Interview with renowned fashion journalist Jyunko Ouchi

PORTRAITS | Aug 27, 2012 10:45 AM
まだパスポートを取得することすらも困難だった時代、海外のファッションにまさか手が届くとは思いもしなかった時代に、単身で何度も渡欧を繰り返しながら数多くのメゾンの扉を叩き続け、日本の、ひいては世界のファッションジャーナリズムのひとつの原型を作り上げたのが、ここに紹介する大内順子だ。その最も知られるところに、「ファッション通信」*というテレビ番組があるが、この番組の洗礼を受け、ファッション業界を志したという人は、デザイナーやスタイリストはもちろん、編集者のなかにも少なくない。大内順子が歩んできたファッション人生とは?今に対する考察も交えながら語ってもらった。

まだパスポートを取得することすらも困難だった時代、海外のファッションにまさか手が届くとは思いもしなかった時代に、単身で何度も渡欧を繰り返しながら数多くのメゾンの扉を叩き続け、日本の、ひいては世界のファッションジャーナリズムのひとつの原型を作り上げたのが、ここに紹介する大内順子だ。その最も知られるところに、『ファッション通信』*というテレビ番組があるが、この番組の洗礼を受け、ファッション業界を志したという人は、デザイナーやスタイリストはもちろん、編集者のなかにも少なくない。大内順子が歩んできたファッション人生とは?今に対する考察も交えながら語ってもらった。

* INFAS.com 製作のファッション情報番組。1985年11月にテレビ東京で放送がスタートし、2002年4月からはBSジャパンでの放映。土曜午前11時、日曜の深夜11時の枠で、世界主要都市のコレクションの様子他を、臨場感のある映像と評論で伝え続けている。

 

—ファッション通信がスタートする以前は、モデルとして活動なさっていたと伺っています。大内さんが最初にファッション業界を志したきっかけは何だったのでしょうか?

左: 大内順子氏 右: 岡田真澄氏 /中原淳一氏の雑誌『それいゆ』にて

左: 大内順子氏 右: 岡田真澄氏 /中原淳一氏の雑誌『それいゆ』にて

モデルはただのアルバイト。それこそ、道を歩いていてスカウトされたクチです。当時のモデルといえば雑誌がほとんどで、私みたいに背が低くても (161cm) 大丈夫でしたから。ジャーナリストになりたいという思いは、漠然とですが、中学くらいからありました。それから大学に入って、モデルの仕事をしているうちに、ファッションって面白いなと思い始めた。そして卒業後、すぐにフリーランスになった。なぜフリーかというと、会社に入ってしまうと、もしファッションの担当になれたとしても、ある日突然人事異動で経理に回されてしまう可能性だってあるでしょう。それでは困ると思ったので。当時、肩書きは何?とよく聞かれましたが、その質問に対してはファッションのことを書く人、ということで、ファッションライターといっていました。そのうち、書くだけではなくテレビの仕事も始めるようになったあたりから、ファッションジャーナリストと名乗るようになったのかしら。

—ファッションジャーナリストの草分け的存在として、今現在に至るまで活動を続けていらっしゃいます。

私はファッションジャーナリストという具体的なイメージがあって、それに乗ろうとしたわけじゃない。ファッションが面白い。ファッションが好きだ。ファッションって時代を表現して感動的である。それを人にも伝えたいという思いが原点です。それがジャーナリストであろうと何であろうと、私にとって肩書きは何でもよかった。ファッションの現場で受ける感動を、できるだけそのままの形で伝えるにはどうればいいのか。とにかくそれを形にしたかったんです。

—大内さんにとって、ファッションの面白さとは?

女の子なら、誰だって好き。そういうものですよ。大学生時代に、たまたま写真を撮らせて欲しいっていわれて、いろんな洋服を着て。最初はそれが純粋に楽しかった。学生時代の私はまったく化粧っけがなかったけど、そのうち口紅だけはつけるようになったり。私が最初に出入りしていたのは、当時最高の人気を誇っていた「婦人画報」だったので、撮影を重ねるごとに一流デザイナーや写真家たちとの輪も広がっていきました。プロのモデルになるつもりは毛頭なかったので卒業と同時に辞めましたが、モデル時代のつながりでファッションの原稿の依頼がきたりして、書く仕事にシフトしていきました。

1956年 大内順子氏 初ヨーロッパ旅行 パリにて

1956年 大内順子氏 初ヨーロッパ旅行 パリにて

—最初に海外に出た時のことを教えてください。

私が最初にヨーロッパに行ったのは、大学をちょうど卒業した頃。当時はまだパスポートもとれない時代でしたが、たまたまチャンスがあって、エジプトのカイロに行ったんです。当時は1ドルが360円。でも普通に買えない。だから400円の闇ドルを現地で買って、大使館でパスポートにアメンドしてもらったり、ビザも出してもらって、それでやっとヨーロッパを旅することができました。その時パリにも行って、コレクションも見ました。すごく楽しかった。私の旅熱は一気に燃え上がって、それから毎年必ず海外に行くようになりました。海外に行きたいからといってすぐに出れる時代ではなかったのですが、海外の知人からオール・ギャランティ・レターという、その場所にいる間は面倒を見ますよという保証をもらえれば、パスポートがとれたんです。だから、行くたびに増えていったいろんなお友達から形だけのレターを出してもらって。本当にいろんなところへ行きました。

—コレクション動画を撮り始めるようになった経緯は?

1970年代 デザイナーのアンドレ・クレージュ氏とパリのマキシムにて

1970年代 デザイナーのアンドレ・クレージュ氏とパリのマキシムにて

コレクションを動画で伝えたいという思いは、当初からありました。ただ、当時は機材がものすごく大きくて、何百キロっていう量。そもそもカメラマンが会場に入ることもまだ許されていなかった。そうなると、まずは印刷媒体。帰国するたびに、新聞などにレポートを書いたりしていました。ちょうどその頃、『家庭画報』で日本の一流店を紹介するという連載があったのですが、日本だけじゃなくて世界の一流店もやってみたら面白いんじゃないかって編集長に提案してみたんです。それが60年代の終わり頃かな。ほとんどの人が、まさか海外の有名メゾンが相手にしてくれるわけがないと思っていた時代。でもやってみなくちゃわからないじゃないと、私はそれまでの経験とコネクションから思った。それで、「大内さんひとりでできるならやってみて。もし失敗してもそんなものだと思っているから安心して行ってきて」って任されたんです。

最初は、Hermès (エルメス)、Chanel (シャネル)、Céline (セリーヌ) の3社に取材の申し込みを入れました。当時はそういう取材なんて日本では皆無でしたが、とてもよくしていただいたんです。Chanel では、マドモアゼルのアパルトマンを見せてもらったり。まだプレタポルテを始めていない頃でした。日本の読者は、私が実際にそこに行ったという証拠が必要なもので、私がオートクチュールの洋服をオーダーしたという設定で、仮縫いしているシーンを撮影したりもしました。Hermès は、社長もインタビューに応えてくれました。結果、誌面に出せる何十倍もの写真を撮って帰国しました。そうしたらすごく反響がいい。隔月連載になって、取材もどんどん繋がっていった。そのうちにフランスだけじゃなくて、イタリアの Gucci (グッチ) や Salvatore Ferragamo (サルヴァトーレ・フェラガモ)、ローマの Valentino (ヴァレンティノ) なども紹介しました。それでもまだ、テレビはこちらを向いてくれていなかった。でも私はやっぱり、動く映像でやりたかった。写真は正面しか見えませんから。

—そうなると、やはりご自身で撮影をスタートすることになったのですか?

確かに、自分でやってみようとも考えました。テレビ関係の知り合いの方にも、カメラの操作は簡単だから自分で動かしてみたら?とアドバイスも受けたけど、でもやっぱり難しい。ただ、そのアドバイスがきっかけで、なんとかやってみようと再び模索を始めました。機材をパリで手配できればいいんじゃないかと思って、Sony (ソニー) 創業者の盛田昭夫社長夫人の紹介で、パリの Sony から機材を借りて。パリ在住のアメリカ人のカメラマンとエンジニアの二人をアルバイトで雇って。そうして初めてオートクチュールのコレクションを取材できる体制ができたんです。日本のテレビが入ったのは、もちろん初めて。こうして取材したたくさんのコレクション映像は、帰国してすぐに NHK に持ち込みました。一銭も要らないから流してくれますか?って。出発前に話はつけてありましたので。なぜ NHK かというと、母がそのチャンネルに設定しっぱなしの人だったから、母に見てもらうには NHK しかないと思ったんです。

—『ファッション通信』の前身は、NHK の番組だったのですね。

左: 大内順子氏 右: 高橋由美香氏(『ファッション通信』ディレクター)|『ファッション通信』の取材でトルコのブルーモスクを背景に。

左: 大内順子氏 右: 高橋由美香氏(『ファッション通信』ディレクター)|『ファッション通信』の取材でトルコのブルーモスクを背景に。

NHK の朝の番組枠を30分使って流しました。とても反響がよかった。放送後、たくさんのマスコミの人たちにも見せたいと思って、仲良しの日本テレビや TBS の女性ディレクターたちを当時住んでいた青山の自宅に招待して、試写会を開いたんです。そしたら、たまたまそのなかにいた TBS のディレクターが、使い道の決まっていない東京⇄パリのエアチケットが3枚あるから、それで何かやってみてくれないかって。私、すぐに乗っちゃうタイプだから、即諾(笑)。それから TBS での放映が始まりました。当時はテレビでファッションをやっても視聴率がとれないっていうジンクスがあったんです。だから、何かプレゼントを出そうということになって、日本の輸入元にご協力いただき、ブローチやスカーフなどを視聴者プレゼントとして出しました。そうしたら、のっけから1日で3万枚の応募ハガキが届いた。これは笑い話だけど、ある日、Emanuel Ungaro (エマニュエル ウンガロ) のブランド名が聞き取れなかったと視聴者から問い合わせが来た時、もちろん部内の人も誰も知らないから、電話を受けた人が「ウンガロは、ウ○コのウン!」とか言っていた。それくらいみんな知らなかった時代です。

—笑。それがいつ頃ですか?

70年代。そんなに大昔でもないでしょう。それくらい、日本の人たちが海外のファッションに目を向けるチャンスがなかった。TBS の放送では、応募ハガキがついには毎日12万通も届くようになった。TBS の廊下は、ハガキの箱だらけ。でも、そのときの私は、まだ物足りないと思っていた。なぜなら、働いている女性や男性にも見てもらいたいと思っていたから。ファッションはビジネス。ファッションは、時代性を物語るものでもあるから。ファッションって、それを介していろんなものの解釈ができる。でも朝の番組だと、家庭の奥さんしか見ないでしょう。彼女たちの目には、それを買うか買わないかというレベルでしか映らない。そうじゃない目で見てもらうには、男性も含む人が見ることのできる夜の枠でやりたかった。そんな時、(株式会社ハナヱモリ社長の)森顕さんから、夜の枠でファッションの番組やらないかっていう話がきた。当時は、森英恵さんがちょうど、パリのクチュールに入る話をしていたとき。ただ、クチュールのメンバーになっても、他のクチュールとは何のコネクションもない。テレビ界でファッションがわかる人もいない。だから、大内さんやってもらえませんかっていわれて。もちろん即諾。それで始まったのが、『ファッション通信』です。最初の頃は、ワンクール終わると、次のシーズンもできるのかな、できないのかなっていうような状況だったけど、そのうち資生堂が冠スポンサーになり、ちょっとずつ体制ができていった。気づけば27年が経ちました。

1980年 パリ市のメダイユ賞する大内順子氏。(左から)パリ副市長、伝説のデザイナー マダム・グレ氏、パリ オートクチュール協会 会長、ジャックム・クリエ氏、大内順子氏

1980年 パリ市のメダイユ賞する大内順子氏。(左から)パリ副市長、伝説のデザイナー マダム・グレ氏、パリ オートクチュール協会 会長、ジャックム・クリエ氏、大内順子氏

—大変だった思い出は?

人気デザイナーのショーが始まるって時に、カメラマンのクルーが外をうろうろしている。チケットが手配できてなかったのよね。カメラマンたちは、ディレクターが手配してくれなければ、自分たちではチケットをもらえないから動けない。しょうがないから私が会場に入って直談判して、無理矢理押し込んで。とか、そういうこと何回やったか知れないわ。ジャーナリストとしてきちんと最前列の席に座るっていうのは、その後になってやれたこと。コレクションの後に、バックステージに入ってインタビューするっていうのも、私が考えたこと。最も忙しいコレクション前後にデザイナーのアポイントメントをとるというのは、至難の業ですからね。だからショーの後にバックステージに入って、みなさんのご挨拶が終わりそうな頃に今だ!っていうタイミングを見計らって直撃していた。そうしてマイク突きつけられると、みんな何かいってくれる。このやり方は他の取材陣にも広がっていって、そのうちバックステージパスっていうものができたりもしました。

—メゾンとの交流を続けるために心掛けたことは?

撮影した映像と番組は必ず送る。こういう風に使いましたよっていう証明として。その時に使う封筒を、すごく目立つブルーにしたの。なぜブルーを選んだのかというと、フランスの税金は、ブルーの封筒でくるから。向こうの人は、ドキッとしながらきっと必ず手に取るわけ。INFAS の『ファッション通信』っていうのが印象づくし、覚えてもらえる。フランスに限らず、ヨーロッパって階級社会なんです。だからそのソサエティの一員である誰かと仲良くなれば、他のメンバーも受け入れてくれる。たとえばコレクション会場はすべて指定席なのですが、このソサエティに一度認知されれば、知らないプレスからも「ハイ、ジュンコ!早くこっちから入っていらっしゃい」って優先的な待遇をしてくれるようなことにもなった。

デザイナーのジヴァンシー氏に取材をする大内順子氏

デザイナーのジヴァンシー氏に取材をする大内順子氏

 

—当時の経験のなかで、特に印象に残っているデザイナーの思い出はありますか?

たくさんありすぎるわ。毎日がそうだったから。そうね、特に思い出深いのは、Hubert de Givenchy (ユベール・ド・ジバンシィ) さんかしら。昔はデザイナーがオーナーでもあった。すごくむつかしい人で、社内では王様みたいな存在だから、お針子さんなんかは、同じ屋根の下にいても、1年に1回顔を合わせられるかどうか。彼女たちは、ムッシュ・ジバンシィが使うのとは別の階段使って最上階の仕事場に行っていたから。仮縫いがあっても、どこかの国のプリンスとかじゃない限り、デザイナーは立ち会わないから。そんなジバンシィさんは、大のインタビュー嫌いでもあったらしいけど、私はそういうこと知らないから。たまたま紹介を受けてお会いした時、普通に振る舞いながらいろいろ伺ったら、すごく気持ちを許してくださって、面白い話をいっぱいいただいた。そのインタビューは新聞に掲載して、刷り上がったら、インタビュー個所に赤線をひっぱって送りました。『ファッション通信』が実現する前には、そういう積み重ねがたくさんありました。その後も、ムッシュ・ジバンシィにはとても良くしていただきました。

—誰もやらないことを重ね続けることで、『ファッション通信』という実が結ばれたのですね。

私はラッキーだった。ない道を開拓したとか、難しいほうには考えないで。楽しくて、素晴らしいから、誰かに知らせたい。じゃあ、どうすればいいだろうっていう、それだけ。非常に単純に考えるの。

—コレクション各都市の特性は、大内さんの目にはどのように映ってきましたか?

コレクションを発信している都市って、いまや世界各国にあるでしょう。でも結局、パリに行くことのほうが多いですよね。バイヤーもあちこち行けないから。イタリアのコレクションは、最初はフィレンツェでもやっていたけど、Gucci も Salvatore Ferragamo も、ミラノに発表の場を移すようになった。ミラノはもともと、Giorgio Armani (ジョルジオ・アルマーニ)、Versace (ヴェルサーチ)、Missoni (ミッソーニ) など、クリエイティブなデザイナーが多くいた。交通の便の問題もそうだし、いろんな事情があって、今はパリとミラノを中心とした形態になったわけ。

ミラノコレクション後 ジョルジオ・アルマーニ氏がオッキオ・ドーロ賞を受賞 世界のトップジャーナリストたちと審査員として参加する大内順子氏

ミラノコレクション後 ジョルジオ・アルマーニ氏がオッキオ・ドーロ賞を受賞 世界のトップジャーナリストたちと審査員として参加する大内順子氏

 

—ビジネス都市といわれるニューヨークはどうですか?

私が行っていた頃は、セブンス・アベニューのデザイナーをはじめ、ペリー・エリスとか、ずいぶんいろんな人たちが出てきていた。みなさんご存知かしら、かつてニューヨークには、スタジオ54と呼ばれるクラブがあったの。いわゆるディスコが流行る少し前の時代よね。

—スタジオ54が盛り上がったのは、すごく短い期間だったと聞きますが、あの伝説的な場所に居合わせていらっしゃったのですね。

かつて毛皮といえば「レヴィオン」の時代があった。そこの副社長だったイタリア人がとても面白い方だったの。オフィスの冷蔵庫にはいつもシャンパン。会社にはリムジンで乗りつけて、夜はそのままクラブへ出かけて。スタジオ54へもよくご一緒したわ。スタジオ54って、店の前に立っているお兄ちゃんが、顔で客を選ぶのよ。常連の人はすっと入れてもらえるけど、それ以外は外でたむろ状態。変なの、って感じでしょ。いわゆるソサエティの変形というか。だからこそいろんなものも見れたし、面白かったですけどね。

—では、ロンドンは?

ロンドンも初期コレクションから行っていました。サッチャーさんが首相だった頃。モッズ、ヒッピーを経て、パンクのムーブメントが起きていた。イギリスも階級社会。そこで下層階級のエネルギーが爆発したのが、ファッションになった。時代的にも面白い時でした。また、ダイアナ妃のパーティに呼んでいただいたこともあった。離婚する前ね。世界から4人だけが招待されていて、なぜか私も含まれていたの。最近、サッチャー (元英首相) さんの映画があったから、いろいろ思い出していたところ。サッチャーさんは本当に素晴らしい方。私にとって世界で尊敬する女性のトップ3に入る。

—故 Alexander McQueen (アレキサンダー・マックイーン) 然り、クリエイティブなデザイナーを多く排出する都市でもあります。

ロンドンは、今までなかったものを生み出した都市。下からのエネルギーが爆発したクチですね。イギリスって逆に、そうじゃない階層っていうのは、正直ダサいの。パーティに来る方たちのイヴニングとか全然ダメね。だからやっぱりロンドンという都市は、火山のマグマが煮えたぎって爆発したっていう、そういう感じのファッションが面白かった。マックイーンが最初にパリでショーを開いた時、私の隣に、ファッションとは関係なさそうな方が座っていた。マックイーンのお母様だったのよ。少しお話したけど、英語がクイーンズ・イングリッシュでないせいか、通じにくかったのを覚えている。

—時代の変化とともに、ファッションはどのように進化していると感じますか?

かつては上層階級だけのもの。でも、そこから下へと降りていく。そしてロンドンのように逆流する時代もある。で、今度はそれが一方通行ではなくて、両方が混ざり合って、民族色とのミックスもあって、どんどん多様化していく。多くの人が参画すればするほど、実生活というものが大きな部分を占めてくるから。よりカジュアルになり、より着やすくなる。娘が先日、パリにいく機会があったから、(セレクトショップの)コレットを覗いてきたら?って提案したの。そしたら、1階はTシャツとスニーカーばっかりだったって。それが現代。カジュアルで動きやすくって、でもそこに何か違う要素や変化が欲しい。それが今のファッションだと思う。

—東京はどうでしょう?

私は長いこと、アジア・コレクションをやるべきだといってきた。日本、韓国、香港、シンガポールなどが連携してコンパクトな期間でまとめたい。ヨーロッパのサーキットが終わったら、バイヤーがアジアにも来れるようにしたいとさんざん唱えていたけど、実現しなかった。ただ、その動きのひとつとして、東京コレクションは第一歩を踏み出した。東京も、それがどう組織化されてきたか、という変遷がいっぱいある。でも所詮は、個人がどう動くかという問題です。才能とエネルギーと経済力。この3つが揃わないと続けられないですよね。そういう意味で、長く続いている方、うんと長い目でみると、芦田淳さんもそのひとり。上昇志向の強さがあって、経済的なまわし方が上手。PR 面もうまいし、後継者もいるしね。これまで、それなりに才能があったけど、さっき挙げた3つのどれか、あるいはいくつかが欠けていたから消えていったデザイナーというのはたくさんいますよね。東京に限らないですけど。

2001年 FEC賞 (左から)ユニクロ社長の柳井正氏、大内順子氏、デザイナーのトム・フォード氏、モデルの冨永愛氏

2001年 FEC賞 (左から)ユニクロ社長の柳井正氏、大内順子氏、デザイナーのトム・フォード氏、モデルの冨永愛氏

—近年は一方で、ガールズコレクションが盛り上がっています。

あれはあれでいいと思っているの。日本的であるというとき、その要素としては、森英恵さんのような表現法も確かにひとつある。それから、平面の布を扱うという意味では三宅一生さんのような行き方もある。だけど、もっと日本人全体が持っている要素、より普遍的なものは、やっぱり“カワイイ”なの。高田賢三が、「パリのファッションを再生させたのは”KENZO (ケンゾー)”」だと言われた時期もあるくらいに、どうして成功できたのか。それこそは“カワイイ”だったと思う。ヨーロッパにもアメリカにも、“カワイイ”というものを生み出す力が少ない。それは日本人独特の個性。自然に出てくる日本人の要素、それを賢三さんは持っていた。だから、あれだけ受けた。話が戻るけど、その“カワイイ”が、今のガールズコレクションに集結している。中国にも韓国にもない、ある意味で日本の非常に自然な特性を打ち出しているから、いいんじゃないかなと思っている。

—現在の東京コレクションの体制については、どう見られていますか?

民間からたくさんの人が集まって、うまくコントロールして動かしていければいいですよね。今までもいろんな試みがあったけど、大きく成功しなかったから。ファッションはその形がどうであろうと、その国の文化です。政府は税金とっているわけだし、サポートするのは当然だし、悪くないと思う。それをわかっていて、適切なサポートするかどうかっていう部分で、そこに携わる人たちの力次第だと思うわ。

—日本の職人技に再びスポットを当てる試みもあります。

確かに、ガールズがすべてではない。職人の技術が素晴らしくて、世界一を誇るものもいっぱいある。デニムもそうだし、リボンまでもそう。日本人はどうしても控えめだけど、日本みたいにいい国は他にないんです。もっと言うべきだと思う。今のマスコミにとって大事なことだと思う。一般のレベルが高いし、すばらしい作り手のことも、もっともっと言いたいわ。だって日本人は、自分たちを優れているって実感で感じていないでしょう。外国人がそう言ってくれたから自分たちは優れているかもしれないって思っているだけで、いわれなかったら思っていない。控えめすぎる。

—近年、ストリートからあがってくるユニークな若手のデザイナーも少なくないですが、さきほど大内さんがおっしゃった3つのどれかが欠けているからか、なかなか芽が出ない印象を受けるときがあります。大内さんなら、どのようなアドバイスをなさいますか?

デザイナーのカール・ラガーフェルド氏と大内順子氏

デザイナーのカール・ラガーフェルド氏と大内順子氏

甘えないことね。パリは、日本以上に厳しいわけ。世界中から人が集まるパリでは、ちょっとやそっとのやり方で、通用するはずがない。いろんなことを考えて、工夫する。まずは自分のいる場所でね。ガリアーノもマックイーンも、イギリスで芽を出して引き抜かれてきたでしょう。それがアメリカからもくる。そもそもパリのなかにも山ほどいるのよ。どうしたら振り向いてもらえるのか。その前に、自分の才能を見極めることも大事だけどね。でもきっと、才能があると自分で信じているからやっているわけなんだろうけど。信じるっていうのも大事なこと。ただ、誰かが道を開いてくれると思ったら大間違い。以前、政府がかなりのお金を出してサポートした時代があったけど、ほとんど全員がダメになった。甘えが出たのね。結局は、自分でいかによじ登っていくかよ。さらにいえば、登っていった先には、決して尊敬できない人も多いわ。でも、それくらいの覚悟じゃないとできない。人と同じことやってもダメ。道は自分で見つけなきゃ。結論としては、そうじゃないかしら。どこの世界もそうよ。

—Yves Saint Laurent (イヴ・サンローラン) が引退して、モードの終焉が叫ばれたことについては、どのように捉えましたか?

サンローランが引退したということだけに関しては、パートナーである Pierre Bergé (ピエール・ベルジェ) さんがやったこと。サンローラン本人も、引退しないわけにはいかない健康状態にあった。ベルジェさんはそれを「モードの終焉」といった表現にひっかけた。それって、ベルジェさんがベルジェさんたるゆえんよね。さらに、サンローランの大々的な展覧会をやったり、アート作品をオークションにかけたり。サンローランの作品は、大きな金庫のようなところに保管してあるでしょう。ベルジェさんの考え方や、政治力と財力の追求は、その実行力も含めて素晴らしいと思う。

—展覧会前後のシーズンは、多くのデザイナーがサンローランにオマージュを捧げるようなクリエーションを発表しました。

ファッションというのは、ただ表面が素晴らしいというだけではなくて、もうひとつの側面というのも同時に見ておかないと面白くない。ベルジェさんのような、そういう貪欲なエネルギーがあってこそ、続いていく。彼がいなかったら、サンローランはなかったかもしれない。サンローラン本人は、本当に子供のように人がいいの。年をとってからも、質問すると、一生懸命に答えてくれた。これは『ファッション通信』がスタートしたばかりの頃の話だけど、いろんなデザイナーたちに同じ質問をぶつける試みをしたシーズンがあって。「あなたにとってオートクチュールとは何ですか?」って、サンローランにも投げかけてみたんです。ベルジェさんはその瞬間、そばにいなかったんだけど、カメラマンが撮った映像を後で見ているとね、サンローランが答えに悩んでいる間に、ベルジェさんが焦ってこちらに近寄ってきている様子が映っているの。そんなベルジェさんを背景に、サンローランが「It’s my heart. (それは私の心)」って答えた。ベルジェさんのことを知っている人が見ると、すごく面白い映像でした。

着物運動から 大内順子氏自身のブランドの着物で

着物運動から 大内順子氏自身のブランドの着物で

—いま、どんな時代を迎えていると思いますか?

自由に選択ができて、あらゆるものが共存しうる時代。もっともっと広がっていくでしょう。誰かを傷つけたり悲しませたりしない限り、自己責任でやるぶんには、何でもできる。いい時代ですよ。

—モードということに関しては?

ファッションというのは、時代に沿って常に変わるもの。経済、ビジネス、政治、あらゆることが関係してくるけど、でも一番大切なのは、生きているからこそファッションが生まれるということ。たとえば着物。ちょっと違う着方をした日には、やれモノを知らない人がやることだと拒絶したりする。だから着物は半分死んでいった。私は、浴衣をミニ丈にして着ることもいいと思うの。生きているからこそ生まれるスタイル、それがカッコよくてかわいかったら、なおいい。古いものは大事だし、美しいし、いいものです。さらに素晴らしい服だったら、ミュージアムに入れればいいと思うの。でもそこに入るだけだったら、死んじゃってるわけよ。いってみればモードは純文学で、ファッションは大衆文学やマンガ。両方あるから私たちの楽しさはより大きくなるのでは。いろんなジャンルがあるから素晴らしい。

—大内さんが見る今のジャーナリズムとは?

大内順子氏の娘のファッションコラムニスト宮内彩氏の一家が住むニュージーランドの家にて 雑誌『miss』の取材中

大内順子氏の娘のファッションコラムニスト宮内彩氏の一家が住むニュージーランドの家にて 雑誌『miss』の取材中

私からいわせると、かつては自分がやりたいと思ったことを表現する手段が限られていたわけです。今はインターネットに流すだけで、たくさんの人が見てくれる。今ほど幸せな時期はないと思ったほうがいい。こんなに手段があって恵まれているわけだから、もし何か不満に思うことがあったとしたら、それは自分自身の考え不足だと思うしかない。道はあるはず。わたしはたまたまラッキーだったから、古い時代に始めて、今があるのでしょう。とはいえ、何もないなかで、お金をつぎこんだり、知らないところを訪ねていったり、いろいろやりましたよ。それは今だってそう。今あるものをもっと活用しようと思わなければいけない。手段はいくらでもあるんだから、新しい道を切り開けないわけがない。

—ダメな方をみないで、できる方を見るということですね。

時間はかかるかもしれないけどね。もう少し早く生まれてくればよかったとか思ったって、タイムマシンはないから。今できることは、何だろう。今足りてないものは、何だろう。自分がすごく興味があって、熱中できることをやっても、始めから成功なんてしない。でも、何か道が開ける可能性はあるんじゃないかなと思うのよ。私だって最初から、ファッションジャーナリストって名前も意識しないし、そんなものになろうとか思いもしなかった。でも、好きだから。ギャラってこんなに少ないんだなって思いながらもね。楽しいわよ、何ができるかって考えること。あと、デザイナーになって会社を創るには、ひとりでやろうと思ってもなかなかできないけど、仲間が必要でしょう。あとは、経済面を仕切れる人を捜すことね。

—大内さんの今後の活動について教えてください。

私はね、もういろいろ整理しなきゃいけない時期にきていると思っているの。これから活躍する後進たちに場所を譲っていきたい。ただ、考えて、伝えることは続けていきたい。自分の生き方、社会のなかでどういう立場にいたいか、どうすれば誰かの役に立つのか、あるいは逆になってしまうのか。私も元気な限り、考えなくちゃと思っているんですよ。

大内順子

大内順子

<プロフィール>
大内順子 (おおうち・じゅんこ) 1934年上海生まれ。ファッション評論家、ジャーナリスト。青山学院大学文学部英米文学科卒業。学生アルバイトのモデル活動を経て、卒業後に雑誌、新聞などで執筆活動をスタート。並行して、テレビ番組の企画、出演も自ら手掛け、1985年に立ち上げた『ファッション通信』は今現在も続いている。世界各地でのファッションコンクールの審査委員を務め、講演も多数。パリ市、ミラノ市、NYファッショングループ、FEC賞受賞。2001年仏政府より芸術文化勲章オフィシエ賞を受ける。著書『たたかわない生き方』(イーストプレス社)、『パリコレの最前列から』(アシェット婦人画報社)、『20世紀日本のファッション』(源流社)、『おしゃれのエッセンス』(近代文藝社)他多数。

公式ブログ
URL: http://ouchi-junko.blogspot.jp

Twitter
URL:  https://twitter.com/ouchijunko

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