Martin Scorsese
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映画監督・Martin Scorsese (マーティン・スコセッシ) インタビュー

Photography: Keisei Arai | © The Fashion Post

Martin Scorsese

Portraits/

Martin Scorsese (マーティン・スコセッシ) が来日記者会見で明かした、『沈黙-サイレンス-』を映画化した私的な理由と社会的な理由。

映画監督・Martin Scorsese (マーティン・スコセッシ) インタビュー

 

© 2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

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Martin Scorsese が監督を務めた映画『沈黙-サイレンス-』は、まさに難産そのものだった。ジャパンプレミアが迫った1月16日の記者会見で本人は「映画化の権利をとってからあまりに長い間映画が完成しなかったので、もともと権利を保有していたイタリアの会社に訴えられた。僕はずっと《もうすぐできるよ》とごまかし続けていましたが」と笑っていたが、当時はさぞ大変だったに違いない。

「若い頃に撮っていたらぜんぜん違う映画になっていたと思います。本格的に脚本を書き出したのは、2002年に『ギャング・オブ・ニューヨーク』が公開された頃。プライベートでも再婚して女の子が産まれました。自分がある程度成熟した状態で父親を務めることになったのです。そのような体験の一つひとつが映画に昇華されています」

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「寛容」「宗教観」「人間の強さと弱さ」といういくつかのモチーフが交差するこの物語を実写化するにあたって、締め切りよりもはるかに優先すべきことがあった。それは、遠藤周作が描いた「白でも黒でもない」曖昧なニュアンスを映画の中で忠実に再現すること。つまり、この作品は“正しい”宣教師たちがむごい拷問を受けながらも“間違った”日本の役人たちと対峙するストーリーではない。

「日本の役人が行った拷問は紛れもない暴力でしたが、《これが普遍的な事実だ》としてキリスト教を持ち込んだ宣教師もまた、日本に暴力を持ち込んだといえるのではないでしょうか。役人はそんな彼らの傲慢を一つずつ崩していくために、パードレ (宣教師) たちにプレッシャーを与え続けたのです。この映画では、ロドリゴが踏み絵を踏むことで彼の傲慢が崩れます。キリスト教に対する誤った考え方を捨てて、日本で“仕える人”となることで、真のキリスト教徒となる。日本のキリシタンは、そのような慈悲心に惹かれるのだと思います。あるいは、《人間はみな同じ価値を持っている》という理念に。“地震雷火事親父”を恐れる日本人には、権威的なアプローチでキリスト教を説くのではなく、キリスト教の女性性をもって説くのが合っているような気がします」

 


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Martin Scorsese は無限の試行錯誤を経て今の境地に立っている。たとえば、1988年に公開された『最後の誘惑』も同じくキリスト教を題材とした映画だった。『沈黙』と異なるのはイエス・キリストの目線から物語が描かれていること。そして、イエスを私たちと同じような葛藤を抱えた1人の人間として描いたことで、多くの宗教関係者から抗議が巻き起こった。『沈黙-サイレンス-』の中でロドリゴが通辞に対して「仏陀は人間と同じように死ぬが、イエスは永遠の存在なのです」と得意気に話すように、イエスを人間と同等に扱うというのは大きなタブーだったのだ。

「『最後の誘惑』はキリスト教のコンセプトをシリアスに突き詰めた作品でした。実は、エピスコバル教会でこの映画の試写会を行った際に、ポール・ムーアさんという大司教から勧めていただいたのが『沈黙-サイレンス-』だったのです。当時は私の信仰心が揺らいでいて、何か納得がいっていませんでした。だから、信ずることは何かを問うたこの小説を映画にすることで、キリスト教についてもっと深く探求すべきだと思ったのです。実際にこの映画はドグマ的なものではなく、包括的な作品になっている。宗教に関しても、疑うのであればお前に価値はない、とはけっして言っていない。人生なんて疑念だらけだし、そもそもなぜ生まれてきたのかもわからない。実存的な問いに没入したという意味で、この映画は私にとってとても重要な作品になりました」

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この映画が2017年に公開されたという事実は偶然か、必然か。実際はどちらにも捉えることができる。Martin Scorsese という個人の流れの中でしかるべきポイントが訪れたから完成した、という意味では偶然。だが、この世界のカオスを直視せずにどちらかに振り切れたほうが楽だという今の風潮を考慮すれば、『沈黙-サイレンス-』は撮られるべくして撮られたといえる。

「『沈黙-サイレンス-』は、弱さや懐疑心を常に抱えながら生きている人に響く映画であってほしい。この映画の1つの大きなテーマは“受け入れること”。キチジローがロドリゴに《弱き者はどこで生きていけば良いのか》と叫ぶ場面がありますが、今は彼らのような存在を受け入れることが重要だと思います。みんながみんな強くあることが、文明を維持する唯一の手段ではない。うまくいかない人もいるし、運の良い人もいる。意識すべきは、まずは人として知ろうとすること。つまり、個人と個人の関係からすべてが始まるのです。たとえば、イエス・キリストのまわりには常に売春婦や取り立て屋のような“卑しい人”がいましたが、彼はその人たちの中にも神聖さを見出していました。それは、私が新約聖書の中で特に気に入っているところです。今、危機に瀕しているのは若い世代です。彼らは強き者が世界を掌握していく場面しか目にしていないので、世界のカラクリとはそういうものだと思いこんでいる。物質的な世界に生きているからこそ、何かを信じたいという人の心について深く考えることが必要だと思います。少し前までは西欧でこのような議論を小馬鹿にする風潮がありました。しかし、今は西欧の宗教基盤に変革がおきているような印象を受けています」

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本人が原作を読んでから映画公開まで、実に四半世紀以上を要した。その間に、Robert De Niro (ロバート・デ・ニーロ) や Leonardo DiCaprio (レオナルド・ディカプリオ) のような俳優がユーモアたっぷりに舞台を駆けずり回る“小気味良い” Martin Scorsese 映画の形式は確固たるものになった。その形式を取っ払った『沈黙-サイレンス-』は、彼のパーソナリティの深い部分を覗き込むような作品になっている。同時に、この作品は社会の実相を明らかにし、その根本を問う。プロテストではなく、可能性の提示。それが『沈黙-サイレンス-』の魅力のすべてだといっても過言ではない。

「この映画を撮るプロセスは、私にとって学びの旅でした。作品は完成したが、これで終わりではない。今でも僕はこの映画と共に生きている、という感覚を持っています」

 

 

<プロフィール>
Martin Scorsese (マーティン・スコセッシ)
1970 年代初めからアメリカ映画界の新進として注目された。生まれ育ったニューヨークを舞台に、暴力や裏社会を描く映画が多いが、信仰、誘惑、罪や贖罪など、道徳や宗教的な テーマを通じて、社会の暗部や人間精神の奥底をあぶり出していくのが特徴。1976年に『タクシードライバー』でカンヌ映画祭パルム・ドール、2006年に『ディパーテッド』で アカデミー賞®を初受賞。1970年代から90年代初めにかけては Robert De Niro (ロバート・デ・ニーロ)、21世紀に入ってからは Leonardo DiCaprio (レオナルド・ディカプリオ) と組んだ作品が多い。1990年には映画の補修・保存のための非営利組織 The Film Foundation を設立。黒澤明監督の『夢』(1990) にゴッホ役で出演した。最近はテレビドラマも手掛ける。

 

 

作品情報
タイトル 沈黙-サイレンス-
原作 遠藤周作『沈黙』(新潮文庫刊)
原題 Silence
監督 Martin Scorsese (マーティン・スコセッシ)
脚本 Jay Cocks (ジェイ・コックス)
編集 Dante Ferretti (ダンテ・フェレッティ)
撮影 Rodrigo Prieto (ロゴリゴ・プリエト)
美術 Dante Ferretti (ダンテ・フェレッティ)
出演  Andrew Garfield (アンドリュー・ガーフィールド)、Liam Neeson (リーアム・ニーソン)、Adam Driver (アダム・ドライバー)、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシ他
 配給  KADOKAWA
 HP  chinmoku.jp
  2017年1月21日 (土) に全国ロードショー