if I were to ever open up a store. I got a contract for the store’s property at the end of December. With the help of my Japanese friend in Paris, it took 3 months to complete the store. I made the door on my own, as I didn’t have money. Upon opening the store, I had to let a lot of journalists know about it so I went to the editorial departments of Elle, Vogue, and such with the finished clothes. On the day of the opening, around 30 fashion journalists came and had a presentation using around three models, rather than a fashion show. Among the models were Mitomi Tokoto, who was in Paris because she was modeling for Pierre Cardin and a French friend. I also played western music that was trendy at the time. During the four years after arriving in Paris, I was making mass production clothing for knitwear companies and such so I couldn’t make the clothing that I wanted to make. For this collection, I did what I really wanted to do. I think making clothes using Japanese kimono and yukata prints as well as other different fabrics made from materials bought in Japan, were seen as something fresh in an overseas country.

—What is color to you? Do you have a favorite color?

When I’m asked this, I find that my favorite colors are surprisingly white, black, and red (laughs). But for accent colors, I like vivid ones. I first started using colors in a bold way 3-4 years after my first collection. At first, I wasn’t making folklore-esque clothes. Rather, I was making European-ish clothes, which followed haute couture trends. But after making my own store, I wanted to do something new and so I would make collections with vivid colors and such. And then, little by little, Japanese fashion that used plane surfaces started to look fresh to me.

—I see. Instead of draping, plane surfaces looked fresh to you.

Professor Koike at Bunka Fashion College taught me how to drape but even when I started working in Paris, I would draw everyday and drape [clothing] only to change it back to a plane surface. Being able to make something look dimensional and flat was a strong skill to have in a lot of different ways.

—One can assert that you’re the first designer to prove that perfect draping in the European style isn’t the only correct form of clothing.

I think the background at the time had something to do with it too.

—That was a time where no brands had prêt-a-porte collections, right?

It was around 1968 or so. May 1968 events in Paris happened then and the hippie movement was also happening. Partially due to the influence of such movements, haute couture fashion was waning more and more. It was that kind of time. London had a lot of power at the end of the 60s. In music, The Beatles, The Rolling Stones, and such were appearing on the scene and in regards to fashion, Mary Quant was in full force. I regretted my decision to come to Paris instead of London just once around then. I had some space to breathe with work and I went to London around once a month to go shopping. I started the brand around this era so I think I was blessed with the era I was in too.

—You have a saying in regards to clothes making: liberation of the body from clothes.

That’s right. Clothes with drapes are made to fit the body, yes? But kimonos with plane surfaces use more space as you use an ‘obi’ to wear a kimono. I think the difference between the two kinds of fashion is interesting. Also I think this is an influence from Professor Koike but every time she came back from Paris, there was a lovely wrinkle somewhere on her clothes. I had an image that that was what Parisian elegance was. Tight clothes are cute too but clothes with more space to move in looked very elegant to me. That’s why I interpreted the wrinkles kimonos had in a new way, and made quadrilateral and square clothes cut in a straight line.

—In that sense, you were a pioneer that incorporated designs with straight lines to couture-like curves. You kept on making collections until you were 60.

It was tough…

—Was it! After that, Kenzo was bough by LVMH. Did fashion business become too hard?

I was doing fine in the 70s. There were a lot failed collections as well but the clothes from the 70s are the interesting ones, in retrospect. After that, the company became renewed in the 80s and became a proper one. But as the company got bigger, the amount of restrictions became higher as well. You had to have a serious, reliable source just to buy one piece of fabric. You also weren’t allowed to use expensive fabric; you could only use fabric that anybody could buy.

—You had conflict as a designer with a brand that was getting bigger. You also did a lot of license work.

Of course there are a lot of good aspects, but you do have to think about restrictions. I barely did any license work until 1985. But as the company got bigger, the scope of the company became wider, with the commencement of a jeans section and whatnot.

—Did most of you license work come from abroad?

I had some license work for towels in France but most of the work came from Japan.

—You didn’t have the joy of being a designer?

I chose companies with good operating profits in regards to licensing, so I was happy a lot of my things were selling well. But there were a lot of restrictions with that. In the mid-80s, I was starting to feel as though my sensibilities were gradually separating from that era. I’m not too good with body conscious clothing. I was beginning to feel a change in the times.

—Rei Kawakubo of COMME des GARÇONS, Yohji Yamamoto, and such were beginning to showcase their work in Paris. There was a ‘Black Shock’ at the time but what was your impression regarding that?

I thought it had such power. I myself like black and made a lot of clothes that looked unbalanced but I thought it was amazing how they did it to that extent. But I was committed to my identity and I was conflicted.

—In 2016, you made ‘Set pull Mie by Kenzo Takada’ with Sogo & Seibu. I heard that people that bought your clothing in the 80s bought your things, as they were nostalgic.

That’s right. I’m happy that people in their 40-50s are enjoying them right now. But making clothes is hard. You have to continue making the every season and you always have to know what kind of fabrics are trending. The shape [of fashion] changes rapidly too. What I felt this time is that the system of making clothes has drastically changed. So many things have changed in comparison with the 70s that it was really hard for me.

—You left your own brand when you were 60 but is there anything you want to do from this point onwards?

Hm, I want to do something with young people. It’s fun being with young people. Every year, I at least want my mental age to remain young. I think it’ll be great if I could work in a field related to fashion, even if I can’t work within fashion, like interior design.

—It’s an era of maturity right now but what do you think of things like mass production and fast fashion?

Fast fashion is clothing that belongs to the ‘now.’ Fashion like haute couture are clothing that you wear on yourself but I think the two are completely different. But I think fast fashion is great. It might sound unexpected but I quite like things like that (laughs).

—Do you have any developing projects right now?

I’m making perfumes in France right now. I’m not an expert of scents myself but I’m working with professionals of that field.

—You spoke about your lifestyle but I visited your place in Bastille, Paris in the 80s. It was a grand house. You brought Japanese craftsmen and built a Japanese garden and you also had a pool. From the outside, it looked like a normal apartment in Paris but once you open the door, it was like you were suddenly in Kyoto.

I love moving and I did whatever I wanted with the place I lived in at the time. I loved it. That air of ‘wa’ was very tranquil. The apartment I live in now doesn’t have a lot of that ‘wa.’

—I heard you moved to St. Germain.

I currently live in an Ottoman-styled building. But the walls have folding screens on them and they match quite well. Ottoman-style and Japanese paintings go quite well together.

—Also the clothes you’re wearing today are from Saint Laurent.

I love the Hedi Slimane era of Saint Laurent. I think it’s a great skill to make something that stems from the core whilst matching that to the era. Balenciaga changed a whole lot as well but I think it’s great.

—Lastly, are you going to make a men’s collection in the future?

Ah, I’d like to design for men a little bit. I would like to make something I’d like to wear.

<Profile>
Kenzo Takada/Fashion designer
Kenzo Takada is the founder of KENZO. Born in Hyogo prefecture in 1939, he learnt fashion design at Bunka Fashion College and won the 8th ‘Souen’ Award in 1960. After that, he went to France in 1964. Takada opened a fashion boutique in 1970 and presented his first collection as ‘Jungle Jap.’ He made his Paris prêt-a-porte debut in 1973 under the name, KENZO. Amidst a time where Paris didn’t really know of the existence of Japan, he merged draping with flat surface techniques. With work inspired by the kimono, he surprised French people, as tight clothing was trendy, and overwhelmed the generation. Due to his use of flower prints and bright colors, he was coined the ‘color magician.’ He became a fashion designer that led Paris’ prêt-a-porte. He had his collection in New York and Tokyo. He also won awards such as the ‘Fashion Editor’s Club of Japan’ award. Takada moved to Victoire in 1976, where the current KENZO store is. He won the ‘Ordre des Arts et des Lettres (Chevalier)’ from the French government in 1984. In 1987, he founded ‘Kenzo Parfum.’ He released his first fragrance, ‘サ サン ボー’ in 1988. He sold the brand to LVMH in 1993. He continued to have a career as a designer creating his own work. He received the ‘Ordre des Arts et des Lettres (Commandant)’ in 1998. He received the ‘Time for Peace (Fashion Lifetime Achievement)’ in 1999 in New York. He also received the ‘Purple Ribbon Medal’ in 1999. He withdrew from his position as a designer at KENZO in the same year. In 2004, he won the ‘Grand Vermeil medal’, which is the highest medal in Paris. Takada designed the official uniforms for the Japanese team for the Athens Olympics. In 2016, he was made a ‘Knight of the Legion of Honor’ by the French government. He was also awarded the ‘L’ordre national de la légion d’ honneur.’

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