「写真には現実にあるものを変えられる力がある」アレッシオ・ボルゾーニがみる世界
Alessio Bolzoni
photography: Ibuki Yamaguchi
interview & text: Yoshiko Kurata
DOVER STREET MARKET GINZA でブックサイニングを行ったフォトグラファー Alessio Bolzoni(アレッシオ・ボルゾーニ)。精力的に作品集出版と並行して展示も発表しながらも、これまでにMIU MIU(ミュウミュウ)、LOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)、JW Anderson(ジェイダブリュー・アンダーソン)、Burberry(バーバリー)、Off-White(オフホワイト)、Undercover(アンダーカバー)など錚々たるブランドのキャンペーンイメージを手がけてきた。また2007年公開、Timothee Chalamet(ティモシー・シャラメ) 主演の映画『君の名前で僕を呼んで』から始まり、『僕らのままで』『チャレンジャーズ』のポスタービジュアルも行うなど活動領域は幅広い。独特の身体の動きを強く意識させる写真に込められたコンセプトを紐解くように、これまで出版した作品集やバックグラウンドについて伺った。
「写真には現実にあるものを変えられる力がある」アレッシオ・ボルゾーニがみる世界
Journal
―映画『チャレンジャーズ』や JW Anderson のルック写真などファッションシーンで作品を見ることが多いですが、どのような興味から写真を始めたのでしょうか?
子供の頃、空想に耽るような内向的な性格だったこともあり、自分自身と外の世界を理解するために日常的に写真を撮っていたことが原体験になっています。カメラを片手に家の近くを散歩したり、地下鉄に行って日々探検していました。ある種、カメラは自分の成長にとってなくてはならない存在でしたね。外の世界から自分を守る手段でもあり、自身を見つめる媒介でもありました。
―いまでもカメラは、パーソナルな存在ですか?
成長するにつれて、写真をツールとして使うようになった時期はアートとして扱うのは難しかったですね。でも次第に観察者としてただ単に記録するように使うのではなく、もう少し能動的に撮影をなにかつくる行為として捉えるようになりました。
―写真は独学で学んできましたか?
そうですね。特に写真はアカデミックに学んだことはなく、高校と大学ではアートを専攻していました。アートスタディは社会を見る上でも、写真を行う上でも自分にとって大きな影響があります。アートを学んだおかげで、物事に対してオープンマインドになり、社会をより良くする豊かさを持つことができたような気がします。もし仕事をしなくなってもいいくらい歳を重ねたら、もう一度大学に入学してアートを学び直したいくらいです。
―好きなアーティストはいますか?
Roni Horn (ロニー・ホーン) さんは一番好きなアーティストです。今日において、とても特別で重要な存在さだと思っています。彼女も作品としてたくさん写真を扱っていますが、ほかのアーティストとは異なる方法で写真を取り入れているように思います。例えば、6週間かけて1人の女性が見せる様々な100の表情を撮影していている、ポートレイトシリーズ《あなたは天気 パート2》は、繊細な美しさにとても魅了されました。以前、雑誌「Conversation」のISSUE 2 で対談させていただく機会があり、話を聞いてより作品のことが好きになりました。「Conversation」のように、これからもフォトグラファーとしてではなく、インタビュワーとしても好きなアーティストを訪ねていきたいですね。
―今回、来日の目的として絶版となっていて書籍『Accumulo』の再販に加えて、過去の刊行書籍とともにブックサイニングを行いましたね。過去の刊行書籍では、一貫して「Abuse」という言葉をタイトルにつけていますが、どのようなコンセプトで作られたのでしょうか?
2017年に初めて刊行した作品集『ABUSE』は、6ヶ月かけて花を撮っていきました。特に事前に花の種類などを調べるのではなく、シンプルにマーケットで買ってきた花の美しさや生命、自然のあり方を写真を通して表現したいという動機から始まったものです。家に持ってきた花を枯れさせて、白い背景の上におき、美や自然の儚い瞬間を撮るというような日々をその6ヶ月は送っていましたね。だんだんと撮る量も増えるなかで、美しさを取り除いた先に自然のある種、ストレスフルでハードな状況を、私たち人間の人生にも重ねてみるように思えてきて。「use(使う」と「abuse(乱用)」の違いは一体何のか、自分が生き延びるために使うものとは、乱用したものを破壊する瞬間とは、と考えるようになりました。そうした過程で、“use”と“abuse”の概念の違いをあらわすようなタイトルとして『ABUSE』をつけました。制作を始めた2017年当時は、誰もいまのように自然や気候変動について会話をしていなかったのですが、僕はなぜか何かが欠けて代わりに何かが起きるような世の中が変わり目に入っていることを空気で感じていました。
―そこから2冊目では人間の身体を同じように捉えた『ABUSE II THE UCANNY』を刊行されていますね。このビジュアルからのちに、数々のファッションシューティングにも展開されていったように思います。
1冊目を制作し終わってから、同じコンセプトで身体を撮りたいなと思い、ベルリンとロンドンで2日間にわたって、スタジオに何人か呼んで淡々と撮影していきました。個別で撮ったので、他の被写体の動きが見えない状態で、床に転がる、カメラを見ないというくらいのシンプルなルールで行いました。ダンサーは2名ほどで、学生、アーティスト、建築家などさまざまな人に協力いただきました。彼らとは知り合いなわけではなく、撮影中も特に人柄を尋ねることもなく、性別も国籍も関係なく、ただただ物質として身体を捉えていきましたね。被写体全体が、同じようにパフォーマンスしている姿にとにかく美しさを感じました。
―床に転がるといっても、なにか強い重力を感じるようなフォームだったことが印象的でした。JW Andersonのキャンペーンでも、モデルが後ろから押されたような躍動感があります。
ただただ花と同じく、私たち人間が共通して感じる儚い感覚に加えて、人生において物事に対して反応するときに身体にかけるエネルギーの使い方を決める瞬間のような、まさに生物が生き残るための感覚を捉えていきました。それが重力に対するリアクションとしてパフォーマンスに現れていたんだと思います。
―一見、過激なフォームに見えたので、なにかアイロニックがそこにあるのかと感じていました。
なにひとつ、ネガティブなこともアイロニックなことも含まれていないです。世間的には一見するとそう捉えられるかもしれないですが、視点を変えてみれば、人間誰しもが関心ある真面目なトピックだと考えています。自分の想いを写真を通して表現することで相手から様々なレスポンスをもらい、対話することはいつも興味深いものです。
―写真集についてくる、FANZINE『EVENT』について教えてください。
これは写真集本体よりも、よりパーソナルなビジュアルノートのようなものとして捉えています。ペインターがノートにドローイングを描くような感じで、自分自身との視覚的な会話を残しておくようなものです。2022年に刊行した『I speak a language that is not mine』も同じようなテンションでまとめた作品集です。『EVENT』では、2017年に出会ったシリアの難民の方々の服を写しています。シリアの内戦により、当時イタリアやギリシャに難民の方々が避難していたのですが、お金を稼ぐ方法として服を売っていた彼らから、とりあえず作品に使うことは考えずに助けになるように買った服たちです。家に帰ってから、花のシリーズと同じように服を置いていくうちに、そこに彼らの苦しみやシリアから逃げてきた身体による証言のようなものを感じました。戦争という重要な出来事を伝える力強いもののように思えたのです。なので、彼らの身体の跡形のようなものを写真では捉えていきました。よくみると汗ばんでいたり、なにかこぼした後があったり、服からそこに身体があった形跡を感じることができます。ファッションとして服は見ていなくて、花と同じく物質として、そこに生命を感じたのです。
―物質として見ながらも、そこに生命を感じるコントラストが興味深いですね。今回再販した『Accumulo』について教えてください。
この写真集では、骨董市で写真や新聞などファウンドフォトを集めるところから始まり、肩下からの身体を撮りなおすアプロプリエーションの手法を取り入れています。主に50年代〜60年代の画像が多く、連続する写真群からさまざまな時間の響き合いを感じられると思います。まるで止まることを知らない行進のように、あらゆる人々の歩いている姿が続きますが、まさにこの作品集は「accumulation(蓄積)」を出発点に始まりました。ページをめくってもめくってもなかなか終わりに近づかない過剰さがあって。良し悪しについては特に言及しないですが、そうした蓄積する過剰さについて考えるきっかけとして作品集を作り始めました。自分からは問いに対して明確な答えを作品でもテキストでもあらわしたくないので、哲学者の Slavoj Zizek(スラヴォイ・ジジェク)にお願いして『suplus-enjoyment』というタイトルのもと過剰さや大量生産についてのエッセイを書いてもらいました。
―最後の質問です。アレッシオさんにとって写真は、どのような存在ですか?
写真は、今日においてアートのひと形態としてより真剣に受け止められているものだと思います。さっき言ったように Roni Horn をはじめとするアーティストたちは、ある意味、ドローイング、彫刻や絵画とは違って写真をとても特別な方法で使っていますよね。僕個人にとっては、写真というのは自分自身を表現できるプラットフォームです。写真というのは現実にあるものを変えられる力があり、逆を言うと作品に発展させるために現実は必要不可欠な素材でもあります。いまだからこそ、もっと探求されるべきものだと思います。