alec soth
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「結局は自分の部屋の中でじっとしていたい」写真家アレック・ソスの内なる眼差し

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photography: taka mayumi
interview & text: chikei hara

Portraits/

2004年に写真集『Sleeping by the Mississippi』を発表して以来、いくつもの旅における悠久の時の流れを写真と詩から編み上げることで、今日のロードトリップを描く写真家の Alec Soth (アレック・ソス)。ミネソタ州ミネアポリスを拠点に活動を続け、写す対象と向き合いながら対話を重ねる彼の制作は、一貫して内的な思考による独自の哲学に紐づいている。

東京都写真美術館で開催中の企画展「部屋についての部屋」ではアレック・ソスによる、ソス自身の洞察が描かれている。本展は美術館独自の取り組みとして「部屋」をテーマにソスを代表する作品シリーズを再編することで、作品の変遷を辿るのではなく、これまでの作品を通底していた思考が読み解ける機会となっている。初期作『Sleeping by the Mississippi』や『Niagara』から、近作『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』、そして今年の秋口に発刊されたばかりの新作写真集『Advice for Young Artists』まで、さまざまな側面を通して固有の視点を細部から描く手法と近年の意識の変化も感じられる内容であった。展覧会に合わせて来日したソスに、内側に対して向けられた思考と自己の存在について、対面で話を伺った。

「結局は自分の部屋の中でじっとしていたい」写真家アレック・ソスの内なる眼差し

—展覧会の開催、おめでとうございます。2022年に日本で開催された個展からも少し時間が立ちますが、今はどのようなお気持ちですか?

それなりに時間が流れていますが、今はかなり感覚的に違うものを噛み締めています。まず今回の東京都写真美術館における展覧会は、今までの私の全容を振り返る回顧展ではないということ。独自のテーマ、そして独自の感覚があるということがかなり大きな違いなのではないかと思っています。

—本展は美術館独自の取り組みとして打ち出されていますが、1つの旅として写真や詩が編まれたシリーズや写真集とはまた別のまとめ方により、新しい意味が追求されることについてどう考えますか?

最近になって私自身が写真家としてどんな存在なのか、これに対しての理解を深めることができたところにあります。それらの理解に伴って自覚してきたのは、インテリアなど内にある空間についての思考が、私の中にある1つの共通するテーマとして根底を流れていたのではないかということです。それを知ってはいたけれども、意識的に表現することや掘り下げて発表することはこれまでしていなかった。今回の展覧会をきっかけに実は私がずっと取り組んでいたと思われるテーマを、キャリア全てと重ね合わせて振り返ることができたと感じています。

—内側へと向けられていた意識の気づきは、何をきっかけに得られたのでしょうか?

1つのきっかけになったと言えるかもしれないのは、2019年に『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』という写真集を出したこと。これはこれまで私がやってきたことに比べて、大きな方向転換であり、方針でもあったかと思います。世界に対して開かれていることと同時に、そういった写真を私自身が実は内なる空間、室内へと持ち込みたい感覚の両方を持ちながら相矛盾する衝動を抱えていました。そうしてインテリアに対して取り組んできたことと、アメリカを横断して、あるいは世界を旅をすることで知られていた私の活動とを重ね合わせることで、実は同時に存在し続けていたことが現れていきます。結局は自分の部屋の中でじっとしていたい、ずっと内にいたいという衝動が常にあったのです。

 

—近年制作された『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』でも、意識の内側に対しての眼差しが見受けられました。以前はミシシッピ川やアメリカのように、抽象的だが大きな主題へと向けられた意識は今日、個々のパーソナリティーや繋がりもない人たちを撮影することによって現れているようでもあります。そうした変化は実際に人と触れ合うことから変わってきたのでしょうか?

ちょっと込み入ったお返事にはなりますが、私がまだ駆け出しだった頃は世界に対して私自身の作品を見てもらうためには、1つの構築された「ストラクチャー」を打ち立てて、そこに私自身の作品を置く、あるいは掛けることによって発表していく方法が好ましいのではないかと考えていました。ここでいう「ストラクチャー」とはどういうことかと言えば、例えばナイアガラの滝やミシシッピ川などです。そういった大きなものに自分自身の作品を当てはめて見せていくことはしていたけれど、その中でも私が一貫してやっていたのは、ミシシッピ川に対してではなく、他のことについての作品として、大きな枠組みや絵図の中に置いていくことで発表しやすくしていくということでした。そこから私が写真家としてやろうとしている言語について十分に分かってくれる人々が、ありがたいことに増えたのではないかと近年思うようになり、構築されたものを一旦解体していく方法もあり得ると感じるようになってきました。

—そうした側面からも本展は、フレッシュなまとまりとして鑑賞しました。ソスさんの作品自体の構成も非常に重層的かつ抽象的、だけど写ってるものは具象的にも思えますが、作品の中にある余白がまた新たな余白として組まれることで、作品の作法や思考回路が紐解けるようなイメージがありました。ここでの主題はどこに置かれたのでしょうか?

それこそ私の作品作りの本当の確信に繋がってくることじゃないかと思います。私が最近、本当に大好きなのは、部屋や室内における本当のひとりぼっちであるということです。本当の意味での孤独、個であることが本当に好きでたまらないんです。取材前のご挨拶で「今日何をしましたか?」とあなたは聞きましたけれど、実を言うとホテルの部屋でひとりぼっち、じっとしていました。他に誰もいない部屋の中をただ1人で堪能するということ、それが本当に好きでたまらないんです。しかし実際の私の作品とはどういうものかというと、世界の中に出て行ってその中で私は部屋を探さなければいけない。その過程でどうしても必要なのは、人と出会いや交流の中でお近づきになることで、うまくいくとその人のベッドルームに入らせてもらえることです。本当に最高な瞬間というのはベッドルームに招いてもらって、「じゃあどうぞ」と独りにしてもらえること。その部屋の空間や味わいを徹底的に堪能して吸い込んでいくことが幸甚の至りなわけです。もう1つ、ご存じのようにカメラというのは元々「部屋」という意味の言葉でもあります。部屋であり、同時に箱である装置を通して私たちは写真を制作しますが、これ自体が1つのメタファーでもあります。私たちがそうしてお互いに繋がり合っているということでもあるのです。

—室内を自分の部屋として撮らせてもらうことを1人で味わうことができた瞬間に、誰かの部屋はソスが撮った部屋として、部屋が新しくイメージとして拡張されていくようですね。「A Room of Rooms」という本展のタイトルは、直訳すると「部屋についての部屋」ですが、それはカメラオブスクラでもあるし、あなた自身のことも示していますよね。

おっしゃる通りです。自分自身のお城を、そういった部屋を組み合わせることで作られています。私自身がずっと警戒してやまないのはドキュメンテーションやフォトジャーナリズムといった言葉を使うこと。その用語に対して非常に注意深い姿勢を示しています。というのは私自身にとって明確であるのは、写真を撮るという行為は実はこの部屋を自分自身が再構築していくこと、それを築き上げることに他ならないのではないかと感じているからです。どこの空間を写真に撮って、どのように見せて、組み合わせ、組み立てていくのか。それら全部を考えていくと、手を加えることによって自分自身が創造や構築を作り上げているというように認識しています

東京都写真美術館で開催中の企画展「部屋についての部屋」のキービジュアルとして使用されている舞踏家・振付家のアンナ・ハルプリンさんのポートレート | アレック・ソス《Anna, Kentfield, California》 〈I Know How Furiously Your Heart is Beating〉より 2017年 東京都写真美術館蔵 ⓒAlec Soth

—展覧会のキービジュアルとしても使用されている Anna Halprin (アンナ・ハルプリン) さんのポートレートには、どのような気づきがあったのでしょうか?

これは『I Know How Furiously Your Heart Is Beating』の最初の写真として撮影されました。それまで写真というものは、対象をただ撮影するという認識で、今とはかなり違うように捉えていました。あくまでも対象となる人や物の表面だけを撮るにすぎない感覚だと思っていたのが、このシリーズで室内にいる人と触れ、撮影した経験を通じて、これはエネルギーをお互いに交換し合うことであるということに気づかされたんです。写真そのものが光の現象であるということについても同時に考えるとこれもまたエネルギーを交換していることであると言えるわけですよね。複合的な意味でのエネルギーが同時にこの中には含まれますが、空っぽの部屋、人がいない部屋、 亡くなった方の部屋など、どんな部屋に入っていったとしても異なるエネルギーを明確に感じることができて、撮影という行いの中で交流され、エネルギーが取り交わされる感覚があります。

—自身の内なるエネルギーをさらけ出す恐さを感じることはありますか?

自分自身がどういう人間かと考えると、まず自分の心の中を覗き込んで内省することできっちりと落とし込んでから、また外に向かって考える姿勢で向かっています。ですから私の中で起こる変化や分岐点は、全て流れの中を経ています。私自身が自分の精神の中を覗いて、その結果出てきたものを通して変化を感じ取ることができる。このことが共通して見られてきていることではないかと捉えられます。

例えば写真集『A Pound of Pictures』は、トランプ政権に転換しアメリカの中の亀裂が凄まじくなってきた、政府分断がはっきりと見て取れた激動の時代に作られました。その時は社会の形をなんとか作品化できないかと取り組んでみたけれども、実際に撮れたのは結局心がないというか、どこか精神が抜けている空虚なイラストのようなイメージでした。それでも真面目に取り組もうと思ったこともありますが、作ってから私の本質とは違うものになってしまうことを実感しました。別の主題に取り組む中で気づいたのは、自分自身の人生にとって大きな意味を持っている、そういった人々を写真に撮っていくことだったんです。

—常に写真を撮ることは特別ですか? それとも今日の内的なエネルギーを求める旅はご自身にとっても特別な体験なのでしょうか?

内なる旅というのは、私自身の作品作りの取り組みの8割方を占めています。例えば、今回のように東京にやってくる時はカメラを持たず、自分自身の中への旅に集中しています。部屋の中でじっとして、自分の内にある旅をずっと重ねていくことで、初めて何かを作ろうと思うわけです。内なる旅から世界に向けての旅へと変化していく。そういった意味では私は常に作品作りというか、仕事をしているという風に思っています。他人から見たら1人でじっとしているだけじゃないかと思われてしまうかもしれませんが、常に100パーセントの時間はいつも作品作りをやっています。