shinichiro yoshida
shinichiro yoshida

人々の手と、時間が織りなす「白」の美しさ。吉田真一郎が描きなおすその「気配」

shinichiro yoshida

photography: shono inoue
interview & text: akane naniwa

Portraits/

「白色」と聞き、まず頭に浮かぶのはどんな色だろうか。暖かい日差しのような白、洗い立てのシャツのようにまっさらな白、子どもの口元からのぞく歯のようなやわらかい白。単一のようでありながら、さまざまな物語や景色を想像させる色でもある。美術家で、自然布の蒐集家・研究家の吉田真一郎は、そんな「白」を追い求めてきた人だ。東京・銀座の顔のひとつ「和光本店」地階フロアのリニューアルオープンと合わせ公開となったインスタレーション《白WI》は、長年考え続けた「なぜ白の作品をつくるのか」という問いへの、ひとつの集大成である。大きな影響を与えたドイツでの出会い、大麻布を研究する最中で再発見した白の美しさなど半生を振り返りながら、本作について伺った。

人々の手と、時間が織りなす「白」の美しさ。吉田真一郎が描きなおすその「気配」

—100年、200年前の白い麻布を複数重ね合わせ、1枚の作品に仕立てた《白》は、近年吉田さんが発表されている代表作です。まずはコンセプトの立ち上がりについて、教えてください。

若い時からずっと「白」を追求していました。もともとは白い絵の具でキャンバスに絵を描いていて、最初は風景とかを白で描いていたけど、だんだん抽象的な表現をするようになって。二十歳ぐらいから始めて、30代、40代……と続けていたけど、自分の気に入る作品ができあがらなかった。絵の具で描く白っていうのは、どうしてもつくりごとになるんですよね。白でバリエーションを出そうと思っても、結局絵の具を調整することになる。どうしてもしっくりこなくて。仕方がないと思いながらずっと続けていたけど、なかなか作品ができあがらない。

その後ドイツに渡った時に、Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス) に偶然出会いました。ちょうど、カッセルで「ドクメンタ」(1977)をやっていて、見に行った時にボイスの立ち上げた自由国際大学の学生たちと友達になりました。ボイスも仲間だと思って親切にしてくれたんだと思う。一緒にお茶を飲んだり、しゃべったり、いろんな店に連れて行ってくれたりして。僕の作品を見せた時に、ボイスから質問をされたんです。「なぜ白で描くんだ?」と。絵っていろんな色で描けるものだし、白だけで描いたもんだから興味をもったのかもしれない。僕もそういう人にあったら、同じように聞いたかもしれないってぐらい、ごく当たり前の質問です。でも僕は、大した考えを持って描いてなかった。白で描きたいから描いているだけ。自分なりにいいなと思っただけで、本当に人から見たら何の絵かわかんないんですよね。

—ヨーゼフ・ボイス(1921‒86)は戦後ドイツの現代美術の第一人者として知られ、多様な素材を用いた彫刻作品のほか、人々が意思を持って社会に関わり、未来をつくろうとするアクションを「社会彫刻」として提唱する活動家として、現在も多くの影響を与えるアーティストです。吉田さんは、ボイスの作品をどう感じられたのでしょうか。

当時はまだ日本でボイスは知られていなくて、帰国後、画廊に作品を見せながら「こんなアーティストを紹介できる」って話したこともあるけど、どこも興味を持たなかったほど。たしかにボイスの作品は、わかりにくいです。でも、僕は好きだった。作品の意味がわかって好きだったんじゃなく、ただひたすらかっこいい。それってものすごく大事なことなんです。絵がうまい、デッサンがうまいってことじゃなくて、センスがいい。ボイスはバターや蜂蜜など、いろんな素材でドローイングをするけど、僕からするとうまい、かっこいい。それだけのことです。彼の作品についても、質問しました。なんでこの素材でやっているのか、とか。言語能力もあって深くは理解しなかったけど、いろいろ答えてくれました。ボイスの作品に、ジャガイモを段ボールいっぱいに買ってきて、1つずつマジックで自分の名前をサインしたものがあります。「なんでジャガイモなのか?」と質問すると「我々ゲルマン人は、それで生きてきた」と。彼は徹底的に自分が使う素材について考えていて、「使うもの全てに意味がある」と言っていた。

なんで白を使うのか? という質問は、会うたびに聞かれました。恥ずかしいけど、本当に考えてなかったんです。ルーツも聞かれたけど、全然答えられない。「はじめて見た景色はなんだったのか」と聞かれたのも覚えています。覚えていることはあるか? と。僕は4歳の時に母親が結核で亡くなっていて、そのことをうっすら覚えているような、とか。日が経つにつれ、自分はなぜ白を使うんだろうと考えるようになりました。気がついていないだけで、意味があるんだって。ボイスに出会って、自分なりにショックを受けたんです。そのうち、現代アートを見ようと思ってヨーロッパに渡ったけど、見ている場合じゃないなと。人の作品を見に外国を周ろうという気がなくなって、日本に帰りました。

—日本に帰って、本格的に「白」のルーツを探す旅が始まったのですね。

日本に帰っても、頭からボイスの質問が離れないんですよね。考えながら白で作品を描いているけど、10年経っても作品できなかった。周りの人からは「本当にやってんの?」って言われるくらい、人にも見せませんでした。10年やってればなんかできるだろうって気持ちで続けたけど、30なっても、40になっても、50になってもできなかった。50代の後半になって、そろそろ諦めないとなと。できないことをできると思って勘違いしてやってきたんじゃないかと思うようになった。若い頃に描いた白の作品はいくつかあったから、最初につくったものが最後で、もうできないんだなと諦めの調子になりました。

—帰国後も作品をつくる一方、自然布を対象とした「近世麻布研究所」を立ち上げ、布を細部まで研究され続けています。特に麻布の研究においては、吉田さんは第一人者として知られています。

自分のルーツ探しとして、骨董屋から古い布を買ってきて、半ば遊びで研究をやっていました。顕微鏡で布を見ると、科(シナ)、芭蕉と、いろいろ繊維があることがわかります。骨董屋はだいたい「麻」として売るものですが、検査すると大麻や苧麻(チョマ)だけじゃない、いろんな繊維をもとにした着物や仕事着があることがわかる。200年前、400年前の人たちの衣料を手に入れて研究し、博物館や美術館で公開することをやっていました。これはアートじゃないからという気持ちで、10数箇所で展示をしたり、カタログや本をつくったり、講演をしたり。

60歳近くになった時、滋賀県愛荘町立歴史文化博物館と東近江市立能登川博物館で「高宮布」展を準備していた時のことです。滋賀は大麻布の産地なんですが、2つの博物館で展覧会を依頼されて。構成も全部頼まれていたんで、いろんな布を持って行って、何日間も会場の部屋に吊るして、どういう布をどう使おうかと並べて見ていました。目の前に、白い着物を30点ぐらい並べてみた。そのようすを見た時に、自分が描きたいと思った白の作品が、描いてないのにそこにありました。ゾワーっとして、これだ! と思った。江戸時代の大麻布の展示だから、美術でもなんでもないと思っていたものです。でも、そこで見たのは、何十年もやってもできなかったアート作品。まず、着物に異様な気配があった。これはなんだろうと思ったら、30枚とも同じ白がないんです。1点ずつ見ると「白」だけど、並べてみるとそれぞれ違う。博物館での展覧会が終わった後、着物をバラバラにして、表具仕立てに並べてみた。それで作品が成り立つんじゃないかと思ってやってみたら、成り立つんですよね。若い時から白を追求していて、半ば諦めた時に、できあがった。未だにキャンバスと絵の具でやっていたら、大した作品はできなかっただろうな、と。

—その時に、かつてボイスに尋ねれた「なぜ白で描くのか」に対する答えが見つかったといいますか。

ボイスの質問は一時も忘れていなくて、ずっと考えていたけど、やっぱり無意識なだけで意味はありましたね。能や狂言を研究している原瑠璃彦くんが、インタビューをまとめた本を出してくれたんですが、そこにまさにそうだな、ということが書いてあります。なぜ白なのか、そのルーツは全部「母親」。亡くなったのは4歳のことだから覚えてないし、懐かしがって会いたいという気持ちもなかった。寂しかったかもしれないけど、小さかったから母親が死んだショックや、記憶もないわけです。でも、人間は無意識の中に思いがある。

6歳の頃に見た夢で、はっきり覚えている夢があります。親戚から黒いランドセルをもらって枕元に置いてたから、小学校入学の前。その日、祖母からあとで聞いた話によると、僕は40度近い熱を出していて、これ以上出ると危ない、というぐらいの高熱でした。道を挟んで向かいに家があって、2階からその家の屋根が見える。そこに、白い着物を着ている女の人が立っていて。それが母親かどうかはわからない。でも、その人に会いに行こうとするんです。道1本隔てたところだから、距離はすごく近いんだけど、行こうとしても行けない。宇宙の本も読んだことないし、聞いたこともない、考えたこともなかったけど、なぜかそこが月のように遠い彼方の距離感を感じた。そういう夢を見たことを、あとで思い出しました。原くんが書いてくれたテキストでは、その白い着物を着た女性は、おそらく母親だろうと。言われてみたらそうかもしれない。そういうことを、ボイスは聞きたかったんだろうと思います。

—《白》はどのように制作されるのでしょうか。

骨董屋で白い江戸時代の着物を買うことからはじめて、ルーペで見て、手でつくった糸や織りのものをつかう。寺で保管されていた打敷などは享保とか文化、文政など奉納された年記銘が墨書きされていて、1700年代とか1800年代の布であることが確認できるんです。並べ方にはなんのルールもないけど、僕なりに並べて、表具屋に仕立てをお願いする。誰もやっていないだけで、もし、同じようにやろうと思えばできます。僕よりもいい作品ができるかもしれない。でも、ボイスのインスタレーションもそうで、ボイスが手をかけるから気配が出る。違う場所で展示をする時、もとの通り1ミリも狂わず配置しても、作家が直接置いたものじゃないと、ただ置いただけで何の意味もない。《白》も同じです。作家が手をかけることで「気配」が出る。

—大型の《白》は、2017年の山口情報芸術センター[YCAM](山口)での「布のデミウルゴス」展、2022年の HOSOO GALLERY (京都)での「白の気配」展でも発表されました。今回和光のショーウィンドウを手掛けるにあたり、意識されたことはあるのでしょうか。

YCAM は会場が広いので、白い着物をほどいたものを50本並べました。はじめての発表でしたが、現代アートの関係者も見にきて、これでいけるという手応えを感じましたね。YCAM、HOSOO GALLERY では照明に当てて《白》を見せたけど、和光のショーウィンドウではじめて自然光にしました。自然光が一番いいなという印象を受けたので。今回やってみて、僕の言う「気配」は共有するのが難しいんだなと思いました。難しいアートになっているんだろうなと。ショーウィンドウだから、多くの人がいいねと言ってくれるような作品を本音では欲しいんだろうけど(笑)。それには正反対のものかもね。刺さる人の心には刺さる作品になったと思います。

—「気配」はまさに、吉田さんの作品を読み解く上で重要なキーワードのように感じます。

同じ白の着物と思われるものがなぜ違うのかというと、布を拡大するとわかるんです。なので、和光で発表している作品には、後ろに拡大写真を並べています。捻りのかかった糸にかかってない糸、細い糸、太い糸、織密度がきっちりしたものやゆったりしたものと、いろんな織り方になっている。それらを光に当てると見え方も変わってきます。肉眼では見えないところに違いがあり、100年前と200年前でも白はまた違ってくる。そういうものが気配を生み出しているんです。

 

吉田真一郎の作品《白》は、19世紀、江戸時代の終わり頃から明治時代のはじめまでに織られた大麻と苧麻の布で構成されている。
これらの布は、吉田が日本のルーツを模索するなかで蒐集したものである。
いまや麻布(あさぬの)の文化は歴史に埋もれつつあるが、かつては日常的に用いられる織物だった。まっすぐに伸び、また、きわめて丈夫な麻は縁起の良い植物とされ、神聖な素材として神社の儀式などで盛んに用いられるほか、織物の文様のなかにもしばしば見出すことができる。
これらの麻布は、いずれも手績みによる糸と手織りで織られたものであり、
工業製品には不可能な綿密さを有している。
麻布は、水で洗い、天日晒(てんぴざらし)、すなわち、日光のもと干されることを繰り返すことで、
柔らかくなり、また、より白くなる。
これらの布には、およそ200年の時間が蓄積されており、
一つひとつの微細な「白」の陰翳のなかに、歴史が刻み込まれている。
このショーウィンドウにかけられた「白」の幕は、
セイコーハウス/和光本店の内と外の境界の幕である。
それは、今回新たにオープンした「時の舞台」への幕であるが、同時に、
さまざまな人々が往来し、時代とともに発展してきたこの銀座という劇場への幕でもある。
「白」とは、種々の色彩のなかの単なる一色ではない。
「白」とは、すべての色の起源でもあり、また、終着点でもある。
はじまりにして、終わりの色としての「白」。
銀座という劇場を見守り続けてきたこの建物において、
いまふたたび私たちが自身のルーツを探し求め、そして未来へ向かうにあたって、
これらの白布は種々の手がかりを与えてくれるだろう。
原瑠璃彦(日本庭園・能楽研究者)