arata iura & miwako ichikawa

井浦新と市川実和子が語る、『トロフィー』が映す社会と、俳優という仕事

是枝裕和や西川美和の作品に撮影助手として携わってきた孫明雅(そんみょんあ)監督の初長編作『トロフィー』。主人公のソヒは、時代の変化とともに生徒数が減少していく朝鮮学校に通う高校生だ。別の朝鮮学校で校長を務める父・サンジュの祖国への思いにどこか距離を感じながらも、朝鮮舞踊の部活仲間や、K-POP を通じてつながる日本人の友人との交流を重ねるなかで、自分なりのアイデンティティの拠り所を見つけていく。
「在日」というモチーフは、『パッチギ!』や『GO』をはじめ、これまでもさまざまな作品で描かれてきた。そのなかで『トロフィー』は、家族や友人との関係のなかで揺れ動くひとりの少女の時間を、丹念に撮っていく。そして最後の場面では、連続する日常の先に、愛おしいほど幸福な風が吹き抜ける。
今回インタビューを行ったのは、本作で在日三世の両親を演じた井浦新と市川実和子。ともにモデルとしてキャリアを始め、のちに俳優として独自の歩みを重ねてきたふたりに、映画の社会性、そして俳優が担う責任について、話を聞いた。

arata iura & miwako ichikawa

Photography: Ittetsu Matsuoka
Styling: Ueno Kentaro (Arata Iura), Hiroko Umeyama (Miwako Ichikawa)
Hair & Make up: Eriko Yamaguchi (Arata Iura), Hiromi Chinone (Miwako Ichikawa)
Interview & Text: Hiroaki Nagahata

—おふたりはもともとモデルからキャリアを始められて、これまでのインタビューを拝見するかぎり、「途中から映画の世界に入った」というようなことをお話されていますよね。なので、本作のテーマに移る前に、おふたりにとって映画の現場はどういう場所なのかを伺いたいです。
井浦新(以下、井浦): 俳優としての自分を生んで、育ててくれたのは映画の現場だったので、ずっとホームのような感覚はあります。でも、それを積み重ねてきたなかで、映画を愛しているからこそ、映画のことが憎くなって、信じられなくなるときもある。現場に入ると安心感というか、ホッとするものはあるんです。でも、それだけじゃない。緊張が走る瞬間もあります。家族や恋人みたいな感覚に近いかもしれません。

—具体的にどんなことがきっかけで、映画を信じられなくなったんですか?
井浦: たぶん、映画を一緒に作っている人たちとの関係の中で感じることだと思います。作品にはまったく罪がない。ただ、何かが生まれるときって、どうしても人と人との関係から生まれるじゃないですか。そこにはいろんな思惑もありますから。

—市川さんと映画との距離感はいかがですか。
市川実和子(以下、市川): 私は……こうやって新くんと自分を比べると、なんだか大変申し訳ないのですが、最近改めて俳優という仕事にぜんぜん向いていないって思ってて。

井浦: いやいや、とりあえずそういうこと言っちゃう癖があるでしょ(笑)。

市川: 違うんですよ。本当に向いていないんです。私は俳優なのか? っていう感覚がどこかにいつもあって、息が詰まって休憩した時期があったんです。そのときに「あ、私はモデルなんだ」と自覚したんですよ。そこから楽になったんです。

—それまでは、「映画俳優とはこうあるべきだ」という固定観念があったということですか。
市川: 現場に行っても、常に自分が浮いているような気がしていたというか。俳優をお休みしていた時期に、あるインタビューで私が「モデルのときは何も考えないでいられるんですよ」と言ったら、「市川さんはモデルが天職なんですね」と返されたんですよ。そこで、「そっか、天職なんだ」と改めて気づいた感覚があります。もちろん、今回のように素敵なお話をいただけたらやってみたいと思いますが、本当に申し訳ないですけど、私はまだ役者じゃないんですよね。

—本作の中でも市川さんの存在感は、まったく無理がないというか、演じていないというのともまた違うんですが。孫監督の演出も影響しているんでしょうか?
市川: そうですね。私の振る舞いが「違うな」というときは、監督自ら「市川さん、ちょっと」と伝えてくれるんです。監督の中には、しっかり撮りたい像というものがあって、そこから逃げもせず、ブレもせずに対応してくれて。「私はこれでいいんだ、違うときは言ってくれるんだ」と思えたので、自由にいさせてもらいました。

—なるほど。それが、さっきおっしゃっていた「考えなくてもいられる」ことにつながっているんですね。
市川: というか、現場にいるときに考えないでしかいられないんです、私は。

—井浦さんは、ご自身をどういうタイプだと思われますか?俳優としての心構えのようなものはありますか。
井浦: そういうのはまったくないです。自分も30年近くこの仕事を続けてきて、「俳優じゃない」というのは、自分がやっていることに責任を取れなくなってしまう気がして、さすがに言いづらい。でも最初の10年ぐらいは、自分もずっと「俳優じゃない」と言っていた気がします。うーん、俳優じゃないというか、俳優に慣れていないというか。もともと俳優志望でもなかったし、演技というものも、いまだに全然わからない。ゼロから1へ、そして2へと進むきっかけをくれたのが、孫監督の師匠でもある是枝監督でした。自分を映画の世界にポンと拾い上げてくれたんです。

—是枝さんから教わったことはありますか?
井浦: 本番中でも、心が動かなかったらセリフも出ないし、芝居も始まらない。喋りたくなったらセリフを言えばいい。そう言われた頃のことが、今もすごく鮮明に残っています。だから、今も「感じたものを感じたままに」というのが、自分の芝居の礎になっています。「本番用意、はいスタート!」でスッとできたら一番良いんでしょうけど、自分の心がそこにないと始められないんです。そういうときに無理に始めても、絶対にセリフを間違えますし。

—『トロフィー』の脚本を読んだときは、何を感じましたか?
井浦: 「すべて台本通りにやってください」「声を張ってください」「セリフが聞こえやすいようにやってください」という作品ではないことは、すぐに感じました。それが必要とされる作品なら、そのモードになって頑張らなきゃいけない。でも今回はそうではなくて、「ちゃんと普通に呼吸していればいいんだな」と思わせてくれる本でした。もちろん人間なので、緊張もするし、力が入ってしまうこともあるけれど、それを超えて、監督の作品の中でサンジュという役として呼吸できているかどうか。それが大事だった気がします。
あとは、ちゃんと呼吸できるようになる準備を、本番までにしておくこと。さっき実和ちゃんが言ったような、“何も考えない” というのも、ひとつのやり方ですよね。逆に、歴史や時代背景、その家族の境遇をすべて勉強して頭に入れていくアプローチでもいい。そこは俳優によって合うやり方があるはずなので、どれも正解だと思います。

—『トロフィー』は在日コリアンをめぐる、いまだ解決しきらない問題に現代の視点からフォーカスしています。おふたりがこの脚本を受け取り、演じるとなったときに、もちろん当事者にできるだけ近づくことは必要だと思いますが、この映画の中で自分たちがどこまでを担うのか、責任の範囲をどのように考えていたのかを伺いたいです。
井浦: 責任は確かにあります。でも、俳優がそこを背負いすぎると、きっと芝居ではなくなっていくと思うんです。向き合ったり、苦しんだり、悩んだり、笑ったり、感動したりすることは絶対に必要。でも、何も考えないことも、それと同じくらい必要なことだったりする。作品の社会性を背負っていくのは、やはり監督だと思うんです。もちろん、監督と一緒にその作品を背負う気持ちはあります。最後まで一緒に走り続けたい。作品が公開されたあとも、自分が関わった作品だと言い続けたい。ただ、僕らがどれだけ自分自身を捧げたとしても、最終的に監督がすべての責任を背負うからこそ、作品は監督のものになっていく。
俳優って、今日はサンジュにならなければいけないけれど、次の日には人殺しの役にもならなければいけない、という立場。そこの自由度が損なわれると、俳優という仕事はつまらなくなっていくと思うんです。表現も制限されていきます。

—俳優という仕事の醍醐味でもあり、難しさでもありますね。
井浦: そうですね。自分が死ぬまで俳優をやったとして、その間に成し得ることなんて本当にあるのかなとも思います。自分はまだ道半ばなのでわからないですけど、やればやるほど難しさを感じる。むしろ、デビュー当時は守るものがなかったから、一番自由だったなとも思います。でも本来は、積み重ねていけばいくほど自由度も増していかなければいけないんだろうな、と思っています。先輩方の作品を見ていると、こんなことができるのか、と驚かされることがある。それは、思考や技術だけでできることではない。
要は、どこまで自分を解放していけるのか。でも、恥ずかしいという思いは忘れてはいけない。人間でいないといけない。人間の感覚を捨てて、なんでもありの自由に行くのではなく、人間である中での自由をどこまで表現できるか。それが俳優の面白さであり、難しさだと思います。

—先ほどのお話に立ち返ると、だからこそ映画の社会性を俳優が背負いすぎるべきではない、ということなんでしょうか?
井浦: 映画に求められる社会性を背負う気持ちはあるんです。でも、それよりも大切なのは、俳優としてどこまで自由に表現し続けられるか。それは究極の自己満足でもあるけれど、それが誰かに訴えかける唯一の手段だったりもする。その自由度を奪われるのは、本末転倒じゃないでしょうか。
今は SNS などで、外野がそういう責任を俳優に押し付けたりすることがあるわけです。それに耐えられなくなって、自分のせいにして、俳優を辞めていく人もいる。それは本当に許されないことです。もっと心が健康な状態で、自由に表現できる場が必要だと思うんです。俳優はただでさえ、心も体も酷使せざるを得ない仕事なので。

—周りがそういうふうに期待したり、背負わせたりしていくということですね。
市川: 最初は数人の意見だったとしても、SNS では台風の目みたいに、広がっていっちゃうんですよね。

井浦: そういうものから個人を守るために、餅は餅屋で、監督がいて、プロデューサーがいて、各部署がある。僕らが命を捧げるくらいのことをしたとしても、最終的に作品は監督のものになっていく。監督が代表して、先頭で社会と戦っていく。もし自分も戦うつもりなら、監督になっていかなければいけないのかもと思います。もちろん、俳優として戦っている人もたくさんいるし、発言することも絶対に必要です。ただ、作品の社会性を俳優個人に重ねて、そこに閉じ込めていくことは、僕はすごくナンセンスだと思っています。

市川: 社会問題として語られていくなかで、テレビやネットの向こうのものとしてしか見えなくなってしまうものがある気がしていて。北朝鮮や在日コリアンというワードによって覆い隠されてしまう風景や個人の事情が、あると思うんです。私は、この作品はまさにそのことを言っているんだと思います。そして、この映画に出てくる人たちは、みんなそれを乗り越えようとしている。私は、現場にある息遣いや、みんなで作り上げたものに集中していれば(今話していたような社会性云々の話は)、あとからついてくるんじゃないかなと思っていました。

—たしかに、この映画は、在日という社会的なテーマが根底にありながら、あくまで家族と友達の関係をめぐる話です。家族ってそういうものだよな、でもその日々は続いていくよな、ということが何よりも心に響きました。そのなかに一人ひとりの事情があって、でも実はそれらが世界の大きな構造ともつながっている。
井浦: そもそも、人間は社会とつながっているものですし、映画も社会とは切り離せないと思います。映画って、物語を作っているというより、まずは人間を描いているんだと思うんです。人間を描くから、勝手に物語が生まれていく。だから、どんな映画の中にも、社会性や政治性は必ずある。一見コメディだったとしても、監督や脚本家の中では、今の政治を皮肉っていたり、世の中の差別をなくそうとしていたり、いろんな要素が含まれているかもしれない。僕ら俳優は、それに気づかないまま、一生懸命それを笑いにしたり、感動に変えていったり、誰かの心に何かを残すきっかけを芝居を通して作ろうとしている。
だから、シリアスで真面目な作品だから社会性が強い、とも僕は思わないんです。新しい感覚で作品を作れる人は、ひたすら笑わせながら、よくよく読み解いていくと、別のテーマが潜んでいることが分かる。『トロフィー』もただシリアスではなく、おっしゃるとおり、日常的な温度の映画です。でも、テーマはきちんと伝わってくる。そういう逆説的なことも映画の魅力だと思います。

井浦: ジャケット ¥151,800、シャツ ¥86,900、パンツ ¥107,800/すべて FRANK LEDER (フランク リーダー)、その他スタイリスト私物

市川: シャツ ¥699,600、パンツ ¥220,000、シューズ *参考商品、ピアス ¥140,800、(右手薬指)リング〈シルバー〉 ¥100,100、(左手人差し指)リング〈ゴールド〉 ¥150,700/すべて BOTTEGA VENETA (ボッテガ・ヴェネタ)