「失敗なんてどうでもよくなった」。ジョン・キャロル・カービーが振り返る10年の変化
John Carroll Kirby
photography: masahiro sambe
interview & text: kei harada
LA 出身の鍵盤奏者・プロデューサーである John Carroll Kirby (ジョン・キャロル・カービー) は、ジャズ、エレクトロニカ、アンビエントなど、多様なジャンルを軽やかに飛び越える気鋭の音楽家であり、Solange (ソランジュ) や Frank Ocean (フランク・オーシャン)、Steve Lacy (スティーブ・レイシー) をはじめとする現代の音楽シーン最高峰の才能たちのコラボレーターとしても知られている。また、日本でも、細野晴臣のトリビュート企画への参加や、謎の中年男性と東京の街を踊り・彷徨うミュージックビデオが話題を呼んだことから、彼の名前を知っている音楽ファンは多くいるはずだ。
2月25日には、日本滞在中に制作し、制作時にピアノの上に偶然置かれていたサントリーの缶コーヒー BOSS に由来するタイトルが付けられた新曲「Suntory」をリリース。さらに、今年は10年間書き溜めたピアノ曲をまとめた新アルバム「Piano Works 2016-2026」のリリースも控えている。
そんな John Carroll Kirby が、3月15日に東京、3月18日に大阪で、約4年ぶりとなる来日公演を開催。ピアノを主体とした構成となった今回の来日公演では、これまでバンドで演奏された様々な曲がピアノ1本でのアレンジで演奏され、さらには、本人が敬愛する Yellow Magic Orchestra (以下、YMO) の「東風 Tong Poo」カバーも披露するなど、充実の公演となった。
来日した彼に、彼の音楽的ルーツから Solange をはじめとするコラボレーターであるアーティストたちとの関係性、YMO からの影響まで縦横無尽に語ってもらった。
「失敗なんてどうでもよくなった」。ジョン・キャロル・カービーが振り返る10年の変化
Music
—こんにちは。まずは、あなたの音楽キャリアの始まりについて教えてください。
最初に音楽と触れ合うようになったのは、友達がピアノを弾いていたのがきっかけだけど、その後に習った、地元のピアノの先生がとてもインフォーマル (非公式) な教え方をする人でね。テクニックを詰め込むというよりも、一緒に曲を覚えたり、音楽や哲学的な概念について語り合ったりするような感じで、とても自由だった。その自由なスタイルは自分に合っていて、そこから音楽に恋をするようになったよ。高校では素晴らしいミュージシャンたちや、後にメンターとなる John Clayton (ジョン・クレイトン) に出会った。大学ではよりアカデミックな音楽教育を受けて、卒業後は他のアーティストのツアーに参加したり、バンドで演奏したり、プロデュースも手がけるようになった。
—地元 LA のシーンとの音楽的な繋がりについては、どう感じていますか?
子供の頃から深い繋がりがあったと思うよ。僕の父は音楽好きで、小さい頃から Sonic Youth (ソニック・ユース) や THE CURE (ザ・キュアー) のライブに連れて行ってくれたし、自宅がローズボウルの近くだったから、スタジアムから漏れてくる Rolling Stones (ローリング・ストーンズ) のコンサートの音漏れが家まで聞こえてきたのも懐かしい。ハリウッド・ボウルのプレイボーイ・ジャズ・フェスティバルや、老舗のジャズクラブである、カタリナズ・バー&グリルにもよく通った。
—いいですね。
ニューヨークにも6年住んだけれど、あそこはよりジャンルとかシーンの区切りが強くて、専門性がハッキリとしているんだよね。自分のジャンルを突き詰める、音楽的な「生きがい」を見つけるにはいい場所だと思うけど、LA はもっと流動的。ジャズクラブでセッションした次の日に、公園で演奏する、といった具合に、色々な場所でさまざまな人々が自由に混ざり合う感じだね。
—ジャズやアンビエント、エレクトロニカなど、あなたの音楽がジャンルを軽やかに横断しているのも、LA 的な空気感の表れと言えるでしょうか。
それはあると思う。ただ、今はインターネットのおかげでジャンルの壁自体が意味をなさなくなっているよね。特に Z世代の若い子たちはレコードストアに通わなくてもあらゆる音楽に触れ合うことができるから、ジャンルの境界なんて全く気にしていない。そのフラットな感覚はすごくクールだと思うし、僕もあまり考えすぎず、アルバムになりそうな曲が溜まったら出す、というスタンスでいたいと思っている。
—あなたは、プロデューサーとして、ソランジュやフランク・オーシャン、スティーヴ・レイシーといった、大物アーティストの作品を数多く手がけています。彼らとはどのように出会い、仕事を広げていったのですか?
ソランジュとの出会いはとても重要だった。ニューヨークにいた頃、友人のバンドに彼女が参加していて、そこで知り合ったんだ。その後、スタジオに一緒に入るようになって、今、プロデューサーとして一緒に曲を制作しているような、深い信頼関係へと発展していったんだ。プロデューサーとしての自分のキャリアは、間違いなく彼女との仕事から広がっていたと言える。
スティーヴ・レイシーとは、どうだったかな……たぶん、LA の Mac DeMarco (マック・デマルコ) の家で出会ったと思う。マックの家にはいつもランダムに誰かがいるような感じなんだよ。彼は「My House by the Water」の曲中で自分の住所を公開しているけど、まさにそんな感じで、招待されたかどうかも関係なく、色々な人がフラっと彼の家を訪れるんだ。だから、あの場所はいつも不思議。マックの家に知らない人がいて、その人について尋ねても、「いや、俺もよく知らないんだ (笑)」とマックに言われることはよくあるよ。フランク・オーシャンはもう少しフォーマルな感じで、スタジオで紹介されて、一緒にセッションをした。才能あるアーティストたちと仕事をしたことが、間違いなく僕のキャリアに影響を与えたし、彼らの作品と自分の作品の両方が今の僕を形作っている。
—特にソランジュとは長年に渡ってコラボレーションされていますよね。彼女の次のアルバムにも参加されると聞きました。彼女との仕事はどういったものでしょう?
彼女と仕事をするのも気づけば10年以上になるけど、常に刺激的だよ。数週間前も一緒にスタジオにいたんだけど、彼女は新しい音楽、建築、ダンス、ファッションなど、いつも何かからインスピレーションを受けていて、決して同じルールや方法に従うことがない。それがいつも僕を良い方向にプッシュしてくれるんだ。彼女の新しいアルバムにも数曲参加しているけど、ソランジュの作品における真のプロデューサーはいつも彼女自身で、僕はあくまで彼女のビジョンを形にするための追加的なプロデューサーのような立ち位置。
—なるほど。
現代において音楽プロデューサーの定義や役割は変わりつつあるよね。かつての Quincy Jones (クインシー・ジョーンズ) のように、一人のプロデューサーがそれぞれのメンバーに明確に役割を与えて、プロジェクトの全てを指揮するというよりは、今は、色々なメンバーが同じ部屋に集まって、インタラクティブに一緒に曲を書いて作業するような、役割分担の境界線も曖昧で、コラボラティブなアプローチが多いと思う。
—ご自身のソロプロジェクトでも、同じようなアプローチを取っているのでしょうか?
いや、ソロに関しては、より伝統的なプロデューサーの役割に徹しているよ。あらかじめ自分で曲を書き、アレンジを固めてからバンドに持ち込むんだ。毎回4、5人のミュージシャンを集める以上、彼らの時間を尊重したいし、スタジオであれこれ迷って時間を無駄にしたくない。予算の都合もあるしね (笑)。
—プロデューサーとしての地位を確立した後に、ソロ・プロジェクトを発表しようと思ったきっかけは何でしたか?
実は2010年頃からずっと一人で音楽を作ってはいたんだけど、当時はそれを発表する手段も自信もなくて、10人くらいの友人にメールでシェアしてみるだけだった。プロデューサーとして名前が知られるようになって、ようやく「自分の音楽を聴いてくれる人がいるかもしれない」というチャンスを感じた。そこからレーベルを見つけて、数枚のアルバムをリリースして、今のレーベルである、Stones Throw (ストーンズ・スロー) に辿り着いたんだ。
—あなたの音楽には複雑さや奥深さがある一方で、同時に多くのオーディエンスにとって親しみやすさを感じられるものになっていると思います。そのバランスはどう保っているんですか?
ありがとう。僕はメロディを大切にしていて、音楽の構造が複雑だったとしても、誰もが口ずさめるようなメロディがあるかどうかを意識している。もし歌えないようなら、歌えるまでシンプルにする。自分の音楽が「音楽家のための音楽」になりすぎるのはできるだけ避けたいんだ。ジャズというジャンルが多くの人にとって敷居が高いものだという自覚があるからこそ、親しみやすさのようなものを大事にしたい。Herbie Hancock (ハービー・ハンコック) のような、僕が好きなジャズはいつもそういうものだったし、ジャズは「パーティーミュージック」や「ダンスミュージック」であるべきとすら思う。音楽における複雑な余地は残されているべきだけど、知的な側面が強調されすぎているものは、僕の好みとはちょっと違うかな。
—ハービー・ハンコック以外に、そうしたインスピレーションを与えてくれたアーティストは誰でしょう?
Ahmad Jamal (アーマッド・ジャマル) だね。彼は非常に複雑なことをやりながらも常に呼吸する間を残している。それから、Duke Ellington (デューク・エリントン)。彼のメロディはいつだって歌えるような感じがするよね。あと、Fats Waller (ファッツ・ウォーラー) は、技術的にはとても高度なことをやってるけど、ミュージックビデオの中ではジョークを飛ばして笑っている。彼の音楽には独特のユーモアとメロディ、間があるからこそ、難解になりすぎずに彼の音楽を楽しむことができるんだ。
—東京で撮影した「Mates」の MV には、まさにそのユーモアとリラックスした空気を感じます (笑)。僕にとっても大好きな MV の一つです。
あのビデオは僕も大好きだよ! あのビデオでは、会ったばかりの監督と「いいショットを撮ろうなんて気負わないでおこう」「とにかく東京を楽しもう」と話して撮影に臨んだんだけど、その場その場で色々なアイデアが生まれて、最高の結果になったと思ってる。
—「親しみやすさ」と並んで、あなたの音楽におけるキーワードの一つは「旅」だと思います。デビュー作のタイトルも「Travel」でしたが、旅をすることはあなたの創作に対してどのような影響を与えているのでしょうか?
そうだね。日本やブラジルや中南米といった海外の音楽にとても興味があるから、旅に出ることは自分にとってとても自然なことなんだ。それに、旅は、マインドセットを切り替える手段にもなる。旅先では孤独を感じる瞬間もあるけど、ホテルの部屋や空港でじっと座っていると、自分の思考と無理矢理にでも向き合わざるを得ない。そういう時にこそ、インスピレーションが湧いてくるんだ。
—目的地はどうやって決めているのですか?
新しい場所へ行くのが好きだけど、基本的にはギグ (演奏の仕事) があればどこへでも行くよ。来週は初めて大阪へ行くし、そのあとは上海や成都にも行く予定。昨年、振り返ってみたら、なんと52回も旅をしていた。週に1回はどこかへ行っていた計算になるから、さすがにやりすぎだね (笑)。
—昨年は日本にも長く滞在されましたね。実際に日本で過ごしたことで、日本に対する印象に変化はありましたか?
初めて日本に来た時は、街の明かりや賑やかさ、そして全てが整然としている様子に圧倒されたけど、長く滞在するようになって、そうしたカルチャーショックが薄れてくると、もっと深い部分で人々を理解したいと思うようになった。今は日本語はまだ上手くないけれど、それでも何となく、その人が考えていることやその場の雰囲気を感じられる場面がある。例えば昨夜、新宿のジャズバーへ行ったんだんだけど、そこへ一人の”おじさん”が入ってきて、「ここに日本人はいないのか?」と日本語で言ったんだ。僕は彼が言っていることの意味が分かったから、思わず笑ってしまったんだけど、それを見て彼は「お、いいじゃん」という顔をして、隣に座ってきた。そこから何か深い会話をしたわけではないんだけど、彼との間に確かなコネクションを感じたよ。彼がジャケットを脱げなくて困っていたから、手伝ってあげたりしてね。
—いいですね (笑)。
今は日本人とどうやって繋がるべきかをより理解できてきたように感じるよ。アメリカ人同士の距離感と、日本人のそれは全く違う。アメリカなら道端で「いい服着てるね」と話しかけるのは普通だけど、日本でそういうことをするのは普通のことじゃない。でも、バーや居酒屋のような場所ならそれが許される。そうした日本特有のコミュニケーションの作法を学ぶのが、今の僕にとっての楽しみなんだ。
—日本では細野晴臣さんとも数回お会いしているそうですが、彼にはどんな印象を持っていますか?
細野さんは元気よく「やあ!」と挨拶をするような、わかりやすく感情を出すタイプの人じゃなくて、静かに行動で語ってくれる人。だから、コンサートにゲストとして僕を呼んでくれた時は、ああ、自分のことを気にかけてくれていたんだなと感じられてとても嬉しかったよ。細野さんは、もはや誰かに何かを証明する必要なんてないステージにいる。すべてを成し遂げた人だからこその自然体な佇まいをしていて、淡々と音楽を作っている。その姿は本当にクールだと思う。
—そもそも、YMO や細野さんの音楽に興味を持ったきっかけは何でしたか?
20年くらい前に友達が「増殖 – X∞ Multiplies」のアルバムを聴かせてくれて、衝撃を受けたんだ。その後に「TIGHTEN UP (JAPANESE GENTLEMEN STAND UP PLEASE!)」を聞いたんだけど、「Tighten up」のあんなに可笑しくてクールなカバーは知らなかったから、とても驚いたのを覚えている。
—YMO に限らず、コスタリカやブラジルなど、世界中の音楽からインスピレーションを得ていますよね。そうした興味のアンテナはどのように養われたのでしょう?
子供の頃によく一緒に長い時間を過ごしていた親友の家族が、すごくいい音楽センスを持っていて、パキスタンの歌手である、Nusrat Fateh Ali Khan (ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン) やマリの音楽家である、Ali Farka Touré (アリ・ファルカ・トゥーレ) を教えてくれたんだ。もはや適切な呼び方だと思わないけど、当時、それらの音楽は「ワールドミュージック」と呼ばれていたんだけど (苦笑)。未知のサウンドに触れたあの時のワクワク感は今でも忘れられないね。
—遠く離れた場所の音楽を取り入れる際には、事前にどのようなリサーチをされるのでしょうか?
もちろん。ただ、アカデミックになりすぎるのは避けたいと思っているけどね。僕がリサーチした中で面白かったのは、マンドリン奏者の Jacob do Bandolim (ジャコブ・ド・バンドリン)。彼は「ミュージシャンは音楽だけで食べていくべきではなく、真っ当な仕事を持って規則正しい生活を送るべきだ」という信念を持っていて、実際に薬局で働いていた。あんなに素晴らしい演奏をするのに、普段は薬局で働いているのを知って驚いたよ。そのように、どういう思考でその音を鳴らしているのか、アーティストの頭の中を覗き込むのが好きなんだ。
―新曲「Suntory」についても教えてください。この楽曲は日本で制作されたそうですね。
そう。元麻布の友人の場所でレコーディングしたんだ。そこは、彼が父親から引き継いだ、素晴らしいピアノと、レコードが置いてある「秘密基地」のような場所だったんだけど、残念なことに、最近その彼が亡くなってしまってね。とても悲しいけど、昨日、その場所を運営しているスタッフと話した時に、地下室で録音した「Suntory」を聴くと、思い出が蘇ってエモーショナルな気持ちになることを話してくれた。彼が亡くなった後も、音楽というギフトを通じて、彼の思い出が引き継がれていくことについて喜んでいたよ。
—「Suntory」では、ピアノのサウンドが非常に印象的でした。今年リリースされるアルバムについて教えてください。
まさに今、準備中の新しいアルバムのタイトルは「Piano Works 2016-2026」で、この10年間、書き溜めてきたピアノ曲をまとめたものになるよ。パンデミック中にリリースされた「Conflict」にも通じるものになるはずだね。以前、Instagram で、あるファンが「『Conflict』から5年経った」とコメントしていたのを見て考えさせられた。あのアルバムは僕の作品の中で最もヒットしたものではないけど、聴いた人から最も感情的に深いリアクションが返ってくる作品なんだ。だから、これまで書き溜めていたピアノ曲たちを一つの形にしてみようと思ったんだ。次のアルバムはピアノ主体で、ドラムや他の楽器もない、僕一人だけの世界になる予定だけど、その後にバンド編成での別のアルバムを出そうと考えている。
—アルバムの制作の途中に、LA の自宅が山火事に遭われたと聞きました。自宅の火事は、アルバムの制作に影響しましたか。
そうなんだ。実は火事の前にも、オーストラリアでラップトップが壊れて、その中にあったデータが全部消えてしまっていたんだ。その時は、「LA の自宅にバックアップのハードドライブがあるから大丈夫だ」と思っていたら、数日後に火事でそのドライブも焼けてしまってね。そこからは、Dropbox の奥深くに眠っていたフォルダを探したり、昔のメールを掘り返したりして、過去の曲を探した。でも、そうやって探していると、昔友達に曲をシェアしていた時のメールを沢山見つけて、その中から自分でも忘れていたような曲がいくつも見つかったんだ。そのいくつかは、今回のアルバムに収録されているよ。
—思いがけず、火事が忘れていた昔の曲や友人とのやりとりを思い出すきっかけにもなったと。
まさに。火事はコミュニティや自然にとっては悲劇的なことだったけど、個人的にはポジティブなことを発見するきっかけにもなった。火事で多くのものを失ってしまったけど、同時に身軽になれたような感覚もあったしね。LA の高い家賃を払う必要もなくなったのも正直大きかったよ (笑)。
火事のあとに古いメールやファイルを掘り返したのも重要な経験だったね。過去に遡って、リリースしなかったような曲でも「これ、実はすごく良かったんじゃないか?」という発見がいくつもあった。ミュージシャンは自分に厳しいから、作った直後は、些細な欠点でも気になってしまって、「この曲はゴミだ」と思ってしまいがちだけど、時間を置いてみると、そうした欠点が気にならなくなることもある。10年という時間が距離を作ってくれたおかげで、より客観的に良さを認められるようになった。
—10年前のご自身と比較して、一番変化したと感じる部分はどこですか?
10年前の僕は成功したいという野心がとても強くて、同時に失敗することに強く怯えていた。その当時は、失敗することへの恐怖がモチベーションになっていた部分があったけど、今は、楽しむことがより大きなモチベーションになっているよ。歳を重ねるにつれて、失敗なんてどうでもよくなった。それが、今の僕にとっての成長だと言えるのかもしれないね。
—キャリアを重ねたいま、音楽と向き合う時間はあなたにとってどのようなものでしょう?
今でも音楽と向き合う時間はとても楽しいものだよ。音楽をやればやるほど、音楽の核心に近づこうとするプロセスにワクワクする。もちろん、自分を100%理解することなんて一生ないように、完全な意味に到達することは決してないということは理解しているけど、一歩ずつ、音楽を通じて自分自身のことをより理解できるようになったと感じるし、自分が本当に伝えたいことに近づいている感覚はあるんだ。
—最近はどんな音楽に興味がありますか?
(スマホを確認しながら) そうだね、今聞いてるのは……ああ、ここに来るまでは、Three Six Mafia (スリー・シックス・マフィア) を聞いていたよ。僕の音楽とは遠くにあると思うかもしれないけど、シンセの要素とか、どこか通じるものがあったりするんだよね。あとは、リカルド・ヴィラロボスの20年前のテクノは今聴いても本当に素晴らしい。映画『ブゴニア』のサウンドトラックもとても良かった。Harold Budd (ハロルド・バッド) の「The Room」は、日本の街を歩く時の BGM として最高に気に入っている。
—『ブゴニア』のサウンドトラックのお話をされていましたが、あなたはこれまで映画の劇伴も手掛けられていますよね。
ああ、これまで経験したプロジェクトはどれも素晴らしかった。タフな仕事ではあるけれど、もっと挑戦していきたい仕事の一つだね。通常、映画における音楽の出番は撮影し終えた後の制作の終盤だ。映像を見ながら「ここに音楽が必要か」「このシーンを補完すべきか、あるいはあえて対照的な音をぶつけてカウンターポイント (対位法) を作るべきか」と考えていくんだ。でも、監督と作曲家では、使っている「言語」が違うこともある。例えば監督が「もっと速く」と言ったとき、それは必ずしも BPM (テンポ) を上げてほしいという意味ではなくて、「もっとエネルギーが欲しい」という意味だったりする。そうした言葉の裏にある意図を解釈していく作業が必要になる。
—異なる言語を理解し、翻訳していくようなプロセスですね。
まさにね。以前仕事をした監督に言われて面白かったのは、僕が「映画音楽らしい曲」を書こうとしたら、「映画音楽を作ろうとするのはやめてくれ。君が格好いいと思う、君らしい音楽を作ってほしいんだ」と言われたこと。経験が浅いと、つい「映画音楽とはこういうものだ」というものをイメージして、その型に嵌まろうとしてしまうけれど、それが正解とは限らない。
—なるほど。いつか、あなたと日本の映画監督とのコラボレーションも見てみたいです!
ありがとう。それは最高だね! 実現したら本当に素晴らしいと思うよ!














