【連載コラム】Bauhaus (バウハウス) ーデザインのマイルストーンー
THINK ABOUT
【連載コラム】Bauhaus (バウハウス) ーデザインのマイルストーンー
Think About
Bauhaus
vol.1
by Daisuke Yokota
アートブックショップ「POST」代表を務める傍ら、展覧会の企画、書籍の出版、DOVER STREET MARKET GINZA (ドーバー ストリート マーケット ギンザ) をはじめとするブックシェルフコーディネートなどを手がける中島佑介。彼の目線からファッション、アート、カルチャーの起源を紐解く連載コラムがスタート。第一回目のテーマは「バウハウス」。
僕が Bauhaus (バウハウス) に初めて興味を持ったのは、1920年代にデザインされたある印刷物を見たのがきっかけでした。1923年、極度なインフレのために緊急処置として発行された紙幣で、デザインをしていたのは Herbert Bayer (ヘルベルト・バイヤー) というデザイナーです。数字とテキストだけが規則的に配列され、色も2色刷り、シンプルなデザインがとても魅力的で、彼の仕事に興味を持ったのが、Bauhaus に触れた最初の機会でした。直接 Bauhaus という言葉を知るきっかけになったのは『バウハウス叢書』という中央公論美術出版から刊行されていた単行本シリーズです。内容そのものよりも、表紙を始めとする本の佇まいが美しく、いつか買いたいと当時アルバイトをしていた書店「オンサンデーズ」の本棚にある様子を眺めていました。この時には Bauhaus が何たるかを知らないままでしたが、その後、Mies van der Rohe (ミース・ファン・デル・ローエ) の建築や Marcel Breuer (マルセル・ブロイヤー) の家具、Max Bill (マックス・ビル) の時計、Laszlo Moholy-Nagy (ラスロ・モホリ=ナギ) の写真など、個人的に惹かれたものに通じる一本の線が Bauhaus でした。
Bauhausの校舎内
「バウハウス」という言葉は、誰でも一度は聞いたことがあるのではないかと思います。デザインスタイルを表現する形容詞として使われたり、お店やミュージシャンの名前に冠されていたりと、この単語を見聞きする状況は様々ですが、もともとは1919年、モダニズムを代表する建築家である Walter Gropius (ヴァルター・グロピウス) によって設立された学校の名称です。第一次世界大戦が終わり、混沌と変化の渦中にあったドイツで設立されたこの学校は、良き未来を実現するための理想を掲げてスタートしました。
設立まで背景を辿るために史実を確認してみると、当時は18世紀以降の産業革命によって同じ製品を量産できる基盤が確立した一方で、伝統的に引き継がれてきた手工芸が活きる場が少なくなり、効率だけを優先して造られた味気のない製品が世の中に増え続けていたようです。その状況に危機感を感じ、時代に即した産業と手工芸の関係性を築くために作られたのがこの学校でした。
Bauhaus が画期的だった点はいくつかあります。まず一つ目は教育方法です。Bauhaus 以前は、建築、工芸、グラフィック、絵画、写真…といった各分野が伝統を継承しながら各々独立して扱われていました。しかし Bauhaus ではこれらを複合的に取り扱い、そのすべての実践の場として建築を設けました。そのため、生徒は特定の1ジャンルだけ、または技術と理論の片方だけを学ぶのではなく、ジャンルを横断したカリキュラムで複合的に芸術・文化を学んでいきました。
教育方法の革新性に加えて、この学校の特筆すべき二点目は、錚々たる講師陣にもあります。歴代の校長を務めた Walter Gropius と Mies van der Rohe をはじめ、Marcel Breuer など当時の建築を牽引していた巨匠、Paul Klee (パウル・クレー) や Laszlo Moholy-Nagy、Wassily Kandinsky (ワジリー・カンディンスキー)、Johannes Itten (ヨハネス・イッテン) といった国際色も豊かな芸術家などが名を連ねています。
また、学校理念として機能と形の関係性を重要視した点も見逃せません。現在では外見的な表現を単純に装飾として扱うのではなく、ユーザーの利便性や生産における合理性などを念頭に据えた方法は一般的になっていますが、当時としては画期的でした。機能主義と言われる思想は、工業化した社会に対する有効な手段として評価されたのではないでしょうか。
技術、思想、美意識などを総合的に教育する革新的な教育方法で、初期から優れた能力を持つクリエイターを輩出していました。先に挙げた Herbert Bayer や Josef Albers (ヨーゼフ・アルバース)、Max Bill などは Bauhaus の卒業生で、のちに国際的な活躍を見せています。しかし残念ながら不安定な社会状況の中、1933年にナチス政府によって閉校を余儀なくされてしまいます。14年間という短い期間しか存在していなかった学校ですが、さまざまな形で Bauhaus に携わった人々に思想は受け継がれ、形を変えながら世界中に広がり、今日まで大きな影響を与えています。
Marianne Brandt (マリアンヌ・ブラント) デザインのティーポット
Laszlo Moholy-Nagy によるタイポグラフィーのコラージュ By Sailko – Own work, CC BY 3.0, Link
僕も個人的に、Bauhaus から少なからず影響を受けていました。運営している定期的に出版社の単位で本が入れ替わるスタイルの書店、POST の前身となった「limArt (リムアート)」という書店の「lim」の部分は、モダン建築の三大巨匠の一人とされている Mies van der Rohe が残した言葉「Less is More (削ぎ落とされたものこそ豊かだ)」の三語の頭文字から取っています。15年前、limArt を始めるときに拠り所となる言葉を探していたときに見つけた言葉です。機能主義的なデザインが好きだったという単純なことがこの言葉との出会いになりましたが、「Less is More」というシンプルな言葉には、ありとあらゆることにも通じる普遍的な意味を感じました。他にも「神は細部に宿る」という言葉も Mies が残していますが、彼の言葉はBauhaus の理念を率直に表した言葉とも言えるでしょう。
Mies van der Roheの代表作のひとつ「ファンズワース邸」By Jack E. Boucher, photographer – Library of Congress, Prints and Photographs Division, Historic American Buildings Survey, HABS: ILL,47-PLAN.V,1-9, Public Domain, Link
Mies の言葉を現代に引き継いでいるものを思い浮かべてみると、その代表的なものとして挙げられるのは iPhone を始めとする Apple社の製品なのではないでしょうか。Steve Jobs (スティーブ・ジョブズ) が率いる Apple が実践したのはまさに Mies が残した言葉が象徴しているようなデザイン思想でした。また、Apple のデザイナー、Jonathan Ive (ジョナサン・アイブ) が敬愛しているデザイナーとして名を挙げている一人が1960年代から BRAUN (ブラウン) 社のディレクターとして活躍し、無駄を削ぎ落としたシンプルで機能的なプロダクトを多数残したインダストリアルデザインの巨匠、Dieter Rams (ディーター・ラムス) ですが、その Rams が敬愛していた建築家が、Mies だったと言います。Bauhaus—Braun—Apple という系譜はあくまで Bauhaus の思想が後世に受け継がれた一例ですが、脈々と現代まで受け継がれていることを象徴する良い例かもしれません。Apple社の製品を一例として、身の回りにある使いやすい品々は触感、操作性、機能の配置など、小さな事柄までしっかりと考え抜かれてデザインされています。デザイン=表現ではなく、問題解決の手段であることを体系的に考え、そして教育した施設という点で、Bauhaus は先鋭的な施設としてあり、また今日まで普遍性を持って継承されてきているのです。
<プロフィール>
中島佑介 (なかじま ゆうすけ)
1981年長野生まれ。出版社という括りで定期的に扱っている本が全て入れ代わるアートブックショップ「POST」代表。ブックセレクトや展覧会の企画、書籍の出版、DOVER STREET MARKET GINZA (ドーバー ストリート マーケット ギンザ) をはじめとするブックシェルフコーディネートなどを手がける。2015年からは TOKYO ART BOOK FAIR (トーキョー アート ブック フェア) のディレクターに就任。
HP: www.post-books.info