Masanori Tominaga & Sosuke Ikematsu
Masanori Tominaga & Sosuke Ikematsu

三年前と現在が交差する。監督・冨永昌敬と俳優・池松壮亮が紡ぐ一夜のストーリー

Masanori Tominaga & Sosuke Ikematsu

photography: Yudai Kusano
Interview & Text: Hiroaki Nagahata

Portraits/

映画『白鍵と黒鍵の間に』は、昭和末期の銀座を舞台に、片や場末のキャバレー、片や高級クラブに雇われている二人のジャズピアニストと、彼らをとりまく人間模様を描いた映画だ。原作は、ジャズピアニストの南博が自身の体験を記したエッセイ。そこに、『パンドラの匣』や『素敵なダイナマイトスキャンダル』などで知られる冨永昌敬監督が、本で描かれた3年間を一晩に凝縮し、南博という一人の人物を南と博の二人に分けて同時に登場させるという仕掛けを加えている。中でも物語の序盤、博がとある事件をきっかけにキャバレーをクビになったと思ったら、今度は南が近くのクラブへ向かう場面には、奇妙な時間軸に戸惑いを覚える人も少なくないだろう。時空を超えて主人公の運命が交差することで、「人生」についての普遍的なテーマが浮かび上がってくる。今回はそのあたりの意図を訊くために、冨永監督と池松さんに短いインタビューを行った。

三年前と現在が交差する。監督・冨永昌敬と俳優・池松壮亮が紡ぐ一夜のストーリー

—『白鍵と黒鍵の間に』の時代設定は前作『素敵なダイナマイトスキャンダル』と同じく昭和末期で、冨永監督の幼少期とも重なります。近年、『フェイブルマンズ』(22)や『リコリス・ピザ』(21)、『ROMA/ローマ』(18)など、国外では監督の幼少期にあたる時代や幼少期の記憶そのものを描く映画が続けて上映されており、そのタッチや温度感は作品ごとに異なりますが、冨永監督は昭和末期を描くにあたってどんなことを意識されましたか?

冨永:『素敵なダイナマイトスキャンダル』は年代記でした。いっぽう今回は、南さんが銀座で体験した数年間を一晩のあいだに語るというスタイルで、年月の移り変わりや時代らしさを描くことはしませんでした。

 

—たしかに、前作では映像の質感からデザインまわりまで、「昭和」というテイストが一貫されていました。それまでの作品もふまえて考えると、私はてっきりあの時代に思い入れや愛着があると思い込んでいたのですが。

冨永:あの頃は好景気で歓楽街が盛り上がっていて、みんなが浮かれていたというイメージが刷り込まれているけれど、そういう表象を僕は面白いと思ったことがないので。(原作のエピソードに関して)バブルだからこそ高級クラブにピアニストがいたのかもしれませんが、映画の中では昭和末期という時代から人間を切り離したかった。

—なるほど。昭和讃歌、バブル讃歌としての映画ではなく、そこにいた人間や事件だけを抽出しようとしたわけですか。

冨永:そうです。ピアニストの映画は撮りたかったんですけど、お水の映画は撮りたくなかった。それに、時代再現の観点からみても、ロケの時点から無理がある。クラブの内装や雰囲気にしたって当時はちゃんと新しいものだったはずなんですが、今作はいつの時点からみても古くさい場所で撮っていますから。とにかく作品と昭和末期ならではの表象を無関係なものにしたかった。

—昭和末期とはすなわち、ひとつの時代が終わるターニングポイントでもあると思うのですが、その点も作品に関わってくるのでしょうか?

冨永:あの時期、ニュースや新聞で毎日のように天皇の下血量が報告されていました。明らかに何かが変わるタイミングだったし、クラブのお客さんたちの間でも実際そういう話題が出ていたと思います。

—池松さんは今の冨永監督のお話を受けて、演者としてどう打ち返そうと考えていましたか?

池松:最初は当然時代設定を踏まえてこちらは考えていきました。冨永さんと話していくうちに意図が理解できたので、少し別の方向にシフトしました。時代を触っていながらも時代を超越することがテーマの一つになったかもしれません。(昭和的なモチーフを)おさえるところはおさえていましたが、時代に囚われないというよりもノスタルジーの感覚、主人公の人生を振り返るような要素と、その中の普遍性を大事にしたいと思っていました。先ほど『ROMA/ローマ』(18)や『フェイブルマンズ』(22)や『リコリス・ピザ』(21)の指摘が出ておもしろいなと思ったんですが、今作も現在と地続きにある過去を振り返るような、ノスタルジーの感覚のみを抽出できたら、面白いんじゃないかと思っていました。

—この映画は序盤で時間軸が狂って、過去と現在が溶け合うところでまず観客が戸惑うと思うんです。その戸惑いは最後まで残り続けるんですが、さらに極め付けは、ビルの隙間に落ちて浮浪者と出会って「ゴッドファーザー 愛のテーマ」の替え歌を一緒に歌うシーン。ここで映画がいきなり転調しちゃう。

冨永:あの場面、池松さんはカットバックでもう一人の自分と芝居することになるじゃないですか。撮影の時は僕が代役をやっていたんですけど、誰が見たってあれは2人が同一人物だってわかりますよね。「どうせこの浮浪者も主人公だろ?」って。

池松:構成は一見複雑ですが、そこまで難しいことはやっていないし、とても丁寧に紡がれているのでどっちが博でどっちが南ということさえ分かれば、そこまで混乱することはないと思います。

—クライマックスでああいうシーンを入れてくるというのは、監督の中に「観客を煙に巻きたい」という気持ちがあるんでしょうか?

冨永:自分がそういう映画を好きなんでしょうね。半分は「純粋にそれを楽しんでほしい」という気持ちと、もう半分は「そんなに簡単にわからないよ」という気持ち。作っているこっちもよくわかっていない部分がある。2人でゴッドファーザーの替え歌を歌っているところは、台本を作っている時点ですでにバカバカしくて(笑)。でも、だからこそ残そうと。「主人公はこれからどうなるんだろう?」という後半のシーンだったんで、一番バカなことをやりたかった。こういうことをやると怒るお客さんもいると思うんですよ。青山(真治)さんからも「そろそろやめたら?」と言われていたし、実際にやって空回りすることの方が多い。でも、僕はそれがしたくて映画を作っているんです。

—しかもあれはギャグではないんですよね。「訳がわからない」を直視して何を感じるか、という話でしかないのかなと。

冨永:そう、笑わせようとしているわけでもない。ギャグじゃなくて本気なんだと。あのシーンで笑い声がおきると、その人がおかしいんじゃないかと思ってしまう(笑)。ああいうことが相応しい人物、場面が好きなんです。

 

—森田剛さん演じるチンピラの「あいつ」と南さんが二人三脚するシーンも、いきなりくだらないし、だからこそ組長の肩代わりで刑務所に入ったのにシャバに戻ったら居場所がない「あいつ」の物悲しさが際立っています。

冨永:あのシーンはもともと「二人三脚をやろうと言われて断る」という流れだったんですが、その日までの二人の様子をみて、急遽実際にやることにしたんです。あいつを走らせてあげた方が、彼の悲しみが作品の中にうまく混ざるだろうなと。(走っている最中にズボンのポケットからボロボロと落ちていく)刃物と拳銃が最初の方はうまく落ちなかったりして、「うまくいかないね」とかって笑い合いながら……あそこの撮影は全部楽しかった。

池松:まさに間ですよね。深夜、ビルとビルの隙間の路地で、全く違う人生をたどってきた男二人が、二人三脚をしている。博の、「俺は一体何をやっているんだ?」を形にしたようなシーンでした。今作にはそういった、人生の連続性の狭間を象徴するようなシーンが何度か出てきます。しかしそういった間にあるシーンにこそ僕は人生を感じました。一体何をやってるんだろう、これはなんの時間なんだ、ということの連続の中に人生があるような気もしています。

冨永:池松さんはだいたいのことは「やります」と言ってくれる。僕が気を遣っていたのは、ピアノの演奏シーンがあるからセリフを増やさないようにしようとか、また別のところですね(笑)。

—本作も含めて、冨永監督の作品には、「自分がやりたいことを社会の中でどう実現させていくか。社会から求められる自分の像をどう受け入れるか」という問いかけが込められていますよね。それはやはり、南さんのようなミュージシャン、表現者だからこその葛藤だと思われますか? もしくは、一般的なものとして描こうとしているのでしょうか?

冨永:後者です。いま仰ったようなことは、ミュージシャンや俳優に限らずどんな仕事でもあり得ること。会社勤めの方でも、成績を出しているのに会社が評価してくれないとかって、普通にあるじゃないですか。本作の主人公が葛藤しているのは、ピアニストだからってことでもなく、この時代だからってことでもない。つねにどんな映画でも、主人公というポジションに立つ人間に与えられる試練、壁じゃないかと思います。

—では、映画の中で現代的なトピックとリンクさせたシーンはありますか?

冨永:現代のトピックといえばブルシット・ジョブです。誰も聞いていないピアノを毎日弾かなければならないという仕事は、まさにブルシット・ジョブですよね。南さんいわく、当時は一日10回くらいゴッドファーザーを弾かされたと。それって相当疲れただろうし、頭がおかしくなっても仕方がない。そういえば、僕から南さんに一度「ゴッドファーザーを弾いてください」とお願いしたことがあるんですが、「うーん」って黙られたことがありました。ずっと封印していたから、弾いたら大変なことになるということで。

—ジャズを志していたミュージシャンからすれば強烈なトラウマですからね……

冨永:ただ、ちょっと羨ましいと思うところもあって。映画の中に「手が勝手に弾いちゃう」という池松さんのセリフがあるんですが、僕の場合は「勝手にカメラをまわしちゃう」「勝手に脚本を書いちゃう」みたいなことはあり得ない。だから、その域に達してみたいという気持ちもどこかにあります。いや、でもまあ、本当はやりたくはないですね(笑)。

—池松さんがこの作品を一鑑賞者として観た時に、どの部分にもっとも心を打たれましたか?

池松:一鑑賞者になれることはありません。5年後くらいに見直した時、そういう見方ができるのかもしれません。たくさんの願いを込めましたが、主人公の人生の隙間を音楽が埋めていたように、この映画を観てくれた誰かのほんの心の隙間を埋められるような、そんな映画になってくれることを願っています。

—最後に、監督へ質問です。演出でも脚本でも撮り方でも何でも構わないのですが、この映画で「やれてよかったな」と思うところはどこでしょうか?

冨永:演出の部分で、3年前、現在、さらに3年後の人間を一晩に登場させることで、「人間は変身しますよ」ということを伝えられたのは良かった。過去の作品でも、時間を経て中身が変身する人はいましたが、今回は全て一晩の話になったことでその人の外見が変わったことが露骨に分かるんですよね。それは僕自身、ずっと考え続けてきたテーマでした。