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コミュニケーションの可能性と不可能性。 瀬々敬久監督による『未来』の解釈とは

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photography:  rei kuroda
interview & text: hiroaki nagahata

Portraits/

ヤングケアラー、機能不全家族、DV、いじめ。現実には確かに存在しているにもかかわらず、日常のなかではアンタッチャブルなものとして無視されがちな社会的問題がある。そうしたテーマに、一組の母娘の関係を軸に真正面から切り込んでいくのが、湊かなえの小説『未来』だ。

『告白』以降、日本のミステリー界を代表する存在となった彼女が描いたこの物語は、この国に巣食い、世代を越えて連鎖していく問題をただ暴露するだけではない。それとは無関係だと思い込んでいる“観客”に対して、「それはすぐ近くで起きているんだから、手を差し伸べてほしい」と、明確なメッセージを投げかけている。

そんな原作をもとに映画化された『未来』(5月8日公開)でメガホンを取ったのは、近年『護られなかった者たちへ』『ラーゲリより愛を込めて』などで知られる瀬々敬久。原作の主人公・佐伯章子を新星の山﨑七海が演じ、世の中と距離を置く母・文乃を北川景子、章子のことを気にかけ続ける教師・篠宮真唯子を黒島結菜が演じる。

語りの順序こそ再構築されているものの、物語の核心は原作に忠実だ。小説の行間に潜むニュアンスを鮮烈に映し出す一本に仕上がっている。その真意と細部について、瀬々監督本人に訊いた。

コミュニケーションの可能性と不可能性。 瀬々敬久監督による『未来』の解釈とは

—いきなり細かい話になってしまうのですが、章子が亜里沙の部屋で、彼女のことをスマホで撮影するシーンがとても印象的でした。映画のほとんどが絶望的な状況の中で、このシーンが空気穴として機能していますし、編集上のひねりとしてもキャッチーで面白い。『未来』という小説を映画にする際、「文章」という本来のモチーフに加えて、「撮影」というモチーフを差し込むことに、どんな意図があったのでしょうか?

おっしゃる通り、『未来』は「文章」というモチーフが真ん中にあるという意味で、小説についての小説、あるいは物語についての物語だと捉えることができますよね。じゃあ僕が映画の作り手として、それに代わるものというか、そこから触発されたものとして何があるかと考えた時に、「主人公が友だちをスマホで撮る」ということを考えた。昔、森達也さんがオウム事件の直後に出された評論集のタイトルに、『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』というのがあるんですが、その言葉が異様に響いたんですよね。「どれだけ生きづらい状況があったとしても、やっぱり世界は美しいんだ」という肯定感を、森さんは映画や文章を通して表現されていた。本作でも、とんでもなく酷い環境の中で「それでも世界は美しい」と言えるようなこと、その中で生きる喜びみたいなことを、スマホで亜里沙のインタビューを撮ることによって章子が発見する、というイメージがありました。

—続いて、本作の撮影に関してお伺いします。今回、撮影監督は俵謙太さんが担当されていますが、この方はもともとドキュメンタリー出身ですよね。主題と撮り方の兼ね合いについて、監督の中でどのような考えがあったのでしょうか?

僕はピンク映画時代からずっと斉藤幸一さんというカメラマンの方とご一緒しているのですが、俵くんは斉藤さんのところでここ最近、助手を務めていた人です。だから、僕がどういうふうに撮影を進めていくか、どの地点からどういう形で狙うのが好きなのか、彼はそういうことも熟知していたんですよね。その上で、今回は切羽詰まったシーンが多いので、編集上ではカットを割っているんですが、テイクとしては長く回しています。感情が途切れないように、現場では延々と回している。また、とくに感情がたかぶるシーンでは、俳優さんをあんまり近くで撮らないようにしています。

—そう言われて納得しました。狭い部屋の中でも、少し離れたところから眺めているような撮り方をされているシーンがあったので、それはつまり、登場人物に対する監督の距離感を暗に示しているのかもしれないな、と。

たしかにそうかもしれません。

—本作は、機能不全家族やヤングケアラーなど社会的なテーマがいくつも埋め込まれている分、観る人の想像力がどんどん膨らんでいく題材だと思うんですよね。悲観的に捉えようと思えば、とことん悲観的になることもできる。映画の温度感としては、どういうものを目指されていたんですか?

原作は、人間同士のコミュニケーションに潜むデリケートな部分を扱っている小説だと思うので、僕もそこは一層注意してやりたいなと考えていました。湊さんの小説では、親子関係にしても恋人関係にしても友人関係にしても、「人と本気で付き合うにはどうしたらいいのか」みたいなことを、登場人物がいつも手探りで探っている印象があるんですよね。そういう、コミュニケーションのコアにある部分がたくさん並んで、ひとつの作品世界を作り上げている。例えば、「一緒にそうめんを食べる、そういうことでも果たしてつながれるのか」とか。細かいコミュニケーションの可能性と不可能性が折り重なっていく様子が、観客に「あるよね、そういうのって」という感じで伝わっていけばいいなと。

—たしかに、「これじゃ距離は埋まらないよな、逆に離れていっちゃうな」ということを感じ続ける体験でもありました。すごく象徴的だったのが、映画の後半、真唯子が章子と亜里沙を追いかけていくシーン。走れど走れど、一向に追いつかない。あれはコミュニケーションの不可能性をすごく象徴しています。身体的にも、そもそも子どもの方が元気だし、速い。あそこの走るシーンはとくに長く撮られていますよね。

そうですね。走ることで、おっしゃるように距離を埋めようとする部分もあったかもしれません。あと、(真唯子演じる)黒島結菜さんだけではなく、北川景子さんも走っています。

—北川さん演じる文乃が章子を連れて家を抜け出すシーン。

そうです。北川さんの場合は黒島さんとまた違って、より晴れやかな、「もっと違う方向へ進むんだ」みたいなフィーリングを見せる意図がありました。やっぱり映画って、身体の表現、空間の表現でもある。最もシンプルな映画表現として、走ることで空間が変わっていく、それが単純に面白いじゃないですか。

—わかります。そこで起きている事態は大変なことなんだけど、絵の中では幸福……とまではいかないにしても、少なくとも観客をドキドキ・ワクワクさせるようなカタルシスがあります。

僕は、人が走っているのを見るのも撮るのも大好きなんですよね。それが映画のプリミティブな力と、どこか結びついてるんじゃないかなと思います。

—もうひとつ、真唯子と同じアパートに住む原田勇輝が、大事に自分を育て上げてくれた祖母が亡くなって落ち込んでいる彼女に『東京物語』を観せるシーンについて。言葉で説明するのは野暮かもしれないんですけど、あそこで小津安二郎の映画を差し出した意味を教えていただけますか?

これはわりと単純な話で、原作で彼が観せる映画は『グッド・ウィル・ハンティング』なんですが、権利の問題で使えないと言われてしまったんですよね(笑)。「じゃあどうしよう」ということで、今回の映画には松竹撮影所が絡んでいたので、松竹の映画なら何とかなるんじゃないかと。そこで、すごく大事な人が亡くなる話を自分の中で色々と考える中で、『東京物語』が思い浮かんだんですよね。僕は最初にこの映画を観たときから、原節子さんが直接的には言わないですけど、「私、悶々としてるんです」という自己告白の場面がすげえなと思ってたんですよね。あんなに従順そうな感じなのに、当時の社会通念なら「汚れてるんです」って言ってるわけじゃないですか。僕はピンク映画出身だから、ついこういう言い方をしますけど(笑)。それがね、人間っぽくて、グッとくるなと。小津さんも清潔そうに見えるけれど、実はそういう人間らしさを表す人なんだなと思いました。

—本作でも、人間のどうしようもない部分がたくさん表現されている気がしました。例えば、真唯子が祖母から引き継いだ財産をふんだくっていく真唯子の母が出てくるじゃないですか。そこで、「その身体をみれば男とやっているのがわかるわよ」みたいなことを実の娘にむかって言い放つ。シンプルにすごく嫌なシーンだし、人間の汚い部分が出ているなと感じたんですよね。

わかります。あと、「あなたのこと、ずっと良いと思ってたのよ」と真唯子をセクシービデオの出演に誘ってくる女性とかね。

—まさしく。どうしようもねえな、と思っていました。

でもね、ああいう人たちにも、僕はどちらかというと感情移入するんですよ。作品では悪人のように描かれているけど、ああいう生々しさというか、僕は意外と好きなんですよね。そういう人たちが主人公を陥れるんだけど、自分たちも下手したらそっち側に行ってもおかしくないんだ、という部分は絶えずあると思うんですよね。やっぱり、その両面性があった方が面白い。スパッと、善いもん悪いもん、みたいに分けられる世の中になってないんだぞ、ということです。まさしく森さんが言うように、「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」ということなんじゃないですかね。

—章子を演じる山﨑七海さんと、亜里沙を演じる野澤しおりさん。本作において、このお二人の存在感が際立っています。若くしてここまで悲劇的な運命を背負ってしまう役柄を演じるのはなかなか大変だと思うのですが、どんな演出方法をとられていたんですか?

山﨑さんは、映画に何度か出演されていることもあり、撮られることにも慣れているんですよ。また言い方が悪いんですけど、野良犬みたいな感性を持っているといいますか。僕も現場では「彼女は放ったらかしでもいいや」と言っていました。感情を飛ばさないといけないシーンもたくさんあったんですけど、たいていその直前まで本人はふわっとしてるんですよ。だから、準備が整っているのかどうか分からないので、「大丈夫?」と聞くと「大丈夫です」と。で、本番に入ると、バーンと号泣したりするんですね。

—そういうタイプの俳優さんって、系譜的にやっぱりいらっしゃいますか?

『ヘヴンズ ストーリー』で主演を務めてくれた寉岡萌希さんも似たようなタイプでした。でもそれは、年齢もおおいに関係しているかもしれません。大人と子供の間の絶妙な少女の年齢と言いますか、年齢を重ねると、それなりにいろんなことを覚えていって、それが実は余計なものだったりするじゃないですか。山﨑さんにしても寉岡さんにしても、「今でしかない感じ」がありましたね。

—野澤さんはどうでしたか?

彼女はちょっと育ちが良いところが垣間見えました。たとえばお父さんを殴ったり蹴ったりするところでも、最初は明らかに遠慮があったので、「もっとやれ、もっといけ」と。でもね、面白いことに、最後に二人がカメラに向かって叫ぶシーンでは、逆転が起こったんです。

—逆転?

最後の最後になって、二人のキャラクターが逆転したんです。野澤さんは、ピャーッとカメラを睨みつける。一方で山﨑さんは、本番の時はワーッという感じなんですが、泣きの芝居でもあり最後の最後にうつむいちゃったんですよ。ちなみにそのとき、僕は現場で「睨みつけろ!」とか叫んでるんですね。あんまり良くないんですけど(笑)。それは野澤さんが成長したということでもあるんでしょうけど。

—あのラストカットにはハッとさせられますよね。あまりに酷い物語に脳が麻痺していたところで、いきなり目覚める感覚があるといいますか。

僕もあのシーンについては、ちょっと冒険ができたかなと思っています。観客からすれば、いきなり刃を向けられたようなこと。この物語に対して自分たちはどう答えられるのか、それを問われる。僕は『青春の殺人者』(長谷川和彦監督作)っていう映画が大好きなんですけど、ああいう、青春映画ならではのフィーリングもあると思うんですよね。

—そのあと、エンドクレジットのところで後日談的に“ある映像”が流れるじゃないですか。原作には存在しない話なんですが、あれを付け足すことによる効果について、監督はどのように考えられていたんですか?あるいは、蛇足になる可能性もあるわけですが。

それは、お客さんに向けた“お土産”のつもりで。本来はあの二人が叫ぶ画で終わってもいいんだろうけど、せっかく来ていただいたので、何かお土産を持ち帰ってほしいな、ということですね。

—最後の質問です。監督はピンク映画からキャリアを始められて、ハイペースで商業映画を撮るかたわら、定期的に自主制作映画も発表されています。最初に映画を撮り始めた時と今とで、映画に対する捉え方は変わってきましたか?

そこは変わらないつもりでいたい。もちろん、映画を続けていく中でいろいろと面倒くさいことも起こるんですが、それでも毎回、やっぱり映画は面白いなと思います。そこに関しては、「映画を撮ってみたいな」と思い立った高校生の頃の気持ちとあんまり変わらないんじゃないかな。その中で、毎回新しいことにチャレンジしたいなと思っていますよ。同じことを繰り返したくはない。今までやったことのないことをやりたいし、それを見つけたいというか、見つけようとして撮っているところは常にあります。逆に、そういう気にもならなくなったら、もうやめる時なんでしょうね。

—瀬々さんが映画において一番面白いと思われているポイントって、どこなんですか?

そうですね。“他人に託される”ところ、でしょうか。たとえば小説だったら、ひたすら自分の手で書き続けないといけないんですが、映画監督はどこかの地点で人に託さないといけない。スタッフもそうだし、キャストもそうですけど、託すことで作品が初めて成立する。そういう意味で、撮影行為自身が生きていることにつながっている、という感覚もあるんですよね。撮影を通して、この世界と触れ合っていけるんです。