virginie efira & tao okaoto
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「演出」をめぐる会話。ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が実感した、演技における「声」の力

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virginie efira & tao okaoto

photography: keiichi sakakura
interview & text: rie tsukinaga

Journal/

フランスの介護施設で施設長を務めるマリー=ルーと、舞台公演のため日本からフランスにやってきた演出家の真理。同じ名前をもつ二人は、ある日偶然街で出会い、国や言語の違いを超えて急速に心を通じ合わせていく。

濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』が描くのは、ある出会いから始まる、二人の女性たちの奇跡のような関係性。哲学者の宮野真生子と人類学者の磯野真穂の往復書簡集を原作に、映画では二人の主人公像から舞台設定まで、大胆な改変が施されている。理想のケアを模索するマリー=ルーを演じるのは、『ヴィクトリアとベッドで』(2016)や『ベネデッタ』(2021)など数々の話題作に主演してきたヴィルジニー・エフィラ。そして、進行がんを抱えながら舞台の演出を続ける真理役は、TAO名義でモデルとして活躍し、ハリウッド映画『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013)で映画俳優としてデビューした岡本多緒。

それぞれに確固とした理念を持って仕事をし、日本語とフランス語とで多様な対話を重ねて友情を育む女性たちを見事に体現した二人は、先日のカンヌ国際映画祭で揃って最優秀女優賞を受賞した。盛大な祝福を受けた授賞式を終え、すぐに日本へとやってきたお二人に、濱口監督の演出のユニークさと、『急に具合が悪くなる』での経験について、お話をうかがった。

「演出」をめぐる会話。ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が実感した、演技における「声」の力

—カンヌ国際映画祭での最優秀女優賞受賞、おめでとうございます。お二人にはぜひ、この映画での演技がどのように作られていったのか、おうかがいしたいと思います。濱口竜介監督は映画や演出についてとても理論的に考える監督として知られていますが、お二人は実際に演出を受けるなかで、驚いたりしたことはあったでしょうか?

ヴィルジニー・エフィラ(以下、ヴィルジニー):濱口さんの演出方法にはたくさん驚かされました。たとえば、脚本のほかに、実際の映画には登場しない場面が書かれたテキストを渡されたりもしました。そこにはマリー=ルーが働く介護施設では過去にこういうことがあったとか、彼女は入居者とどういう関係にある、という内容が書かれていて、その場面を実際に演じてみるんです。そうすることで、マリー=ルーという人物の過去の記憶をつくっていく作業をするわけです。濱口監督は、マリー=ルーの人生をまず丁寧に作り上げ、その人生の流れの中にあるいくつかの場面をカメラに収めていく。それが濱口監督の映画の作り方なんでしょうね。

演技について語るときも、濱口さんの言葉はとても神秘的で、まるで暗示のような説明でした。「あなたは少し脚本の解釈に囚われ過ぎているような気がする。そうではなくて、テキストの中、言葉の中に入っていってほしいんです」と言われたりして。「テキストの中に入るって一体どういうこと?」と、最初は全然わからなかった(笑)。でも、ある時点からその言葉の意味がわかるようになりました。そういう不思議な演出をたくさん受けました。

岡本多緒(以下、多緒):濱口監督はたしかに理論的に台詞を書かれているのだと思いますが、俳優に対しては理論的に考える演技を求めているわけではないように感じました。私はもともと、事前にしっかり準備をして、なるべくすべてを理解してから現場に臨みたいタイプなんですが、濱口監督からは、「わからない状態のまま、そのときに起こったことをそのまま捉えてほしい」というようなことをよく言われました。

もちろん監督の中では「こういう形でやってしてほしい」というビジョンが少なからずあったのだとは思いますが、現場ではむしろ自由に演技をさせてもらったような感覚がありました。準備段階では精密にストラクチャー化されていながら、いざ本番が始まると、そこまで準備したものを自由に解放させていく。その両立がとても印象的でした。

—濱口監督は、撮影に入る前の本読みやリハーサルにとても時間をかけるそうですが、撮影の準備はどのように進めていったでしょうか?

ヴィルジニー:私は多緒さんよりも後に参加しましたが、他の監督と比べても準備時間は非常に密なものでした。日本語とフランス語の両方で覚えなければいけない台詞が膨大にあったし、まずはひらがなを全部覚えてくださいと言われて最初は少し戸惑いました。それでもどうにか覚えたら、次は感情を込めずに台詞を読んでいく「本読み」をして、台詞を自分のものにしていく作業を続けていきました。

撮影に入ってからも、濱口監督はいろんな資料をくれました。自分が演じる人物を知るための「17の質問」とか。これまでの来歴や今の心情に関する17個の質問が用意され、それに対してマリー=ルーが答えていく、という問答形式のテキストで、質問によっては答えないものもある、という面白いメソッドでした。なんで20個じゃなくて17個なんだろう、とは思いましたが(笑)。でも自分が演じる人物を知るためにはとてもいい方法だなと思ったし、その後に撮影に入った別の映画の現場でもこのアイディアを活用させてもらいました。

濱口監督はとにかく俳優を映画の中心に据えてくれる人でした。その演出のメソッドは、この映画で語られる「ユマニチュード」(注:フランスの体育学者たちが1979年から開発してきたケアの哲学・技法で、劇中ではマリー=ルーが施設でこのユマニチュードを実践する様が描かれる)に通じるところがあるし、彼がつくる映画そのものにも繋がっているように思います。理論的にしっかりと構築された技術から入っていきながら、最後には人間の感情のような有機的なものへと到達する。それが濱口監督の演出であり、映画ですよね。

多緒:私はヴィルジニーさんよりかなり前から準備に入っていたので、その月日を考えれば、これまでの作品とは比べ物にならないくらい長い準備期間を過ごしました。「本読み」はもちろん、監督からいただいた本をいろいろ読んだり、真理に繋がる様々な施設に見学にいったりもしました。長く時間をかけたというだけでなく、こんなに手厚く準備をさせてもらったのは初めての経験で、本当に充実していました。

—監督から事前に渡された本というのは、映画の中に出てくるユマニチュードや資本主義に関する本でしょうか?

多緒:そうですね、資本主義について書かれたナンシー・フレイザーの著書や、フランコ・バザーリアについて書かれた松嶋健さんの『プシコ ナウティカ イタリア精神医療の人類学』、それから、がんについての本などを渡されました。濱口監督が執筆された本も読みました。

ヴィルジニー:濱口さんは本も書いているんですか?

多緒:映画の批評集や演出についての本を3冊くらい出されているんです。

ヴィルジニー:それはぜひフランス語訳を読まないと(笑)。私は多緒さんとはまた別の資料を与えられていて、実際のユマニチュードの研修を受けに行ったり、原作の書簡集をフランス語に訳したものも読んでほしいと渡されました。それと、監督からはロベール・ブレッソン監督の『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962)を見るように言われました。マリー=ルーという人にはすごく筋の通ったまっすぐなところがあるから、それを体現するうえで、『ジャンヌ・ダルク裁判』に主演したフロランス・ドゥレと、ジョン・カサヴェテスの映画におけるジーナ・ローランズのちょうど中間くらいの演技をしてほしいんだと、そういうことを言われましたね。

そんなふうに細かい指示がある一方で、私がうまく入り込めない部分があれば、遠慮せずに言える雰囲気が現場にはありました。たとえば、真理とマリー=ルーが互いの足の裏をマッサージする場面。私は最初「他人の足に触るなんて」と躊躇してしまい、それを監督にも伝えたんですが、実際に試していくうちに、徐々にその世界に入り込むことができました。なぜ彼女たちがこういう行為をするのか、その意味がだんだんとわかってきたんです。

—真理の演出する舞台のQ&Aシーンでは、お二人はずっと日本語で話し続けますよね。そしてそれを他の観客のためにフランス語に訳そうとすると、舞台の出演者である清宮吾朗(長塚京三)が、「訳さなくていい、声を聞けば大事な話だってわかるでしょう」と言う。この場面が強く印象に残っています。濱口さんはよく、俳優の演技を見るときの大きな要素として「いい声」であることを挙げていますが、お二人が実際に演じていくなかで、「声」の力を感じた瞬間はあったでしょうか。

ヴィルジニー:声を通して何かを感じる、という経験は何度かありました。最初に「本読み」をしたとき、感情を込めずに台詞を読んでいるとなんだかお祈りを唱えているような気持ちになってきて、このまま終わってしまうんじゃないかと少し怖くなりました。でも何度も繰り返しているうちに、少しずつ他人との共鳴を感じるようになりました。声を通して何かが伝わってくるんです。

そういえば本読みをしているとき、一度こんなことがありました。ある場面で、エキストラの俳優が一言だけの台詞をどうしてもうまく言えなかった。私が聞いていても、その人の声はどうも良くなかった。そうしたら監督はすぐにその人のところへ行き、「自分はこういうふうに声を出してほしいんです」と熱心に話をしていました。すると驚くことに、そのエキストラの俳優の声はみるみる良くなっていき、無事にこの場面を演じることができたんです。

私はそのとき、いかにもフランスらしいシニカルさで「できるようになるわけないでしょ?」なんて冷ややかに見ていたんですけど(笑)、濱口さんはその人が絶対にできるはずだと信じていた。そして、自分はあなたを信じているという思いを真剣に伝えることで、不可能が可能になった。私はその瞬間を目の当たりにしたんです。

—まさにユマニチュードの実践のようですね。

ヴィルジニー:ええ、あれはまさにユマニチュードだったと思います。

—多緒さんにも、「声」の力を感じる瞬間はありましたか?

多緒:私も、濱口さんほど俳優の声を聞いてくれる監督にはこれまで会ったことがありません。「お腹の中で鈴を鳴らすように意識して、発声してください」という言い方をされていましたが、それはつまり、自分の体を使って、 “ここ”から声を出すんだと、身体を意識して発声をするということなんだと思います。その声に感情が乗っていくのを監督は見せたいんだと思います。

演技をするうえで声はもちろん重要なものですが、だからこそ、経験が増えてきたり、うまく準備ができなかったりすると、俳優はついそれっぽい声でごまかしてしまうことがある。でも濱口監督はそういうごまかしを一切許さないし、それを聞き分ける耳を持っている人。つねに自分の声を意識せずにはいられない、とても良い緊張感のある現場でした。

—この映画では、二人の女性が名前のつけられないような特別な関係を築いていく様が丁寧に描かれています。演じたお二人から見ても、こうした女性たちの関係は、稀有なものだったと感じられますか?

ヴィルジニー:精神性という意味でも、絶対的な愛という意味でも、今までにない女性たちの関係が描かれているなと思います。マリー=ルーと真理の関係をつくるうえでは、実は監督が知らないうちに俳優たちがしていたこともいろいろあって、それも面白かったですね。たとえば、マリー=ルーが何か強い欲求を感じたりするとき、私はよく多緒さんの首筋を見つめるようにしていました。彼女の首は本当に美しかったので(笑)。だからタバコを吸いたいなと思ったら、下を向くんじゃなくて多緒さんの首筋をじっと見つめて、気持ちをつくっていく。そういう細かなことを、私たちは演じるなかでたくさん試していました。

とはいえ、私たちが考える小さな世界よりもずっと大きくて広い世界を、濱口監督はこの映画におさめています。日本映画はどうかわかりませんが、女性同士の関係をこれほど長い時間をかけて見せていくフランス映画は、私は初めてだと思います。

多緒:元々原作が哲学者の宮野真生子さんと人類学者である磯野真穂さんの往復書簡で、さらにそこに濱口監督のエッセンスが加わったのも大きいのでしょうが、こんなふうにアカデミックな女性たちの知的なやりとりが描かれた映画ってなかなかないですよね。私自身はアカデミックな人間ではないですが、真理たちのように、「一晩中、資本主義の問題について語ろうよ」と言える友だちは結構いて。あの特別な時間を映画の中で表現できたのはすごく嬉しいです。そして実際には、そういった関係性を築いている人たちはきっと多いはずなんですよね。女性たちの友情関係という以上に、彼女たちの非常に知的な部分や、理性的に繋がりながらも最終的には人間的な部分で繋がっていく描き方は、本当に唯一無二だなと改めて思いますし、今後こうした女性像を描く作品がもっと増えたら素敵ですよね。