違うことが美しい。ウェンデリン・ファン・オルデンボルフが奏でるポリフォニー
Wendelien van Oldenborgh
interview & text: yu murooka
translation: shotaro kobayashi
国内初個展のため来日したアーティスト Wendelien van Oldenborgh (ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ)。近年、ポーランドのウッチ美術館やマドリッドのドス・デ・マヨ・アートセンターにて個展を開催したほか、2017年ヴェネチア・ビエンナーレのオランダ館代表を務めるなど、オランダの現代美術を代表するアーティストの一人として、20年以上に渡り、数々の国際展で映像作品やインスタレーションを発表してきた。
異なるバックグラウンドや専門分野を持つ人々が、あるテーマについて対話する過程で発露する主観性や視座、関係性を豊かに捉えた映像作品は、ポリフォニー (多声音楽)のように鮮やかに、社会の側面を露わにする。
1900年代前半の日本で活躍した女性文筆家たちのテキストが鍵となる新作は、2023年2月19日まで東京都現代美術館にて公開される。長い雨が降り続く中、しなやかな足取りで登場したウェンデリン。ちょうど東京に滞在し、撮影を終え、編集作業に入ろうとしていた彼女に、クリエイションの背景や新作について語ってもらった。
違うことが美しい。ウェンデリン・ファン・オルデンボルフが奏でるポリフォニー
Portraits
―作品について、とても開かれている表現、多声性というのがひとつ感じたところです。制作する上で、重点をおいているところはどんなところでしょう?
私自身が声を上げることよりも、この社会をつくっている人たちの多様性に焦点を当てたいと思っています。音楽における「ポリフォニー (多声音楽)」というのは、階級や一つの旋律によって奏でられるものではなく、複数の異なる声部が旋律を奏でる音楽を指すように、人々が持つ知識や知恵を取り上げ、どちらの考えが良いというような優勢性の考え方ではなく、皆が平等であり、社会をつくっているのだ、というところを大切にしています。
―現在の表現方法にたどり着くまでの背景があればお聞かせ下さい。
元々はペインターとしてフレスコ画を描いていましたが、ペインティングという手法を通して、自分が世界から孤立している様な気持ちになったんです。映画は、世界とコネクションを持っているという点で昔からずっと興味がありました。ただ、専門的に職業にすることは難しかったので、手始めに映像の手法としてスーパー8mmフィルム(以下、スーパー8)に取り組むことにしました。フィルムの映像は、一つ一つのイメージの連続で成り立っているので、個々のイメージを編集することもできます。それらをスライドにした展示も行ってきました。2017年の日本での「MOTサテライト 2017秋 むすぶ風景」で展示したのはこのスーパー8で取り込んだスライドであり、映像でもなく、音声もありませんが、連続するスライドには一種の「運動」が映し出されていることに惹かれていました。その後、作品を発展させていく過程で、登場人物の存在を明確にしたいと考える様になり、対話を通した作品を制作する様になりました。実は当初は、映像を撮ること自体を目的とはしていなかったんです。映像に、対話という「音」を取り入れ始めたことで、映像がどの様な要素で成り立っているのか関心を持つ様になりました。例えば、イメージを作り上げるカメラや撮影者、音の存在、その音を作る人がいて、対話、そこには話す人がいる-様々な要素が合わさって一つの映像ができているという特徴に着目していたんです。これが映像作品の制作のきっかけとなり、本展でも展示されますが、私の初めての映像作品ができたのはスーパー8を撮り始めてから5年後でした。
―作品は、出来上がりについてイメージを持って取り掛かっているのでしょうか。参加者とのインタラクションによってリアルタイムに制作されていくものでしょうか。
どちらの側面もありますね。最初に自分の中でテーマを掲げ、それに沿って参加者に声をかけ、撮影場所も自分のディレクションを元に制作しています。その一方で、最後に作品を仕上げるという点では、参加者のインタラクティブな対話を大切にしています。現在取り組んでいる新作は、自分が主体性を持って撮影し、その後、参加者の対話を自分の中で消化し学ぶプロセスがあります。特に今回は、日本という場所で、知識がない状態からスタートしているので、その点でも面白味を感じています。現在取り組んでいる新作は、近日中に編集に入る段階ですが、展示全体を考えると、20分以内の尺に収めることを目標にしています。ですが、たとえ尺が1時間になったとしても、時間を忘れて作品に見入ることができたら良いなと思っています。
―撮影されたロケーションや環境などが話し手に明らかな影響を与えていますか?例えば、スタジオや他の場所で、同じ質問をした場合と、話し手の語られる内容は明らかに異なりますか?
ロケーションは大切にしています。建築物も出演者であり、1つのキャラクターです。建物には、それが建てられた目的や、そこに流れている歴史があります。実際に映像を撮影した時、そのロケーションによって、参加者がどの様な対話はするのかは変わってくるとは思いますし、何より、作品として映像を見せる際に、その仕上がり方において建物の主体性が露わになるのかと思います。
―撮影場所をイメージした時点で、それに呼応して展示方法などもイメージされているのでしょうか。それとも、展示方法については、後からの、ポストプロダクション的な表現なのでしょうか。
空間を大切に考えているので、展示方法を考える際は、その作品をどこで展示するかという要素は重要です。最初に展示場所が決まると、リサーチをして、その場所に合った展示方法を考えます。一方、撮影を進める上で、作品自体が何か求めていることを感じ、それに答える形で編集を行いたいとも思っています。例えば、今回出展する《ふたつの石》は、録音だけを切り取ったり、イメージだけを切り取ったり、様々な編集方法を模索する上でも、一貫して「二人」ということが強調されているように感じたので、それに応える形で展示方法を考えました。
―とても綿密にリサーチされているかと思いますが、作品のテーマは、頭の中の引き出しに収納しておき、ベストなタイミングで制作に取り掛かるのでしょうか。それとも、より衝動的に、今やらなければいけないという様に突き動かされて制作されるのでしょうか。
タイミングは大切にしています。基本的には、時事問題や、周りで起きている事柄、社会性のあるアイデアを元に、自分が感じていることは何か、何が問題になっているのかを突き詰めて制作にあたっています。その過程で、頭の中の様々な引き出しに蓄積されたものを少しずつ取り出しながら作品を構成する作業を行なっています。
―東京都現代美術館での個展に向けて、東京で滞在制作されている新作についてお聞かせ下さい。林芙美子と宮本百合子のテキストが題材になっていると伺いましたが。
今回、作品を制作するにあたり、日本社会の中でフェミニストと呼ばれる人々を取り上げることを考えました。日本の歴史を振り返ると、フェミニストの声は書き物で一番表現されています。『女人芸術』等の雑誌を読み漁っていく中で、林芙美子と宮本百合子の二人に注目しました。この二人の組み合わせを選んだのは、フェミニストなら誰でも良かったというわけではなく、一人一人が主体性を持って自立した考え方を持っていることを前提にしています。正反対の環境で育った林芙美子と宮本百合子ですが、それぞれが社会弱者や貧困を題材に取り上げているなど、共通する話題があって面白いんです。
宮本百合子は、アクティビストとして共産党でも活動し、自身の活動によって刑務所に入っていた経験もある女性。そうした活動以前には、7年間、女性と一緒に生活していた時期があります。彼女のクィア的な側面は、その時代にとって、特に面白いところかと思います。一方で、林芙美子も、彼女の表現の中で、女性を見る目がある種の同性愛的な目線で美しく描かれていて、そこが面白いところです。女性の社会的地位や性愛、戦争といった問題に切り込んだ彼女たちのテキストは、いずれも昔に書かれた作品ではありますが、今回、何故この二人に焦点を当てたかと言うと、現代社会の中で人々がもう一度見直し、解釈するきっかけになって欲しいと思ったからです。
―与謝野晶子や樋口一葉の様に、現代日本においては誰もが慣れ親しんでいる作家ではありませんが、彼女たちが抱えていた問題は、実は、未だに、現代社会にも通じるところがありますよね。
両者が、現代の日本ではあまり有名ではないということについて、特に、林芙美子は女性作家としては有名ですが、日本人全体の作家としては有名ではありませんよね。このジェンダーの差は、自分が取り上げたいテーマにもなっています。「女性作家」という肩書は何故必要なのか、疑問を抱いています。
―日本のフェミニズムに注目されたきっかけは?
今まで作品制作をしてきた中で、長い間、フェミニズムは重要なテーマでした。近年、日本の若い世代がフェミニズムに関心を持ち始めている中で、日本の歴史上、どの様な流れがあったのかというところに興味を持つようになりました。現代日本のフェミニズムについて、どういった対話がされているか理解したいという想いから、今回の作品制作に至っています。作品に取り上げる際は、一つの視野の狭いフェミニズムに焦点を当てることはせず、貧困の格差、ジェンダーやセクシュアリティの問題等、社会全体とフェミニズムがどう関与して繋がっているのかを大切にしています。新作では、幅広い世代の参加者の対話が展開されているのが面白いところです。
―言語的な意味に頼らないコミュニケーションの比重の方が、日本では大きいかもしれません。言語的なものをテーマなりモチーフなりとして作品を制作した時に、日本では、言語の意味以外の重要性が実は非常に大きかったというところで何か思うことはありましたか?
今回の制作では、最初にいくつかの要素を選択し、その後はある程度距離を持った立ち位置で、作品と接しています。作品には、生まれた時から日本で暮らす人々の他に、他国から移住してきた移民の方々も参加しています。後者は、日本で暮らし、日本語を話すことには全く問題がないけれど、両者の間には、ある程度の差異が出てくるわけです。皆が同じ距離感や環境で対話をしているわけではなく、それぞれの立場があり、コミュニケーションをとっているので、日本的な要素だけではないものも、本作には含まれています。日本語には、行間を読むとか、暗黙の了解といった特徴はありますが、本作では、実際に撮影に参加した方々は、私が想像していた以上に、自身の言葉を用いてオープンな対話を重ね、その姿勢に驚き、感動しました。
―東京での滞在制作はいかがですか?
Super! 滞在先と、撮影やリサーチの現場を往復する毎日ですが、色々な場所へ行き、多くの人に出会うのを楽しんでいます。滞在先の長屋は、伝統的で珍しいですし、ちょっとプリミティブですが、とてもチャーミング。畳の部屋で寝る時は障子を閉めていますが、障子を開けるととても開放的になったりと、小さい空間ですが居心地が良く、建築的にもとても気に入っています。昨日はとても寒く、セーターを重ね着して凍えて過ごしていましたが、長屋での寒暖の差ともうまく付き合える様になってきていると思います。エアコンをつけると簡単に暖かくなる。
これまでに2回、東京を訪れたことがありますが、東京の印象は日々変化し続け、今日と明日では全く違うなんてこともあるのではないでしょうか。全体を把握するという意味では、まだまだ一部分しか見られていませんが、今回は滞在制作をしているので、関わる人々を通じて、今まで以上にリアルなものを洞察できているかなと思います。今の東京、そして日本を見た時、そこで暮らす人々が矛盾する二面性を持っている印象を受けました。抑圧され心にしまっているものがある様にも見えますし、一方で、作品制作においては、皆さんとてもオープンに話してくれ、開放的な部分がある様にも感じました。
―「すみだ向島EXPO 2022」にも出展されていますね。(※会期:2022年10月1日〜2022年10月31日迄)
イギリスで撮影した《From Left to Night》という作品です。2016年のあいちトリエンナーレでも展示しましたが、今回は、土間があって、小上がりがあり、畳があって台所がある-そんな昔の家で作品を上映しています。これまでにない展示スペースの使い方なので、今後《From Left to Night》はこのスタイルで上映することにしようかしら。
―作品を通して、その先に達成したい、大きな世界像があればお聞かせ下さい。
作品を通して、人々が今まで考えたことのない視点や抱いたことのない感情を新たに発見するきっかけになると良いなと願っています。皆さんには、積極性を持って展覧会に足を運んで欲しいですし、受動的ではなく、主体性を持って作品を見ることで、観客の対話が生まれる様な展覧会を目指しています。