名声よりも大切なもの。生きる伝説、ツイッギーが語る人生の本質
twiggy
interview & text: yoshiko kurata
60年代に一世風靡した、元祖スーパーモデル・Twiggy (ツイッギー)。その名は、英語で「小枝」という意味だが、それほど当時は細身の低身長モデルが業界では珍しい存在だった。その体型から、オーディションに行っても門前払いを食らうこともしばしば。しかし、ある日掲載された1枚の写真が、16歳だった彼女の人生を大きく変える。人形のような大きな瞳、そしてショートヘアで中性的なスタイルは、瞬く間に世界の業界人から同世代の女性までを虜にした。
そんな彼女による初の公認ドキュメンタリー映画『ツイッギー』 が4月24日(金)より全国で順次公開される。伝説的なビジュアルやアイコニックなスタイルの数々を知っている人も、一躍有名になった後の活動の裏側や苦悩、パーソナルストーリーについては知らないのでは。そこには彼女だけではなく、当時のモデル業界や女性モデルへのまなざしも生々しく描かれている。76歳となった今もなお、軽やかなユーモアと確かな芯を併せ持つ Twiggy。その言葉から見えてきたのは、名声の先にある本当に大切なものだった。
名声よりも大切なもの。生きる伝説、ツイッギーが語る人生の本質
Entertainment
―これまでも多くの映画監督から自伝映画の製作オファーをもらっていたそうですね。今回、Sadie Frost (サディ・フロスト) とタッグを組もうと思ったのはなぜですか?
おっしゃる通り、これまで多くの映画監督からオファーをいただきました。ただ、自分の伝記映画を制作するとなると、その過程で非常にパーソナルな部分まで共有しなければならないというハードルがありました。ですから、いずれ製作するにしても、自分が信頼でき、かつ気の合う人と作りたいと常々思っていました。Sadie との出会いのきっかけは、私がホストを務めるポッドキャスト番組『Tea With Twiggy』に彼女がゲストで来てくれたことでした。彼女の監督作である『マリー・クワント スウィンギング・ロンドンの伝説』(2021)の宣伝で出演してくれたのですが、話を聞くうちに、その作品は私のお気に入りのドキュメンタリーのひとつになりました。番組の終盤で、私から「今後、60年代を題材にしたドキュメンタリーを作る予定はあるの?」と聞いてみたところ、Sadie が「あなたについてはどう?」と提案してくれたのです。それで早速、収録の翌週にランチへ行き、すぐに意気投合しました。そこから配給会社の Studio Soho(スタジオ・ソーホー)にも相談し、完成に至りました。
―Sadie さんのどのようなところに、信頼を感じたのでしょうか?
やはり女性であることは前提として大きかったのですが、それ以外にも、私と似たようなキャリアを歩んできた点も共感したポイントでした。彼女も16歳からモデルや女優、ファッションデザイナーなどを経て、いわゆる表に出る仕事を経験してきました。だからこそ、私の人生を深く理解し、親身になって制作してくれるだろうと感じたのです。撮影が終わってからもその信頼関係は続いていて、いまでは仲の良い友人という間柄です。自分の物語を他者に伝えることは非常にエモーショナルな過程ではあったのですが、彼女が素敵な作品として仕上げてくれたことに本当に感謝しています。
―製作の過程では、どのくらい Twiggy さんもアイデアを出しましたか?
密に Sadie と連絡を取り合いながら、私自身も製作に関わりました。もちろん Sadie のほうでは、膨大なリサーチをもとに、過去の写真作品や映像などの権利関係をクリアしてくれたり、取材シーンの出演者の人選なども彼女が決めてくれました。映像もある程度、彼女が撮影・セレクトした素材に対し、私が「あの場面も足したほうがいいのでは?」「そういえば、こういう話もあったけれど加えるのはどうかな?」といった提案をする形で進めました。最初に編集された映像を観たときは、思わず泣いてしまいました。両親や娘を含めた自分の人生を改めて振り返り、感極まる瞬間がたくさんあったのです。いまでも客観的に観ることは難しいですが、それでもやはり、彼女と一緒に作れてよかったと思える作品ができたと思います。
―映画を観て、当時はモデルにマネージャーがついていないことに驚きました。人権を軽視するようなフォトグラファーやプロデューサーがいる現場の緊張感も、映画から伝わってきました。時代の変化をどのように感じていますか?
非常に良い形で変化していると思います。映画にも映っていますが、幸いなことに私にはマネージャーがついていました。というのも、当時は非常に若く、学校を休んで現場に行くこともあったため、父から「モデルをやるなら、しっかり守ってくれる世話役をつけなさい」と言われていたのです。そのおかげで私は守られていましたし、不当な扱いを受けたこともありませんでした。正直、当時はあまりの忙しさに周囲のモデルの状況まで知る余裕はなかったのですが、のちに映像を観るなかで、当時の環境はショッキングなものだったと感じるようになりました。時代の変化については、私自身がファッション以外の活動もしてきたので、モデル業界全体が同じかはわかりませんが……。たとえば、30年以上にわたって所属しているイギリスの大手事務所 Models 1 (モデルズ・ワン) の契約書をみると、過去の反省をもとに内容が更新されていると感じます。「16歳以下のモデルは所属できない」「海外出張時はマネージャーをつける」といったルールです。私の観測範囲だけでも、人権を守る意識が法整備の面から整ってきているように見受けられます。
―自分を見失わず、常に地に足のついた活動ができていたのはなぜでしょうか?
一番の理由は、家族と仲が良かったことですね。シングルマザーになったときも幼い娘を預かって私を支えてくれたおかげで、仕事に没頭し続けることができました。名声は、その結果としてついてきたという感覚です。たとえば、キャリアの大きな転機となった、Ken Russell (ケン・ラッセル) 監督の映画『ボーイフレンド』。演技は初めての経験で冒険的な挑戦でしたが、一方で当時はシングルマザーになったばかりでもありました。そこでも家族の支えがあったからこそ、制作側の期待に応えるべく一生懸命取り組めましたし、その後のブロードウェイ出演にもつながりました。そうやってひとつずつ、目の前のことにベストを尽くしていたことで、地に足をつけて活動できていたのだと思います。いまでは夫と40年間連れ添い、本当に幸せな毎日を送っています。もちろん良いご縁があれば新たな仕事にも挑戦したいですが、まずは孫たちにとって良いおばあちゃんでいることが、今の一番の仕事です。
―当時、仕事と子育てのバランスはどのように保っていましたか?
難しい質問ですね。映画でも話していますが、当時はニューヨークに拠点を移し、舞台のリハーサルにも本番にも娘を連れて行くような毎日でした。学校が始まると、だんだんと大変さが増していきました。幼い頃のように現場に連れ出すわけにもいかなくなったからです。ロサンゼルスで仕事をしていた時期が、一番バランスを取るのに苦戦しました。その後ロンドンに戻り、娘が大学の寮生活を送るようになって、ようやく自分も子育てから自立できました。それまでは常に「仕事と子育てを両立できるか」を最優先に考えて検討していました。実体験から言えるのは、本当の意味での両立は非常に難しいということです。それでも、生涯にわたって一番大事な仕事は、母親であること。娘は間違いなく、私の人生を変えてくれた大きな存在です。
―最後に、これから表現者を目指している方へアドバイスをお願いします。
現実的な話をすれば、先ほどお話しした通り、実績のあるモデルエージェンシーに可能な限り所属することをおすすめします。そうでなくとも、とにかく自分の夢を追いかけ続ける努力を絶やさないでください。ひとつひとつの物事に真摯に向き合えば、夢は叶うはずですから。














