人と衣服、日本とフランス、伝統と現代。その「あいだ」をつなぐ、Kanako B. Kogaの視点
Kanako B. Koga
photography: yuta kataoka
interview: chikashi suzuki
text: tomoko ogawa
パリを拠点に活動するスタイリストKanako B. Kogaの仕事に触れると見えてくるのは、服を「装うもの」としてだけではなく、人や空間、工芸、そして生活そのものをつなぐための媒体として捉える視点だ。Maison Martin Margiela(メゾン・マルタン・マルジェラ)やHermès(エルメス)での経験を経て、約30年にわたり、ファッション・エディトリアルからショー、ブランドコンサルティング、さらには日本各地の工芸や民藝にまで、その視点を広げてきた。見えない部分まで整えること。作り手への敬意を忘れないこと。そして、丁寧に生み出されたものが人の生活の中でどう生き続けるかを考え続けること。その一貫した姿勢こそが、Kanako B. Kogaという存在の輪郭を浮かび上がらせている。
今回、第一回では、Kogaがスタイリングを手がけたRAINMAKERの27年SSコレクションの撮影を担当したフォトグラファーの鈴木親を聞き手に迎え、パリでのキャリアの始まりから、Martin Margiela(マルタン・マルジェラ)との仕事、エルメスで培った職人観、そして現在取り組む工芸や民藝への眼差しまで、その軌跡を辿る。第二回には、RAINMAKERデザイナー 渡部宏一を交えた鼎談に続く。服を起点にしながら、その先にある「ものづくり」と「生き方」について語る
人と衣服、日本とフランス、伝統と現代。その「あいだ」をつなぐ、Kanako B. Kogaの視点
Magazine
—Kanakoさんの仕事は見たことがある人も多いと思うんですが、どういう方なのかは日本では意外と知られていなくて。僕が最初にお会いしたのはcode magazineの仕事でご一緒したときですが、一番最初にKanakoさんのことを知ったのはi-D MAGAZINEの誌面で、いつも「Kanako・B・Koga」とクレジットが入っていて。「日本人でこんな仕事をしている人がいるんだ」というのが最初の驚きだったんです。90年代のi-Dのエディトリアルでした。i-Dはいつ頃から関わられていたんですか?
i-Dで仕事を始めたのは、マルタン・マルジェラがエルメスのデザイナーをする少し前ですね。その前に、香港のセレクトショップJOYCEのJoyce Ma(ジョイス・マー)がやっていた雑誌があって。ジョイスはCOMME des GARÇONS(コム デ ギャルソン)やマルタンを、バイヤーとして初めて扱った人のひとりで。すごくリュクスというか、「彼女が買い付けている服を使えば何をやってもいい」という自由な雑誌だったんです。
—A Bathing Ape®(ア ベイシング エイプ®)も初期から扱っていましたよね。
はい。Dries Van Noten(ドリス・ヴァン・ノッテン)のページを全部ピクセルで見せたりもできる雑誌で、すごく楽しんでやっていました。それをマルタンが「面白い」と見てくれていたんです。
—マルタンと仕事をし始めたのは、エルメスからだったんですか?
エルメスを始める前、98年からですね。
—ということは、最初にエルメスの店でやったランウェイも関わられていたんですね。
最初から最後までやっていました。マルタンのラインも、マルタンが辞めるまでずっと。ちょうど1997年くらいに、イギリス版のi-Dも始めて。当時、Terry Jones(テリー・ジョーンズ)から「コントリビューティング・ファッション・エディターにならない?」と言われて、そこから定期的にやっていました。
—97年頃、僕もちょうどパリに行っていたので、そこで見た雑誌にKanakoさんの名前が出ていたことを覚えています。その前にジョイスでお仕事をされていたんですね。
JOYCEをやったり、自由なフリーペーパーのようなものをやったり。当時のmarie claireのドイツ版や、イタリアの雑誌などのスタイリングもしていました。
—日本でもスタイリストとしてお仕事をされていたんですか?
日本では、きちんとはやっていません。もともとはデザイナーとして仕事を始めたんですが、自分の考えていたことと少し違うなと悩んでいた時期があって。その時に、スタイリストの秦貴美枝さんに西麻布のクラブで出会ったんです。「見においで」と言われて現場に行って、「こういう仕事があるんだ」と思って。その頃、小池一子さんにもお会いしました。PARCOや無印良品でクリエイティブ・ディレクターをされていて、みんなが集まっていて、そこですごく面白いことが起こっていたんですよね。
—小池さんが主宰していた「佐賀町エキジビット・スペース」は、まさにコンテンポラリー・ギャラリーの黎明期でしたよね。杉本博司さんとか、ギャラリー小柳の小柳敦子さん、タカ・イシイギャラリーの石井孝之さんや小山登美夫ギャラリーの小山さんがいて。今エスタブリッシュされている方たちが、まだ何者でもなかった時代というか。僕はまだ高校を卒業したばかりか大学一年生くらいの頃に、よくわからないけどかっこいいから、と通っていました。
そうですね。小柳さんは、その時、小柳ギャラリーだけじゃなくて西武美術館のキュレーターもされていて、大きなアーティストの展覧会も手掛けられていました。
—池袋西武は本当にいい展示をやっていましたよね。日本が一番おおらかで強かった時代に、逆に東京にいらっしゃったんですね。
本当に、アートがこんなに面白いんだと思っていました。私も若かったので、毎日仕事の後にいろんなところへ連れていってもらって。全部先輩たちに教えてもらったので、今があるのもあの方たちのおかげだなと思います。私がアシスタントについていた秦さんも、本当にいろんなことを教えてくれて。当時PARCOの広告をはじめ、植田正治さんとの仕事も多かったし、広川泰士さんの写真集『sonomama sonomama』(1987)では、お坊さんや漁師さんにギャルソンを着せたりしていて。そういう仕事を少し手伝ったりしていました。「作品を作るから」と言って、森万里子さんのスタイリングもしていましたね。
—そうだったんですね。コスプレの影響がある、秋葉原で撮影された初期作品とか?
そう。秦さんがコスプレみたいな衣装を作っていました。あと無印良品のショーもやっていました。
—いわゆるコマーシャルといっても、商品の宣伝というより、イメージを伝える仕事をされていたんですね。
そうですね。かなりイメージ寄りだったと思います。それで、日本でスタイリストとしてやっていけるかを自分で考えた時に、日本は編集部の方がいて、スタイリストがいて、別々に共同作業をするスタイルが主流だったので。私はファッション・エディターを目指したかったんです。最初から最後まで自分で作り上げて、最後の写真選びまで担当したかった。パリならそれができると知って、パリに行きました。
—日本はある種、分業ですもんね。編集者がいて、スタイリストがいて、テーマを決めて、依頼する。そうなると、言い方が正しいかわからないですが、スタイリストの醍醐味みたいな部分が少し失われるところもある。自分でコントロールできる、思い通りに進められる場所として、パリに行ってみたんですね。
そうなんです。それで向こうに行ってすぐ、山崎真子さんという、コム デ ギャルソンのショーをやられていた方のアシスタントを始めました。
—Kanakoさん、すごくいいところにスパッと入れるんですね(笑)。
すごく運が良かったと思います。ずっと、運がいいままです。
—でも、実力があってもそこへ行けない人もいるし、運だけがあっても行けないじゃないですか。パリに行って、すぐアシスタントについたんですか?
すぐつきました。真子さんの電話番号をいただいて、電話したら「じゃあ明日」と言われて。行ったら、「ついて来なさい」と。一週間以内に全部、トントン拍子に決まって。その人しか知らないし、日本人も彼女しかいなかったし、フランス語もできないし、英語も下手だったので。本当にピンポイントで行ったら、それが当たったんです。彼女がやっていた仕事がすごく面白かったので。
—真子さんはずっとパリにいた方なんですか?
そうです。大先輩で。高田賢三さんも同世代のお友達で。彼らの時代は「船で来て、一旦日本を出たら帰れない」みたいな感覚だったそうで。私はもう少し帰りやすかったというか、意気込みがちょっと違いましたね。
—デザイナーの入江末男さんから、「なめられないように、飛行機を降りる時は紋付袴で」という感覚だったと聞いたことがあります。僕らの時代は航空券も安くなっていたし、そこまで気負う感じではなかったですよね。
3ヵ月かけて船で来てますから、「日本人」としての旗を振っていたと思います、その頃は。
—でもそういう人たちがいるから、今の僕らの仕事もあるんですよね。川久保玲さんや入江さん、Kanakoさんも、日本人としてのいいイメージを作ってくれた方たちがいたから、僕らがパリに行ってすぐ「じゃあ使ってみるか」と仕事ができたんだなと。
日本人は真面目だし、きちんとやるし、という。今でもそう思われていますね。
—Kanakoさんの時代だと、日本人はかなりマイノリティでしたよね?
今と比べたら本当に少なかったですね。
—今はメディアもコンテンツも多いけど、昔はピンポイントでしか載らないから、選ばれた人しかできない。「タダで働く」と言っても無理でしたよね。僕が行った時に忘れられない話があって、イエールのコンペでVictor&Rolf(ヴィクター&ロルフ)が賞を取って、その副賞がマルタン・マルジェラのアトリエでスタージュ(研修)ができる、というものだったんです。勝ち取った賞品が、タダ働きできる権利なんですよ。そこがベースとなると、やる気が全然違ってきますよね。
でも私は本当にラッキーだったんですよ。そうとしか言えない。
—Kanakoさんの経歴を見ているとあらゆるところでお仕事されているので驚かされますが、一番最初にやった仕事って覚えていますか?
真子さんがmarie claireフランス版やmarie claire bisでも仕事をされていたので、その関係で編集部の方と知り合って、最初にmarie claire bisの仕事が来て頑張ってやったのに、すごく不評だったんです(笑)。送ったら、「うーん」と言われて。「ダメだったんだ」と落ち込んで。出版されるまで時間が長いので楽しみにはしていたんですけど。でも発売してみたら、かなり好評だったんですよ。「すごく良かった」と発売後に言われました。そのおかげで仕事を失わずに済んで、その後も仕事が来ています。
—その時はどういう撮影を?
ちょっと特殊なんですけど、Russ Meyer(ラス・メイヤー)はわかります?
—はい、アメリカの映画監督の。B級的な。
B級的にやりたくて。そこが少し不評だったのかもしれないんですけど。一番最初の編集ページだったので、少し強すぎたのかなと。でも、あんまりないから面白いかなと思ったんです。日本人だからって、最初から日本っぽくするのもイマイチだし、全然違うものとしてやりたかったんですよね。だから編集の方は「なんだこれは?」と思ったんでしょうね。
—だけど誌面って面白いもので、前後の流れで見え方が変わるじゃないですか。ヨーロッパのテイストの中にそれがいきなり入ってきたら、逆に引き立ちますよね。
marie claireっぽくはなかったですよね。こういうのをやりたいという構図をいろいろ考えて、どんどん作っていったので。
—ちなみに、これまでに一番印象的な仕事ってなんですか?
ありすぎるくらいにありますね。いろんなタイプの違うカメラマンと撮って、そのたびに「すごく面白い!」と思ってやっていたので。
—ファッションショーで言うと、日本だと、スタイリストはできあがったものからコーディネートを組むことが多いけれど、ヨーロッパの場合、よりデザイナーとの共同作業というか、かなり早い段階から参加してコンセプトを決めたり、ショーの見せ方や演出にも関わりますよね。
そうですね。絵の段階のところから一緒に見たりしていました。
—日本の方がマルタン時代のエルメスに関わっていたということが、僕らからするとものすごいレジェンドだなと。
マルタンがタイムレスだから。今見ても、本当に素晴らしい仕事をしているなと思います。
—ミニマムだけどエレガントで。
本当に見えないところを突き詰めているから、後に残る仕事になっていますよね。特に服って、一見見えなくても、きちんと考えて追求されているところは、着た時に感じるんです。エルメスの服は、着た人にしかわからない軽さや心地よさがあって。例えばパンツを裏返しても、綺麗に縫われているから、裏か表かわからないくらいなんです。
—フランスで、「エルメスのシャツは一度バラしたら作り直せない」と聞いたことがあります。単純に見えるけど、かけている手間が違うから、普通の人には戻せない。それまで僕の世代はコム デ ギャルソンとマルジェラ以外のブランドを少し下に見るような風潮があって、「エルメスのシャツ買うの?」みたいな目線をもらった記憶があるんですけど、本当にいいものってこういうものなんだ、とその頃初めてわかったんですよね。
当時エルメスの仕事でそういう細かいところを見ていたので、その後の仕事で困ってしまうこともありました。綺麗で当たり前という環境にいたから、普通のブランドなら「仕方ない」と思えても、リュクスのブランドで少しでも縫製が悪いと、すごく目についてしまって。「この縫い方はない!」と気になりすぎて難しかった時期もありました(笑)。
—職業病のような(笑)。例えばショーの時は、舞台みたいに起承転結を作るなど、エディトリアルとは分けて考えているんでしょうか?
ショーだと、例えば200体の中から40ルックを作って、順番を決めて、誰に着せるか、ヘアメイクをどう入れるかを決めますよね。エディトリアルとは全然やり方が違うと思います。マルタンの場合は、人手が足りないというのもあったし、手作りが多いから、みんなで作っていたんですよね。そこで手伝いができたのは面白かった。
—エルメスの後に、マルタンのショーに関わるようになった、ということですか? 最初はレディースからですよね。
レディースですね。エルメスを辞めた時、私はちょうど二人目の子どもを妊娠していて。三週間後に生まれたんですけど、本当にギリギリで。「今日は産んでくれるな」って言われながらやっていました(笑)。その後少しお休みをいただいて、しばらくしてマルタンの方から「うちでもやってもらえないか」という感じでオファーがあって。それまではプレゼンテーションの形式が多くて、私はそれがすごく好きだったんですが、ちょうどそれをショーに変えていくから、という話だったんですよね。
—僕が行った頃は、プレゼンテーションみたいな印象が強かったですね。壁にバーっと人が並んでいて。
すごく良かったですよね。あのプレゼンテーション形式が、一番マルタンっぽいと私は思っているんですけど。
—その後、結構大掛かりなショーをやっていた時期に、Kanakoさんが関わられていた、ということですね。見え方が一気に華やかになった感じがありました。
そうですね。普通のモデルを使って、形式も普通のショーに近くしていました。でも本当に、すごくいい状態で仕事ができたと思います。マルタン本人はいろいろとストレスが溜まっていたと思いますが、それが現場には降りてこないというか。マルタンのスタジオも、エルメスの時代も、私はすごく楽しく仕事ができていました。
—エルメスのショーのスタイリングを、まさか日本人が全部やっているとは思っていない人が多いと思います。ヘアの方も、Kanakoさんが引っ張ってきたんですか?
ヘアのTomohiro Ohashiは、私が紹介しました。
—デザイナーに対するスタイリストの仕事って、やっぱり大きいですね。
キャスティングを考えることもありますしね。
—スタイリストが変わると、明らかにショーが変わったな、と思いますもんね。同じものを作っても、解釈が変わるので。
スタイリングで、ものすごく変わるんです。癖のあるスタイリストだと、その変化が強く表に出てくる。だから時々、二つのブランドを同時にスタイリングしていると、似たような雰囲気になってしまったりする。それは問題があると思います(笑)。「あ、同じ人がやっているな」ってわかってしまうから。でも、そういうのが好きなデザイナーだったら、その世界観を押し出して作り上げてくれるので、それはそれでいいと思います。
—Kanakoさん自身が洋服を作りたい、というのは最初思っていなかったんですか?
洋服はすごく好きなんですけど、周りの人や友達の服のデザインをずっと見ていたから、その大変さがわかりすぎていて。服を作って卸して売ることを、みなさん本当に頑張っているなと思います。だから知り合いの作り手に頼んで、「こういうのを作ってほしい」と言ったりはします。昔、和紙を入れ込んだらサラッとして気持ちいいから、それでオーバーサイズのものを作ってほしくて。持っていって作ってもらったら、それがベストセラーになったり。欲しいもののアイデアを持っていって作ってもらって、自分で着ている、というのはありますね。
—デザイナーだけでなく工房の人達も、作る時間が長くなると、ずっとアトリエにこもって外との接点がなくなるじゃないですか。そういう時にスタイリストや外部の人がアイデアを持ってきてくれるのは最高ですよね。
もちろん。自分でももう始めていますが、工芸や民藝が好きなので、機会があったらもっとやってみたいですね。素材も好きなので。小さい時から父もそういうものが好きで、東京で一番好きな場所が日本民藝館だったんです。そういうものが家の中にもありました。だから今、こうやってまた戻ってきている感じがします。日本って、意外にひとつのことに集中したものづくりをしているブランドが多いですよね。例えば「シャツしか作っていません」とか。そういう、好きなものだけを追求している感じがすごく面白いなと思っています。
—どこまで深掘りしていくのか、ということですよね。
マルタンも結構そういうところがあるんです。大体のブランドは、次のコレクションをガラッと変えるじゃないですか。マルタンの場合はそれがあまりなくて、まず自分が追求しているものをやって、二回目もそれと少し似ているというか。たとえばオーバーサイズが出てきたとしたら、次とその次でオーバーサイズの違うものが出てきて、それが終わったらまた次に行く、というような。
—確かに、ドールズワードローブのコレクションも、極論すればオーバーサイズですもんね。パッと見のフォルムは人形と同じだけど、アプローチだけを少しずつ変えていく、という。
どんどん変えていくんじゃなくて、そうやって自分の好きを追求していく。それが自分にも合っているというか、好きでしたね。
—今日のRAINMAKERの洋服も、ある種テンションがずっと一緒だから、買い足していけるんですよね。毎シーズン、スタイルが全く変わる服は、毎回買い直さないといけない。でもマルジェラは、昔のものと新しいものを混ぜても違和感がないじゃないですか。多分、そういうことですよね。
そうですね。もちろん新しい層が加わった方がいいけれど、しっかりしたファンが定期的に買って、長く楽しんでくれるというのは、すごくいいなと思っていて。
—変な言い方ですけど、買い支える、という感覚かもしれないですね。マルタンと仕事した時に、Kanakoさんが「ここが一番すごかった」と感動したところはありますか?
まず、人間的なところですね。人との接し方もそうですし、クリエーション以外のやり方、仕事の姿勢が、すごく自分のためになりました。人に変にストレスを与えないし、みんなが自由に仕事できる場所を作ってくれたので。エルメスでは、みんなストレスなく、ミニマムな状態で仕事ができていたと思います。
—マルタンご本人はどういう方なんですか?
見ていて、根っからのアーティストだと思いますね。自由な時間があると、何かを作ったり、家もいろいろとDIYしたり。自宅には、自分で作ったオブジェがいくつもあるんです。ブランドを辞めてからは、まず旅行をたくさんして、それまでできなかったことをやっていました。その後、アートの基礎を習いに行ったんですよ。油絵のベースになるテンペラ画も、全部きちんと習っていて。実際に手がけている作品はまったく違うものなんですけど、そういう土台のところから学び直していました。
—恵比寿のMaison Margielaの旗艦店を作る時に、職人さんが壁を綺麗に塗りすぎていて、「手の感覚がないから」と本人が塗り直したという話を聞いたことがあって。いい意味での不完全さというか、人が作った感覚が、どこかに必ず手の温もりとして残っているんですよね。最初にKanakoさんがおっしゃった、見えない部分まで作り込んでいるからこそ人に刺さる、という話ともつながる気がします。今のデザイナーで、マルタンの影響を受けていない人はいないくらいですもんね。
でも、当時と今では時代が違いますからね。今はマーチャンダイザーをはじめ、本当にたくさんの人が関わっているから、その辺りは昔に比べて難しくなっていると思います。自分がやりたくても、できないところがいっぱいあるというか。
—最近はファッションがすごくビジネス化していて、僕が若い頃に見ていた感覚とは全然違って、マーケティングから服を作る割合が多くなりましたよね。
2シーズンくらいの短期間でデザイナーが交代することも多いじゃないですか。私からすると、ワンシーズンかツーシーズンでは、自分のクリエーションはできないと思うんです。チームだけじゃなくて、工場の職人もみんな新しいのに、最初から自分のやりたいようにできるわけがないと思うんですけど。結果をすぐ出さないといけない、というのは厳しいですよね。
—だからこそ、民藝とか工芸がより魅力的に映るのかもしれないですよね。
AIとかがどんどん進んでいくと、手仕事しか残らないんじゃないか、と思うくらいですよね。
—Kanakoさんから聞いてすごく感動したのが、「エルメスでは、職人さんが一番いいご飯を食べていた」という話で。
はい。職人さんの給食が一番いいんです。幹部の人たちが食べる給食は、だいたいデザイナーさんと一緒なんですが、職人さんは特別なんですよ。
—ものを作っている人に最もリスペクトがあるんですね。
そうなんです。エルメスは職人さんあっての会社なので。職人さんの給食だから普通はわからないんだけど、たまたま行った時に、「え、全然違う」と思って(笑)。
—だから永続的にいいものをずっと提供できる、ということですよね。日本のものづくりでも職人さんをケアしようという姿勢がまだ残っているところはあるけれど、だんだん失われていっている。
外から見ると、日本は日常生活で使うもののクオリティが高いですよね。普通の家でも、少し値が張っても漆塗りのお椀やお箸を使ったりするじゃないですか。そして、すごく腕のいい職人さんが作っている。
ヨーロッパの場合、職人さんはもっと特別な存在なんですね。もちろん椅子を修理してくれるような職人さんもいますけど、日本は陶芸にしても、他の国にはない技術を持っている職人さんが本当に多いと思います。たぶん向こうよりも、工芸が生活の一部に入っているんだと思います。
—M Magazineの撮影で民藝を取材した時に、漆職人さんがみんなが使えるものと皇室に渡すものを同じ場所で作っていて。クオリティは一緒なのに、使い方や仕上げ方が違うだけだったんですよね。
逆に、普通の日常生活のものを作っている職人さんって、日本では意外と優遇されていないと思うんですよ。普通すぎて、一般的になりすぎていて。アーティストとして有名な職人さん以外は、意外に難しいのかなと思います。
—価格や給料が高くはなかったりしますもんね。でもそこって、スタイリストが介入できる部分でもありますよね。
そう、それをやろうと思って。すごいテクニックだし、一生懸命作られているのに、結局値段が安くなってしまう。そういうものって、みんな買わないし、後の世代にも続かない。それがすごく残念で。だから、ちょっとしたことなんですけど、色を少なくするだけでも全然違うものに見えてくるので今の生活に合わせて色を変えたり、糸や置き場所を変えてみたり。職人さんたちは、作る先については考えていなかったりするんですよね。だから、その先の部分で関われたら嬉しいなと思って話していたら、いろんな方が紹介でつながっていきました。
—日本の場合、スタイリストというと、雑誌や芸能の世界でのスタイリングの印象が強いですが、お話を聞かせてもらうと、かなり幅が広がりますよね。
そうですね。向こうでショーのスタイリングをやる時は、作る側の一部に加わっていましたし、コンサルティングのような形でブランドの服を見ながら細かいことを言ったりすることを、ずっとやってきたので。私は特にうるさくて、「この値段でこの縫い方は絶対よくない」とか、「裏地が厚すぎるとよくない」とか、変えたり、軽くしたりしていました。
—エルメスの仕事もされて、マルタンとも仕事をされて、福岡で工芸も見て。でもどれも、生活を彩るものですよね。洋服も、使うものも。それを分けていないのが、Kanakoさんがすごいなと思うところで。
洋服も好きだし、写真も好きだし。好きなものをやりたいですね。
—今日、RAINMAKERの撮影でご一緒した時も、Kanakoさんが首の見え方やパンツの膨らみまで見てくださって、完璧なフォルムにしてくれるから、僕はシャッターを押すだけでいい、というくらい。そもそも写真も映像も平面なので、見えないからいい、じゃなくて、見えない部分まで手をかけることで厚みが出てくる。同時に全体も見てくれるじゃないですか。「この服だったらここのイメージだ」とか。
向こうで撮影する時は、ほぼカメラマンと一緒に、どこで撮るか、どういう色を使うか、どういうスタジオにするか、どういうセットにするか、全部一緒に決めるんです。それをやって当たり前、という感覚でした。元アシスタントで日本に帰ってきた子たちに聞くと、スタイリストとしての仕事の幅が狭い、という話を聞きます。スポンサーの関係で、ルックをフルで使うのが基本になっているみたいで、どの雑誌をやってもあまり変わらないし、着せる自由がすごく少なくなっていると。でも、パリももちろん同じ状況なんです。雑誌の力が弱くなっているので。
—「今回はスペシャルだから」と言われて、意味がわからないと思っていたら、実はタイアップだったりすることはありますね(笑)。
タイアップと呼ばれているけれど、広告と同じですもんね。世界中どこもそうだと思います。
—でもその中で、クリエイションで抵抗するというか、違うことも頑張ればできますもんね。
はい。見つけられれば。
—考えてみると、スタイリストって、デザイナーが作ったものと消費者をつなぐ役割を担っている部分がすごくあるなと。「そのままだと着られない」と思っても、スタイリストの見せ方で「取り入れたい」と思える。
そうですね。ちょっと面白いのは、日本独自のテイストというものがあるんですよ。だから、日本のブランドをそのままヨーロッパに持っていくと、うまくいかなかったりする。たとえば日本だと、かわいい方に振った方が好まれる。でも向こうに持っていくと、そのかわいさが伝わらなかったり、「かわいい感じが嫌だ」という人もいる。だから、「日本のブランドを、ヨーロッパに受けるようにやり直してほしい」というリクエストで仕事をしたこともあります。日本人だから、その日本のテイストもわかるだろう、ということで。
—かわいさを崩さずに、ヨーロッパの感覚を基準に持っていく、と。
かわいいを、ちょっと大人かわいいにしたりね。そういうのはやったことがあります。
—着物も、実物をそのまま持ってきてもわからないけど、スタイリングによって一気に着られるものになったりする。その塩梅は、多分、日本の内側と外側の両方を知っている人じゃないとできないですよね。
一回、i-Dで、いろんな日本のブランドだけを使ってページを作ったことがあるんです。もともとは普通の服なんだけど、着せ方で着物や、柔道着のような和風に見える、という。
—逆に、洋服を着物のアプローチで見せるという。じゃあきっと、その逆で着物を洋服っぽく見せることもできるわけですよね。
できると思います。着物も、たとえば袖や丈のバランスを少しだけ変えれば。でも、着物のテイストが、やっぱり自分はすごく好きなんですよね。そこにパンツを履いても、ワンピースとしてヒールを合わせても、インナーとして着てもかっこいい。そういうところが、着物のよさですよね。日本で地下鉄に乗っている若い子たちも、全然違う着物の着方をしていて、いいなと思います。
—そのi-D、見てみたいですね。何年頃ですか?
2000年代の初めくらいだったと思います。自分が日本人だから、機会があれば、日本の好きなものをなるべく出したいと思ってやっていたんです。雑誌によっては難しいけど、i-Dはそれができたので。やっぱり、言いたくなるんですよね。「日本には、こんなに綺麗なものもあって、ちゃんと使えるから」って。
—日本人から見ても見たことがない、というのが無茶苦茶ですごくいい。ベースをちゃんと踏まえているからこそ崩せる、ということですよね。
多分、日本人だから、崩すけど、汚くはしたくないんですよね。特に日本のものを使う時は、下品にはしたくない、というか。
—花魁や荒木経惟さんの世界観を再現したい、となると、行き過ぎてしまう時もありますもんね。キャリアの話も、今までずっと聞いてみたかったんですが、こういう機会だからこそ、根掘り葉掘り質問できて、佐賀町の話も聞けて、「Kanakoさんもあそこにいたんだ」と思いました。僕は本当に学生で、こわごわ通っていたので(笑)。
私も同じです(笑)。でも先輩方がいっぱい出入りしていて、すごく面白かったから。
—モダンな、ミッドセンチュリーっぽい建物の食料倉庫をそのまま改造してギャラリーにした、広いスペースでしたよね。本当に、今の東京のカルチャーのベースになった場所というか。
強い女性がたくさん集まっていて、すごく個性的で、それぞれ面白いことをやっていて。みんなが集まると、すごい雰囲気があって。
—今でこそ「女性に仕事の機会を」という感じだけど、佐賀町は小池さんが女性だったから、逆に男性女性みたいな感覚がなくて。そこがある種、Kanakoさんの出発点のような場所、ということですか。
そうですね。だからラッキーでした。
—僕はいま武蔵野美術大学の、小池さんが長年教えられていた空間演出デザイン学科で教えているんです。小池さんに「あなた、ちょっと大学に来て」と言われて教えるようになって。実は僕にとっても、小池さんはルーツにある方で。だから昨日Kanakoさんの話を聞いた時、ちょっとだけ自分が誇らしくなりました。Kanakoさんも、あそこから始まっていたんだ、と。
















