Gene Krell
Gene Krell

ファッションディレクター・Gene Krell (ジーン・クレール) インタビュー

Gene Krell

Portraits/

Gene Krell (ジーン・クレール) は不思議な人だ。ファッション業界人であれば誰しも知っている名前でありながら、公の場でその姿を見かけることは決して多くない。アメリカで生まれ、60年代という激動の時代をロンドンで過ごしながら、現在拠点を置く日本に来てからかなりの年月が経とうとしている。そして誰もを受け入れるような人情味の持ち主でありながら、話していると何か全てを冷静に見透かされているような気分になるのだ。

ファッションディレクター・Gene Krell (ジーン・クレール) インタビュー

Gene Krell (ジーン・クレール) は不思議な人だ。ファッション業界人であれば誰しも知っている名前でありながら、公の場でその姿を見かけることは決して多くない。アメリカで生まれ、60年代という激動の時代をロンドンで過ごしながら、現在拠点を置く日本に来てからかなりの年月が経とうとしている。そして誰もを受け入れるような人情味の持ち主でありながら、話していると何か全てを冷静に見透かされているような気分になるのだ。

その日、約束の時間に早く着いてしまった筆者は、無機質に光り輝くCondé Nast (コンデナスト)  のオフィスでフォトグラファーと2人で待っていた。幼少の頃からのバイブルであった『Vogue Nippon (ヴォーグ・ニッポン)』(現『Vogue Japan (ヴォーグ・ジャパン)』の誌面で、毎号欠かさず愛読していたコラムの筆者である Gene Krell。これまでに何度もお会いし、言葉を交わしているとはいえ、改まってインタビューをするとなればその緊張も並ではない。しかしこちらの心持ちとは裏腹に、フラッとロビーに姿を現したその人は、まるで旧友と再会したかのような様子で自身のデスクへと招き入れてくれた…

Photo by Yusuke Miyashita

Photo by Yusuke Miyashita

 

— ファッションジャーナリスト、実業家、その他にも様々な肩書きをお持ちかと思いますが、具体的にどんなことをされているのでしょう?日本に住み始めたきっかけは?

一言でお答えしたいところだが、なかなかこれが難しいんだ。まず日本に初めて来たのはずっと昔のこと。きっと君が生まれる前のことかな。子供の頃からアジア ー こと中国と日本 ー の文化には並々ならぬ興味があったんだけど、70年代の半ばにまだロンドンで僕が仕事をしていた時に訪れたのが全ての始まりだったね。

— かの有名な Granny Takes a Trip の時代ことでしょうか?

その通り。60年代、サイケデリックファッションの先駆けとして世界的に知られていたこのブティックで働いていた頃のこと。当時のことは今考えてもクールだったね。Jimi Hendrix (ジミ・ヘンドリックス)Marc Bolan (マーク・ボラン)、時代を席巻したスーパースターたちの衣装を手がけていて、まさにカルチャーの坩堝だった。そんな最中に念願の日本に初めて来たんだけど、結局その後すぐに地元の NY に戻ってデザインの仕事を続けたりと、今のように拠点を置くまでには時間がかかったね。

その後 Vivienne Westwood (ヴィヴィアン・ウェストウッド) と一緒に仕事をしていたんだけど、当時彼女のブランドは特に日本で絶大なる人気を誇っていた。そのこともあって、再び日本に戻ってきたのが80年代の半ばのこと。この時は1年ほど滞在していたんだけど、Chika Sato Toshi Nakanishi など、多くの友人が出来たことを覚えてるよ。

— 2度目の訪日から、今までずっとアジアをベースに活動されているということでしょうか?

それがそうでもないんだ。どういうわけか、私は一つの場所に落ち着くのが嫌いな体質のようで、その後もアメリカに戻ったり、ブラジルで仕事をしたり。とにかく旅が多かった。一時期はドイツのフランクフルトで Why Not (ワイノット) っていうナイトクラブを経営していたこともある。

— アメリカ出身でヨーロッパで過ごした Gene さんがアジアに興味を持った理由は何だったのでしょうか?

スピリチュアルなところかな。驚くかもしれないけど、私は仏教徒なんだ。それも最近のことではなく、ずっと前から。どうあがいたって見た目が外国人だから、寺院に行くと観光客だと思われることが多いけどね。

アジアを拠点にしたのは今から大体25年前のこと。その以前に『DETAILS (ディテール)』マガジンで働いていた繋がりで、Condé Nast に話をしたら、最終的に7つの雑誌のクリエイティブ・ディレクターとして仕事をすることになったんだ。今考えても当時の携わった雑誌は非常に成功していたと思うよ。

冒頭の質問に答えるとしたら、今の肩書きは『Vogue Japan (ヴォーグ・ジャパン)』や『GQ (ジーキュー)』なんかのインターナショナル・ファッション・ディレクターだね。あまり肩書きにこだわるのは好きじゃないんだけど。

— 確か初めてお会いした時にもお伝えした気がするのですが、私は小学生の時から Gene さんが『Vogue』で執筆されているコラムを、紙が擦り切れるほど読んでいました。

それは嬉しいことだね。自分で言うのもなんだけど、私が書いているファッション史に関するコラムは、『Vogue (ヴォーグ)』という雑誌を定義する上で欠かせない要素なんだ。ファッション誌はどこでも「今季は60年代がトレンド」だの「80年代風シルエット」などと言ってもてはやしたがるけど、ファッションは常に過去からの対話によって新しい表現が生まれるものであり、その歴史や過去の偉業に敬意を払うことこそが『Vogue』のアティチュードなんだ。実際にはファッションストーリーの方がもちろん華やかで、文字ばかりが並ぶ私のコラムは、誌面で一番知名度が低いコンテンツなんだがね。

Granny Takes A Trip 時代の Gene Krell。当時共に働いていた Charlotte Gibson (シャーロット・ギブソン) と共に。1969〜1970年。| Photo courtesy of Gene Krell

Granny Takes A Trip 時代の Gene Krell。当時共に働いていた Charlotte Gibson (シャーロット・ギブソン) と共に。1969〜1970年。| Photo courtesy of Gene Krell

— 60年代のロンドンという、まさに伝説の時代にキャリアをスタートされた Gene さんですが、当時を振り返ってどのような時代だったと感じますか?

そもそも当時はデザイナーズブランドの洋服を着るという考え方が無かったから、今よりずっと自由だった。Granny Takes a Trip で働いていたときにも、自宅にあったカーテンを持ってきてそれでスーツを仕立ててくれとオーダーしにくるお客さんなんかもいたんだ。ファッションが本当に意味で個性を表していた時代だね。実際洋服の価格も、今と比べてずっと安価だったからね。

その後70年代に入ると、ユースカルチャーやカウンターカルチャーがいよいよ世界的なものになり、ある一定の年齢になると皆一様に同じ型にはまるようになっていった。その後の時代はあらゆる分野が均一化され、今では世界中どこに行っても同じような身なりの人たちで溢れている。

— 私自身、60年代に青春を過ごしていたらどれだけ華やかだっただろうといつも憧れるのですが、それと同時に移りゆくことこそファッションの真髄でもあると言えます。その中心にあるデザイナーという職業について、この半世紀でどのように変わったとお考えでしょう?

私がキャリアをスタートさせた頃は、デザイナーはデザイナーだった。ファッション業界人なら誰しも、Cristóbal Balenciaga (クリストバル・バレンシアガ) は史上最も素晴らしいデザイナーの一人であったと口を揃えて言うはずだろう。そして彼のクリエイションに対する情熱は、それらの賛辞を以てなお余りあるほどに本質的だった。ちなみに君なら Cristóbal がメディアをあまり好んでいなかったことも知っているだろうね。生涯において一度としてメディアのインタビューを受けなかったと。それが実は、彼は1972年に一度だけインタビューを受けているんだ。あまり知られていないがね。

ちなみに、当時はメディアがファッションに対する姿勢が今よりもっと誠実で真摯だった。私の盟友であった故 Anna Piaggi (アンナ・ピアッジ) は、布や洋服の構造に関して驚くほどの知識を持っていたしね。

昨今ではデザイナーという言葉の意味合いがどんどん多様化している。むしろ今のファッションブランドにとって、クリエイションそのものと同じくらいその周りの要素、特にプロモーション要素が多くを占めている。それを悪いことだとは思ってないけど、私がファッションの仕事をし始めた頃と今では全く別の業界にいるような気分だね。今の時代におけるデザイナーの存在意義は、往々にしてセレブリティとの関係性によって構築されているんじゃないかな。

楽器の弾き方も知らない人が、突然ステージに登ることが出来る業界

— セレブリティと同時に、テクノロジーも現代のファッションシーンにおいて欠かせない要素の一つではないでしょうか。

そうだね。テクノロジーこそ、今のファッションだと思うよ。昔ブルーミングデールにあった Vivienne Westwood (ヴィヴィアン・ウェストウッド) のお店の前には、パンク T シャツを買い求める客が長蛇の列をなしていた。今同じような光景が見られるとすれば、アップルなんちゃらみたいなガジェットといったところかな。

そしてもちろん、テクノロジーはメディアのあり方そのものも大きく変えてしまった。デジタルメディアでの影響力を計る指標が何だったかなフォロワー、だったかな?

— そうですね、ソーシャルメディアではフォロワー、ウェブサイトだと月あたりのページビューの数なんかもよく引き合いに出されます

そうだね、これらを目にして私が危惧しているのは、メディア然たる知識や教養を兼ね備えたメディアが減っているということ。それはブロガーたちも同じこと。一般人ならではの声を重宝する意見も分かる。でもその一方で、先の Balenciaga (バレンシアガ) のメゾン史において多大なる影響を与えた作家の Balzac (バルザック) のことも知らない人に、新生 Balenciaga の何を語れるというんだって話さ。

さらに悪いことに、本来中立の立場であるべきのジャーナリスト、今ではその代替として活動しているブロガーやインフルエンサーたちがいとも簡単にバイアスをかけられてしまうということ。はじめに言っておくが、私は『GQ』のインターナショナルファッションディレクターという肩書きを持ちながら、一切のプレスディスカウントやギフトを断ってきた。何かの報酬の代わりに意見を変える、ないしご機嫌を取るレビューを書くなんて私には出来ない。声を発信するというのは、それだけ大きな責任が課せられるんだ。

正直なところこれは、今時のブロガーやインフルエンサーだけではない。昔からよく知っているエディターやジャーナリストが、ブランドから贈られてきたギフトを嬉々として手にしているのを何度も見かけたことがある。何とも嘆かわしいというか、もはや私には一切関心の無いことだね。

— サンプルセールの文字に目を輝かせる私には何とも耳の痛い話です

ときに、君は楽器を弾けるかね?

— 楽器、ですか。そうですね、クラシックピアノを15年ほど。

それは良かった。何でこんなことを聞いたかというと、これはファッション業界に限った話なんだけど、この世界では楽器の弾き方も知らない人が突然ステージに登ることが出来るんだ。

— 「Fake it till you make it (本物になるためには、まず出来るフリをすること)」という意味でしょうか?

そうとも取れるけど、ちゃんとした経験や見識も無い人たちがステージ上で平気で演奏しているフリを出来るような世界、という意味でもある。だからこそ、知識や経験が何よりも大切なんだ。

遊び心のあるスーツの着こなしで知られる Gene Krell。この日身につけていたのはグレーチェックのスーツにブルーのサイケデリック柄のタイ。手元には数珠のようなブレスレットを何重にも重ねている。| Photo by Yusuke Miyashita

遊び心のあるスーツの着こなしで知られる Gene Krell。この日身につけていたのはグレーチェックのスーツにブルーのサイケデリック柄のタイ。手元には数珠のようなブレスレットを何重にも重ねている。| Photo by Yusuke Miyashita

— では少し見方を変えて、先のデジタル文化についてどう思われますか?『The Fashion Post』はデジタルメディアであり、また若年層はソーシャルメディアに夢中ですが。

例えるとしたら、火のようなものだね。

— これまた意味深ですね。

火は便利だろう。暗い夜にもあかりを灯すことが出来るし、食物を加工して料理することも出来る。それと同時に火は人間にとって脅威でもある。デジタルテクノロジーもそれと同じで、あまりに無責任かつ誤った情報が氾濫する今の状態を見る限り、大火事になってもおかしくないと思ってる。大事なことは、テクノロジーを使いこなすこと。決してそれに左右されてはいけないんだ。

— なるほど、納得です。では日本という小さな島に限って見てみるとどうでしょう?「国境なき記者団」による「報道の自由度ランキング」では今年日本は過去最低のランクを記録しました。

ジャーナリズムについて、政治的なことや国際情勢のことは別のものとして見なければいけないんじゃないだろうか。だってファッションが表現出来ることなんて、たかが知れてるんだから。どの業界にも政治はある。そんな中で、私は Condé Nast という比較的自由度の高いフィールドで自分の意見を述べられ、またそれに対して反響があるということは本当に恵まれていると感じるね。

— 私に限った話で言えば、もちろんそれは駆け出しのエディターだからに過ぎないのですが、原稿は必ず掲載する前にブランドに校正を確認しなければならず、なおかつ良かれと思って書き加えた個所を真っ赤に消されたりと、報道の自由はどこにあるんだといった感じなのですが、個の意見が尊重されにくいこの国において、主張を貫くために必要なものは何だと思われますか?

簡単じゃないか、”Courage (勇気)“ だよ。

— ぐうの根もでません。

いいかい、私は今でこそ好きなように文章を書けるようになったけど、若いころは君と同じように苦悩した時期もあったんだ。『DETAILS (ディティール)』で働いていたときのことだったかな。あるショーを見て、僕は率直に昔の有名なデザイナーのパクリだと思ったんだ。それをそのまま記事にしたら、それがきっかけで広告契約が破棄された。君の気持ちはよく分かる。でもだからこそ、声があるうちは自分の意思を曲げちゃだめってことだね。

それでも最近ではあまり批評は書かなくなったね。自分の立場だったり知識、経験を、もっとポジティブなことに向けたいんだ。

最近上海の大学で教鞭を取ることがあるんだけど、まず講義の始めに生徒に言うのは、正しいモチベーションを見つけなさいということ。彼らが夢中になっている Katy Perry (ケイティ・ペリー) や、別に僕が彼女のことをどう思ってるわけでも無いんだけど、セレブリティと仲良くなりたいからファッションを志すなんて時間の無駄だからやめなさいと。洋服をタダでもらったり、ファッションショーをフロントローで見たり、どれも魅力的なのは間違いないけど、本質はそこではないことを早くから知っておくべきだと思ってるんだ。

白馬の王子か、年寄りのロバに跨る老人か

もう一つ講義で話すあるエピソードがあるんだ。最初に言っておくと、別にこのストーリーにはオチなんて無いし、本質的だからこそとても難しい。まずある広大な砂漠に一頭のボロボロのロバに乗った老人がいると想像してみて欲しい。そこに突然、真っ白の白馬に乗った美しい王子が現れるんだ。王子は自分が乗る白馬の美しさを見せつけるように、砂漠を練り歩いている。その様子を見た老人は王子に近づいて、馬を交換しないかと提案する。普通に考えれば、美しい馬に乗った王子がそんな理不尽な取り引きに応じるわけもないだろう。そう言われた老人が返したのは一言。私の馬は砂漠を抜ける術を知っている、と。

— 何だか怖い話ですね

そうじゃない。つまりは、自分を突き動かすモチベーションは常に知識や経験でなければならないということなんだ。目先の魅力的なものにほだされていたら、砂漠からは永遠に抜け出せないだろうね。

— なるほど。達観した見解ならではの、とても端的な教えですね。とはいえ最後はハッピーエンディングで終わらせたいので、今ワクワクしていることについて聞いてもいいですか?

その手には乗らないよ、今ワクワクしてることなんて無いんだから!

— ほう

未来こそ私たちの生きるべき世界であり、未来を起点に考えれば今は下積みといったところかな。野球観戦と同じだよ。私は野球が好きだからね。シーズンによって奮わないこともあるけど、それは次のシーズン、もしかするとその次のシーズンで好成績を上げるための準備期間なんだ。今のファッションシーンを見ていると、それと似たような感情を抱くよ。強いて言うなら、現在の移行期間を経て、まだ見えない将来がどんな姿になるのか、それくらいかな。ワクワクすることと言えば。

あとファッションとは直接関係無いけど、旅は好きだね。新しい人に会ったり新しい文化に触れたりするとインスピレーションが湧いてくるんだ。

— やはり若い頃から放浪されていた経験はいつになっても感情を奮い立たせるということですね。僕も実は来月パリに行くんですが、今から楽しみでならないんです。

旅は大切だよ。色んなものを見て、色んな人と交流しなさい。私から出来るアドバイスといえば、そのくらいかな。

Photo by Yusuke Miyashita

Photo by Yusuke Miyashita