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「カメラは自由でいられる自分だけの小部屋」潮田登久子が写真を続ける理由

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photography: yudai kusano
interview & text: tomoko ogawa

Portraits/

現在開催中の KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭2024で、Kering (ケリング) が芸術や文化の分野で活躍する女性の才能に光を当てることを目的とする「WOMEN IN MOTION (ウーマン・イン・モーション)」の支援の一環として、川内倫子と潮田登久子による二人展「From Our Windows」が開催中だ。本展覧会で潮田は、さまざまな家庭の冷蔵庫を撮影した『冷蔵庫/ICE BOX』シリーズと、夫の島尾伸三と娘のまほと洋館で過ごした日々を記録した『マイハズバンド』シリーズを展示する。これまでの活動と、今回の川内とのコラボレーションについて語ってくれた。

「カメラは自由でいられる自分だけの小部屋」潮田登久子が写真を続ける理由

—潮田さんは現在、作品として静物にフォーカスして撮影されていますが、もともと写真に興味を持ったきっかけは、桑沢デザイン研究所の写真の授業だったとか。

桑沢でデザインの基礎を学んでいるときに、写真の科目があって、興味を持ったことがきっかけでした。40代、50代は仕事として、コンピューター会社の行事、会議や研修会の撮影を依頼されて、全国から一堂に集まってきた関係者は勿論、看板から何から何まで一部始終を撮影していました。普段は入れないような社会の内部に入って見ることに興味があったから、苦痛じゃなかったんですよね。当時は、仕事であろうと自分の作品であろうと、現像からプリントまで、モノクロームは、自分の暗室でやっていました。会社の記録では撮影からキャビネ版くらいに伸ばして納品するという一連のプロセスを全部です。自宅の小さな暗室で作業するのが楽しみでね。でも暗いところで見て結構いいじゃんと思っても、電気をつけると思ったより出来が悪くて、現実に戻る。それで喜んだり、がっかりしたりを繰り返しやっていました。そのうちに、フイルム現像は間違って失敗したらもう一貫の終わりですし、年齢とともに自分で自分が信用できなくなった最近は、フイルム現像もプリントもプロラボに頼むようになりましたけどね。

—1970年代後半には、人物の写真も撮られていますよね?

島尾(伸三)と結婚する前、桑沢デザイン研究所にいた頃は、写真家の石元泰博さんと大辻清司さんに指導を受けていたのですが、石元さんの授業で、知らない人に声をかけて許可をもらってポートレートを撮るという課題があって、かなり勇気が必要でしたけれども、やっているうちに面白くなったんです。断る人もたくさんいましたし、特に男性の同級生はとても苦労してました。それで、私はまず、渋谷のハチ公のところにある交番の前で声をかけるという作戦でいったんです。何かが起きたり、向こうが怪しいと思ったら交番に行けるし、私は私で弁解もできるから(笑)。そうやって、銀座、浅草、いろんな場所に行くようになって、もうその頃は、大体撮らせてくれそうな雰囲気の人がわかるようになって、通りの向こうから歩いてくるカップルを道の真ん中で、こんなところで撮っていいのかと思うくらい失礼な撮り方をしていました。桑沢を卒業して、助手をしていたときも、休みの日になると突進して撮ってましたね。最高調、調子に乗ってやっていました。

—あざみ野フォト・アニュアル2023の写真展「永遠のレッスン」でも展示されていた、街の若者たちのスナップショットのシリーズですね。

1976年に、初個展を新宿ニコンサロンでやったんです。『微笑みの手錠』という、自分で種明かししているような情緒的なタイトルを付けて発表したということがもう嫌でね。「文学的な題名だね」と言われたりしたけれど、それどころじゃない。この題名にして失敗したと思って。自分で語ってしまっているのはまずいなと気づいた。当時は、「一歩前に出て撮りなさい」と教えられた時代でしたが、近くで人を撮ることがきついと感じるようになったし、失礼なことをやっているという意識が出てきた。それでもう捨てようとしたら、島尾から「捨てるな」と言われたから、部屋の隅の洋服を入れていない箪笥の下の方に突っ込んで置いたんです。

—2022年に発行された写真集『マイハズバンド』も、約40年前に捨てようとしたものを伸三さんから止められて、取っておいたものが作品になっていましたが、潮田さんも今となっては「捨てるな」精神が根付いているのでしょうか?

そうですね。島尾は何でも「捨てるな」なんです。だから、コンピューター会社の研修を記録した写真も、「捨てるな」と言われたら、なんだかわからないけれど、取って置くしかないでしょう。島尾と一緒になって、娘まほが生まれて、島尾は物を捨てないから、ちょっとずつ増えていくんです。安いからと言って引き出しのある家具を買ったり、もらったりするから。しかもどの引き出しを開けてもいつの間にか物が詰まっているんですね。今もそうだけど、何に使うかわからないようなものがどの引き出しにも大量に入ってる。以前、「ちょっと整理をして、もう少しスッキリした生活をしたい」と島尾に言ったら、「いいよ。捨てるよ」と言われたんですね。「だけど、物を捨ててしまうと、その物の記憶のよすがも一緒になくなってしまう」とポツッと言うんです。それを聞いて、そうかと思って。ほかの人が取っておきたいと思ったものを、私が勝手に捨てるというのはできないなと思ったら、私も捨てられないものが出てきて。つまらないものでもそれが自分の気持ちを語ってくれたり、何かのきっかけで記憶を思い出したりすることってあるでしょう。

—確かに。今回のKYOTOGRAPHIE 2024、川内倫子×潮田登久子『From Our Windows』の展示でも、ご自宅から持ってきた物がショーケースに飾られています。

それも見れば思い出す物だけれど、大切だから、宝物だから取っておいたわけでは決してないんです。まほが何歳の時の爪だとか鼻くそだとかを薬入れのケースに入れて、引き出しの中に鉛筆やなんかと一緒に放り投げて入れてあるものを拾って展示しただけで。

—物もですが、それこそ写真こそ、記憶のよすがとなるものですよね。

川内さんの作品『Cui Cui』を見ていると、特にそう思いますね。13年間の間、おばあさまとおじいさまをただ撮っているのが、本当にすごいなと。それが積み重なって作品になって写真集として出てきて、それをめくっていると、私のアルバムでもあるような気がしてくるんですね。いろんなことを思い出すから。目だけじゃなくて、味や匂いなんかも。大家族でいらっしゃるし、冠婚葬祭の風景も、昔はねそうやっていたなぁと。

—川内さんが『マイハズバンド』はこれまでの潮田さんのシリーズと違った側面があって、新鮮だったとおっしゃっていましたね。その理由は、被写体として家族を撮っているからだと。

さっきも言ったように人間を撮るのは苦手と思ってやめていましたから。でも、昔の写真を捨てずに置いておいたら、あの頃、私が何の目的もなく撮ってた写真が出てきたんですね。当時、島尾は『まほちゃん』(オシリス)という娘を被写体にした、写真集をつくっていて、住んでいた西洋館に周りの子どもたちが遊びに来たりして、ものすごく楽しそうに写っていたんですよね。それを私は横で見ていたわけですが、久しぶりに見た自分の写真が、島尾のものとは全然違う言葉で語られている写真だなと感じたし、私はこんなまなざしで目の前の景色を見ていたのかと思ったんです。それで、もしかしたらこれは作品にできるかもと思い立った。それを、PGI(ギャラリー)の高橋朗さんに相談したら、彼女が営業、torch press の網野奈央さんが編集、須山悠里さんがデザインしてくださって、写真集として出版したら、思いがけなく展示にたくさん見に来てくだったことにはびっくりしました。

—増刷されたとのこと、おめでとうございます。『マイハズバンド』を経て、冷蔵庫、帽子、本といった身近な物にカメラを向けていったきっかけがあったのでしょうか。

娘が生まれて、生活がガラッと変わって、生活を写真で記録しようと思ったときに、家に大きな冷蔵庫があったので、それを撮るということを決めました。昆虫採集をするように三脚で6×6のカメラを支えて、扉を閉じたところと大きく開いたところを正面からから撮影しました。最初に自分の冷蔵庫を開けた状態を撮るときは、すごく抵抗があったんです。恥ずかしさもあったけれど、自分が思いついたんだから、まず私からやってみようと始めて、そこから他所の家の冷蔵庫を撮りたいと思うようになって、大家さんや友人に聞き、「いいよ」と言ってもらったところで撮るようになって、それが溜まっていって、『冷蔵庫』という写真集になって、展示もしました。見にきてくれた人たちは、面白かったらしく、興味津々と眺めていました。それで思ったのは、冷蔵庫の中を覗きたいという人が、結構多いなということで。普通できないですもんね、いきなり人の家に行って、冷蔵庫を開けて中身をまじまじと見るなんて(笑)。

—長らく写真を続けられていて、写真との距離感や関係性は変わったと思いますか? それとも変わらないですか?

変わらないですね。作品だけを撮ってるかと言えば違いますし、30年くらい、いとこのピアノの発表会を撮影し続けていますし。そうすると、その中での歴史が見えてくるわけです。昔はお嬢さんたちが華やかな格好をして演奏していたけれど、お稽古ごとに来る人たちもだんだんと変化していて、中年のおばさまたちや引退後にピアノを習い始める男性が出てきたりする。長いことやってるからこそね、作品にするだけが目的ではなく、そういう世の中の変化を見ることが、写真に反映されるんじゃないかなと思うんですね。

—川内さんもですが、潮田さんも文章を書かれますよね。すごく素敵な文章だなといつも思うのですが、文章を書くというのは潮田さんの中でどういう行為なのでしょうか?

文章はダメなんですよね。苦手です。昔は、ファックスを一枚送るのにも下書きをして、これでいいのかなと何回も書き直していたので、島尾からよく笑われてたんです。ハガキ1枚を書くのに、1日かかってました。かっこいい文章を書きたいとでも思ったんですかね。私は携帯も持ってないし、電話も抵抗があるたちなので。ただ、文章の書き方については、島尾に訓練されました。ちょっと手を加えただけで、ガラッと変わるから、随分影響を受けましたね。最近はその甲斐あって、雑誌の小さなコラムの原稿を頼まれても、だいぶ一人でできるようになってきました。

—今回、Kering が芸術や文化の分野で活躍する女性の才能に光を当てることを目的として発足した「ウーマン・イン・モーション」の支援による川内さんとのコラボレーション展示でしたが、女性のエンパワーメントについて、潮田さんはどんなふうに関わってきたと振り返りますか?

今回、たくさんの方にインタビューをしてもらったことで、やってきた時間が長いからか、ああいうこともあったし、こういうこともあったといろいろ思い出しました。私の時代は、「アグネス論争」(アグネス・チャンによる「子連れ出勤」の是非をめぐる論争)というものがあったのですが、それ以前から、私たちは仕事に子連れで行かざるを得ない状況でした。二人とも仕事があるときはどちらかが連れて行って、そこで子どもは絵を描いたりしながら過ごすということをやってきた。川内さんは、たくさんの助手を連れてやってらっしゃるのかと思ったら、外国へ行くときも、基本は、旦那さんと娘さんとのチームで行動しているそうです。川内さんと私は随分違うと思っていたのですが、話していると共通点が見えてくるんですよね。やっていることは全く違うということはわかっていて、その上で私は私だとお互いに思いながら応援しているというか。こういう出会いって、なかなか無いですよね。仲のいい友達はいますけれど、それとはまたちょっと違う。同志という感じがしっくりします。川内さんが私に声をかけてくださったことは、私にとって特別な意味を持っています。このような場を作ってくださった KYOTOGRAPHIE と Kering があってこそですし、感謝の気持ちいっぱいです。

—KYOTOGRAPHIE が開幕して、どんな気持ちですか?

川内さんとは、展示についてあまり話し合うことなく開幕の日を迎えてしまったのですが、開いてみたら、きちんとチームワークができていた感じがしますね。一人でいろんなことに対して戦って来られた方だと思うんですね。そういう強さがあるから、頼もしいですよね。私はぐちゃぐちゃしながら、ああでもないこうでもないと考える方なので、入り口は私の展示部屋ですが、それを終えて、川内さんのキラキラした世界で柔らかい気持ちになってぐるっと回って、私のところへ戻って来ると、現実に戻るという狙いがあります(笑)。

—潮田さんが川内さんに送ったメールに、「カメラという小部屋を手にすることで、何者にも制御されない時間を得ることができました。長い年月の間、写真を撮り続けているうちに見えてきた自由です」とあったそうですが、潮田さんにとってカメラは、自分の部屋だったんですね。

誰にも入ってこられない時間って必要です。そういうとき、カメラっていうのは、とてもいい部屋を与えてくれるんですよね。覗いてる間は自分だけの世界だから、この中では自由でしょう。

—今後も、自由でいるために、カメラを持ち続けるということなんですね。

私は私なりにね。川内さんは私よりもまだ若いし、いろんなことを興味があって、世界中を飛び回るだろうと思いますが、私はいろいろと制約もありますし、自分の世界の中で潜っていくことを続けられたらなと思っています。