Interview with renowned fashion journalist Jyunko Ouchi part.1

PORTRAITS | Aug 27, 2012 10:45 AM
まだパスポートを取得することすらも困難だった時代、海外のファッションにまさか手が届くとは思いもしなかった時代に、単身で何度も渡欧を繰り返しながら数多くのメゾンの扉を叩き続け、日本の、ひいては世界のファッションジャーナリズムのひとつの原型を作り上げたのが、ここに紹介する大内順子だ。その最も知られるところに、「ファッション通信」*というテレビ番組があるが、この番組の洗礼を受け、ファッション業界を志したという人は、デザイナーやスタイリストはもちろん、編集者のなかにも少なくない。大内順子が歩んできたファッション人生とは?今に対する考察も交えながら語ってもらった。

取材・文: 合六美和  写真: 三宅英正  英語翻訳: 倉増アンバー

 

Photography: Hidemasa Miyake

Photography: Hidemasa Miyake

まだパスポートを取得することすらも困難だった時代、海外のファッションにまさか手が届くとは思いもしなかった時代に、単身で何度も渡欧を繰り返しながら数多くのメゾンの扉を叩き続け、日本の、ひいては世界のファッションジャーナリズムのひとつの原型を作り上げたのが、ここに紹介する大内順子だ。その最も知られるところに、「ファッション通信」*というテレビ番組があるが、この番組の洗礼を受け、ファッション業界を志したという人は、デザイナーやスタイリストはもちろん、編集者のなかにも少なくない。大内順子が歩んできたファッション人生とは?今に対する考察も交えながら語ってもらった。

* INFAS.com製作のファッション情報番組。1985年11月にテレビ東京で放送がスタートし、2002年4月からはBSジャパンでの放映。土曜午前11時、日曜の深夜11時の枠で、世界主要都市のコレクションの様子他を、臨場感のある映像と評論で伝え続けている。

– ファッション通信がスタートする以前は、モデルとして活動なさっていたと伺っています。大内さんが最初にファッション業界を志したきっかけは何だったのでしょうか?

左: 大内順子氏 右: 岡田真澄氏 /中原淳一氏の雑誌『それいゆ』にて

左: 大内順子氏 右: 岡田真澄氏 /中原淳一氏の雑誌『それいゆ』にて

モデルはただのアルバイト。それこそ、道を歩いていてスカウトされたクチです。当時のモデルといえば雑誌がほとんどで、私みたいに背が低くても(161㎝)大丈夫でしたから。ジャーナリストになりたいという思いは、漠然とですが、中学くらいからありました。それから大学に入って、モデルの仕事をしているうちに、ファッションって面白いなと思い始めた。そして卒業後、すぐにフリーランスになった。なぜフリーかというと、会社に入ってしまうと、もしファッションの担当になれたとしても、ある日突然人事異動で経理に回されてしまう可能性だってあるでしょう。それでは困ると思ったので。当時、肩書きは何?とよく聞かれましたが、その質問に対してはファッションのことを書く人、ということで、ファッションライターといっていました。そのうち、書くだけではなくテレビの仕事も始めるようになったあたりから、ファッションジャーナリストと名乗るようになったのかしら。

 

– ファッションジャーナリストの草分け的存在として、今現在に至るまで活動を続けていらっしゃいます。

私はファッションジャーナリストという具体的なイメージがあって、それに乗ろうとしたわけじゃない。ファッションが面白い。ファッションが好きだ。ファッションって時代を表現して感動的である。それを人にも伝えたいという思いが原点です。それがジャーナリストであろうと何であろうと、私にとって肩書きは何でもよかった。ファッションの現場で受ける感動を、できるだけそのままの形で伝えるにはどうればいいのか。とにかくそれを形にしたかったんです。

– 大内さんにとって、ファッションの面白さとは?

女の子なら、誰だって好き。そういうものですよ。大学生時代に、たまたま写真を撮らせて欲しいっていわれて、いろんな洋服を着て。最初はそれが純粋に楽しかった。学生時代の私はまったく化粧っけがなかったけど、そのうち口紅だけはつけるようになったり。私が最初に出入りしていたのは、当時最高の人気を誇っていた「婦人画報」だったので、撮影を重ねるごとに一流デザイナーや写真家たちとの輪も広がっていきました。プロのモデルになるつもりは毛頭なかったので卒業と同時に辞めましたが、モデル時代のつながりでファッションの原稿の依頼がきたりして、書く仕事にシフトしていきました。

1956年 大内順子氏 初ヨーロッパ旅行 パリにて

1956年 大内順子氏 初ヨーロッパ旅行 パリにて

– 最初に海外に出た時のことを教えてください。

私が最初にヨーロッパに行ったのは、大学をちょうど卒業した頃。当時はまだパスポートもとれない時代でしたが、たまたまチャンスがあって、エジプトのカイロに行ったんです。当時は1ドルが360円。でも普通に買えない。だから400円の闇ドルを現地で買って、大使館でパスポートにアメンドしてもらったり、ビザも出してもらって、それでやっとヨーロッパを旅することができました。その時パリにも行って、コレクションも見ました。すごく楽しかった。私の旅熱は一気に燃え上がって、それから毎年必ず海外に行くようになりました。海外に行きたいからといってすぐに出れる時代ではなかったのですが、海外の知人からオール・ギャランティ・レターという、その場所にいる間は面倒を見ますよという保証をもらえれば、パスポートがとれたんです。だから、行くたびに増えていったいろんなお友達から形だけのレターを出してもらって。本当にいろんなところへ行きました。

 

1970年代 デザイナーのアンドレ・クレージュ氏とパリのマキシムにて

1970年代 デザイナーのアンドレ・クレージュ氏とパリのマキシムにて

– コレクション動画を撮り始めるようになった経緯は?

コレクションを動画で伝えたいという思いは、当初からありました。ただ、当時は機材がものすごく大きくて、何百キロっていう量。そもそもカメラマンが会場に入ることもまだ許されていなかった。そうなると、まずは印刷媒体。帰国するたびに、新聞などにレポートを書いたりしていました。ちょうどその頃、「家庭画報」で日本の一流店を紹介するという連載があったのですが、日本だけじゃなくて世界の一流店もやってみたら面白いんじゃないかって編集長に提案してみたんです。それが60年代の終わり頃かな。ほとんどの人が、まさか海外の有名メゾンが相手にしてくれるわけがないと思っていた時代。でもやってみなくちゃわからないじゃないと、私はそれまでの経験とコネクションから思った。それで、「大内さんひとりでできるならやってみて。もし失敗してもそんなものだと思っているから安心して行ってきて」って任されたんです。

最初は、「エルメス」「シャネル」「セリーヌ」の3社に取材の申し込みを入れました。当時はそういう取材なんて日本では皆無でしたが、とてもよくしていただいたんです。「シャネル」では、マドモアゼルのアパルトマンを見せてもらったり。まだプレタポルテを始めていない頃でした。日本の読者は、私が実際にそこに行ったという証拠が必要なもので、私がオートクチュールの洋服をオーダーしたという設定で、仮縫いしているシーンを撮影したりもしました。「エルメス」は、社長もインタビューに応えてくれました。結果、誌面に出せる何十倍もの写真を撮って帰国しました。そうしたらすごく反響がいい。隔月連載になって、取材もどんどん繋がっていった。そのうちにフランスだけじゃなくて、イタリアの「グッチ」や「サルヴァトーレ・フェラガモ」、ローマの「ヴァレンティノ」なども紹介しました。それでもまだ、テレビはこちらを向いてくれていなかった。でも私はやっぱり、動く映像でやりたかった。写真は正面しか見えませんから。

– そうなると、やはりご自身で撮影をスタートすることになったのですか?

確かに、自分でやってみようとも考えました。テレビ関係の知り合いの方にも、カメラの操作は簡単だから自分で動かしてみたら?とアドバイスも受けたけど、でもやっぱり難しい。ただ、そのアドバイスがきっかけで、なんとかやってみようと再び模索を始めました。機材をパリで手配できればいいんじゃないかと思って、ソニー創業者の盛田(昭夫)社長夫人の紹介で、パリのソニーから機材を借りて。パリ在住のアメリカ人のカメラマンとエンジニアの二人をアルバイトで雇って。そうして初めてオートクチュールのコレクションを取材できる体制ができたんです。日本のテレビが入ったのは、もちろん初めて。こうして取材したたくさんのコレクション映像は、帰国してすぐにNHKに持ち込みました。一銭も要らないから流してくれますか?って。出発前に話はつけてありましたので。なぜNHKかというと、母がそのチャンネルに設定しっぱなしの人だったから、母に見てもらうにはNHKしかないと思ったんです。

 

『ファッション通信』の取材でトルコのブルーモスクを背景に。<br>左: 大内順子氏 右: 高橋由美香氏(『ファッション通信』ディレクター)

『ファッション通信』の取材でトルコのブルーモスクを背景に。
左: 大内順子氏 右: 高橋由美香氏(『ファッション通信』ディレクター)

– 「ファッション通信」の前身は、NHKの番組だったのですね。

NHKの朝の番組枠を30分使って流しました。とても反響がよかった。放送後、たくさんのマスコミの人たちにも見せたいと思って、仲良しの日本テレビやTBSの女性ディレクターたちを当時住んでいた青山の自宅に招待して、試写会を開いたんです。そしたら、たまたまそのなかにいたTBSのディレクターが、使い道の決まっていない東京⇄パリのエアチケットが3枚あるから、それで何かやってみてくれないかって。私、すぐに乗っちゃうタイプだから、即諾(笑)。それからTBSでの放映が始まりました。当時はテレビでファッションをやっても視聴率がとれないっていうジンクスがあったんです。だから、何かプレゼントを出そうということになって、日本の輸入元にご協力いただき、ブローチやスカーフなどを視聴者プレゼントとして出しました。そうしたら、のっけから1日で3万枚の応募ハガキが届いた。これは笑い話だけど、ある日、「エマニュエル ウンガロ」のブランド名が聞き取れなかったと視聴者から問い合わせが来た時、もちろん部内の人も誰も知らないから、電話を受けた人が「ウンガロは、ウ○コのウン!」とか言っていた。それくらいみんな知らなかった時代です。

– 笑。それがいつ頃ですか?

70年代。そんなに大昔でもないでしょう。それくらい、日本の人たちが海外のファッションに目を向けるチャンスがなかった。TBSの放送では、応募ハガキがついには毎日12万通も届くようになった。TBSの廊下は、ハガキの箱だらけ。でも、そのときの私は、まだ物足りないと思っていた。なぜなら、働いている女性や男性にも見てもらいたいと思っていたから。ファッションはビジネス。ファッションは、時代性を物語るものでもあるから。ファッションって、それを介していろんなものの解釈ができる。でも朝の番組だと、家庭の奥さんしか見ないでしょう。彼女たちの目には、それを買うか買わないかというレベルでしか映らない。そうじゃない目で見てもらうには、男性も含む人が見ることのできる夜の枠でやりたかった。そんな時、(株式会社ハナヱモリ社長の)森顕さんから、夜の枠でファッションの番組やらないかっていう話がきた。当時は、森英恵さんがちょうど、パリのクチュールに入る話をしていたとき。ただ、クチュールのメンバーになっても、他のクチュールとは何のコネクションもない。テレビ界でファッションがわかる人もいない。だから、大内さんやってもらえませんかっていわれて。もちろん即諾。それで始まったのが、「ファッション通信」です。最初の頃は、ワンクール終わると、次のシーズンもできるのかな、できないのかなっていうような状況だったけど、そのうち資生堂が冠スポンサーになり、ちょっとずつ体制ができていった。気づけば27年が経ちました。

TBSのクルーと一緒にパリでコレクション取材をする大内順子氏

TBSのクルーと一緒にパリでコレクション取材をする大内順子氏

– 大変だった思い出は?

人気デザイナーのショーが始まるって時に、カメラマンのクルーが外をうろうろしている。チケットが手配できてなかったのよね。カメラマンたちは、ディレクターが手配してくれなければ、自分たちではチケットをもらえないから動けない。しょうがないから私が会場に入って直談判して、無理矢理押し込んで。とか、そういうこと何回やったか知れないわ。ジャーナリストとしてきちんと最前列の席に座るっていうのは、その後になってやれたこと。コレクションの後に、バックステージに入ってインタビューするっていうのも、私が考えたこと。最も忙しいコレクション前後にデザイナーのアポイントメントをとるというのは、至難の業ですからね。だからショーの後にバックステージに入って、みなさんのご挨拶が終わりそうな頃に今だ!っていうタイミングを見計らって直撃していた。そうしてマイク突きつけられると、みんな何かいってくれる。このやり方は他の取材陣にも広がっていって、そのうちバックステージパスっていうものができたりもしました。

 

– メゾンとの交流を続けるために心掛けたことは?

撮影した映像と番組は必ず送る。こういう風に使いましたよっていう証明として。その時に使う封筒を、すごく目立つブルーにしたの。なぜブルーを選んだのかというと、フランスの税金は、ブルーの封筒でくるから。向こうの人は、ドキッとしながらきっと必ず手に取るわけ。INFASの「ファッション通信」っていうのが印象づくし、覚えてもらえる。フランスに限らず、ヨーロッパって階級社会なんです。だからそのソサエティの一員である誰かと仲良くなれば、他のメンバーも受け入れてくれる。たとえばコレクション会場はすべて指定席なのですが、このソサエティに一度認知されれば、知らないプレスからも「ハイ、ジュンコ!早くこっちから入っていらっしゃい」って優先的な待遇をしてくれるようなことにもなった。

– 当時の経験のなかで、特に印象に残っているデザイナーの思い出はありますか?

デザイナーのジヴァンシー氏に取材をする大内順子氏

デザイナーのジヴァンシー氏に取材をする大内順子氏

たくさんありすぎるわ。毎日がそうだったから。そうね、特に思い出深いのは、(ユベール・ド・)ジバンシィさんかしら。昔はデザイナーがオーナーでもあった。すごくむつかしい人で、社内では王様みたいな存在だから、お針子さんなんかは、同じ屋根の下にいても、1年に1回顔を合わせられるかどうか。彼女たちは、ムッシュ・ジバンシィが使うのとは別の階段使って最上階の仕事場に行っていたから。仮縫いがあっても、どこかの国のプリンスとかじゃない限り、デザイナーは立ち会わないから。そんなジバンシィさんは、大のインタビュー嫌いでもあったらしいけど、私はそういうこと知らないから。たまたま紹介を受けてお会いした時、普通に振る舞いながらいろいろ伺ったら、すごく気持ちを許してくださって、面白い話をいっぱいいただいた。そのインタビューは新聞に掲載して、刷り上がったら、インタビュー個所に赤線をひっぱって送りました。「ファッション通信」が実現する前には、そういう積み重ねがたくさんありました。その後も、ムッシュ・ジバンシィにはとても良くしていただきました。

– 誰もやらないことを重ね続けることで、「ファッション通信」という実が結ばれたのですね。

私はラッキーだった。ない道を開拓したとか、難しいほうには考えないで。楽しくて、素晴らしいから、誰かに知らせたい。じゃあ、どうすればいいだろうっていう、それだけ。非常に単純に考えるの。

大内順子(おおうち・じゅんこ)1934年上海生まれ。ファッション評論家、ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科卒業。学生アルバイトのモデル活動を経て、卒業後に雑誌、新聞などで執筆活動をスタート。並行して、テレビ番組の企画、出演も自ら手掛け、1985年に立ち上げた「ファッション通信」は今現在も続いている。世界各地でのファッションコンクールの審査委員を務め、講演も多数。パリ市、ミラノ市、NYファッショングループ、FEC賞受賞。2001年仏政府より芸術文化勲章オフィシエ賞を受ける。著書「たたかわない生き方」(イーストプレス社)、「パリコレの最前列から」(アシェット婦人画報社)、「20世紀日本のファッション」(源流社)、「おしゃれのエッセンス」(近代文藝社)他多数。

公式ブログ
URL: http://ouchi-junko.blogspot.jp

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