hiroshi mikami
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「僕は自分では何も決めていません。行動はしたけどね」アンダーグラウンドとメジャーを自由に生き来する、俳優・三上博史のまなざし

シャツ ¥110,000、カフス 参考商品/共に TOM FORD (トム フォード)

hiroshi mikami

model: hiroshi mikami
photography: chikashi suzuki
styling: michiko kitamura
hair: amano
make: tomohiro muramatsu
text: tomoko ogawa
edit: daisuke yokota
special thanks: roko mishima

Portraits/

「俳優・三上博史」を見出した寺山修司作品を演じ、歌い、後世に語り継いでいくことを使命としながら、役者として舞台、映像の世界で活躍し、音楽活動も続ける三上博史。彼が2024年1月、約8年ぶりに舞台へ戻ってきた。全公演ソールドアウトで千秋楽を迎えた、寺山修司没後40年記念公演/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演『三上博史 歌劇 ―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』は、現在、3月10日までアーカイブ配信中だ。寺山のスピリットとエネルギーを、肉体を通して体現する彼が、俳優として、そして人間としての自己について語る。
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「僕は自分では何も決めていません。行動はしたけどね」アンダーグラウンドとメジャーを自由に生き来する、俳優・三上博史のまなざし

 

―三上さんは、15歳で寺山修司さんと出会い、そこから現在に至るわけですが、当初は、役者として生きていくことは想像もしていなかったとか?

そうですね。僕らが10代の頃は、学歴や内申書の評価で人生が決まるという時代だったんです。だから、職種も何でもいいからできるだけお金を稼ぎたかったし、それが成功を意味すると思っていました。勉強が好きだったわけでもなく、小・中と必死で勉強して、高校も志望校に入り、一息着いたタイミングだったんですよね。同級生に変わった奴がいて、ある時彼が、泉鏡花原作で映画『草迷宮』(79)のオーディションがあると教えてくれて。泉鏡花も興味はないし、映画だったら、『ゴジラ』シリーズや『エクソシスト』(73)しか観ていないような子どもでしたけど、その時一瞬立ち止まって、大学に進学して卒業して社会に出るまで、自分の計画の中ではあと7年あるぞと気づいて。それで、それまでできる限りの挑戦をして世の中を見ておこうと思ったんです。それで、興味はない世界だけど覗いてみようと応募しました。

 

―その公開オーディション先で、いきなり主役の座を獲得してしまうわけですね。

会場が今はなき青山ベルコモンズで。学生服を着て、学校をサボって行ったんです。会場に上がってエレベーターの扉が開いたら、目の前のフリースペースに、寺山修司の芝居の世界が広がっていた。演劇実験室・天井桟敷のメンバーたちが、裸で白塗りで踊っていたわけです。そんな光景は見たこともないしわけがわからなくて、あまりのショックで吸い寄せられるように見ていました。すると、後ろの方から「カランカラン」という音がして。振り返ったら、厚底のデニムサンダルを履いたトレンチコート姿のおじさんが立っている。僕は思わず睨んでしまったんですよね。あ、この人が寺山さんかもしれないと思って前を向いたら、ぽんぽんと肩を叩かれて、名前と番号を聞かれて。それで、『草迷宮』に主演することになりました。

『草迷宮ポスター』1983年 | 写真:小竹信節 | デザイン:粟津潔

『草迷宮ポスター』1983年 | 写真:小竹信節 | デザイン:粟津潔

―寺山さんとは、どのような交流をされていたのでしょうか?

その頃にはもう寺山さんは入退院を繰り返していたので、病院にお見舞いに行ってはいましたが、一対一で座って話し合うようなコミュニケーションを取っていた覚えはないんです。すごく俯瞰で遠くから見られているような感覚で。天井桟敷をはじめ、彼が作った見るものも聞くもの全てがかっこよかったし、僕は大好きだったんですよね。またさらに一歩進むと、彼のオリジナリティやルーツは何だろうと気になり出します。当然ながら、寺山さんの映画や舞台を見ていくと、フェデリコ・フェリーニやピエル・パオロ・パゾリーニにたどり着く。彼の書物だったら、ふせんを一つずつ辿っていく。映画、舞台、書物だけじゃなく、音楽、美術とあまりにも広範囲の領域で、それを一つひとつ紐解こうと追いかけている気がします。未だにどこへ行っても、何をやろうとしてもふと気がつくとそこには寺山さんがいる。

―ある意味、神様みたいな存在ですかね?

当時、そうは思っていなかったですけどね。そこから僕の人生の枝葉が伸びて、行く先ごとに全部先回りされている。例えば、男として芝居をやってると、倒錯する女の役柄に強い憧れがあって。僕が大好きなのは、例えば、テネシー・ウリアムズの戯曲だったら、『ガラスの動物園』のローラだったり『欲望という名の電車』のブランチだったり。ウッディ・アレン監督の『ブルージャスミン』(13)でケイト・ブランシェットが演じていたジャスミンだったり、ジョン・カサヴェテス監督の『こわれゆく女』(74)や『オープニングナイト』(77)でジーナ・ローランズが演じる女だったり。そういう役を演じたいという欲求はものすごくあるんですね。そういうものも寺山さんはトレースしている。

―20歳前後の頃に、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(83)やポール・シュレイダー監督の『MISHIMA : LIFE IN FOUR CHAPTERS – Paul Schrader』(85/日本未公開)にも参加されていますよね。その頃は、まだ一般企業への就職を考えていたんですか?

迷いながらでしたけどね。18歳の頃にバイトをしていた喫茶店で、手に取った新聞に大島渚さんが新作を撮ると記事が出ていて。社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件のテロリストの少年・山口二矢を主人公にした映画で、新人を使う予定だと書いてあって、喫茶店からすぐ新聞社に電話をかけました。そうしたら、出た人が、偶然担当記者だったんです。当時、映画『草迷宮』はまだ公開されていなかったので、「『草迷宮』に出た者です」と伝えたら、「大島さんの事務所に電話しなさい」と電話番号を教えてくれました。すぐ電話をかけたら、今度は大島さん本人が出たんです。また、こういう者でと自己紹介をしたら、「知ってるぞ、寺山の映画だろ。すぐに会いに来なさい」と言うので、すぐ事務所に行って、その後も3、4回ほど面接をして、「君で決めたから」と言われました。次はプロデューサーを紹介すると言われていたけれど、待てど待てど連絡が来なくて。冗談だったのかなと思っていたら、自宅に封書が届いたんです。「申し訳ないんだけど、僕はこの企画を投げてしまった。東映で撮るかもしれないから、履歴書を持って行きなさい。あなたの良き未来をお祈りします」と書かれていて、履歴書を送り返されてしまった。結果、その映画の企画は消えてしまったのですが、数年後、『戦場のメリークリスマス』を撮るときに、またオーディションに呼んでもらって行ったんです。事務所に一列に並ばされ、「三上は、そっちの部屋で衣装合わせて」といきなり言われて。「どの役かもわからないし、台本ももらっていないんですけど」とスタッフの人に言ったら、「そこに積んであるから1冊持って帰っていいよ。一兵卒だから」と返答があって。フィッティングを終えて、すぐ喫茶店で台本を読みました。そうしたら、涙がポロポロ出てきて。止まらなくなっちゃって。

―悔し涙ですか?

そう。「類人猿のような声をあげ、セリアズ(デヴィッド・ボウイ)に殴りかかる兵卒」と書かれたト書きがひとつだけしかなく、セリフがなかったんです。喫茶店も閉まってしまって、夜10時頃、このままでは帰れないともう一度大島さんの事務所に戻ったんです。そうしたら、灯もついていないし、誰もいなくて。終電間に合わなくなるけどちょっと待ってみようと座っていたら、深夜2時くらいにエレベーターで大島さんと助監督が上がってきたんです。僕はもう言葉が出なくて、おいおい泣いてたら、「どうした? ちょっと入れ、ビールでも飲め」と。そこで出た一言が、「悔しい……」でした。他にもセリフのある役があるのに、なぜという思いをぶつけたら、「オーディションというのは、力量を見る場合もあるが、存在感を見るんだ。この映画の役には合わなかっただけの話だから、今回お前は一兵卒役だ。一緒にラロトンガ島に行こう」と言われて。一応、受験生でしたが(笑)、とりあえず家に帰って、入院中の寺山さんに相談に行くわけです。その時にもらったのは、「大島の作品だったらきっと面白いぞ。人生の経験として、こんな機会はあまりないぞ」でした。その一言で、ラロトンガ島に行くことになるんですけど。

―悔しさを抱えながらの撮影現場はいかがでした?

島に日本人がいないので、日本兵のエキストラを全部やらなきゃいけなかったんです。僕の出演シーンは、最後に撮ることになっていて、クランクインから約一ヵ月間ずっと、その日のために、朝から晩まで張り詰めてました。とはいえ、すごく楽しかったですね。毎日、デヴィッド・ボウイや坂本龍一さんの部屋でパーティー三昧でしたから。そして、撮影の日が来て、負傷兵としてニュージーランドから集められた、300人のハンディキャップのある人たちがボウイと坂本龍一を囲んでいたんですね。ト書きだけのシーンなのに、僕はものすごく震えてしまって。テストが終わったら、彼らが拍手をくれて、ありがたいことに、300人の観客の前で僕は演じることができたんです。でも、助監督の一人だった上野尭さんに、「今のじゃだめだ。もっと溜めろ」と言われて。出演したシーンは本当に一瞬ですけど、上野さんとのやり取りが、すごく勉強になったし、ありがたかったことは覚えています。ニュージーランドから帰ってきてすぐ、TBSで打ち合わせ中の上野さんから電話があり、「明日空いてるか?」と呼び出されたんです。その場で台本を渡されたのが、初出演したテレビドラマ『無邪気な関係』(84/TBS)でした。

―それ以降、トレンディ俳優としてブレイクしていくわけですね。自ら、メジャーな方面に舵を切ったわけではなかったんですか?

映画の撮影現場は100%祭りだと捉えていたので、祭りに参加するなら、商業的なものより原始的で自発的な方が楽しいじゃないですか。だから、そういう作品を選んでいました。ただ、『無邪気な関係』の出演が決まる前、21歳のときに母親が死ぬんです。それをきっかけに、商業的なお祭りもいいかなと考えるようになった。毎日、母親のお見舞いに行く中で、売れない女優だった彼女が、病室の枕元で、「これからどうするの?」と僕に聞くんですね。進学するか役者の道に戻るかをすごく迷っていたタイミングだったので、母親から「このままやってもいいんじゃない。でも、性格俳優にはならないでね」と言われたんです。どういう意味かわからなくて考えた結果、性格俳優が悪いということではなく、きっと、寺山修司や大島渚のようなアート系とされる映画だけではなく、もっとたくさんの人に顔と名前を知ってもらいなさいよ、ということなのかもなと思った。それで、やってみるかと。だから、全部の出来事がつながってるんです。僕は自分では何も決めていません。もちろん、行動はしたけどね。

―したけどねどころじゃなく、めちゃめちゃ行動されてますよね。ちなみに、1987年以降、トレンディードラマのエースの愛称で親しまれていたことには、どんな思いがありますか?

僕は寺山門下だし、当時の僕は美意識の塊でしたから、「世間なんて!」と斜に構えていたんですね。ドラマや映画の現場にスタイリストという職業もまだなかったので、自分で古着などを集めていたんだけれど、金髪でロンドンのワールドエンズのジャケットを着て、こんなにかっこいい格好しているのに、なぜ役はどうしようもなくダサいんだと。いやいや役者なんだから、しょうがないだろうと問答するわけです(笑)。その頃住んでいた青山4丁目の小さい部屋には、白い壁があったんですね。そこに台本がどんどん増えてくる。読みながら、イライラして台本を壁に投げつけるから、漆喰の壁が削れてきてしまってました。そういうやるせなさをモチベーションに、商業的なもの利用するということではなく、何か実験できる可能性を常に探しながら、もがいていました。基本として、若者の普通のラブストーリーという筋書きがある中で、どうやって面白がれるか、どんな芝居を実験できるかを。映画の世界は当時の僕にとって、すごく大事な場所だったので、なかなか実験できなかったんですね。一方で、昔のテレビドラマは、計画的に前倒しで撮影する今とは事情が違って、前の週に撮っていたものが翌週に放送されるようなスピード感でやっていたから、気に入った映画の要素を試す場としては最適で。ある時、野島伸司さん脚本の連続ドラマ「君が嘘をついた」で高視聴率を取れたので、少しずつ数字が取れるようになると、発言権ももらえるようになるから、プロデューサーから「なんかやろうぜ」と相談されたときに、「日本のテレビドラマじゃできないかもしれないけど、映画『ベティ・ブルー』(86)みたいなドラマをやってみたい」と話して、それがドロドロで破壊的な「この世の果て」につながっていった。「トレンディ」とジャンルとしてはくくられていても、トレンディでもなんでもないよ。だって、銀座で水商売をしている女が男を囲う話ですよ。

―確かに(笑)。ちなみに、寺山さんに「舞台には出なくていい」と言われていたそうですが、それは、自分の舞台には出なくていいという解釈なんですかね?

寺山さんって面白い人で、例えば、新しい舞台をやるから、美術、音楽、役者が必要だ、とメンバーを集めるのは一般的ですよね。寺山さんの場合は、「家出のすすめ」じゃないけれど、面白そうな奴を見ると、「俺んとこ来いよ」といろんなタイプの人を集める。その最たるものが、劇団天井桟敷で、自分の趣味性やエゴを実現させるための場だった。一方で、きらびやかな世界も好きな人だったんですよね。沖縄で『さらば箱舟』(84)の撮影をしていて車に乗っていたら、「今年の歌謡レースの新人賞は、松田聖子で決まりだよ」とか言い出すの。そういうの興味があるんだ……、って僕はポカーンとしながら聞いてたけど(笑)。

『さらば箱舟』1982年 | 撮影:小竹信節 | 右端に映っているのは寺山修司の手

『さらば箱舟』1982年 | 撮影:小竹信節 | 右端に映っているのは寺山修司の手

―俗っぽさもあるんですね。

そう。だから、僕をそっち要員にしたかったというか、たぶん母親と一緒で、人気者になってほしかったのだと思います。住む世界を間違えるなよみたいな。高橋ひとみさんにも、自分の劇団にいるよりは、もっと大海原に行ってほしかったわけで。そういうこともあって、自分の舞台には出なくていいと言っていたんじゃないですかね。まあ、僕は技術的な面で舞台は向いてないし、ダメだろうと思っていたのですが。

―2003年、寺山修司没後20周年・パルコ劇場30周年記念公演『青ひげ公の城』に主演されて以降、活動の場を舞台にも広げられて。

テレビドラマに出続けていた30代の頃から少し病んできて、理由は本当にいろいろあって、それがぐちゃぐちゃになって雪だるま状態になってしまって。30代終わりで、とにかく、人前に立つことはやめようと思いました。一番大きな理由としては、人前に晒すような顔じゃないなと感じていたので。それで、40歳のとき、これを最後にしようと『青ひげ公の城』で舞台に立ったんですね。そうしたら、白塗りで化け物みたいな顔して笑ってる自分に対して、あれ、舞台って、顔どうでもよくない?と思えた。

―映像は、どちらかというとクローズアップで、舞台は引きの世界ですもんね。

そうそう。当時、僕はアメリカ西海岸の片田舎に住んでいて、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の舞台を観たんです。もちろんオリジナルキャストではなく、小さな劇場で11ドルくらいで。お世辞にもあまり素晴らしいと言える芝居ではなかったけれど、楽曲があまりにも良いので、これを歌いたいと思った。それで、帰ってきたときに、パルコ劇場の関係者に話をしたら、もう日本で企画されて主演も決まってると知り、諦めていたのですが、半年後に、「主役の人が降りたから、お前やれ。やりたいって言ってたよね」と電話があったんです。それで、2004年、2005年と2年連続で演じることができ、その次は、蜷川幸雄さんが声をかけてくれていたけれど、ずっと断っていたから、Bunkamuraシアターコクーンで『あわれ彼女は娼婦』(06)に挑戦してみたり、宮本亜門さんと『三文オペラ』(07)をやってみようとか、他の舞台作品につながっていきました。

―映像ではなく舞台だからこそ、解放された部分もありました?

演じることで、遠いところに行きたかったんですよね、映画でもテレビでも。舞台だと、「私は、今遠くにいます」と言ってしまえばもう遠くなわけだから、特にそれが可能になる。デメリットがあるとすれば、フィジカルに消耗することですね。倒れそうになるくらい体力的に厳しいから、時々映像を挟むようにしていましたね。まあ、映像も疲れるんだけれど、舞台がマラソンなら、映像は短距離で本数を稼げるというか。

―アングラとメジャーの活動を行き来されている印象がありますが、意図的にそうされているのでしょうか?

20代、30代は、アングラの比重が重くなったらメジャーをやるというふうにすごく計算していましたね。選択肢もたくさんあったから。今はそれほど数はないけれど(笑)、自分が選択する基準の幅は狭まっていないですね。結構許容量があるし、どこにいっても多くを得ることがあるのはわかってるから。意外とバランスが取れているとは思います。

―年を重ねて生きやすくなったという側面はありますか?

基本的には何も変わっていなけど、若い頃に比べたら、結構神経は図太くはなったかな。かつては知られてないところに行きたくて、いろんな国で暮らしていましたし、スーパーでトイレットペーパーやネギとか買えなかったので。「そんなの平気だよ。むしろ庶民的だなって思ってくれていいじゃん」と、割り切っている同時代に活躍していた役者たちはすごいなと思ってた。今は山で暮らしていますけど、降りてきて、高速に乗る前にコンビニでコーヒーを買って、馴染みの店の人たちと交流できているし。

―年齢は意識する方ですか? それともただの数字だな、くらいの感覚ですか?

自分は気にしないけど、人が気にするのが嫌ですね。役が成立するなら、実年齢はいくつだっていいわけだけれど、人々の気にするフィルターが入ってしまうと、この年齢でこの役は違うよねと感じてしまう。例えば、崩れかけた中年の人間がやるから素晴らしい役もあるわけで、若ければ若いほどいいという今の世の中の風潮は好ましくはないですね。

 
Photo by Chikashi Suzuki

Photo by Chikashi Suzuki

Photo by Chikashi Suzuki

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―去る1月に紀伊國屋ホールで主演されていた音楽劇『三上博史 歌劇 ―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない』でも、性別、年齢という既存の枠組みを飛び越えて、全身全霊で寺山さんの言葉を生々しいままで媒介されているように感じました。

今回の音楽劇を構成をする中で、気が狂った勘違いのロックスターが女になり、崩れてしまったけれど、まだ女は捨てきれていない年齢の女優がおばあさんになり、最後、少年に戻りたいという大きなストーリーがあったんです。俳優の渡辺えりさんが観に来てくれて、「最初の衣装、最高! 私も着て歌いたい! それから女になるでしょ、ばあさんになるでしょ、少年に戻ったわ」って感想をくれて。僕が説明していない全部を受け取ってくれていて、すごいなと思った。それと、30代の女性の友達から、「あの舞台であの役をやってるあの人は、絶対信用できる人だと思った」と言ってもらえたこともすごく嬉しかったですね。

―舞台の副題にもリンクしますが、役者という仕事は、自分という身体や経験を生かす仕事でもあり、その上で自我を消失させていく仕事でもあるのかなと想像します。三上さんは、どういう意識で演じられているのでしょうか?

例えば、今回の舞台で僕が演じている赤いドレスを着た女優が、「安いお金に身を売って」と言うとき、股ぐらに触れる動きがありますが、「あれ?ツルツルのはずなのに男性器がある」と毎回びっくりするんですよ。その傍らで、セリフを言っている最中に小道具の拳銃を出さなきゃと考えている自分もいて。だから、自分でもよくわからない状態ですね。

今回の舞台でも演出・音楽・美術を担当されていた、天井桟敷のJ・A・シーザーさんが、「人間三上博史に近づいている」とコメントされていましたが、三上さんはそのコメントについてはどのように感じました?

確かになと。どこか人形然というか、自分とは違う創作物としての俳優・三上博史としてずっと生きてきたような気がするけれど、非日常だった部分が日常になってき、元々の自分に近づいてきているのかもしれないですね。この2年間、山に暮らして、普通の日常を過ごそうと意識してきたんです。でも、自分は普通じゃないんだということがわかったんですよ。そうしたら、すごく楽になって。普通じゃなさを一度受け入れてしまったので、もう怖いものはないですよ。

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