Paul Lynch
Paul Lynch

小説家ポール・リンチが、ディストピア化したアイルランドを通して描きたいこと

Paul Lynch

Photography: Hinato Nishitani
Interview & Text: Runa Anzai

Portraits/

やわらかい日差しが差し込む白を基調としたリビングから、小説家 Paul Lynch (ポール・リンチ) とのビデオコールが繋がる。背景には、天井までひしめくように並ぶ書籍。もう一方の壁には、同じく一面に並ぶレコード。その中には、5月の来日時に購入したものも収められている。「日本のレコードは状態が綺麗なものが多い。スーツケースの半分を空の状態で持っていったのだけど、帰りにはそれがいっぱいになっていたよ」と嬉しそうにコレクションを見せてくれる。もちろん、彼の来日の目的は、レコード探しではない。

2023年、英語圏でもっとも権威ある文学賞のひとつ、ブッカー賞を受賞した著書『預言者の歌』の待望の日本語版が刊行されたからだ。本作は、全体主義な社会へと変容した近未来のアイルランドを舞台に描くディストピア小説。超監視社会となったアイルランドで、分子生物学の研究者で4人の子どもの母であるエイリッシュは、国家警察に連行された夫を待つか、子どもたちを守るためにカナダへと亡命するかの選択を迫られる。

小説家ポール・リンチが、ディストピア化したアイルランドを通して描きたいこと

早川書房の新たな海外文学シリーズ「ハヤカワ・プラス」の創刊第一弾として刊行された本作は、近未来を舞台にしたフィクションでありながらも、描かれる内容には「明日は我が身だ」と思わせるような切迫したリアリティがある。これまでも、故郷や自然、神話、信仰、家族といったテーマの小説を発表し、着実に評価を得てきたリンチはなぜ今、『預言者の歌』を書くに至ったのか。新作を執筆中だという貴重な休憩時間に話を聞いた。

―本作はフィクションですが、現在、世界中で起きている出来事とあまりにも重なる部分が多いと感じています。また、特に印象に残っているのが、長男マークと長女モリーの思春期、そして、反抗期の描写です。そこでお聞きしたいのですが、ポールさんはどのような子ども時代を過ごされたのでしょうか。

私はアイルランドの田舎、ドニゴールという場所で育ちました。正直に言えば、子どもにとって最高な場所とは言えません。1980年代から90年代初頭にかけては文化的にも閉ざされた場所で、スポーツは盛んでしたが、本に興味を持つ人はほとんどいませんでした。とても小さな地域だったので、人々の考え方もどこか閉鎖的だったのです。私は一日でも早くそこを離れ、大きな街へ行きたいと切望していました。この心理を語るうえで重要なのは、生後1年にも満たない頃にアイルランドで3番目か4番目に大きな都市であるリムリックから移り住んだということです。ですので、本来あるべき都市での生活や文化的な暮らしを奪われたという感覚がありました。まるで自分がいるはずである街から理不尽に引き離され、誰にも自分を理解してもらえない田舎へ植え替えられてしまったような気持ちだったのです。また、通っていた学校は殴り合いの喧嘩も多く、荒っぽい環境でした。そうした中で、私はとても打たれ強い人間になったと思います。
それから、何年も経って小説を書きはじめたのですが、作品の中ですらドニゴールに戻ることだけは絶対にないと思っていたのです。ところが実際には、最初の数冊の作品をドニゴールを舞台に描くことになった。そこで育った経験が、小説の中に自然と入り込んでいたということですね。子どもの頃、家の前の道を右へ曲がれば町へ出られました。逆に左へ曲がると山へ向かいます。その風景には木がほとんどなく、ただ裸の山々が広がっていました。そうした環境のなかで、「悠久の時間の中に世界が存在し、その中を人間がほんのひとときだけ通り過ぎていく」という感覚を抱くようになりました。そして、その神話的ともいえる世界観は、今も私の作品の根底に息づいているのです。

―ある意味では、幼少期の経験が執筆のインスピレーションになっていると言えるのでしょうか。

そうですね。ただ、ひとつ付け加えておきたいのは、私は子どもの頃からずっと熱心な読書家だったということです。母は、成人向けの識字教育の教師でした。当時、その地域には、たとえばディスレクシアがあっても診断されることなく、10代で学校を辞めてしまった人がたくさんいました。そうした大人たちに、母は読み書きを教えていたのです。そして母は、いつも読書の楽しさや大切さを教えてくれました。
これは笑ってしまうような話なのですが、母は街に一軒だけある小さな古書店によく連れていってくれて、なんとそこで働けるようにしてくれたのです。11歳の頃でした。というのも、その頃には家にある本をほとんど読み尽くしてしまっていたので、もっとたくさんの本を読む機会になるだろうと考えてくれたのでしょうね。

―11歳ですか。珍しい体験ですね。

はい。家の外に出るきっかけにもなりましたね。でも、私の友人たちは誰ひとりとして本を読まないので、本について語り合える相手がまったくいなかった。だから、いつも強い疎外感や自分だけが周囲から浮いているような気持ちを抱えていました。そして、それは多くの作家に共通する感覚なのではないかと思います。作家という存在は、社会の内側と外側、その両方にまたがって立っています。一方の足は社会の中にあり、社会の一員として生きています。しかし、もう一方の足は社会の外側にあるのです。だからこそ、私たちは外部の視点から社会を見つめることができる。そして、その距離感があるからこそ、社会をほかの人とは違った角度から捉えることができるのです。

―この作品の舞台は、あなたの母国であるアイルランドのダブリンです。しかし、この物語は、ほとんどの国や地域でも起こり得るように感じられます。なぜアイルランドを舞台に描こうと思ったのでしょうか。

ある意味では、舞台となる場所は重要ではありません。おっしゃるように、この物語はどこを舞台にしても書くことができたと思います。それでもダブリンを舞台に選んだのは、私自身がアイルランドの作家であり、この街をよく知っているから。だからこそ、深い感情を吹き込むことができるのです。一方で、個人的なものを通して普遍的なものを見出すという感覚があります。私は、ダブリンという具体的な場所が、普遍的で神話的な世界へ至るための入り口、と捉えています。ですから、読者はこの本を読みはじめると、「彼はアイルランドやその政治について何かを伝えようとしているのか」と思うかもしれません。しかし、それは違います。時代を超えた人間の真実を描いているのです。この作品には興味深い “ひねり” があります。この本を読みはじめた人は、よく「こんなことがアイルランドで起こるはずがない。アイルランドはとても安定したリベラルな民主主義国家なのだから」と言います。政治制度もしっかりしています。そのため、最初はこの物語の前提を受け入れません。しかし、物語が進むにつれて、この本はファシズムの論理、あるいは権威主義的な支配の論理、暴政の論理、そして社会がどのような過程を経て崩れていくのか、その崩壊の論理を読者に示していると気づくのです。そして最後には、「これはどこでも起こり得ることなのだ」と感じることができるはずなのです。

―この物語は、分子生物学者で、4人の子どもの母親でもあるエイリッシュの視点から描かれています。なぜ彼女を物語の中心に据えたのでしょうか。

「なぜこの人物を選んだのですか」という質問を受けるのは好きなんです。というのも、そういった質問には、作家があらゆることを意図的に操る存在だという前提がありますよね。つまり、本を書きはじめるときに、すべてを綿密に決めているように思われている。でも、少なくとも私の場合は違います。そこには、とても直感的で、無意識に深く根ざしたプロセスがあるのです。実は、この作品を書きはじめる前の6か月間、私は別の小説を書いていました。でも、自分でも「これは違う」と分かっていました。ただそれでも、書き続けなければなりませんでした。ときには、その作品を自分の中から最後まで書き出してしまわないと、「これは間違った本だった」とは言い切れないからです。そして、6か月間書き続け、ある日、その作品を読み「よし、終わりだ。これは違う作品だった」と気づくことができたのです。そのとき私は頭の奥、頭蓋骨の後ろのほうで、無意識のなかから何かが湧き上がってくる気配を感じました。そして、次の月曜日に仕事へ戻り、新しいファイルを作成して、『預言者の歌』の最初の1ページを書きはじめました。それは完全に直感的な行為で、エイリッシュは、その冒頭の文章の中にすでに存在していたのです。

―直感ですか。

直感というものは、実はもうひとつの知性なのです。最初は自分で理解していなくても、そこにはちゃんと意味や構造がある。それをあとから発見するということだけなのです。この作品を書きながら私が発見したのは、エイリッシュが「母親」であることの重大な意味についてでした。根源的に言えば、この世界には母親なくして生まれるものはありません。母親とは、命を与える存在であり、自然そのものを体現する存在、つまり創造の象徴なのです。この物語では、そうした「創造」とそれに対置される「破壊」という2つの力が同時に動いています。
もう一つ、エイリッシュが科学者であるということにも意味があります。人類は、ここ数百年にわたり、科学的な経験や実証、そして懐疑を積み重ねることで、少しずつ客観的なものの見方を築いてきました。しかし、この小説で描かれる政治体制のもとでは、「現実とは何か、世界とは何か」という認識そのものの土台が崩れていくのです。客観的な理性は主観的な感情へと置き換えられ、歯止めが効かなくなっていく。「どう感じるかは自由だ。でも、それとは別に受け入れなければならない客観的な事実がある」。かつて存在していた、そのような共通の認識を、エイリッシュは体現する人物なのです。近代合理主義が崩れ去り、世界は合理性を失った混沌へと進んでいく。その過程で、人間の心の奥底に潜む、より暗く、より非合理的な本能が姿を現します。この物語は、私たち誰もが少なからず内側に抱えている、その非合理性という暗い力を描いてもいるのです。

―長女のモリーは、優秀なホッケー選手ですが、父親のラリーが国家警察に連行され、社会の情勢が不安定になっていくにつれて、スポーツへの意欲を失っていきます。そのような状況では、スポーツや芸術、そして読書のような娯楽は、後回しにされてしまうように感じます。こうした状況で、文学をはじめとする芸術は、どのような役割を果たせると思いますか。

モリーについて考えるとき、私が見ているのは、精神の不安定さやトラウマ。そして、この変化していく社会やその崩壊がひとりの子どもに与える影響です。本作は、四人兄妹を通して、トラウマを描いています。父親が国家によって文字どおり連れ去られ、自分たちの人生から突然引き剥がされてしまうことによるトラウマ。そして、自分たちが知っていた世界のすべてが崩れていくのを目の当たりにすることによるトラウマです。こんな世界で、どうすれば自由に走ることができるのでしょうか。自分自身を閉ざし、芸術や文学、そしてスポーツが二の次になってしまうのはごく自然なことだと思います。スポーツをしたり本を読んだりすることは、とても馬鹿げたことに思えてしまいます。それでも、私たちには文学が必要です。もっとも暗い時代にこそ文学が必要ですし、もっとも明るい時代にも文学が必要です。光のある時代にも文学が必要なのは、闇が実際にはどのようなものなのかを思い出させてくれるからです。私は、文学の美しさとは、人生の根本的な価値を思い出させてくれることだと思っています。そして私たちは、これから訪れる困難や苦難に備えておかなければなりません。そのための究極のシミュレーション装置が文学なのです。文学は、言語の豊かさにおいても、主観性と客観性の豊かさにおいても、もっとも優れた表現形式だと思います。私にとって文学は、単なる娯楽ではありません。気分を良くしてくれる物語を読むことでもなければ、慰めを与えてくれる物語を読むことでもありません。本当に真剣な文学は、慰めを与えるものであってはならないと思います。本来は、人間についての深い真実を描くものであるべきです。そうすることで、読み終えたときに「これまで知り得なかった何かを得た」という感覚とともに、本を閉じることができるのです。

―この本の翻訳者でアイルランド文学者、栩木伸明さんの訳は、あなたの文章のリズムを日本語へ、見事に訳されていると思いました。文章においてリズムや行間はとても大切だと感じます。あなたは、これまでに日本文学などの訳書を読まれたことはありますか。もしあるとすれば、好きな小説や作家はいますか。

川端康成の『山の音』と谷崎潤一郎の『細雪』は好きですね。現代の日本文学については、正直なところ、十分に読めているとは言えません。しかし、日本は私の人生や作品に非常に大きな影響を与えているのです。それらを通して、日本文化に深く宿る禅の美意識について理解することができましたし、「もののあわれ」の考え方にも影響を受けました。実際、それは私の小説の中にも組み込まれています。この一瞬のはかなさ、この瞬間が実体を持たず、だからこそ美しいという感覚。日本の読者が、私が書く文章の中にそうした感覚を見出してくれるかどうかは分かりません。でも、その美意識を自分なりに消化し、文章に落とし込んでいます。

―この作品は、段落替えがほとんどなく、会話の引用符もなく、章立てもありません。読み始めたときにとても驚いたのですが、こうしたスタイルを選ばれたのは、どのような理由からだったのでしょうか。

この質問をされるたびに、少し面白く感じるのです。なぜなら多くの人は、「小説とはこういう見た目であるべき」「こういう書かれ方をするべきだ」という感覚を持っているように思うからです。ですが、「こうでなければならない」という絶対的なルールは存在しません。私以前にも、このような書き方をする作家は大勢いましたし、この小説で何か革命的なことをしようとしたわけでもありません。ただ、そこにある一つひとつの選択には、必ず意味があるのです。長い文章は、読者を登場人物が生きるその瞬間へと連れていってくれる。同時に、目の前で物事が展開していく感覚や、避けられない運命に巻き込まれていく感覚をも表現しているのです。段落替えをほとんどしなかったのも、そのためです。息苦しさ、世界が崩壊していく気配、そして糸がほどけるように物事が制御不能になっていく感覚。その流れのなかに読者を閉じ込めたかったのです。だから、この小説には余白があってはいけなかった。読者が息をつける場所があってはいけない。この物語には、「息をつく余裕」そのものが存在しないからです。

―ブッカー賞を受賞され、さまざまな国へプロモーションも兼ねて訪れているそうですね。世界中の読者と会うことは貴重な経験だと思います。

本当に素晴らしい経験です。本は、読者がいなければ成り立ちません。作家もまた、読者がいなければ何ものでもありません。私はこれまで世界中で何千人もの読者と会ってきました。そして、本当にたくさんの特別な話を聞いてきました。戦争地域に暮らす人たちからも、多くの手紙を受け取りました。そのなかでも特に心を動かされたのが、ウクライナのドンバスに住む女性からの手紙でした。彼女の手紙には、「人生で読んだ中でもっとも読むのがつらい本でした」と書かれていました。それでも最後まで読み通したそうです。なぜなら、「私はエイリッシュだからです」と。彼女は、自分の人生を肯定してくれたことへの感謝を伝えるために手紙を書いてくれたのです。事実、私はただ部屋にひとりで座り、物語を想像して書いているだけの人間です。それなのに、自分の手の届かないところで、物語が新たな反応を生んでいます。それをとても不思議に思うことがあるのです。

―お昼休みの時間にインタビューを受けてくださり、本当にありがとうございました。このあとは昼食を作って、また執筆に戻られるのですか。

お昼はもう食べたので、これから少し散歩に行こうと思います。頭をすっきりさせて、新作の執筆に戻ります。