「ただ世界を理解したい」写真家トーマス・ルフの欲望
Thomas Ruff
photography: masahiro sambe
interview & text: chikei hara
デュッセルドルフ芸術アカデミーで Bernd & Hilla Becher (ベルント&ヒラ・ベッヒャー) 夫妻に学び、いわゆるベッヒャーシューレの一人として知られる、ドイツを代表する現代写真家、Thomas Ruff (トーマス・ルフ)。
タイポロジーな手法から科学技術がもたらす異なる現実を写し出す仮想的な視点まで、写真を取り巻く総体的な世界を横断する多様な実践で国際的に評価されてきた。ギャラリー小柳で開催中の個展『Two of Each』では、代表的なシリーズ〈Substrate〉〈negatives〉に加え、日本初公開となる〈flower.s〉〈untitled#〉も展示されており、Ruff の活動を俯瞰する貴重な機会となっている。
それらのイメージは何を捉え、どのように私たちに作用するのだろうか。来日中の Ruff に対面で、あらためて「写真とは何か」という根源的な問いを投げかけた。
「ただ世界を理解したい」写真家トーマス・ルフの欲望
Photography
—近年はアジアでの個展が続き、韓国などでも積極的に作品を発表しています。あらためて、アジアのアートシーンで写真がどのような位置づけにあると解釈していらっしゃいますか?
これといった解釈はないです。私はいま67歳で若いアーティストと接する機会も多くありませんし、教育の現場からも離れています。そのせいで新しい世代の写真家に触れる機会が少なくなっているのも確かです。ただ自分のキャリアを振り返れば、当時も若くて面白い人たちがたくさんいたように、今も同じように若い世代がいるのだろうとは思います。
—現在ご自身が写真制作に向かう際の関心やモチベーションはどこにあるのでしょうか。
いまの私は一つの関心やモチベーションに向かっているのではなく、むしろ関心が広すぎるくらいで、多様な領域に興味があります。たとえば〈Photogram〉のシリーズは、制作当時としては10年早かったと思います。というのも、私がどのようにバーチャル暗室を作り出したのか多くの人には理解されませんでしたし、何度説明しても「デジタルでしょ?」と言われました。実際にはとても丁寧に仮想空間で撮影されたものであり、最先端のテクノロジーを用いて取り組んだ側面もあります。その一方で、19世紀のネガという古い素材を集めて作品を生むこともあります。それらは、複数のパズルのピースを同時に扱っているような感覚で共存している。すべてがひとつの大きな絵に収まる日は来ないかもしれませんが、それでも作り続けています。
—多様な領域に関心を持ちながらも、長いキャリアの中で Ruff のスタイルは一貫しているように見えます。つまり、写真のメタファーや新しい技術に興味を持ちつつも、同時に写真の歴史にも強い関心を寄せてきたと言えるでしょう。その上で、写真を通して人間という普遍的な概念についてはどのようにお考えですか?
私はひとりの人間として、世界を理解したいと思っています。そのために写真という媒体を使って世界に向き合っています。自分は物事をどう知覚しているのか、どこまでが常識で、どこからがプロパガンダなのか。どんな影響が微細な刷り込みになっているのか。クリシェとは何か。写真を通してどのように操作するのか。こうした問いが、日常生活を送る人としていつも私の前に現れてくるテーマです。結局のところ、私はただ世界を理解したいのです。作品とはその問いへの応答のひとつの形だと思っています。

—世界の認識という観点で、写真を通じた視点はあなたに変化を与えたのでしょうか?
必ずしも変化があるとは限らないと思うんです。ただ、1977年に私が写真を始めた頃と現在では生きている世界の状況が全く異なり、私自身も様々な経験を積み重ねてきました。そして明らかに技術というものが不思議な形に変質した変遷も目の当たりにしました。特に2000年代以降は、アナログの粒子からデジタルのピクセルへ、そして圧縮によるアーティファクトへと、画像の構造そのものが大きく変わりました。私はその変化に反応し、〈nudes〉〈Substrate〉〈jpeg〉などのシリーズとして自然と作品の一部になりました。世界の変化に対して、驚いたり怒ったり、時には可笑しく感じることもあります。
—これまでの活動では、伝統的なファウンドフォトや複数の現実から撮影された写真など多様な写真素材が扱われています。それと同時に、人々の欲望や世界をどう理解するかといった概念的なテーマにも関心を寄せる中で、まだ作品として形にしていないアイデアはありますか?
私の作品はすべて偶然から生まれており、何かを探しに行くのではなくただ出会ってしまう。ときに些細な動きの違いから、まったく別の物語に入り込んでしまうことが私の中で何度も起きています。これは計画できるものではなく偶然や運命のようなものでチャンスを待っているとしか言えません。そうした偶然を認識するためには、先入観や固定概念にとらわれないように人生を歩くしかないのです。
—テクノロジーの変化の絶えず、進化のスピードが加速する中で、あなたの作品における新しさの定義とは何でしょうか? たとえば〈jpeg〉シリーズではデータや新しいメディアを扱いつつ、同時に作品出力として感光紙などのアナログな素材も使っていますよね。
実のところ、新しいものは何もないんです。写真はアナログから始まって、デジタル、そしてワールドワイドウェブの普及とともにソーシャルメディアの登場へと進化してきましたが、その根底にある自分を世界にどう提示するかという願望、欲求はずっと変わっていません。レンズとフィルムの時代から、デジタルセンサーとピクセルの時代へ移り、正方形の単位で構成された画像を簡単に操作、変形できるようになりました。そしてソーシャルメディアの発展で、もっと美しく見られたいと思うようになり、企業は人々の欲望を満たすためのフィルターを生み出していきました。つまり人々はストレートに写真を見ることがなくなり、何らかのツールを使うことで満足を得る感覚を持ちました。私にとっては、それらはとても人間的なことなので驚くべきことではありませんが、その何が新しい定義なのかと問われると、答えることができません。ただ本当の意味で新しい、革新的なイメージが生まれたかといえば、正直のところまだ一度も見たことがありません。
—テクノロジーの発展によって人々のイメージの捉え方も大きく変わるように、作品を観る鑑賞者の態度や環境が時代的、技術的な側面から変化することをどのように感じますか?
鑑賞者の変化に対して、作者ができることは何もありません。たとえば私が35年前に作ったポートレートの作品を今日の展覧会で再び展示したとして、あなたのような若い世代の鑑賞者が思ってもいなかったその側面で解釈したとしても、それを私が操作することはできないし、したいとも思わない。自分の文脈とバックグラウンドからまったく違うものとして見るのは当然のことです。だから古い作品を今の文脈に合わせてそのまま再提示する方法に、あまり意味を感じないのでやらないのです。誰もが自分自身のバイオグラフィーと経験を持ち、文化的背景を持っています。それらを通して人生を歩み、世界を知覚し、芸術作品を受け取ります。あなたが見るものは私が見るものとはまったく違うでしょうし、それでいいのです。













