【きょうのイメージ文化論】 #3 そう遠くない国での戦争を想像するために
きょうのイメージ文化論
【きょうのイメージ文化論】 #3 そう遠くない国での戦争を想像するために
today's study:
the Ukraine war
text: yuzu murakami
illustration: aggiiiiiii
edit: manaha hosoda
写真研究や美術批評の分野で活動する村上由鶴が、ファッション界を取り巻くイメージの変化や、新しいカルチャーの行方について論じる本連載。第3回は、今なお収束の気配がないウクライナ危機に端を発して、映画や書籍といったカルチャーを通して戦争について今一度見つめ直します。トップは、第二次世界大戦下におけるドイツの人々をユーモラスに描いた『ジョジョ・ラビット』で、たくましい母親役を演じた Scarlett Johansson (スカーレット・ヨハンソン)。
ロシアがウクライナに侵攻してから、SNSでもマスメディアでも、この戦争に関する発言やニュースや、現地の映像に目にする日々が続いています。
David Beckham (デイヴィッド・ベッカム) が、自身の Instagram のアカウントをウクライナの医師に貸与し、世界に戦地の実情を発信できるようにしたということが話題ですが、SNS時代の戦争とその支援の可能性を感じました。
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間接的にしか戦争の情報を得られない人々にとってはベッカムの取り組みは本当に画期的ですが、一方で、スマホの中で見る写真は画面をなぞるだけで流れていくし、映像を見る場合は意識がシークバー(動画の下に表示され再生時間のうちの現在地を示す機能)の内部で完結してしまいます。日本に暮らすわたしは、当事者が置かれているシークバーがない、終わりが見えない状況であることを、断片的でない、途切れることなく続いていくように思われる戦争を、「本当に」想像することが難しいことを心苦しく思います。
くわえて、悲惨な映像も含めてあらゆる映像に慣れ過ぎていることも同時に感じます。恐怖の映像の氾濫が人の道徳心を麻痺させることについては、スーザン・ソンタグが『他者の痛みへのまなざし』において書いていますが、一方で、戦争に関する創作物が、とぼしい想像力にきっかけを与えてくれるという面がある、そのパワーを信じたいと思うので、きょうは戦争を扱った映画と本について書きます。
岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』
映画『日本のいちばん長い日』は、1967年版と2015年版がありますが、映画としては岡本喜八監督の1967年版がおすすめ(でも2015年版の松坂桃李の演技はすばらしい)です。
「いちばん長い日」というタイトルの通り、本作は戦争と時間についての映画と言ってもいいと思います。半藤一利のノンフィクション小説を原作にしたこの映画では、第二次世界大戦において日本政府が無条件降伏を決め、それを公表した1945年8月15日の正午の玉音放送までの24時間が描かれています。
序盤は戦争を終らせるという大義の割に淡々とした会議とお役所の細かな仕事の描写が笑えるのですが、後半の、戦時下で出してしまった犠牲とその落とし前をめぐる展開は緊迫。戦後を生きるわたしたちからすれば盲信と悪あがきにしか見えない青年将校たちのクーデターも、少年兵が特攻隊として出陣していく児玉基地の様子にも、戦争の取り返しのつかなさを感じさせます。ウクライナのゼレンスキー大統領がスピーチの中で「真珠湾攻撃」に触れた件も話題になりましたが、この映画で描かれる顛末にも真珠湾攻撃がきっかけとなったことを思うとこの例をあげた意味や日本人としての受け止め方を考えさせられます。
クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』
同じく戦争と時間についての映画といえば、『ダンケルク』。こちらも第二次世界大戦を描いた映画で、『日本のいちばん長い日』で描かれた出来事の5年前くらいの時期を描いています。
『日本のいちばん長い日』よりも純度を高めて戦争の「時間」を観客と共有することに注力した本作は、正直言って上映時間のほとんどがしんどい。ストーリーというよりアトラクションに近く、「2時間弱耐久映像体験」って感じ。
しかし、この映画が素晴らしいのはまさにその戦争の嫌さ、その時間についての経験を抽出した作品であるということです。多くの映画が、見た後に「あっという間だった〜!」と思うことが善とされている気がしますが、全くあっという間じゃなく、鑑賞中にこんなに時間のことを意識することってないと思うような映画体験です。一応、最後には盛り上がりがあって終わるこの映画ですが、それが勇ましい勝利ではなく情けなくも(でも勇ましい)「撤退」であることもポイントです。
さて、これら2つの作品に共通するのは、女性がほぼ全く登場しないということです。セクシャルマイノリティもほとんど登場しませんが、わたしはこれに対して登場人物のジェンダーバランスを是正すべきだと言いたいのではなく、おそらくこれも戦場のリアリティなのだろうと感じるのです。
「女と子どもを守るぞ!」と兵士となった多くの男性たちは勢い勇み、大義名分を手にして戦いに臨むでしょう。それゆえ、守られる存在となった女性は、フェミニズムが批判してきたステレオタイプやジェンダー規範を強く反映した役割を担うこととなります。というか戦時下では、あらゆるひと・ものが動員されるわけですから、国が定めたあらゆる規範に従うことになりそうです。
あるいは、女性たちからも女性を「守られる存在」として軽視するな!わたしたちも戦えるのだ!と声が上がり、男性と平等に戦地に送ってほしいという機運が高まるかもしれません。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著『戦争は女の顔をしていない』
『戦争は女の顔をしていない』は、映画ではなくインタビューを集めた書籍。先にあげた2作と同じく第二次世界大戦において、ソ連の兵士として従軍した元女性兵士(狙撃手、パイロット、看護師、軍医など)の取材をまとめたものです。
著者のインタビューに応えた女性兵士たちは、口を揃えて「軍の司令部に(手紙や面会などで)直談判して自分を戦線に送ってくれと懇願した」と証言します。
加えて、本書のインタビューのなかでも戦後にはしばらく「兵士であったことを名乗れなかった」女性たちの経験からは、タイトル通り「戦争は女の顔をしていない」、つまり、「女が英雄になることを許さない」という社会的な規範が働いたということがわかります。勇ましく戦い、成果を残してさえも女性であるということからその成果を認めてもらうことができなかったのは、当時のソ連に限ったことではなく、世界中のどこでも、そして残念ながら今も起こりうるのではないでしょうか。
実際にいま、ウクライナでは兵士だけではなく女性も武器を持って戦っています。彼女たちの無事を祈りながらも「名誉の死」や「英雄的な殺戮」が称賛される戦時下において、女性や子どもが「権利や平等」を主張することはつまり兵士になることなのであり、その点でも改めて戦争に反対します。
ただし同時に、「今後の人生を支配のもとで暮らしたくない!」という意思のもと兵士となる一般市民は戦わずにはいられない立場であり、頭が下がります。
今、ロシアと戦っているウクライナの市民や『戦争は女の顔をしていない』のインタビューに応じた女性にとっても、従軍することが自然な正義感だったでしょうし国の空気が戦争に支配された時、その正義感に巻き込まれないということはどれほど難しいことでしょう。
しかし、昨今の「Stand with Ukraine」的な NATO 側の国々のムードや、義勇兵として戦争に参加することへの称賛にもわたしは戸惑っています。
たとえば、映画『ジョジョ・ラビット』の Scarlett Johansson (スカーレット・ヨハンソン) のように、戦争を憎む気持ちを持ち続け、子どもたちを、自転車を漕いで風を感じる気持ちよさを、そして自分の信念を守っていくということ。その立場に共感していたいと思ってしまいます。もちろんこれは、日本から戦争について語ることの特権かもしれませんね。
どうかひとりでも多くの人に無事でいて欲しいと祈ります。
と言いながら想像するとか祈るとかってどういうことなのか、いままさにこの時間に戦争が起こっている(ずっとあったけど)いま、改めて考え、「考える」ことの限界も感じて戸惑っています。募金はしましたが、お金を払うことで忘れていいのでしょうか(YouTube の広告がうっとうしいからお金を払ってプレミアム会員になる、みたいなことではないのか)と、結局のところ心を落ち着けることができません。ではまた。