画家としての才能も発揮する直木賞作家、西加奈子インタビュー
Kanako Nishi
Photographer: UTSUMI
Writer: Mami Hidaka
THE FASHION POST は、個展開催を控えた西加奈子本人に「画家」としてインタビュー。西のアートワークを支えるギャラリスト・小和田愛を交え鼎談。西加奈子作品の過去といまを見つめ、今後を展望する。
画家としての才能も発揮する直木賞作家、西加奈子インタビュー
Portraits
東京・外神田の AI KOWADA GALLERY にて、「おまじない」「“I” beyond」展が開催される。二期制で構成される本展は、小説と絵画を並行して制作を進めてきた西加奈子の表現を、具象画/抽象画という二つの視点から紹介するもの。西加奈子にとって、同ギャラリーでの個展は、昨年開催された「i (アイ)」に続いて2度目となる。高さ6mにわたる展示空間を鮮烈な色彩で埋め尽くし、鑑賞者を圧倒した前回の個展に引き続き、今回はどのようなアプローチを見せてくれるのだろうか。
THE FASHION POST は、個展開催を控えた西本人に「画家」としてインタビュー。西のアートワークを支えるギャラリスト・小和田愛を交え鼎談。西加奈子作品の過去といまを見つめ、今後を展望する。
—西さんは以前から、自身の絵画を小説の表紙などにしていらっしゃいますよね。小説と絵画を並行して制作することを、非常に大事にされている印象があります。そのスタイルが出来上がったのはいつ頃なんでしょう?
西:とにかく「小説」は自分が一番びっくりした表現媒体だったんですよね。言葉は物心ついたときから使ってるけど、言葉を技術として見たことなんて無かった。なのに「小説家」っていうスペシャルな職業があって、好きな小説家さんもたくさんいたけど、まったく別世界の人たちだと思ってたんですよ。でもある日「あれ、私この小説読んでて、知らん言葉一個も出てこないな」って気づいて。それなのに読んだことのない一文ができている。
—面白い。言われてみれば確かにそうですね!私は今ハッとしました (笑)
西:たとえば漫画とかは読んでても知らない技術がいっぱいあるんですよね。スクリーントーン貼るってなんだろう?とか。ダンスも音楽も、芸人さんでもそういった特殊技術がある。だけど小説っていうのは、自分の生きてきた時間と、蓄積された言語能力だけで出来るって気付いた瞬間震えたというか。今なおずっと驚かされ続けてる表現媒体ですね。
—きっとそれもあって、西さんの表現は常にフレッシュなんですね。ライフステージが変わったりとか、ご自身や環境の変化に沿いながら表現手段を決めているんでしょうか。
西:私は特に美大とか通ってないんですけど、小さい頃絵を描いたときによく褒められたこととか、そういう経験は大きくて、絵にはとにかくずっと親しんできましたね。
—なるほど。やっぱり幼少期の経験って、頭にも身体にもずっと残るものが多いですもんね。
西:小説の表紙は、12年前に出した3冊目の『きいろいゾウ』から描かせていただいてるんです。自分から表紙を描きたいって思ったというより、最初は誘ってもらった感じが強かったですね。本格的に「表紙を自分でやりたい!」という自発的な気持ちが芽生えたのは『漁港の肉子ちゃん』っていう作品で、それはグスタフ・クリムトの「ダナエ」を描いたんですね。そのときにご一緒したのが鈴木成一さんというブックデザイナーの方で。初めての鈴木さんとのお仕事は、それはもう、「ビビビビビ!」って来たんですよ本当に (笑)。
—なるほど。抜群の相性を感じたわけですね。
西:自分の書く小説と絵、それぞれが一気につながってそれ以上のものになった感覚があったんです。
—では、もうそれからはずっと装丁のデザインは鈴木さんにお願いされているんですか?
西:そうです。もうそれからはずっと装丁は「鈴木さんでお願いしたいです」とわがままを聞いていただいていて (笑)。で、できれば自分が絵を描きたいと。だけどもちろん、鈴木さんが「これは西さんの絵じゃないほうがいい」という判断をなさったら、諦めるというふうにお伝えしているんですが。
—すごい信頼ですね。
西:でもありがたいことに『漁港の肉子ちゃん』以降は、ほとんど装画を自分で描かせていただいていますね。鈴木さんはすごくご自身の気配を消してくださるデザイナーさんなんです。
—たしかに『サラバ!』や『i』の装丁など、本当に見事でした。まったく絵の邪魔になっていない。
西:そう。私の絵に合わせてデザインしてくださるんです。優しさとプロフェッショナリズムが共存している方です。
—いい意味で、毎回装丁のトーンが違いますよね。同じデザイナーさんとは思えないものもあります。毎回、西さんが絵を描きあげてから鈴木さんにデザインをお願いしていらっしゃるんですか?
西:それは本によって違いますね。たとえば『サラバ!』なら、執筆中からこういう表紙にしたいという装画イメージみたいなものがあって。小説は、テーマっていうとあれですけど、「信仰」について書いたんです。自分の信じるものを、既存の信仰などではなく、自分自身で決めていく、という話だったので。イメージとしては、信仰の対象としてキリストであったり仏陀であったりモスクであったり、いろんなものを切って、バラバラに解体して、自分の絵にしたくて。
—それをモザイク画として再構成しようと。
西:そう、『サラバ!』はもう鈴木さんに相談する前から、表紙にしたい絵を描いちゃってたんですよ (笑)。板に描いたパズルみたいな作品を、合計20枚くらい。打ち合わせのときにそれを全部持っていって、作品のコンセプトを話したら、すぐに汲んでくださって。
—20枚!物語にぴったりなすごくパワフルな装丁でした。書店でも今でもすぐに見つけられます。だけど、それとはまた逆のパターンもあるんですね。
西:はい。一方で『まく子』のときとかは、もう、表紙をどうしたいかとか、何にも思い浮かばなくって。完全に真っさらな状態だったんです。そしたら鈴木さんが、登場人物の少女 (コズエ) を描いたらどう?って。わかりました!って返事してるうちから、なんか「少女でなく子ザル描きたいな…」って思いついちゃって (笑)。目の大きい真っ白な子ザルが、メッチャこっちを見つめてるっていう構図が脳裏に浮かんで、どうしても離れなかったんです。で、それを描いて鈴木さんに渡したら、「これは、コズエだよ」ってすぐに理解してくださって (笑)。だから表紙は作品によって色々な進め方がありますね。
—一言で世界を変えてしまう「おまじない」を題材に8つの短編を書き上げていらっしゃることにも繋がるんですが、西さんはすごく「言葉の力」を強く信じていらっしゃるといいますか、言葉への信念みたいなものを、小説の随所随所に感じます。いっぽうで、「言葉」の枠に限定せずに「絵画」という手段も取り続けていますよね。そのスタイルへのこだわりや理由はありますか?
西:そうですね。まず「言葉」のほうは呪いというか、呪術的な力が強いと思うんです。たとえば、温度がわからないものを「熱い」と伝えたら、日本語を知らないひとじゃない限りは、それは「熱い」ものだと信じ込んでしまうと思うんですよね。「ぬるい」かもしれないし、「冷たい」かもしれない。その体感温度は人によって違うかもしれないのに、言葉は限定力が強くて、「熱い」という以外の感想をもてなくなるというか。「熱い」以外の選択肢を無くしてしまう恐ろしさがある。で、私はその言語化されていないものに言葉や名前を与えるっていうことを日々小説でやっていて。それはそれで、幸せな作業なんですけど。
—やっぱり言葉はどうしてもストレートすぎて、決めつけすぎてしまう恐れがありますよね。
西:そう。ひとが自由に感想を持てなくなってしまうのが怖くて。理解の「フラグ」がすごく自分側にあるというか。
—表現者側が、想像できる範囲を指定してしまう感覚でしょうか。フェアじゃないというか。
西:そうです。でも一方で絵のほうは、「熱い」のか「冷たい」のか「心地いい」のか「怖い」のか、解釈が、ほとんど受け手側に委ねられているというか、どちらかというとその「フラグ」が小説よりも受け手側に近いところに立っている感覚があります。
—たしかにそうですね。
西:あと絵はやっぱり、野生が湧き出るというか (笑)。小説よりも自分の気持ちを直感的に表現しやすい媒体ですね。たとえば、去年開いた「i」という個展は、実際にギャラリーの現場でもインスタレーションを作っていったのですが、作るうちに、ものすごい祝福の気持ちが湧き出てきたんですよ。
—いったい何に対して湧き上がった祝福の感情だったんでしょうか。
西:なんかもう、命すべてでした。すべての命を祝福したいという気持ちが、とても強く込み上げてきて。家で制作しているときはそうでもなかったんですが、黄色が必要だなって直感的に感じて、現場で展示するうちに黄色い絵を描き足しました。絵だと、そういうことが起こります。だけどたとえば、その気持ちを言葉で「この世の命をすべて祝福したい」とか、小説に書いちゃったら、そんなちんけな一文はありえないんですよね (笑)。
—たしかに言葉だとなかなか表現しづらい類の感情ですよね (笑)。少しだけ嘘くさくなってしまいそうというか。
西:そうですね。でも絵の場合は、そういうことを気にせずに、その時々の気持ちを、そのまま画面にぶつけられます。あとライブ感とか。その時にパッと湧いたたとえば祝福といった感情を素直に表現しやすいし、受け手のひとにもストレートに伝わりやすいかもしれない。
小和田:前回の個展「i」は、ギャラリー空間全体を使ったインスタレーションだったんですけど、展示空間に入るなり、みなさん上気されていました。小説とはまたちがう、西さんがヴィジュアルでつくったほうの「i」の世界を追体験する感じで、「この空間にずっといたい」とか、「この空間で西さんの本を読み直したい」と言ってくださる方もいらして。
—それはこの上なく嬉しい感想ですね。たしかに西さんのアートワークと小説を、同時に体験するのはすごく面白そうです。
西:リピーターの方も多くて本当に嬉しかった。
—今回の展覧会は二期制で、「おまじない」に寄せた前期が具象画、「i」に寄せた後期は抽象画ですね。はっきりと分けた意図はありますか?
西:幼少期の頃から手元に紙とクレヨンがあって。言語ももちろん好きだったけど、ヴィジュアルを表現することにずっと親しみがあったんです。小和田さんに相談しながら、とにかく色々試してみていて。
小和田:今まで私たちが触れられる西さんの絵画って、小説の「紙に印刷された装丁」という接点しかなくて、それももちろん素敵なのですが、絵画として触れるには、体裁も素材も限定的でした。そこで、西さんの絵画をピュアに鑑賞できる機会をつくりたいなと思い、それが展覧会を企画したそもそものきっかけですが、西さんは具象も抽象もお描きになるし、画家としてはいい意味でまだ未知数な部分も多いので、どう展示したら西さんの表現や、秘めている未知の可能性が、より観客にダイレクトに伝わるか?を考えて、いろんな展示方法を模索しているところです。
—「具象画」と「抽象画」、「インスタレーション」と「タブロー」など、対比を用いながらも分離することなく、グラデーションのように展開されているのがいいなと思います。どちらも一貫して、段ボールにクレヨンというごく身近な素材を扱っていますね。段ボールは凹凸があったり、クレヨンは一度描いたら消せなかったりと、どちらも比較的コントロールしづらいように思います。こだわりの理由を教えてください。
西:何でもかんでも劣化するのが好きなんですよね。劣化は正しいと思うんです。
—人間の老いとか、物質の経年変化とかでしょうか。
西:そうです。なんかやっぱり、別に原発がどうとかじゃないけど、自分が生きているうちに処理できひんものをつくるのって変だと思うんですよね。不自然っていうか。
小和田:西さんの作品はボール紙にクレヨンという素材なので、よく見るとボール紙の屑やクレヨンのダマ額の中に落ちていたりもします。作品が時間とともに経年変化していくことを前提にした額装を施しています。
—ボール紙は凹凸があって色も乗りにくいし、油にも湿気にも弱い素材ではありますけど、時には保護材として、大事なものを守るのに活躍しますしね。
西:そう!暮らしにめっちゃ役に立ってるやんね。段ボールは。
小和田:あとはやっぱり、西さんの生活に密着している素材を使うのも西絵画の重要なコンセプトかなと。たとえばダンボールも西さん自身が、行きつけのスーパーから調達していて。
西:クレヨンも、幼稚園のころから使っているサクラクレパス (笑)。ちなみに「i」は全部卵のダンボールの裏側に描いたもので。なぜか卵のダンボールがクレヨンがのりやすいという理由もあったけど、「タマゴ」だけに生命のイメージが強かったから、卵のダンボールで。いつもスーパーのおばちゃんに「卵のダンボールください」ってお願いしてたから、「タマゴ」ってあだ名つけられてたんちゃうかな (笑)。
—(笑)。そのコミュニケーションも素敵ですよね。古紙というのも人の体温がを知っている素材というか。あたたかみがある。西さんは幼少期をイランやエジプトで過ごされたそうですが、その頃からボール紙にクレヨンがお気に入りだったんでしょうか?
西:幼稚園とか小学校で配られた画材で描いてましたよ。クレヨンもそうだし、あとはクーピーに、画用紙。今の絵のほうがずっと子供っぽいですよ (笑)。小さい頃からすでに「きっちり事細かに伝えたい」という欲求が芽生えていたせいか、その頃はまだ小説を書いてなかったからかなあ、細かく描写するような絵をよく描いていて。すごく覚えているのは、友達の子がハーモニカを吹いてる絵を描いたらすごく褒めてもらえたことで。小学校でも、カイロの動物園でキリンを詳細に描いたら、「もっとのびのび描きなさい」と直されたんですよ (笑)。
—なるほど。きっと絵で全部語りきりたかったんですね。
西:そうですね。子供の頃から、ちゃんと描きたかったのに、子供は子供っぽくいなきゃいけない呪いというか、縛りみたいなのを感じて、不満でしたね。「なんでわざと下手に描かなあかんねん!好きに描かせてくれ!」って (笑)。満たされなかった当時の子供性みたいなものが、今、絵画で発揮されてるという気がします。だから大人になった今のほうが絵を描くのが楽しいです。
—「こうでありたい」「こうでなきゃいけない」という呪いのような枠組みを外していく作業なんでしょうか。西さんの絵画は、振り切ったような勢いの良さも持ち味のひとつですもんね。
西:「自分が見ている世界のすべてを伝えたい!」というのはずっとあって、まだ未熟ですけど、それを「なるべく丁寧に、なるべく事細かに伝えたい」という欲求のほうは今は小説が満たしてくれているので。だから絵の方では、手をもう、ぐっちゃぐちゃにしても絵を描きたいんですよね。今はそれがすっごい気持ち良くて。
—やっぱりそれは「小説」が無いと描けない「絵画」かもしれませんね。きちんと住み分けができているというか、バランスが取りやすいというか。
西:そうですね。「小説」と「絵画」は良い振り子になってます。小説もすごい書きたくなるけど、同じように絵もすごい描きたくなるのは、なんというか、表現者としてはとてもラッキーです。
—言い方が難しいですけど、「ここじゃないと生きていけない」と決めつけずに、自分の居場所をいくつか持っていると、きっと良い状態で制作が続けられますよね。のびのびと。
西:うん、まあそれもちょっとセコイかんなと思うんですけどね。たとえば「この世界しかない」小説家さんっているじゃないですか。そういう方の作品って、その作品の力だけで、言葉の力だけでこちらをノックアウトする。迫力もすごいし、かっこよくて、まぶしいなあって思います。でも私にはできないから。
小和田:画家さんでもいらっしゃいますよね。そういう気迫が迫ってくるような作品描くかた。
—書く (描く) か死ぬか、みたいな。
西:すごく大きい話をすると、私は誰も見るひとには死んでほしいとは思わないから、生きる方向に進んでほしいですね。
—あらゆる物事に肯定的でいて、自由に生きようと。
西:そうです。今回の個展は額装をしたり、トラディショナルな展示の仕方をさせていただくけど、絵ってトラディショナルでも自由でいれるということが提示できたかなと思います。着物みたいに、トラディショナルだけで自由に着れるものってあるじゃないですか。そういう感じです。
—前期「おまじない」では、それぞれの物語に寄せた具象画を発表するそうですね。「火葬場から出る煙」「見上げる犬」など、誰の記憶の中にあるようなエモーショナルなシーンを切り取っている気がします。シーンは直感的に選ぶのですか?他にもいくつか思いついたりはしましたか?
西:『まく子』でサルを描いた話もそうだけど、絵ではすぐにわかる直接的なのがあまり好きじゃないのかもしれない。なんぼでも想像できるような絵にしたい。
—主人公の女の子や、キーパーソンとなるおじさんも、誰一人として画面には登場してないですしね。既視感というか、国籍や性別関係なく誰の記憶の中にもあるような風景が切り取られている。やはり意識的だったんですね。
西:そう思っていただけて良かったです。ちょっとさみしい絵にしたいっていうのがありました。実際にドブロブニクのバーに行ったとき、ネオンがすごいさみしかったりして。
—シーンの切り取り方も映像的ですし、ダンボールの凹凸が一方向に直線で流れていて映画らしさが強まって見えたりもして。小説で語り切って、それ以外の部分を絵画で補填するというか。色々なシーンを思い起こしました。西さんがおっしゃっているように、フラグの位置を絵画によって動かしていますね。
西:それは本当できたらいいなと思いますね。元々、表現自体がある意味エゴイスティックな行為だと思うんです。だからなるべく、絵画においても、フラグを手に取りやすい場所に持っていくというか、受け手側にできるかぎり理解の自由度を残したい。「これがみんなの正解です」みたいなノリで出すのが一番怖いから。
—後期「“I” beyond」は、昨年発表されたインスタレーションを、抽象絵画に再構成したそうですね。昨年のインスタレーションの展覧会を経て、新たに感じた部分があったんでしょうか?
西:小和田さんに全部お任せしたんですけど、私はとにかく「i」のインスタレーションのときも、もう全ピースが愛おしかったんですよね。それぞれが人間っぽいっていうか。たとえば私は滝が好きで、自身の小説にも「滝」や「シャワー」をよく登場させるんですけど、しずく1滴だけを見てるとめっちゃゆっくり見えるんですよね。だけど目を広角にした瞬間、一気にブワッと速くなる。あれがすごい怖くて、仏教っぽいというか、そこに人間らしさを感じるんです。
—不思議な現象ですよね。ミクロとマクロというか。
西:そう。大きく見たら一つのうねりでしかないんだけど、それって自分の感覚だけでミクロとマクロをスイッチすることができるんだって思って。それって自分自身にも置き換えられることで。「私はかけがえのない人間だけど、同時に取るに足らない人間でもある」っていうのが全然矛盾しなくなったんですよね。
—しずくでミクロとマクロを感じる表現は、映画のフィルムワークにおいてはしばし用いられますが、それを小説で置き換えているのは西さん以外で思い当たらないかもしれないです。なかなか難しそうです。
西:そうかなぁ (笑)。でもしずくの一粒一粒は追えるのに、滝全体というマクロになるとそのしずくが追えなくなる現象はやっぱり興味深いですよね。
小和田:あとは、前回の個展「i」は「動」のイメージの展示だったので、今回はギャラリーのホワイトキューブ空間を活かした「静」の展覧会にしたいとずっと思っていて。
—アートの文脈を意識して構成されたんですね。だから額装もしてみたり。
小和田:はい。今回は西さんの絵を、ファインアートのお作法の中で楽しんでいただけたらと思います。
—西さんの絵は、クレヨンのストロークやボール紙を破いた表情も相まって、すごく動きがある画面ですよね。それをあえて額装して、ホワイトキューブに展示するのは、たしかに面白い化学反応が起きそうです。
西:ありがとうございます。前回はもう、絶対に白いところを残したくない、空間全部を埋め尽くしてやるぞ!という思いが強くて (笑)。必死に描きましたね。なので今回はまた違った距離感で見てもらえるかなと。
—インスタレーションが個別のタブローに変換されたり、それらがホワイトキューブで展示されるとなると、「眺める」感覚が強まって、少しだけ小説を読む感覚に近付いて面白いですね。
西:そうかもしれない。1ピースを切り取って眺めるのって、「うねりから外れても生きていける」という、私が小説でやってる作業にとても近いんですよね。作家って、社会を描くんじゃなくて、社会の中の個人を抜き出して描く職業だと思ってるんですよ。小説の方で、「うねり」のような社会から個人を引き剥がして、「あなたはたったひとりのあなただよ」って示すのをやっているから、今回の個展で、去年の「i」からピースを抜き出して個別の作品とする、というのはそういう小説の手法に限りなく近いのかも。
—大きな「うねり」こそ前回のインスタレーションそのものですもんね。やはり前回のインスタレーションからの流れ自体に、すごく説得力があります。
西:去年の「i」のインスタレーションをすることになったのは、ギャラリースペース全体で小説「i」ラストシーンの、アイが海に潜るシーンを表現したい!と、展示が決まった時点でもう直感していたからなんです。制作中も楽しかったな。ギャラリーでの設営中も、バッハとかのバロック音楽をBGMにして。超楽しかったよね。アーツ千代田の場所も好き。
—すごい祝福の気持ちにぴったりですね (笑)。楽しそうです。アーツ千代田の元小学校という特殊性も、西さんの作品にすごく合ってる気がします。あたたかみというか。
小和田:そうですね。去年の「i」の設営はとても力を入れてやりました。ギャラリーは天井高が6mくらいあるので。西さんとインスタレーション作業をしながら、「この壁にはこんな絵がほしいね」と相談して、そこで必要となった絵を西さんがどんどん家に帰っては描き足して、翌日持ってきてくれて、またインスタレーションを増幅させていくような作業でした。
西:どんどん描いて、ちぎっては描いて。楽しかったです。たまたまギャラリー前を通りがかりった地元の人たちが見てくれたり。展示準備なのに公開制作みたいになったかも。
—ボール紙ならではの楽しい表現ですね。インスタレーションは天井が高い空間のほうが、スケールも格段と出ますし。
小和田:たとえばフラ・アンジェリコの「受胎告知」なども一つの画面に聖母マリアの生涯が描かれているように、ギャラリー空間の入口から出口までの導線をぐるりと、小説「i (アイ)」のストーリーを時系列に収めるような構成にしようって。西さんと相談して。
—そうですね。先ほど、設営時間目一杯に制作を続けていたというお話があったので、一空間に時系列的に作品を収めた宗教画的要素もありながら、時間が流れ続けているような印象です。一貫して描かれているのが力強く激しいうねりなことも相まって、「静」ではなく「動」というか。
西:うねりはキーワードですね。多分、生まれ直したいんですよ私。『おまじない』も自分自身が言葉によって生まれ直したくて書いたので。二つの展覧会を通して見てくださった方には、やっぱり生きる方向に向かっていってほしいですね。
<プロフィール>
西加奈子 (にし・かなこ)
1977年イラン・テヘラン生まれの小説家であり画家。小学生時代をエジプト・カイロで過ごすと、その後は大阪に移住。2004年に『あおい』(小学館) で文壇デビューを果たすと、2007年での『通天閣』(筑摩書房)で織田作之助賞大賞を受賞、2015年には『サラバ!』(小学館) で直木賞を受賞するなど、高い評価を受けている。また西は、小説の装丁に自身の絵を用いることが多く、ボール紙にクレヨンで力強く描いた画風が話題に。昨年には AI KOWADA GALLERY にて、個展「i (アイ)」を開催。鮮烈な色彩で空間を埋め尽くしたインスタレーションが注目され、アート界にもフォロワーを増やしている。