lemaire
with FUJI|||||||||||TA

ルメールを着る人。 vol.3 FUJI|||||||||||TA

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photography: masahiro sambe
styling, text & edit: manaha hosoda

袖を通せば、すっと肌になじむ。そうしていつの間にか、生活の一部に溶け込んでいく LEMAIRE (ルメール) の服。着る人のことを一番に考えた服づくりだからこそ、それぞれの個性が服の表情を変化させる。

今回お届するのは、性別も年齢も異なる日本のクリエイター4名がまとう LEMAIRE。彼らが日常を過ごしている場所で、気に入ったルックを選んでもらった。

第3回に登場するのは、自作のパイプオルガンから奏でられる幻想的なサウンドスケープで国内外から注目を集めるサウンド・アーティストの FUJI|||||||||||TA (フジタ)。山梨の人里離れた山の麓に位置する自宅兼スタジオのひっそりとした佇まいに、その静謐な美しさを湛える音楽が生まれることもうなずける。

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ルメールを着る人。 vol.3 FUJI|||||||||||TA

シャツ ¥63,000、中に着たニット ¥37,000、パンツ ¥72,000、コート ¥143,000、シューズ ¥104,000/すべて LEMAIRE (ルメール)

グレーとも緑ともつかない、光を受ける角度によって絶妙に変化していく色合いが LEMAIRE ならでは。

親交の深いスウェーデン・ストックホルムのアーティスト Kali Malone (カリ・マローン) を通じて LEMAIRE の存在を知った(彼女はルックにモデル出演し、アルバムもブランドの公式サイトで販売された)という FUJI|||||||||||TA こと藤田氏は、ヨーロッパツアー出発前の忙しないタイミングながら屈託のない笑顔で撮影に応じてくれた。スタジオを取り囲む緑は、外界を遮断するように色濃く、彼が選んだ「PEAT GREEN (ピートは泥炭の意)」と共鳴する。同色で統一したコーディネートは、ハリのある生地感がソリッドな印象ながらも、ブランドの定番である上質なポリウールは実際手にしてみるとびっくりするほど軽やか。さりげなくも存在感を発揮するロングレングスのシングルコートを羽織れば、そのままステージにも登れそうだ。

──音楽を始めたのはいつ頃ですか。

小学校6年生の時にギターを始めました。3兄弟の末っ子で、ギターを持っていた兄の影響から。最初はテレビで知っている曲をカバーして歌うところから始めたんですけど、小6にしてカバーがうまくなってもしょうがないと思ったみたいで……(笑)。どんなにしょぼい曲でもいいから、オリジナルを作ったほうがいいって、ずっとノートに書き溜めていたんです。別に仕事にするつもりはなかったんですけど、進路を考えていた時に母から「あんたずっとギター弾いてるけど、そういう方向はないの」みたいなことをぼそっと言われて。うちは芸術とは縁のない家庭で、音楽を仕事にするっていうのはありえないことだと思ってたので、結構カルチャーショックでした。それをきっかけに、ストックしてきた曲を友達に聞かせてみたら、反応が結構よかったので、じゃあちょっと知らない人に聞かせてみようと思い、地元の駅前で路上ライブしてみたり。

──今とは音楽性が全然違ったんですね。

違いましたね。いわゆるテレビで聴くようなJ-POPを作ってました。そこから音楽の変遷について話すとなると、かなり長くなってしまうんですけど……。徐々にクラシックや現代音楽へ向かって行きました。一時期、雅楽とかの影響をすごく受けて、音だけじゃなく風景も作って、全部ひとつのセットでライブを見せようとした時に、舞台美術的な存在としてパイプオルガンが頭に浮かんだんです。だから、最初は楽器としてというよりもオブジェとして作って、あわよくば音がでればいいなぐらいでした。そこからギターとオルガンのどちらも使うようになりましたが、両立が難しくなって、だんだんオルガンへと移行していきました。今のスタイルになったのは、10年前ぐらいから。ずっと藤田陽介で活動してきたのですが、去年 FUJ|||||||||||TA名義で『iki』というアルバムをスイスのレーベル「Hallow Ground」からリリースしました。

──Kali Malone とも親交があるとお伺いしました。

Kali は恩人といっても過言ではありませんね。『iki』を海外のレーベルからリリースしたことをきっかけに、海外からの仕事が増えたんですけど、それは Kali のおかげなんです。2019年にロンドンで Kali と会う機会があり、その時にデモを渡したんです。それを彼女が気に入って、レーベルに紹介してくれました。そこからはとんとん拍子で話が進んでいって、今は7割ぐらい海外との仕事になりました。彼女の紹介がなければ、すべて違っていたかもしれません。

──山梨には5年前に移住されたとのことですが、音楽にも変化はありましたか。

音楽自体は常に変わっているんですけど、それが何から影響を受けているのか答えるのは難しい。その時々でやりたいことも変わるし、環境が変わったり、海外の仕事が増えたりしても、変化する。ただ、自分の中で意識しているのは、やっぱりエンターテイメントではなく、実験的なアプローチなので、自分の物差しを育てて、それを使って判断するということ。当然それで食べていかなきゃいけないので、見てくれる人ありきではあるんですけど、そのバランスは常に注意していないといけない。そういう意味でも、自分と向き合うのに山梨での生活は向いているのかもしれません。