Akinobu Maeda
Akinobu Maeda

アートディレクター・前田晃伸インタビュー

Akinobu Maeda

Portraits/

今から約3年前、『POPEYE』は元『BRUTUS』副編集長の木下孝浩を迎えて大規模なリニューアルを果たし、すぐに周囲の想像を超える成功を収めた。緻密な取材に基づく情報量は他誌に追随を許さないが、その編集の魅力を最大限に引き出しているのが、アートディレクター前田晃伸による誌面デザインだ。基本的にはポップだが、どこか気の抜けたところがあって、読者を安心させてくれる。今や、前田のアプローチは他の大衆誌が“パクる”ほどのポピュラリティを獲得し、日本におけるエディトリアルデザインの新たなスタンダードを築いたと言っても過言ではない。東京を拠点にしたハイカルチャーマガジン『TOO MUCH Magazine』のアートディレクションも手掛けるなど、様々なコミュニティ間を軽やかに横断する前田のデザインに対する考えとは?

アートディレクター・前田晃伸インタビュー

取材・文: 長畑宏明 写真: 北岡稔章

 

今から約3年前、『POPEYE』は元『BRUTUS』副編集長の木下孝浩を迎えて大規模なリニューアルを果たし、すぐに周囲の想像を超える成功を収めた。緻密な取材に基づく情報量は他誌に追随を許さないが、その編集の魅力を最大限に引き出しているのが、アートディレクター前田晃伸による誌面デザインだ。基本的にはポップだが、どこか気の抜けたところがあって、読者を安心させてくれる。今や、前田のアプローチは他の大衆誌が“パクる”ほどのポピュラリティを獲得し、日本におけるエディトリアルデザインの新たなスタンダードを築いたと言っても過言ではない。東京を拠点にしたハイカルチャーマガジン『TOO MUCH Magazine』のアートディレクションも手掛けるなど、様々なコミュニティ間を軽やかに横断する前田のデザインに対する考えとは?

 

– はじめに、前田さんはどんな幼少期を過ごされたんですか?

幼少期から?(笑)随分初めからですね。僕の地元は愛知の田舎だから、カルチャーらしいものは特に何もなくて、まわりのみんなと同じようにブルーハーツばかり聴いていました。ほかには『PATi PATi』に載ってそうなビートパンク系のダサイの。

– そんな環境のなかで、デザインを意識するようになったのはいつ頃ですか?

高校生の頃かな……。『POPEYE』『Hot-Dog PRESS』とか、そういう雑誌を読むようになって、小さいコラムとかにカルチャーやデザインの情報が紛れていてそういう世界があることをやっと知ったんです。でも、当時はデザインよりも音楽のほうが好きだった。MTVも地上波でやってたしね。レッチリ(Red Hot Chili Peppers)、ニルバーナ(Nirvana)みたいな流行りものとか、あとはブラック・ミュージックや70年代のロック。

– 高校を卒業したあとは美大に進まれましたよね?

デザインには何となく興味があったから、一浪して名古屋芸術大学に入りました。特別行きたいところではなかったんですが。

– そこでは主にどんなことを学んでいたんですか?

学年が上がるに従ってどんどん枝分かれして、最終的には造形実験というコースで現代美術みたいなことをやっていました。当時はメディアアートと呼ばれていたのかな。グラフィックとか空間とかテキスタイルとかではない、それ“以外”のコース。なので、学生のころはダムタイプ(1984年に京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティストグループ)とかすごく好きでしたね。

– デザインの“いろは”はどうやって覚えたんですか?

友達のフライヤーを作ったり、授業のプレゼン資料つくったりしていくうちに何となく覚えただけで、専門で学んだわけではありません。

–  卒業後、すぐにデザインチームの「ILLDOZER(イルドーザー)」に入られたんですか?

いや、その前に小さな事務所で1年強働いています。そのときの仕事はかなりつまらなくて、週末の素晴らしさを改めて実感しましたね。とにかく週末にどこに遊びにいくかしか考えていませんでした。パーティーもいろいろなところでやってたし、代々木公園も自由なときだったから。

– その後参加する「ILLDOZER」のメンバー(石黒景太、阿部周平、筒井良)とはどこで出会ったんですか?

大学を卒業する前から地元の先輩である井口弘史さん(アーティスト/イラストレーター)を頼って上京して、かなりお世話になっていたんです。上京したあとすぐに、三宿のWEBで石黒さんがDJするってことを聞きつけて井口さんと遊びにいって。彼らがノリで「事務所に遊びに来なよ!」と言ってくれたことを真に受けて後日遊びにいきました。それからですかね。仕事がけっこう暇で、夜の7時くらいに終わっちゃうから、とりあえずその後は遊びに出ていたんです。お金もコネもないのに時間だけはあるから、意味もなく「ILLDOZER」の事務所に行ってビデオを観てたり、レコード聞いたりして。特に何もしていなかったんですけど(笑)。そうこうしているうち、仕事を手伝うようになりました。昼は普通に働いて、夜は「ILLDOZER」の事務所に通う生活です。

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– それがキッカケで働くようになったんですね。

「もう少し面白いことがやりたい」となんとなく辞表を出した後日、阿部さんと一緒にご飯を食べている時にそのことを伝えたら、「じゃあ一緒にやるか」と。

– 両者のあいだには感覚的に何かしらシェアできるものがあったということですか?

うーん、僕は「ILLDOZER」の仕事が好きだったけれど、それはわかりません。地方から出てきた何の取り柄もない僕にいきなりCDくれたり、Tシャツくれたり。「東京凄い」って思いましたよ。音楽とか、カルチャーが好き、という共通項はあったかもしれないけれど。

– 当時、デザイン業界のなかで「ILLDOZER」の立ち位置はどういうものでしたか?

異端ですね。独特のセンスで、ほかとは全く違うスタイル、発想、価値観でデザインしていました。音楽のジャケットなど、色んな分野に進出していて、とてもクレイジーだと思ってました。彼らは学校とかでデザインの勉強なんてほとんどしていなかったし。しかも、締め切りを無視してとことんやり続けるっていう無茶苦茶なスタイル(笑)。

– クリエイティブな面で見れば、とてもエキサイティングな環境ですね。

そうかもしれないですね……。ただ、僕がここで学んだ1番重要なことは“立ち振る舞い”でしたね。彼らはスマートで都会的だった。熱いけれど冷めてといるというか。人や街に対する接し方や眼差しがとにかくかっこ良かった。街の熱気みたいなのをいつも気にしていて、凄く新鮮でした。本人たちは単なる街の不良でしかないんですが(笑)。

– ここでは何年間働かれたんですか?

約2年間ですね。当時は僕も月に1回くらいしか家に帰っていなくて、そろそろ休みたいなと思っていた矢先に解散という話が出ました。

– 期せずして独立してしまったわけですよね。

そうですね。「ILLDOZER」 が解散した後も『SPECTATOR(スペクテイター)』という雑誌には関わっていました。実は僕が「ILLDOZER」で最初に任された仕事が『SPECTATOR』のロゴと表紙のデザインだったんです。ただ、当時それ以外は何も仕事がなかったから、本当に困りました(笑)。デザインのバイトとか、中学の友達が出していたキャバクラ雑誌のデザインとかやってりして食い繋いでいましたね。

– キャバクラ雑誌?

「クラブ アフター」っていう名前の(笑)。当時は友達もそういう言い方をしなかったけれど、「どうせ金ないならやってみる?」っていう感じで話をくれたんだと思います。昼は大きなビルのなかで仕事をしていたから、当時はずっと4時間睡眠。どこにでもある話ですよ(笑)。というか、ファッション的な話が一向に出てこないけど、大丈夫ですか?

– それはこの後に(笑)。ちなみに、そういう体力的に辛い時期はどれくらい続いたんですか?

それもまた2年間くらいかな……。それでまた昼の仕事を辞めたんです。その時には書籍の仕事なんかが定期的にくるようになっていたから、何とか食べていけた。内容はいわゆるお洒落系じゃなくて、人文系が多かったですね。

– 何か転機になった仕事はありましたか?

今考えれば、『VOL』っていう雑誌がそうだったかもしれません。人文系って狭い世界だし、デザインの枠組みもずっと変わっていなかったから、自分は戸田ツトムさんや工作舎系の人とは別のアプローチで、間口を広げたポップなことをやってみようと思ったんです。

–  アングラな感性でポップなことをやる、というのは、今の前田さんのキャリアに通ずるコンセプトだと思います。

たしかに……まあ、それをコンセプトにはしていないですけどね(笑)。あとは、ユナイテッドアローズの「SOUNDS GOOD」のデザインを任されたのが仕事としては大きかったと思います。当時、オルタナティブなパーティー・シーンが盛り上がっていて、大阪で面白いパーティーがあると聞きつけると、お金がないからみんなで同じ車に乗り合わせて行ったりして。そういう流れで友人も増えていって、奇跡的にユナイテッドアローズに繋がり、「SOUNDS GOOD」のテコ入れをするタイミングで山本康一郎さんが声をかけてくれたんです。ファッションの仕事をするようになったのもここからですね。

– 今や『POPEYE』のような大衆雑誌も手掛けていますよね。エディトリアルデザインの役割とはずばり何だと思いますか?

良い雰囲気を作ってまとめるだけですよ。特に何もしていない。これ、いつも冗談半分で言っていて、ヴァイブスで仕事をしているんです。すごくダサい言い方だけど(笑)。

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– コミュニケーションありき、ということですか?

そうそう。良いものを作るためにはお互いに“空気”を感じて言語化していくことが必要じゃないですか。つまんないと思った時点でその仕事には先がない。この仕事を自分の人生のなかでどれくらい重要だと捉えるのか、それに尽きると思う。早く終わらせて遊びに行きたいと思うのが悪いとは言わないけれど、与えられた条件で他人に見せても恥ずかしくないレベルまで持っていけるかっていう、それがプロの仕事だと思うし、その積み重ねにしか価値はないから。そのために、良い空気感を構築していくことがデザインの仕事だと思っています。温かい気持ちのやり取りはぜったい必要でしょう。そっぽ向いている人にもこちら側を見てもらうために頑張るっていうね。ほとんど精神論になってしまうけれど(笑)。

– 編集とデザイナーの役割を完全に分けている人もいると思いますが、前田さんの場合はそうじゃないということですか?

極論、デザインなんて何でもいい。見る人もそこまで求めていない。その関係性のなかでどうやって良い空気を作り出すか、だけです。

– そういう風に考えるようになったのは最近ですか?

どうでしょうかね……。多くの人と関わるようになったのでそうかもしれません。

– ところで、前田さんにとって本当に面白い雑誌とは?

わりとインディペンデントなものが好きなんです。あまり雑誌を見なくなっているのでパッと出てこないですが、強いていえば『酒とつまみ』っていうお酒が好きな人が作っている同人誌があって、デザインは別に大したものじゃないんですけど、中身がとにかく面白い。

– 雑誌に関して、結局はパーソナルな魅力に行き着くということですか?

うーん、作り手の顔が見えてくるのはいいことですが、コンビニに置かれるような雑誌はパーソナルじゃダメですよね(笑)。今『POPEYE』をやっているのも、初めは1つのチャレンジでしかなかった。大衆的なものにそんなに興味がなかったから、売れるものを作る自信がなくて。そんな自分が10万人以上の人を相手に商売するようになって、時代が変わったのか、おれが変わったのか(笑)。『POPEYE』に関していえば、大衆誌なので大型書店はもちろん海外にだって置かれますよね。で、当然ながら地方の小さな街のコンビニにも1冊くらいは置かれるわけで、片田舎の息苦しさで参ってるあいつらや、ロードサイドでダラダラしてるあいつらに今ある選択肢“以外”もあるぞと、そういうメッセージを届けるつもりでデザインしています。

– アートディレクターとしてどう雑誌に関わっていくのが理想ですか?

仲良くやる、それだけ(笑)。デザインはサービス業だと思っているから。みんながハッピーになればいいんじゃないかな。たとえば雑誌作りの現場には踏み込む部分も踏み込まれる部分も必要で、ギスギスしていたらお互いに「原稿直して」「デザイン直して」とは言えないでしょう。人間、1人では何もできないですから……こんな当たり前のことばかり話していて良いのかな。

– 前田さんの場合、デザインでは何も表現していないということですか?

「これが良いのかな」っていうジャッジの過程で自己表現は含まれるかもしれないけれど、それありきじゃない。誤解をまねくかもですが、デザインは表現ではなく、交通整理でしかないわけです。『POPEYE』だって最初から今みたいな形にしようとは思っていなくて、とりあえず先行き不安な状況で試行錯誤した結果でしかない(笑)。雑誌が半年持つかわからなかった。その状況でできるだけのことをやったということです。実はリニューアルしてからデザインも微妙に3段階くらい変化しているんですよ。そういう過程が自己表現なのかな? どうでしょうかね。

– 写真の良し悪しはどう判断するんですか?

素材としてしか見ていないところもありますが、ヴァイブスがあるかどうか(笑)。ロジカルに見ることはなくて、あくまで感覚。関係性や構成されるものの見え方など、多少は気にしていますが。

– その感覚は何によって培われたものですか?

やっぱりヴァイブスですかね……(笑)それは冗談だけど。パッと見の印象を大事にしてます。自分の好き嫌いはスパイスとして少し入れるだけ。デザインにおいて必要なのは、本来関係のないものを組み合わせたり、比較したりして物語を紡ぎだすことだと思っていて。このテーブルにある2つのコップには関係性がないんだけど、それをデザインによって生み出すという。

– 個人的に注目する写真家はいますか?

そんなに詳しくないですが、インコの写真を撮っている水谷吉法さんは良いなと思いました。

–  そういう方に自分から声をかけていくということはありますか?

Photography: Toshiaki Kitaoka

Photography: Toshiaki Kitaoka

 

『TOO MUCH MAGAZINE』では積極的に声をかけていますが、あんまりないですね。たとえば、スケシンさんとか山塚アイさんとか、僕にとってもヒーローだけど一生関わりたいとは思わないんです。勝ち負けじゃないけどもそれでも挑まなきゃいけない。先輩は全部否定しなきゃいけない。影響されているのにあえて「ダメだよ」と思わなきゃいけない。しんどいです(笑)。

– (笑)

良いものを良いっていうのは気持ち良いんですよ。ただ、否定しても意見を言った気になるから、それも楽。おれの世界に関係ない、って決めつけるしかないと思います。

– 不自然なインプットを避けているんですか?

というよりも、前よりも時間がなくなって、恐ろしいくらいインプットがない。さっきみたいに、「注目する若手のカメラマンは?」と質問されてもぱっと何人も出てこない。水谷さんだって、たまたま見かけた雑誌で発見した人だし、他人が掘り起こしてきたものに乗っかっているだけだから、新しい才能を発掘しているわけでもない。でもまあ、それはそれでやるしかないんですが……。昔、「Comme des Garçons」の音楽も担当していたオノ・セイゲンさんというエンジニアがとあるインタビューで「人の音楽を聴く時間がない」と話していて、最近になってその意味がわかりました。

– プライベートワークの割合は?

1割か2割かな。今はやりたいことと仕事を一緒にすることを心掛けているので。

–  最近はインディペンデントな雑誌も増えていますが、デザイン面であえて苦言を呈するとすれば?

そんなのないですよ。好きにやればいい。できればすべてのデザイナーがいなくなればいいと思ってて。そうすれば自分にだけ仕事がくるから(笑)。他人にアドバイスするような余裕がある状況じゃないんですよ。僕も自分が何かを成し遂げたという感覚はないし、座っている席が微妙に違っているだけで、同じプレイヤーの一人でしかないです。それぞれが問題点を見出して、自分の人生を生きていくしかない。おれが教えてほしい。どうしたらいいんだ(笑)?

– では、前田さんが個人的にデザインにおいて大切だと思うことを最後に教えてください。

オリジナリティをどこまで生み出せるかということじゃないですか。オリジナリティっていうと今微妙な状況ですが(笑)。言い換えるとすると、自分の存在理由がはっきりあるか、だと思います。キョロキョロまわり見渡して、こんな感じだよねーっていうのはつまらないですよね。そういえば、少し前に自分のデザインをパクられてむかついて、スタッフも「パクリですよ」というから、You-Tubeにフリースタイルで文句のラップをあげてやろうと思ったこともある。みんなにはダサイことになるからって止められたけどね(笑)。

<プロフィール>
前田晃伸 (まえだ・あきのぶ) 1976年、愛知県生まれ。大学卒業後、デザイン事務所を経てデザインチーム「ILLDOZER」に参加。 解散後、アートディレクター/デザイナーとして活動中。手がけた雑誌に『SPECTATOR』『REMIX』『POPEYE』『TOO MUCH MAGAZINE』など。