自らの選択が自分をつくる。福士蒼汰と松本まりか、葛藤を持った二人の行方〈前編〉
悠然とした様子で、リードするように半歩先を歩く福士蒼汰。無精髭を生やした野生的な一面を持ちながらも、父性に近い安心感がある人だ。その隣には、可憐という言葉がよく似合い、無防備な笑顔を向ける松本まりか。撮影が始まると覚悟ある目つきへと変わり、その緩急にはっとさせられる。映画『湖の女たち』では、福士演じる刑事・濱中圭介と、松本演じる介護士・豊田佳代は、大きなきっかけもなく自然と惹かれあっていく。そこには、個々で抱える葛藤の行き場を探していたふたりを受け入れ、静観している湖があった。
souta fukushi & marika matsumoto
model: sota fukushi & marika matsumoto
photography: michi nakano
styling: toshihiro oku (sota) & mana kogiso (marika)
hair & make up: asako satori (sota) & taisei kuwano (marika)
text: rei sakai
edit: manaha hosoda
―本作では、とある殺人事件をきっかけに始まる、刑事・圭介と介護士・佳代のインモラルな関係が描かれます。職業柄、個人を押し殺さなくてはいけない場面が多いからこそ、その反動が起きてしまうと思うと、モラルとケガレの関係は表裏一体であるように思います。実際に演じてみていかがでしたか?
福士:僕が演じた圭介は、上司の伊佐美からのプレッシャーに押し潰されそうになっていて。松本(容疑者にされる介護士)は犯人じゃないと思いますと伝えても、犯人にすればええやんと言われて、組織という大きな壁に悩んでいく。物事が思い通りにいかないとき、人はやはり自己を確立するために、どうにかしてポジションを作りたいと思うもので。あの状況では、佳代という存在がいて、彼女との関係性を作ることで自分を保っていられたのだと思います。二人の関係には必然性があると思うのですが、その必然性がなぜ生まれたかを遡っていくと、物語の背景になっている薬害事件や歴史に繋がっていく。人間というのは、そういう何か大きい流れの一部で生きていて、知らないところで影響を受けているのだと思います。
松本:まさに、モラルとケガレは表裏一体だと思います。というより、本当は共存しているんです。社会で生きていく上で、普通はケガレの部分を隠さないといけないじゃないですか。でも、そのケガレと呼ばれるものは確実に自分の中にあって、それを押し殺したり、抑圧したりして生きていく。私は、本当は”ケガレ”じゃなくて、美しいものだと思うんです。圭介と佳代の関係は、社会的にはケガレの存在だけれども、二人にとってはすごく美しいもの。お互いがいることによって、自分の中の美しさのようなものに気づいたんじゃないかなと思います。ケガレの先に、本当の美しさがあるのかもしれません。
—そうですね。ケガレと呼ばないと大衆をコントロールできなくなってしまうから、人々をそこから遠ざけるための表現なのかもしれません。
松本:そう思います。そうじゃないと社会が成り立たないですから。でも、人間の本質であるケガレって、実は社会を成り立たせるために見えていた方がいいのかもしれません。おそらく、ケガレの部分があまりにも見えなくなっているのが現代社会だと思っていて。この映画は、本当にそれでいいのかということを問いているようで、はっとさせられる作品だなと思います。
—圭介と佳世のやりとりの中で、事情聴取のシーンが特に印象に残っています。人と人が向き合ったときに直感的に感じる怖さや、本能的に惹きつけられる引力を、佳代の表情に感じました。
松本:それはすごく感じました。ファーストシーンだったので、どういうお芝居をされるのか全然わからなくて。部屋に入ったら、寝不足の圭介がいて、福士くん自体もあえて寝なかったみたいで寝不足で。うつろな目の凄みとか怖さとか、オーラみたいなものが、とても強く感じられたんです。もうその時点で、自分で頑張らなくても圭介を魅力的に感じられるなと思ったんです。本当に怖かったし、気持ち悪かった。
福士:役ですよね?(笑)
松本:(笑)。悍ましい気持ち悪さというか、違和感があって、受け入れ難いものがありました。でもそれが、たんとした静かな湖のような毎日を送ってきた佳代にとって、ものすごい刺激に繋がった。福士さん演じる圭介は、自分の本能の扉を開かせるまでの異様な空気を持ってらっしゃったから、自然にできましたね。
—介護施設の廊下から取調室に入ったとき、空気が変わったのを見ている側としても感じました。
福士:実は演じる身としてはすごく切り替えたつもりはなくて。あの取り調べのシーンまで、圭介はずっと伊佐美から圧を受けているんです。取り調べはこういうものだと学んできているから、本当は違うなと思いつつも圧迫するしかない。普通でいたくてもそうできないというか。
―伊佐美が取調室の中にはいなかったからこそ、受けていた圧への鬱憤なども、感情のひとつとして出ていたのかもしれません。
福士:そうかもしれないです。映画は、カメラという第三者視点から見るものなので、そこを通して見てみると演じる側が意図していなかった側面が見えることがある。役者としては同じ流れの中にいるつもりなので不思議にも感じます。