shinsuke takizawa
shinsuke takizawa

「原宿の肖像」 滝沢伸介と原宿に集う仲間たち

shinsuke takizawa

photography: utsumi
interview & text: wataru suetsugu

Portraits/

1994年10月、原宿の遊歩道に位置するジャンクヤードで NEIGHBORHOOD (ネイバーフッド) を創業し、30年以上に渡り経営者兼ディレクターとして同ブランドをハンドルする滝沢伸介。

ブランド設立30周年の締めくくりとしてラフォーレ ミュージアムで開催された「NEIGHBORHOOD 30TH ANNIVERSARY EXHIBITION」の会場内で、滝沢伸介のこれまでとこれから、そして原宿の肖像について滝沢自身の言葉で語ってもらった。

「原宿の肖像」 滝沢伸介と原宿に集う仲間たち

—滝沢さんの生い立ちを教えて頂けますか?

長野県の何もない本当に田舎で生まれ育って、中学校中盤まで普通に育ってたんだけど、たまたま手にした音楽誌をきっかけにパンクにハマり始めて、田舎なのにパンク好きが何人かいて、一緒にバンド組んで地元でギグをやるようになったんだよね。それからロンドンに目がいって、ファッションにも興味を持つようになり、18歳で上京。大学とか全然興味なかったし、まだ幼かったのもあって大学行ってるやつは理解できないと思ってたから、東京に来る口実にバンタンに入ったんだけど、東京での遊びが面白すぎて全然教室にいなかった。そしたら4ヶ月でクビになったんだよね。もう来なくていい、って言われて。今だったら考えられないけどね。

—自主退学かと思ってました。

クビだったのよ。その頃って服飾の専門学校はどこも志高くて、入学するのも大変な学校があったりしたくらいだから。そんなこんなで東京出てきて4ヶ月でやることなくなっちゃって、暇だしお金ないからバイトしなきゃだめだなって。学校クビになって最初にやったのが交通量調査。

—バイトしてたんですか?

バイトいろいろしてたよ。交通量調査の次が、飛び込みで行ったらすぐ雇ってくれた、新宿アルタの DEPT (デプト)。それとアフタヌーンティーでお茶くみもやってたんだけど、お客さんが残したマフィンとかスコーンを裏で食べたり、とっておいて後で食べたりしてた(笑)。当時出来たばかりの西麻布のピカソってクラブでオープニングのDJもやってたね。

—当時はどんな音楽をかけてたんですか?

Grandmaster Flash (グランドマスター・フラッシュ) とか、Public Enemy (パブリック・エネミー) 以前のニューヨークのヒップホップ。当時、Wild Bunch (ワイルド・バンチ) とか Soul Ⅱ Soul (ソウル・II・ソウル) みたいなロンドンのアーティストのイベントがラフォーレ周りで多くて、よく行ってたね。パンクからロンドンファッション、その延長線上でヒップホップに流れるのがごく自然なことだった、当時は。(高木)完ちゃんとか(藤原)ヒロシくん、それにロンドンの Buffalo (バッファロ) もそうなんだけど、スタイルがミックスされてたんだよね。Seditionaries (セディショナリーズ) に Kangol (カンゴール) を合わせて、足元はスーパースターっていう、そのミックス感がすごいかっこよかった。それが現代的な日本独自のスタイルの源流になってるのかなって思う。僕はアフリカン・アメリカンでもないし、ヒップホップにちょっと違和感を感じてたんだけど、Run DMC (ランDMC) の「ウォーク・ディス・ウェイ」、その少しあとに Beastie Boys (ビースティ・ボーイズ) が出てきて、ようやくしっくりきたんだよね。Major Force (メジャー・フォース) で働いてた時からハーレーに乗っていて、バイカーがヒップホップとかクラブミュージックのレコーディングからセールスまで全部やってる自分に違和感を感じてて、なんか浮いてない?っていう気持ちで仕事してたんだけど、なんかの雑誌に Rick Rubin(リック・ルービン) の記事が載っていて、その出で立ちがキャップにヒゲで、めちゃめちゃアメリカン・ロックの代表みたいな格好してて、全然ありだったんだって思えた。それがMajor Force 初期くらいかな。

ラフォーレ ミュージアムで開催されたエキシビションでは、写真家・長濱治によって撮影された100組のポートレートと、フューチュラらともコラボレーションした特大のインセンスチェンバーを展示

—Major Force で働きはじめたきっかけは?

ヒロシくんが Natural Calamity (ナチュラル・カラミティ) の森(俊二)くんと僕に声かけてくれたのがきっかけ。給料月給でもらえるの超憧れるっていうだけで、右も左もわからないまま働き始めた。

—Major Force は日本初のダンスミュージック専門レーベルですよね。

そもそも Major Force は、東京でクラブとかレーベル、ファッション、全部を複合したものを作ろうっていう発想で始まったんだよね。当時はバブル期でめちゃめちゃ大きいところからお金を引っ張ってこれる予定だったから。だけど蓋を開けてみたらそうはならなくて、繋がりのあったソニー・ミュージックの傘下でインディーズという見え方にしてやろうと始まったんだけど、立ち上げから間もなくみんなヒップホップからいろんな方向に行きはじめて。

—藤原ヒロシさんは早い段階で Major Force を後にされましたよね。

そう。誘ってくれたヒロシくんが早々に、僕やめますって言い出して、いや、俺どうしようかなって(笑)。飽きちゃったっていうとネガティブに聞こえるかもしれないけど、みんなやっぱりクリエイティブがすごかったから、ヒップホップとは違うクリエイションに進んだんだよね。俊ちゃん(中西俊夫)は Down 2 Earth (ダウン・トゥ・アース) ってレーベル作ったりだとか。

—Major Forceで学んだことは大きいんです?

とても大きい。だってそれまではさ、アフタヌーンティーでお茶くみとか宴会場の皿洗いしかしてない田舎から出てきた礼儀もなにも知らないアホみたいな若者だったんだよ。一組織に所属して製作の企画からレコーディング、マスタリング、プレス、営業に行って売り場を押さえたり、実売調査まで一通り全部を一人でやってたから世の中のお金の流れがすごくわかった。自分のなかでビジネスに関してはその時のことが基盤になってる。それに社会性を身に着けたね。

—そもそも藤原ヒロシさんとはどうやって知り合ったんですか?

当時ヒロシくんは秀和代官山レジデンスに住んでて、森くんがヒロシ君の下の階に住んでたのもあってヒロシくんと仲良くなった。後々スケシンも(西山)徹もヒロシくんの家に入り浸ってゲームしたりしてたね。だからね、秀和はけっこう思い出の場所。

—スケシンと滝沢さんは2人とも愛称がシンちゃんで、ややこしいっていうのでタキシンと呼ばれるようになったんですよね?

元々はタキシンじゃなくてペットシンちゃんって呼ばれた。スケーターじゃないからスケシンと俺は一緒に遊ぶことはなかったんだけど、同時期に秀和で遊びだしてて、ヒロシくんがシンちゃんって言うと2人とも振り返るから、それでスケシンとペットシンちゃんって呼び方分けられるようになったんだよね。ヒロシくんはイグアナを飼ってて、爬虫類が好きだったからピーク時は俺とヒロシくんとデッツ(松田)君の3人でほぼ毎週早朝からペット屋を巡ってた。朝までヒロシくんちでファミコンやって、そのまま行ったりね。楽しかったな(笑)。

展示内では、1994年の創業当時のショップを再現。窓は実際に使われていたものでアーカイブから公開された

—新しい趣味ってあるんですか?

新しくはないけど相変わらず乗り物だね。それと買い漁るわけじゃないんだけどアートも。乗り物はやっぱり好きだね。

—乗り物は増え続けてるんですか?

増え続けてるね(笑)。コロナ禍のときにこれ以上増やしたらよくないと思ってバイクとか減らしたんだけど、また増えてるんだよね(笑)。色んな趣味があるなかでも、乗り物って乗ってどっか行けるじゃん。そこが大きいし、やっぱり楽しいからね。だから乗り物好きで良かったなって思う。

—滝沢さんが所有しているもののは、車はヨーロッパ、バイクはアメリカというイメージです。

確かにそうなんだけど、当時ヨーロッパ車のメインマーケットは自国じゃなくて北米だったのね。北米にイギリスの車もバイクも輸出されて、北米なりのスタイルにカスタムされてた。だからアメリカのそのまんまもいいし、ヨーロッパのものはアメリカのフィルターを通ったものが好き。そこは自然に自分はこんなのが好きなんだって気付いた。

—身も蓋もない話なんですが、買い続けてどうするんですか?

いや、ね(笑)。最近思うんだけど、10年後に乗りたいって思い立っても気力とか体力がきっとないと思うから乗れるうちに乗っておこうって思う。

—乗り物って値段もピンキリじゃないですか。自分の中で金銭的な線引はあるんですか?

もちろんあるよ(笑)。ただ言えるのは、例えば時計もアートも車も買う上でお金使うんだけど、自分の中で実際使ったことになってない。あんまり考えたくないんだけどリセールするときなんかも目減りはしないのね、ちゃんといいものを買ってると。一瞬お金をどっか預けてるだけで、その代わりに乗って、見て楽しめる。だからお金は1円も使ってなくて、場合によっては価値があがってお金が増えていく。そもそも現金って眺めないじゃん、おお、貯まったなって。株とか金も価値は上がるかもしれないけど、持ってても別に面白くない。実際に乗れたり触れたり出来るほうが絶対いい。

—本当に失礼な話なんですけど、滝沢さんは趣味人の側面がフォーカスされることも多いので、会社で何をしてるのか想像が出来ないんですよね。

忙しぶるつもりもないし、忙しすぎるのは大嫌いなんだけど、実際にはやることはかなり多くて。展示会やプロジェクトも全てチェックしてるし、フィッティングとか洋服の仕様の確認をしてたら大体1日が終わってるっていうね。それと並行してデザインとグラフィックもやってるから、ちょっとやり方考えないといけないなって、ちょうど思ってたところ。だけど、めちゃくちゃ暇も嫌いなのよ。セミリタイヤみたいなことする人もいるけど、まだ僕には無理だなって。

—滝沢さんは今もグラフィックを手掛けてるんですね。

勿論、昔ほど多くないけどやってるよ。

—滝沢さんは90年代にマックに出会ってデザインを始めたわけですが、30年以上もグラフィックデザインを続けられていて、現代のデザインについてどう思われているんでしょうか。

自分もそうだけど、当時のマック使いたての頃は今よりクリエイティブだったような気がするんだよね。自分の話は置いておいて、今でもよく言うんだけどスケシンの当時のグラフィックにはすごく影響をうけた。今でもそうだけど、どうやったらその発想になるのって。イラストレーターでパスをとっても、ちょっと下手くそだったりとか、ごちゃっとしてなだらかにしきれないんだけど、パスをきれいにしない良さがあった。境目っていうか、デジタルなんだけどアナログ感があって、人が作ったって感じられる、そういう部分が残ってるグラフィックは未だに好きなのかも。それと昔はサンプリングの自由さも面白いところだったと思う。正直今はグラフィックに面白さはほぼ感じてないかな。だからか下手でも手書きでグラフィック作るほうが最近は多いかもしれない。描いちゃった方が自分の中で面白いと思ってる。マックで完結した上手なグラフィックだったら誰が作ってもいいかなってなるし。グラフィックやるがマイノリティじゃなくなっちゃったから、自分らしさを出すってなるとそういうことかなって。

—昔に比べて NEIGHBORHOOD はグラフィックも多様化して型数やコラボレーションも増えましたよね。いわゆる裏原っぽいブランドという枠組みから逸脱することで間口が広がったと思うんですが。

今回の展示で再現したように1994年に作った一店舗目ってあんななのよ(笑)。その次のお店と今の店舗の最初期が俗に言う裏原宿っぽいものなのかなって思うんだけど、裏原って言葉は残ってはいても、裏原らしいものってもうどこにもないと思うんだよね。大げさな例えだけど77年のパンクに近いっていうか。当時のパンクが今あるかって言ったら、もうないじゃん。カルチャーが誕生したときってすごく局地的で閉鎖的なものをそう呼ぶのかなって。だからビジネスとしてレールに乗っかって、クリエイションの延長でアレもコレも作りたい、こういうお店も作りたいって欲望も出てくるからそれにはどれくらいの予算の売上にしていかなきゃいけないとかさ。それを意識したのは大分後半だけどね(笑)。そういうことをやっていくと自然に間口も広がるし、素直に色んな人に見てもらいたいって思うようになった。

—ブランドをはじめて30年経ちますが、未だやりたいことは尽きてはないんですね。

理想像には全然達してないっていうか、一生達しないとは思うんだけど。まぁ、でも、30年続けてこれて奇跡みたいだね。最初あのお店を始めた時はせいぜい3年くらいだなって思ってたし、次は何しようかなって考えてたから(笑)。

—滝沢さんは Virgil Abloh (ヴァージル・アブロー) とは面識はありましたか? 彼の手法は超裏原的なクリエイションでしたし、それを最終的にパリのランウェイにまで持ち込んだのは単純にすごいことだと思うんですね。直接的ではないにせよ影響を与えた側の人間であるタキシンさんから見て Virgil とはどのような存在なんでしょうか。

初めて Off-White™ (オフホワイト) を見たときは裏原カルチャーが好きな人がやってるのかなってくらいのイメージだったし、クリエイションにおいて、それが基盤の一部だったことは間違いないとは思うんだけど、今となってはそれをもだいぶ超越したクリエイターだったんだとすごく感じる。僕も当時の裏原の人たちもビジネスとかクリエイティブをグローバルで発信することがすごく苦手だったと思う。クリエイションには長けてたし、情熱もあったんだけど、それをビジネスに変えようとかグローバルにアピールする欲みたいなものが全然なかった。儲けることにあまり興味がなかったのかな。別にビジネスが悪だって言ってるわけじゃなくて、どれだけアピールしてグローバルに持っていって、色んな人に評価してもらってビジネスに繋げて儲けてやろうとか、そういうことにあまり興味がなかったし、そもそもやり方がわからなかった。Virgil と裏原の違いはそこなのかなって思う。

—滝沢さんのこの先は展望は?

展望ですか(笑)。

—でも、30周年まできたら……?

40周年(笑)?無理じゃないって思っちゃうけどね。そもそも生きてるのかっていうのもあるし、それが美しいことなのかどうかっていうのもよくわかんないし。まだまだ、やりたいこともあるから、気力と体力を保ち続けないといけないな、とは思うけどね。

—滝沢さんにとっての原宿ってどういった場所なんでしょうか?

若いときの色んな妄想とかね、そういうものが未だにある場所かな。今でもやっぱり好きだけどね、ここがね。だからそういう意味で今回の展示の会場も選んだし。

—NEIGHBORHOOD という名前の由来は「原宿に集う仲間たち」ですが、裏原が存在しなくなり原宿のイメージもカワイイだなんだというものに置き換わってしまった今、滝沢さんが思う「Neighborhood」の意味合いは何になるんでしょうか?

それでもやっぱり原宿っていう意味だよね。原宿にこだわってずっとお店も構えているし、一時期みんなが原宿でスタートしたんだけど、原宿から青山に移ったりして、もう原宿に残ってる人は誰もいなくなったけど、自分のなかで原宿にこだわりがあるから今でも同義語ではあるのかな。