【連載コラム】Neue Grafik (ノイエ・グラーフィク) —スイスから世界へ、ひとつの雑誌から受け継がれたデザインのDNA—
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【連載コラム】Neue Grafik (ノイエ・グラーフィク) —スイスから世界へ、ひとつの雑誌から受け継がれたデザインのDNA—
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Neue Grafik
vol.8
by Daisuke Yokota
アートブックショップ「POST」代表を務める傍ら、展覧会の企画、書籍の出版、DOVER STREET MARKET GINZA (ドーバー ストリート マーケット ギンザ) をはじめとするブックシェルフコーディネートなどを手がける中島佑介。彼の目線からファッション、アート、カルチャーの起源を紐解く連載コラムがスタート。第7回目のテーマは『Neue Grafik (ノイエ・グラーフィク)』。
欧文書体「Helvetica (ヘルベチカ)」の名前を聞いたことのある方は多いのではないでしょうか?Fendi (フェンディ) といった有名ブランド、NTT やパナソニック、BMW やルフトハンザ航空など多くの企業のロゴマークに採用されていたりと、きっと誰もが目にしたことがあるでしょう。1957年にスイスで生まれた Helvetica は、今やグラフィックデザインを語る上では欠かせない存在となっています。もうひとつ、スイスで開花し、グラフィックデザインに携わる方なら誰でも一度は触れるのが「グリッドシステム」です。レイアウトに用いられるデザインの基礎知識になっているこの方法は、デザイナーであり教育者としても活躍した Josef Müller-Brockmann (ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン) が提唱しました。
Josef Müller-Brockmann は1914年生まれ、デザインと建築、美術史などを大学で学んだのち1936年にデザインスタジオを設立しました。当初は展示デザインと広告のためのイラストレーションが仕事の中心になっていましたが、1951年に自身の強みはイラストレーションではないことを悟ります。「デザインの未来は、機能主義的・客観的思考に支えられた情報伝達のうちにある」という理念のもと、Sans-serif (サンセリフ) と幾何学的な造形を使ったデザインへと方向転換し、数年かけてスタイルを築いていきました。グラフィックデザインの社会的な役割を純化した表現は高く評価され、構築的デザインの旗手として評価されるまでに至ります。グラフィックデザイナーとして活躍の場を広げていったこの時期に注力していた活動のひとつが『Neue Grafik (ノイエ・グラーフィク)』という雑誌の出版です。
今日のデザイン史で重要とされる作品群を早くも同時代に見出し、鋭い批評とともに発信し続けた『Neue Grafik』はグラフィックデザインに関する伝説的な雑誌と評価されています。しかし、今日の評価とは対照的に、刊行当時はさまざまな障害が立ちはだかり、わずか7年、17冊で終刊してしまいました。今回は伝説となっている『Neue Grafik』の軌跡とその影響を辿ってみたいと思います。
1956年2月、Müller-Brockmann の召集で四人のデザイナーが一堂に会しました。メンバーは Richard Paul Lohse (リヒャルト・パウル・ローゼ)、Hans Neuburg (ハンス・ノイブルク)、Carlo Vivarelli (カルロ・ヴィヴァレリ)、そして Müller-Brockmann。世界中で戦後の復興が進むこの時代に、彼らは過去にとらわれずに将来進むべき方向を示すため、グラフィック・デザインをテーマにした雑誌創刊の構想を立ち上げます。この会合が『Neue Grafik』の出発地点となりました。約2年半にわたる準備期間を経て、ようやく1958年9月に第1号を刊行。設立者四人による巻頭のステートメントには「この雑誌は優れた才能を紹介するものではない。また訓練の場でもない。この雑誌は今日のデザインの動向を伝える場として、またモダン・グラフィックおよび応用芸術について議論する国際的な場を提供することを企図して創刊された」と、スローガンが記されています。当時としては珍しいフルカラー図版も含む72ページの創刊号には、彼らの高らかな思想と明るい未来に対する期待が込められているかのようです。しかし、制作の現場では創刊直後から多くの問題が山積していました。
一番大きな問題となったのは、想定していたよりも売り上げが大幅に下回り、なかなか改善しない点でした。創刊号は3000部、2号から4号は3300部が印刷されています。「2000部は売れるだろう」と見込まれていたアメリカですが、1959年の売り上げは期待に反して200部を下回ってしまいます。定期購読者も6号が刊行された段階でも1000人に満たず、財政を改善しようと広告の出稿を募りますがこちらも予想を下回り、慢性的な赤字によって財政が逼迫し続けました。
そんな状況でも彼らは第1号で掲げた理想を貫き、世界各国の教育機関や人物に寄稿の依頼を送り「デザインについて議論する国際的な場」の構築を目指します。刊行から3年間は海外からの寄稿がなかなか集まらず、結果的にスイスのデザイナーによる執筆がほとんどを占め、掲載図版も多くはスイスの事例となっていましたが、努力が徐々に実を結んで海外からの寄稿も増え、1962年刊行の12号から、誌面は着々と国際色豊かに彩られていきました。
内容が充実していく一方で、徐々に設立者たちの状況が変化していきます。この時期にチューリッヒ工芸大学のデザインコースのトップを務めていた Josef Müller-Brockmann は、社会的な影響力と名声の高まりに伴って不可避な依頼が増加し、雑誌制作に費やすことのできる時間が少なくなっていきます。他の3名も同様に雑誌以外の仕事に割かれる時間が増え、編集体制の維持が困難になりつつありました。1963年の16号が刊行された直後、刊行からずっと赤字が続いているこの雑誌に対し「私たちは多くの仕事を抱えすぎており、『Neue Grafik』を維持することができない状況にある。この状況を乗り越えることはもはや不可能だ」と出版元からついに廃刊が決定されてしまいました。この決定から18ヶ月後の1965年の2月、最終号となる17/18号の合併号が刊行され、この雑誌は終わりを迎えます。高い理想を掲げながらも、販売の不振と財政的な困難、編集体制の危機などさまざまな要因によって半ば強制的に終刊となってしまったこの雑誌ですが、同時代に対して新しい潮流をむきっかけを与えていました。どのような影響を残したのでしょうか。
大きな影響のひとつは日本に残されました。1960年に東京で開催された世界デザイン会議のために Josef Müller-Brockmann は来日し、スイスのグラフィックデザインについての講演を行い、この中で『Neue Grafik』を紹介しています。世界デザイン会議がひとつの契機となって日本におけるグラフィックデザインの社会的役割が徐々に醸成され、東京オリンピックでひとつのピークを迎える時期と重なって刊行されていたこの雑誌は、未来に進むべき方向の指標となっていました。定期購読者の割合を見ても、1962年の時点で日本が約15%を占めていた事実は、この雑誌に対する注目の高さを示しています。東京オリンピックに関連する一連のデザインに日本で初めて Helvetica が採用されたのも、『Neue Grafik』を通じて発信され続けたスイス・スタイルに少なからず影響を受けた所以もあるのではないでしょうか。
また、前回のコラムで紹介した Wim Crouwel (ウィム・クロウェル) もスイスのグラフィックデザインから大きな影響を受けた一人です。彼がグリッド システムを全面的に採用していたことは、スイスのデザインが戦後のグラフィックデザインの国際的な指標のひとつとなっていた実例となっています。
奇しくも、Wim Crouwel のもとで若かりしころに働いていたノルウェー人の Lars Müller (ラース・ミュラー) がスイスで設立した「Lars Müller Publishers」が、2014年にこの『Neue Grafik』の復刊を果たしました。「この復刻版の刊行がきっかけとなって、多くの研究者とデザイナーによる細部にわたる検討が行われ、この雑誌の重要性、そして今日における位置づけが明らかになることを歓迎したい」とラース氏は復刊に際して言葉を添えています。戦後のスイスから発信された思想が今日、現代の視点による再解釈によってグラフィック デザインの道筋を示していくことでしょう。
参考資料:ノイエ・グラーフィク復刻版2014補遺
<プロフィール>
中島佑介 (なかじま ゆうすけ)
1981年長野生まれ。出版社という括りで定期的に扱っている本が全て入れ代わるアートブックショップ「POST」代表。ブックセレクトや展覧会の企画、書籍の出版、DOVER STREET MARKET GINZA (ドーバー ストリート マーケット ギンザ) をはじめとするブックシェルフコーディネートなどを手がける。2015年からは TOKYO ART BOOK FAIR (トーキョー アート ブック フェア) のディレクターに就任。
HP: www.post-books.info