A Special Talk Session For 'Inside Architecture —A Challenge to Japanese Society'

『だれも知らない建築のはなし』公開記念トークショー : 藤村龍至 (建築家) x 石山友美 (監督) × 磯崎新 (スペシャルゲスト)【後編】

A Special Talk Session For 'Inside Architecture —A Challenge to Japanese Society'
A Special Talk Session For 'Inside Architecture —A Challenge to Japanese Society'
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『だれも知らない建築のはなし』公開記念トークショー : 藤村龍至 (建築家) x 石山友美 (監督) × 磯崎新 (スペシャルゲスト)【後編】

A Special Talk Session For 'Inside Architecture —A Challenge to Japanese Society'

世界のスター建築家たちにインタビューを敢行し、ドキュメンタリーに仕立てた映画『だれも知らない建築のはなし』が、5月23日から渋谷・イメージフォーラムほか全国で順次公開を迎え、建築界内外で反響を呼んでいる。

磯崎新: 1931年大分市生まれ。世界各地で建築展、美術展を開催し、多くの国際的なコンペの審査委員、シンポジウムの議長などを務める。建築のみならず、思想、美術、デザイン、文化論、批評など多岐にわたる領域で活躍。近年のプロジェクトは、2007年に黒川紀章から引き継いだ中国河南省の「鄭州市鄭東新区都市計画」、可動式コンサートホール「ARK NOVA」など | © Tomomi Ishiyama

(前編より続き)

磯崎:僕は、アメリカのPeter Eisenman (ピーター・アイゼンマン) やPaul Rudolph (ポール・ルドルフ)、Kevin Roche (ケヴィン・ローチ) らと同じ世代。でもなぜか、ヨーロッパには同世代がほとんどいませんでした。それで「P3会議」では、次のジェネレーションをヨーロッパから呼ぼう、ついては日本からも同じく呼ぼう、ということになりました。それで僕が連れて行ったのが、安藤さんと伊東さんです。当時別格だったPhilip Johnson (フィリップ・ジョンソン) と僕らの世代、そこに若手建築家たちが加わり、3つのジェネレーションが揃いました。「P3」はこの3つのジェネレーションを繋いでいくための会議だったというのが僕の理解です。

この80年代初頭というのは、ほとんどの建築家が小さな住宅以外に実作を持たない、ペーパー・アーキテクトの時代でした。ちょっと大げさにいうなら、友達をうまくだますことができる人が活躍する。個人的に掛け合う相手がつかまれば、住宅はできますからね。でもパブリックになると、そうはいかない。苦しいジェネレーションですが、次には彼らしかいないこともわかっているから「P3」はこれを後ろ盾としよう、そういう理屈です。

磯崎新: 1941年京城 (現ソウル) 生まれ。2013年、建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞授賞。くまもとアートポリスでは現在、初代の磯崎新氏に続き、第3代コミッショナーを務める | © Tomomi Ishiyama

藤村:磯崎さんの場合は、ディベロッパーの藤さんをうまく「だまし」て、建築家を起用することに成功しました。そして当時熊本県知事だった細川護煕さんをも「だまし」て「くまもとアートポリス」というプロジェクトにも着手しました。藤さんの場合は彼の会社だから、彼が起用するといえばそれでいいですが、県の場合は知事をだませても、後ろに住人がいます。そこでたとえば山本理顕さんの保田窪団地などは、議論を呼んでしまうわけです。

2006年に法律の解釈が見直されて、今は特命随契ができないとされています。たとえば、兵庫県の貝原俊民・元知事が、00年には自らの見識をもって安藤忠雄さんに淡路夢舞台の設計を特命で依頼できたのが、今は難しい。その政治的状況を鑑みると、コミッションワークというのはすごく80年代的だったなという感じがするのですが、磯崎さんは当時のコミッショナー制度をどのようにご覧になっていますか?

磯崎:相手が自治体、役人となると、確かに難しいですね。細川さんは「公共が後世に残せるものは建築しかない。なんとか文化的なレベルに建築を引き上げるにはどうしたらいいのか?」と考えていました。それである時、彼はベルリンを見て、似たようなものを作ろうと思い立ったわけです。でも僕は、ベルリンのやり方には非常に限界があると思っていた。そんなことはやらずに、単純にいい建物が街の中にできてきたら、自然とその周りもよくなるんじゃないか、そう思ってくまもとアートポリスをやり始めました。

藤村:福岡のNEXUSはいろいろ顛末があったと思いますが、くまもとアートポリスは今も続いていますね。なぜ続いているのかというと、途中からスタイルを変えて、住民と一緒に「わたしのまちづくり」というワークショップをやり始めたからです。苓北町という街には小野田泰明さんと阿部仁史さんが入り、住民の人々と一生懸命に意見交換して、社会構造の変化に適応しています。社会と建築家の80年代的な共犯関係が、今はこのように別の方向へと向かっています。

この視点で見る時、私は新居千秋さんが面白いと思います。ワークショップを50回以上もやったといって、ある意味で住民と共犯関係を結んで、いざフタを開けたらものすごく複雑で三次元的な設計の「大船渡市民会館」ができあがっている。オランダでは90年代以降、建築家はみんなそういうことをやっていて、たとえば建築家集団のMVRDVは、100個アパートを作らなければいけない時に、87個しか部屋がとれなかったといって、残りの13個を北側に突き出してみたり。今は、住民や施主の要求を逆手に取ることで、新しい表現が生まれています。

秋田市民体育館 / 設計者: 渡辺豊和 (1994) | © Tomomi Ishiyama

磯崎:People’s Participation (ピープルズ・パーティシペーション)、つまり住民参加型プランの考え方は、80年代初頭あたりからドイツが中心となり始まって、アメリカ、スペインにも広がりました。僕はその頃、何度もコンペに出ましたが、最後の最後で落ちています。なぜかというと、最後に住民の関係者が出てきて、建築家は彼らと一緒に討論するわけです。そうすると僕は日本人だから、いくら外国の仕事をやってきたとしても、住民を説得することによって組み立てるというのは、言語上の問題で無理。80年代までは、そういうことがたくさんありました。

藤村:磯崎さんは、富山の「まちづくり」の時、戦略的に「まれびと (=稀人)」論を展開し、外国人アーキテクトと日本人のローカル建築家をセットにして街のシンボルを作りましたよね。実は私、この「まちのかおづくり」で卒論を書くために、事業を実現している17自治体を自転車でまわったのですが、その時思ったのは、ローカルなアーキテクトたちが協働よりある種の刺激を受け、県の中で有名になっていくということ。コミッションワークというのは、こういう効果があるのだなと思いました。

磯崎:95年以降の世界の変化は、先ほどもいった藤の失言に象徴されます。どういうことかというと、彼はキャナルシティの商業プロジェクトを立ち上げるにあたり、Jon Jerde (ジョン・ジャーディ) という、いわゆるスーパーマーケットの専門家を起用しました。ジョンは建築家としてのアメリカでのランキングは低い。つまり藤はこれによって「建築家はもう要らない、ブランド建築はもういい」といっているわけです。

ショッピングモール | © Tomomi Ishiyama

藤村:というわけで「だれも知らない建築のはなし」というのは、実はジョン・ジャーディの話だったと。(会場笑)  石山さんどうでしょう?

石山:意図していた部分もあります。もともとこの映画が起点としている「P3」の、世界の建築家たちがみんな本気で会議しているというドラマ性も面白いけれど、そこには激しいバトルもありました。何が議論されていたのかというと、商業建築に対する考え方の違いです。当時、ヨーロッパとアメリカでは、考え方が全然違っていました。この「P3」から出発して、どこを落としどころとするのか、意識的に考えていたというのは確かにあります。

藤村:なるほど。今はパブリックもプライベートセクターも力がなくなっているから、両者が手を結んで、PPP(Public Private Partnership)みたいな考え方が出てくる。そうなるとまた建築も変わってきます。一体どうなるのか。それが2020年くらいに見えてくると思います。たとえば新国立競技場は、床でどうやって稼ぐかということ抜きに建設は議論できません。渋谷区の宮下公園では某ディベロッパーによってショッピングモールのような商業施設を作って屋上を公園にするといった改修プランが採用されたと発表されたばかりですが、アメリカではとっくにそうなっているんですよね。公共の場所を、お金を稼ぐ場所にする。それを一番うまくやったのはブルームバーグ市長かもしれませんが、それが今、新たな表現を生むのか?

De Rotterdam/ 設計者: レム・コールハース (2013) | © Tomomi Ishiyama

石山:さきほどの住民参加の話ですが、磯崎さんは一切興味がないわけですよね?

磯崎:興味ないのではなく、手がかりが作れないというか。これはコミュニティ論、あるいは住民参加論の問題であって、自分が建築家であると同時にアクティビストにならない限り、ピープルズ・パーティシペーションはありえません。僕なりに考えれば、脱構築のデコンが終わった時、つまり阪神・淡路大震災があり、世界が完全にネットワーク化してデジタル志向になった95年に、すべてが今のような形に移行し始めています。もっというと、建築家が議論する余地がなくなったのが95年。建築雑誌もこのあたりから失速しています。

藤村:でも私が思うに、磯崎さんのフォルマリズムというのは、ピープルズ・パーティシペーションで使えるのではないでしょうか。先ほど話しに出た「?」型のヴォールトにしても、住民の人に長さ決めてもらってよかったかもしれない。実は私、それを実践してみたんです。埼玉県で小さな施設を作った時、住民投票で形を決めたフリをして、磯崎さんの「?」にしようと思った。のですが、少しお金が足りず「N」になってしまったんですけど (笑)。

石山:住民参加はいろんなところで叫ばれていますが、急にみんながドバーッと集まっちゃうのはどうなんでしょう。これでいいのでしょうか。

磯崎新氏 | © Hidemasa Miyake

藤村:今、参加型のワークショップが増えていて、若いジェネレーションはこれに付き合わないとしょうがないじゃないかといった気分もありますが、あと10年、15年経った時に、生き残る人は少数だと思います。どうやればいいのか、まったくわからないですけど、結果論として残った人が正しかったということになるのでは。

映画に出てきた『GA JAPAN』の編集長、二川さんのインタビューでは、批評するということが論点になっていました。今は、批評がなさすぎる。そんな中、当事者の問題とし て、自分ゴトとして、また現代の問題として建築をどう見るのか。これもまた、映画が投げかけるメッセージのひとつではないでしょうか。

石山:ヴィエンナーレのバージョンから変えたのも、そこの部分は大きいです。最初に作ったものは、ポストモダンが自分のこととして受け止められる建築関係者や年配の方には評価をいただきましたが、逆に学生さんたちはポカンとしてしまっていました。歴史としてしか見れなかったんですよね。それで若い人も自分の問題として学べるようなフックが作れないかなと思い、劇場版では内容自体は変えないまま、少し若い世代の二川さんに追加取材をしています。これにより、いろんな要素が自分のこととして見え始める視点が生まれたのではないかなと思います。

藤村:たとえば南後由和という人は、建築家の有名性について研究をなさっていますが、「だれも知らない建築」ではそういう問題とどう付き合っていくのか、という論点が非常に多岐に渡って出てきた気がします。ではこのあたりで、一旦会場に議論を開いてまとめていきましょう。

© Hidemasa Miyake

会場 1 (大学生・建築科):磯崎さんにお伺いします。近年重要になってきているワークショップをいっぱいやれば、建築は文化的なものになると思いますか。

磯崎:わからないですねぇ。パブリックセクター、つまり住民参加でモノを作るというひとつひとつに関していうなら、やればいいと思います。でもそれが都市になる、あるいはひとつの共同体の構成が全体として成立するかどうかは、また別のレベルの問題です。僕が見る限り、今は中国のほうがパブリックセクターをきちんとやるシステムと考えは、よりはっきりとしています。僕は今、建築を論じるよりも、もう少し大きいスケールでの地域や都市のほうに関心があるので、もっぱらそっちに付き合っています。

藤村:というわけで、あなたがもしワークショップが嫌いであれば、今すぐ中国語を勉強して中国に出張を重ねるようにしたほうがいい。かもしれないのですが、残念ながら、あなたが中国に行って設計で活躍する頃には、中国でもワークショップをやらなければいけない社会になっていて、中国語ではワークショプをやるということが日本人にはできないから、すごすご撤退してまた別のところに行かなければいけない。というそういうことが起こるのではないでしょうか。

というと突き放し気味なんですけれども、ところで磯崎さんが審査に関係した、長谷川逸子さん設計の湘南台文化センター (1990年完成) がありますよね。長谷川さんから伺ったのですが、彼女がコンペで選ばれた後にワークショップを始めると、磯崎さんから電話がかかってきて、そんなことは今すぐ止めなさいといわれたと。多くの建築家は、建築家がワークショップを大っぴらにやることについて疑念を持っていて、長谷川さんのワークショップを評価したのは唯一、丹下健三さんだけだったということでした。丹下さんいわく、自分はワークショップはやらないけれども、今の時代にパブリックを考えるならば、長谷川さんがやるようなことをやるはずだと。丹下さんは、住民参加する建築家というのを90年の段階で評価していました。それはすごく興味深いエピソードだなと思います。

つまり、建築家がその時々の権力とどう付き合うのかということ。その時の権力のカタチが、東大の官僚組織があってアカデミズムがあってという関係であれば丹下さんのようなカタチをとるし、藤さんのような民間のディベロッパーが強い時代にあればそこで藤さんと磯崎さんのような関係をとるし、もっと時代が下ってくると、長谷川さんと市民の関係になっていく。時代によって、その建築家がとるべき戦略は違ってきます。昔こうだったからといって、今は違う。悲しいかもしれないけれど、受け入れなきゃしょうがない。変化していかなければいけない。

湘南台文化センター / 設計者: 長谷川逸子 (1990) | © Tomomi Ishiyama

磯崎:70年頃、林晶二という人が「その社会が建築を作る」といいました。これに対して僕は「建築が社会を作る」と考えてきました。それがフォルマリズムといわれればそうなのですが、建築家というのは、建築の持っているさまざまなコンセプト、システム、その集合形態、さらに政治的、社会的にどういうように組み立てて行くかということまで包括する存在です。この映画に登場した連中は、これを理解している建築家だと、僕は思っています。

藤村: 急速にグローバル化が進む中で「社会が建築を作る」ことに対し、レム・コールハースは、“¥€$” つまりYESといっています。ただし、そこに批評を加えながら作るのだ、というメッセージをずっと出し続けているんですよね。それが現代ではどういうことなのか、考えなけなければいけないと思います。

会場 2 (大学生・建築科):石山さんに質問です。建築を、映画というメディアで扱って世界に提示するというのは、何か意義があったのですか?

磯崎:それは僕からも質問を加えたいですね。石山さんは大学卒業後、僕の事務所にいたのですが、そのうち建築なんか面白くないと、アメリカに行きました。それでアメリカから帰ってきたら映画がやりたいという。この心変わりはなんだったの? 建築はつまらないと思った理由を、正直に話して。

藤村:たしかに。だれも知らない石山さんのはなし。

石山:言葉にするのが難しいんですけど、一つ覚えているのは、映画をやりたいと磯崎さんに最初に報告した時に「映画なんて終わっている」といわれたこと。あれ? 磯崎さんは建築こそ終わっているといってたはずなのに。そう尋ねると「19世紀に文学が死んで、その次に建築が死んだ」とおっしゃいました。死んでいるといわれても、私たち若い世代はそれでも生きていかないといけません。建築がイヤになったというわけではなく、理由としては、群像劇に惹かれたというのが大きいです。いろんな人がいて、その関係性の中に社会を見る。そういう作品がすごく好きですし、自分もそういう表現を目指したいと思いました。だから自然と建築から外れてしまったとしかいいようがない。今回の映画も、建築というよりは建築家のはなし。やっぱり人なんです。

石山友美: 映画監督。ニューヨーク市立大学大学院都市デザイン学科修士課程修了。在米中にJoan Copjec (ジョアン・コプチェック)の「都市と映画」をテーマにした講義を受けたことをきっかけに映画の世界へ。建築家の石山修武を父に持つ | © Hidemasa Miyake

会場 3 (大学生・建築科):磯崎さんは、同世代の建築家たちの中で、どのように自らを位置づけたのか。その戦略について伺いたいです。

藤村:意訳させていただくと、コミッションって何だったのか? ということですよね。僕が聞いたのは、中谷さんがこの映画につけた最初のタイトルは「コミッションワーク」だったとか? 仕事を与えてプロデュースする、という磯崎さんがこれまでやってこられたことは、一体なんだったのか。そして今も可能なのか。これについては石山さんにコメントいただくと答えが見つかるかもしれません。

石山:確かに最初は『The Commissioners (ザ・コミッショナーズ)』というタイトルを考えていました。時代を動かす建築家たちはコミッショナー的な役割をそれぞれが担っていた、というところからの発案で、私的には気に入っていたタイトルです。でもその言葉だけを聞くと、やはり磯崎さんの印象がどうしても強くなってしまう。さらに “コミッショナー” を映画で扱うのは80年代後半からに絞りたかったこともあり、タイトルも変わってきました。

藤村:磯崎さんがZaha Hadid (ザハ・ハディド) を見出したように、建築家が建築家を見出すというのは、建築の力を構成する方法のひとつです。他方で、批評することに関しては、まず自分と一緒に走っている同世代批評がすごく大事だと思います。評価が上から定まるかどうかの時には、横から評価するしかない。磯崎さんも権威主義が崩壊した後に『建築の解体―一九六八年の建築情況』(1975) を書いていますし、横の批評を大事にされていたんじゃないかと思います。相互批評の場を作ることが、ひいては建築を強くする。建築文化を受け継いでいく土壌になる。だからそういうきっかけづくりみたいなことを、それぞれの人はやらないといけない。そういう意味で、石山さんは同世代批評、あるいはもっと若い世代に関心がありますか?

石山:同世代同士で閉じたままにならないといいなとは思っています。磯崎さんがコミッショナーとしてすごかったのは、相互批評で世界を見ていたから。

磯崎:くまもとアートポリスで実際に僕がやったことは、特定の建築家にコミッションを出す、つまり仕事を与えるということ。これをやった時点で、コミッションする人=権力になる。だから僕はコミッショナーである限り、建築家を集めるけど自分で仕事はしない。そこは徹底しようとしました。建築家としては自分で首を締めることになるけれど、しょうがない。

都市というのは、関係性の中で少しずつ良くなります。地方をひとつ再開発したところで、たがが知れている。複数の違うものをばらまいてこそ、でき上がる。これが一番重要です。そのためには、個性の違う建築家がそこにいなければいけません。これが僕なりに考えた、コミッションのあり方です。

藤村: なるほど。コミッションの本質は、群像劇の演出にある。で、それこそ石山監督の映画のコンセプトなのだという、そんなまとめが浮かんできます。今日はありがとうございました。

 

<映画情報>
『だれも知らない建築のはなし』
出演: 安藤忠雄、磯崎新、伊東豊雄、Rem Koolhaas (レム・コールハース)、Peter Eisenman (ピーター・アイゼンマン)、Charles Jencks (チャールズ・ジェンクス)、中村敏男、二川由夫
監督: 石山友美
撮影: 佛願広樹
(2015年 | 日本 | 73分 | カラー | ドキュメンタリー)
製作: 第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館製作委員会、P(h)ony Pictures
配給: P(h)only Pictures
配給協力・宣伝: プレイアイム
5月23日 (土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
HP: ia-document.com