こっちの世界と、あっちの世界。湊かなえ『未来』が照らす現実
Kanae Minato
photography: kota ishida
interview & text: hiroaki nagahata
実父の良太を亡くし、母・文乃は複雑な生い立ちを抱え、世間に心を閉ざしている。負の連鎖としか言いようのない環境に置かれた、10歳の少女・章子。そんな彼女のもとにある日、「20年後のわたし」を名乗る人物から手紙が届く。半信半疑で返事を書きながら、章子はわずかな光をそこに見出していく。ときに自分の置かれた現実に失望しながら、それでも未来を少しずつ手繰り寄せていく——
『告白』で一躍時代の寵児となり、読後に嫌な余韻を残すミステリー作品を指す“イヤミス”という言葉を広く浸透させた作家・湊かなえ。彼女の小説『未来』が映画化され、2026年5月8日に公開される。
本作の物語は、ここで簡単に要約できるような単線的なものではない。章子を取り巻く現在の出来事と過去の出来事、そして周囲の人々の人生が複雑に絡み合い、互いに影響しながら連鎖していく。外部にあったものが内面化し、好むと好まないとにかかわらず後世に引き継がれていく。つまり、この作品を読む(あるいは観る)ことは、世界の複雑さや、どうしようもなさを引き受けることでもある。
この物語の核心には、いったい何があるのか。原作者である湊かなえ本人に話を聞いた。
こっちの世界と、あっちの世界。湊かなえ『未来』が照らす現実
Literature
ーまずお伺いしたいのが、「未来から手紙が届く」という本作の設定について。子どもが抱える問題に対して、親をはじめ身近な大人が頼りにならなかったり、直接救いの手を差し伸べてくれなかったりするような状況がある。そういう中で、手紙がわずかな希望の光として機能しています。手紙、あるいは文章というモチーフから物語を駆動させていこうと思われたきっかけは何だったのでしょうか?
ただ「暗闇の中をまっすぐ歩け」と言われても、どこに向かっていったらいいかわからなくなります。でも、少し先に小さい光でもあれば、今は周りに何も見えなくても、そこに向かっていけばいいんだって思える。そこで、「未来の自分から手紙が届く」という設定を考えました。手紙が来るのはたった一回だけですが、その小さく輝くものに向かって一歩ずつ踏み出していくかのように、未来の自分に手紙を書く、という構成にしました。
ー抱え込んでいるものを文章にするという行為ですね。
そうです。文章にして吐き出した分だけ、心の中に空気が通って、光が差すことにもなるんじゃないかなと。自分が内に溜めているものを、小石を一つずつ取り出すみたいな感じで、書いていく。それが自分自身に対する癒しにつながるのではと考えました。
ー他者に心の内を明かすカウンセリングのような形ではなく、自分に向けて書くという点も重要ですよね。
そうですね。普段、周りで起きる大変なことに追い詰められてばかりいると、自分に向き合う機会を逸してしまう。でも、未来の自分に手紙を書いている間は、嫌なことも含めて向き合えているんじゃないかなと思います。
ー子どもたちのバックグラウンドが、貧困から起きる暴力の連鎖、ヤングケアラーなど様々な実社会の問題とも紐づいています。そのリアリティを文章におこすために、ご自身の体験、あるいは周りから見聞きしたものをどのようなバランスで調合されていったのか、教えていただけますか?
本作のテーマについて考える中で念頭にあったのは、「貧困で苦しんでいる子どもは7人に1人」という事実です。それを聞いた上でもなお、自分の体感と照らし合わせて「いや、さすがにそんなにいないでしょう」「大げさに言っているんじゃないですか」という人も少なくない。でもそれは、自分がそういうことを考えなくてもいい環境に所属しているからに過ぎないんです。いまは特に、自分が捉える“世界”と、その外側に広がる“世界”が同じ世界線上にあるという現実がすごく見えにくいんだと思います。
この世の中には、苦しんでいる人たちが集まる傾向が高い場所というものがあります。例えば定時制高校。経済的に困窮していたり、人間関係がうまくいかなくて、昼間の学校に通えなくなった人たちが集まる場合が多いところです。私自身、定時制高校で講師をしていた時期があるので、あまりそこを強調すると、その時に通っていた人たちが何か不快な思いをするんじゃないかなという心配もあるのですが……私が伝えたいのは、自分がいる世界だけではなく、その外側に広がる景色も含めて自分事としてじっくり考えてほしい、ということです。
ーやはり本作は、フィクションでも衝撃を受けてしまうくらい酷い状況に対して、「これはリアルなんだ」と言い切る、描き切るところに一番パワーを使われた感じなんですか。
というよりも、「これは、あなたの生活の半径1キロ以内で起きているかもしれないことなんだ」ということを伝えたかったんです。あなたの生きる世界の地続きで起きていることなんだ、と。いまより長い射程で世界を捉えていけば、本作で起きているようなことも、少なくとも“限られた場所での不幸のオンパレード”ではなくなります。本当の意味で片隅に押し込められた人たちに、光が差す。他人ごとだと思っているから目が向かないのであって、きちんと自分と同じ世界に存在する人の問題だと思えれば、一人ひとりが救済に意識を向けるんじゃないかなと思います。
ー本作の中で、章子の担任、篠宮真唯子が祖母にいわれる「汚い物を抱えて生まれて来る人間なんていない。皆、きれいな状態でこの世に出て来るけれど、周囲の環境によって、汚れていく人もいるんだ」という言葉が印象に残りました。昨今は「親ガチャ」という言葉も流行しています。それが転じて、他人への攻撃性にもつながってしまう。そういった現代社会のムードに対する応答という意味も込められているのでしょうか?
私自身、「親ガチャ」という言葉は、あまり好きではないんですが……本人の意志とは無関係に背負わされる環境。それは自分の努力ではどうにもならないことでもありますよね。そこで「はずれくじだから仕方ない」ではなく、「別に背負わなくてもいい、誰かに頼っていいんだ」という認識が広がればいいなと思います。
ーもうひとつ、章子が母の文乃を指していう「人形」という描写がすごく印象に残っていて。精神的に鬱だとか、そういう言葉ではなく、人形という表現でしか表せない状態って確かにあるなと思ったんです。
いろいろ抱えなければならないものを取り出すこともできなくて、自分の一部だと思い込んでいく。その中で心を殺していった状態が、この「人形」という表現なのかなと思います。「これは仕方のないことなんだ」と自分でも目を背けて、蓋をして、何も考えなければつらいとも思わないんじゃないか、というところまで行ってしまうのではないでしょうか。
でも、つらい思いだけを殺すことはできなくて、ご飯が美味しいとか、景色が綺麗だとか、そういうことにも何も感じなくなってしまいます。そこまで感情を殺した状態に対して、「人形」という表現が一番思い浮かべやすいんじゃないかなと思いました。
ー映画の中で文乃演じる北川景子さんが、まさに人形の佇まいで驚嘆しました。小説で想像していたものが映像になって現れると、ある種のグロテスクさを伴って形になります。湊さんは映画版をご覧になって、どんな風に感じられましたか。
脚本の中に「ビー玉の目」という表現を使っている箇所があるのですが、現場を見学させていただいた際、森の中のホテルで北川さんが撮影されていて、「こういう目なんだ」と突きつけられた思いになりました。というのは、自分が想像していた以上に圧迫を受けてきたことが伝わるといいますか。心を殺すというのはこういう状態なんだな、と。そこから母親としての意思が戻ってくる。その“落差”を見ることで、「ああ、あの時は本当に心を殺していたんだ」ということがより見えてくるのかもしれません。
ー最後に一つだけ。ご自身の小説が映画になることが決まったとき、「こうなるだろうな」とか「こうなったらいいな」みたいな想像はされるんですか。
自分が書いた以上のものしか想像できないので、しません。その向こう側や、執筆中は見えていなかった行間が、映像でどんな風に見せてもらえるのかな、というのが楽しみなんですよね。本作はそういう点で、たくさんの行間や向こう側を見せてもらった気がします。













