映画監督・John Cameron Mitchell (ジョン・キャメロン・ミッチェル) インタビュー
John Cameron Mitchell
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2002) で全世界に熱狂的な渦を巻き起こした John Cameron Mitchell (ジョン・キャメロン・ミッチェル)。ジョンが今回私たちにみせてくれた新作『パーティで女の子に話しかけるには』は、ロンドン郊外のパンク少年がエイリアンの美少女と恋に落ちる、甘酸っぱいボーイ・ミーツ・ガールの物語。大阪でヘドウィグの公演を終えたばかりのジョンが、愛とパンクとエイリアンについて語ってくれた。
映画監督・John Cameron Mitchell (ジョン・キャメロン・ミッチェル) インタビュー
Portraits
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2002) で全世界に熱狂的な渦を巻き起こした John Cameron Mitchell (ジョン・キャメロン・ミッチェル) 監督。彼が描く主人公たちはいつも痛々しいほど愛と音楽に真っ直ぐで、その姿はどんな時代においても必ず現れる革命児のように、観る者に救済を与えてくれる。ジョンが今回私たちにみせてくれた新作『パーティで女の子に話しかけるには』は、ロンドン郊外のパンク少年がエイリアンの美少女と恋に落ちる、甘酸っぱいボーイ・ミーツ・ガールの物語。大阪でヘドウィグの公演を終えたばかりのジョンが、愛とパンクとエイリアンについて語ってくれた。
—この作品は、ボーイミーツガールから宇宙人侵略、パンク音楽やファッションというおもちゃ箱のようにカラフルな作品です。この原作を読んで、最初に映像化したいと一番思ったシーンはどこでしたか。
ザン (Elle Fanning (エル・ファニング)) とエン (Alex Sharp (アレックス・シャープ)) が「Eat Me Alive」を歌うシーン。この曲がまず浮かんで、それからふたりが新しいコロニーを作るためにひとつになる場面をどのように描こうかなと楽しみにしていました。
—作品の中でエンが「君のウイルスになりたい」「感染したい」と言うセリフがとても印象的でした。監督にとって恋をすることのパワーについて教えてください。
僕らを救ってくれるものだと思います。だって恋に落ちない世界を想像してみたら、人間って働き蟻みたいじゃない?女王が誰になるかという問題はあるけどね (笑)。そういえばこの映画に女王的な存在はたくさん出てきています。ボディシーア (Nicole Kidman (ニコール・キッドマン)) やPTステラ (Ruth Wilson (ルース・ウィルソン)) のキャラクターもそうだし、ザンも自分の作る新しいコロニーの女王になるからね。「愛」とは人を暴力から救うし、自分とは違う存在と親密なかたちで直面させてくれるもの。そういう意味では、恋人という存在も自分という国への「移民」だと思うんです。怖いけれど、同時に新しいアイデアや考え方をもたらしてくれて、そしてその遺伝子も新しいものを持ち込んでくれる。昔のロイヤル系の王族たちをみていると、同族で結婚している方が多いから色んな問題がそこから生まれてくるような気がします。エイリアンは、そういう過去に戻ろうとしている存在の象徴だと言えると思うんです。過去に立ち戻るなんて不可能なのにね。言い換えれば、ゆっくりと、美しいままに自死していこうという文化です。確かにそれは表面的には美しいかもしれないけれど、でもそれは病的だと思うし、すごく悲しいことだと思います。
僕のヒーローのひとりである The Smiths (ザ・スミス) の Morrissey (モリッシー) は、途中からものすごくゼノフォビア (外国人恐怖症) な人間になってしまって、みんなこの島で白人のまま死んでしまおうよ、と言うような人間に変わってしまいました。これはとても恥ずかしいことだと思います。おそらく Morrissey の場合は、自分のセクシャリティに関する自己嫌悪からきているんじゃないかと思いますけれど。自分にとって自然なものであるべきセクシャリティを抑圧することが、他のものを抑圧することに繋がってしまうのかもしれません。初期のクリスチャンの言葉で「自分が自身から出ない者は自分を滅ぼす」という言葉があります。自分から来るもの、これは赤ちゃんかもしれないしアートかもしれないけれど、それこそが自分を救うものであり、自分からもたらさないものはいつか自分を滅ぼす、という意味です。これは僕にとって、セクシャリティ、アーティスト、ジェンダーのメタファーとしてとてもいい言葉だと思います。もし自分が男性的な側面を抑えこんでしまったら、それによって滅ぼされるかもしれないのです。
—「パンク」というものがこの映画全体の背景にあります。では監督にとって「パンク」とは、どういうものなのでしょうか。
「パンク」ってどんどん変化していくものなんですよね。たとえば Vivienne Westwood (ヴィヴィアン・ウエストウッド) のパンクへのアプローチもどんどん変わってゆき、彼女は今はすごく環境問題について発信する人物になりました。でもこれも、パンクから直接きているものだと思うんです。パンクとは、抑圧する権威や体制に対して問いかけることや、自分を正直なかたちで表現すること。また全てに対して包括的で、誰もがメンバーになれるようなコミュニティを作ること。それと同時に、建設的なかたちで、何かに対して猜疑心を持ったり、ユーモアを使うこともパンクです。パンクは表面的には暴力的でアグレッシブに見えるかもしれないけど、僕にとっては建設的な暴力で、何かを正そうとするものなんです。ナルシスティックで、全てを壊してやろうという類のアグレッシブな行為とは違い、パンクはバカバカしいことやファシズム、レイシズム、人種差別なこと、それから理想的にはセックスに関する様々な差別などに対して問いかけていくことだと思います。だから僕のパンクはすごく前向きなパンクだし、DIYの意味合いがあります。誰だって歌っていいし、パンクのバンドを始めることが出来る。
僕は小さかった時に、本当に歌が下手だと言われたことがあって、それが恐怖で何年もずっと歌っていなかった時がありました。でも歌うこと自体は大好きで、自分のパンクのエネルギーを自分なりに見つけなきゃいけなかったんです。それが僕の場合、自分のカミングアウトと繋がりました。僕はカミングアウトすることで、文化に対する奴隷のような気持ちであることから解放され、自分の成り得る最高の自分で居続けることを目指したのです。またこの頃はエイズが生死に関わるほど深刻な社会問題になっている時代でした。だから当時のエイズのアクティビストが僕にとってはパンクのヒーローみたいな存在でした。彼らは、政府がエイズでたくさん死んでいる僕たちの仲間を無視して何も施策を施さないのは、犯罪的な行為だと主張してくれて、僕や何世代もに渡るゲイの男性たちを救ってくれたんです。この病気自体が、政府にとって自分たちが良しとしていない人たち (僕たちゲイピープル) にしか影響がないことを理由に、ずっと無視されていていたわけだからね。
—この作品には「パンク」カルチャーと同時に、進化や絶滅、侵略者や異端 (エイリアン) の存在を受け入れる寛容の大切さなどが描かれています。特に後半で Nicole Kidman たちが館を襲撃し、エイリアンたちと心を通わせるシーンがとても印象的でした。異分子を受け入れる、共存する、もしくは分離するという問題、これは現代社会にとって大きな問題です。イギリスのEU離脱、難民問題…。監督にとって、現代に必要なパンク精神はなんだと思いますか。
今の若い人たちは、デジタルカルチャーがもたらした情報過多で麻痺状態に陥っていると思います。全てがもう出尽くされた状態で、自分が何か新しいものを作ろうという気になれないのです。またそれによって ADD (注意欠陥障害) のように集中できない状況が続いてしまい、ものづくりを始めても最後まで見通すことが出来ません。アイデアが次々に別のものへと移ってしまうし、集中力や記憶力がありません。何かを未完のままにしてしまうっていうのは、すごく人をナーバスにさせるものですよね。またデジタルカルチャーというのは若者達に、自分自身を商品化してマーケティングすることを奨励します。だけど若さというのは本来、いろんなことを試したり、リスペクトあるかたちでセックスを経験してみたりと、世界を自分なりに体験してみる時期であるべきなんです。僕は今の若者って、すごく疲れ切った年寄りに見える時があります。「あんな変なもの見たことない」っていう顔をする若者達を見かける度、「それって70歳の人が言うセリフじゃない?」て思っちゃいます。キッズなんだから、なんでも受け入れてなんでも試してみればいいのに。
でもそれは、世界をファクトアップしてきた親の世代のせいで、とてもつまらないものになってしまっているんだとも思います。昔は若さというものは、よりいいところにしてやる!という「変化」のエネルギーに直結していたはずでした。「こんな馬鹿げたことはやめろ」と言える存在が若者だったんです。もちろんそう言える若者だって今も常にいると思うけど、僕の若い頃に比べると、そういった人たちが少なくなっていると思います。僕はそれは、スマホのせいだと思いますね。70年代、僕が子供の頃も今日と同じようにテロリズムもありましたし、経済的な問題も抱えていました。でも僕らにはそういった悪いニュースが、全て届いてはいなかった。ある意味知らないということは健康的なことであり、常に全てを知っている必要はないんです。なぜなら知ってしまうことで、麻痺状態に陥っちゃうからね。今はシニアの人のほうが物事を変化させています。例えばトランプ大統領に投票したり、マクロン大統領のパートナーであるブリジットに賛同したり。この反動的で政治的な波が、問いかけに繋がればいいなと思います。言い換えれば、音楽的な面だけじゃないDIYの精神を持った新しいパンクにね。
—ザンを演じる Elle Fanning が本当に魅力的でした。彼女の芝居をご覧になって特に素晴らしかった瞬間を教えてください。
今まで一緒に仕事した女優さんの中で、一番楽しかったのがエルでした。彼女はいつも、ファーストテイクが最高!すごくポジティブでプロフェッショナルで、なにものも怖がらない。脚本においても演技においても、聡明なんです。今回が映画の撮影が始めてだったアレックスにもいろいろ教えてあげていましたし、すごく若いんだけどいい意味ですごく歳を重ねたようなところがあって、頼れる存在でした。彼女の力を特に目撃したと感じたのは、エル演じるザンとアレックス演じるエンが橋の上でクライマックスを迎えるシーンでした。このシーンの撮影中、もう既にいいテイクは撮れていたのですがエルのほうから、「監督、ちょっと時間ください」と言われたんです。その瞬間、言葉にならない絆のようなものを僕らの間に感じました。彼女は僕を見てうなづき、僕が「アクション」と言いました。それから彼女はものすごい演技を見せてくれたんです。彼女はきっと、本物の女優になっていくと思います。そして僕はこの作品で、エルをはじめて真のスターに見せることができたんじゃないかと思いますね (笑)。
—70年代イギリスのリアリティとアメリカからきたエイリアンたちとの融合という表現が、とてもシュールな雰囲気を醸し出していました。ここではアメリカとイギリスのカルチャーの違いがとてもユニークでしたが、ここに監督のどんなメッセージが込められていたのでしょうか。
僕の母はスコットランドの人間で、70年代初頭は家族でスコットランドに住んでいました。また父が米軍にいたので、色んなところに引っ越した経験もあります。そういうインターナショナルな感覚は僕の DNA の一部で、僕の家族もアメリカよりはイギリス的なところがあると思うんです。イギリスの人の反応で特に面白がられるのは、エンや少年達がラテックスのスーツを着たエイリアン達を見て、「カリフォルニア出身なんじゃない?」と言うところ (笑)。あの時代はいろんなメディアがなくてアメリカのものは何でも受け入れるというような風潮があったから、イギリスの少年の目に映ったアメリカ人は、グラマラスなエイリアンのようなものだったのかもしれないね。イギリス人は自分たちのことを、青白くて汚れていてタバコの臭いをいつもさせているという自己イメージだったのに対し、アメリカ人には健康的で清潔なイメージを持っていたと思うんです。そのあたりを揶揄して表現するのは楽しかったですね。
—監督の作品は、いつも「失われた片割れの存在」というテーマが強く中心を占めているように感じます。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』には、「失われた片割れ」を探すという愛の起源が作品の原点にありましたし、また『ラビット・ホール』(2010) でも自分の失くした息子をずっと心に求めています。今回の作品でも自分たちの片割れと運命的に出会い失うというストーリーでしたが、このテーマは監督のコアとなるところなのでしょうか。
僕たちが人間として、自分が「完全体」であると思うことが出来るとすれば、様々なストーリーはそもそも生まれてこないだろうし、宗教の必要性もなくなるかもしれない。人間の複雑な部分が薄れてしまい、ただ自分たちの食事を摂取して、生きる動物のような存在になってしまうと思います。もしかしたらああいう生き方のほうが、必要とするものが人間よりも少なく感じるから、幸せなのかもしれないけれどね。
どのストーリーでも、僕らは必要としているもの全てを手にしていないからこそ生まれてくるんじゃないかと思うんです。確かに人によっては、そういう物語をそこまで必要としていない人だっているかもしれない。刺激的な音楽と、ちょっとジェットコースター的な体験が映画の物語で出来ればいい、という人もいるでしょう。でも僕が心配しているのは、センセーションに対する危惧。センセーションによってお砂糖みたいにただ血糖値をあげている状態を、本来ストーリーテリングが与えてくれる滋養みたいに思い込んでしまい始めているんじゃないか、と危惧しているんです。確かにハイにはなるし美味しいかもしれないけれど、それは滋養じゃないから、それで生活することはできない。むしろ糖分の取りすぎは病気になってしまいます。本当に良質な物語というのは、私たちのなかで生き続け、そして我々を健康にしてくれるものだと思うんです。それは僕にとっては食べ物と同じくらい、あるいはそれよりも重要な存在だと思います。
<プロフィール>
John Cameron Mitchell (ジョン・キャメロン・ミッチェル)
1963年、アメリカ、テキサス州生まれ。原作戯曲・主演を務めた舞台「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」が、1997年にオフ・ブロードウェイで初上演されるや大ブームを巻き起こしてロングランを記録、オビー賞、ドラマ・リーグ賞など数々の賞を受賞する。2001年、同舞台を脚本・監督・主演を務めて自ら映画化すると、さらに熱狂の輪は全世界へと広まっていく。批評家からの評価も高く、ゴールデン・グローブ賞、インディペンデント・スピリット賞にノミネートされ、サンダンス映画祭観客賞と監督賞をW受賞という快挙を成し遂げる。2014年には、舞台はリバイバル作品としてブロードウェイに進出、トニー賞4部門に輝く。続く2015年には、ミッチェルが再び主演を飾り、トニー賞名誉賞を受賞する。そして2017年10月、オリジナル版の日本初上演を果たす。その他の監督作品は、『ショートバス』(06)、インディペンデント・スピリット賞にノミネートされた、ニコール・キッドマン主演の『ラビット・ホール』(2010)、TVシリーズ「ナース・ジャッキー5」(2013) など。
作品情報 | |
タイトル | パーティで女の子に話しかけるには |
原題 | How to Talk to Girls at Parties |
監督/脚本 | John Cameron Mitchell (ジョン・キャメロン・ミッチェル) |
出演 | Alex Sharp (アレックス・シャープ)、Elle Fanning (エル・ファニング)、Nicole Kidman (ニコール・キッドマン)、Ruth Wilson (ルース・ウィルソン) |
配給 | GAGA |
制作国 | イギリス、アメリカ |
制作年 | 2017年 |
上映時間 | 103分 |
HP | gaga.ne.jp/girlsatparties |
©︎ COLONY FILMS LIMITED 2016 | |
12月1日(金) 新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷他全国順次ロードショー |