世界を「わからないまま」見つめるということ。写真家・野口里佳のまなざし
rika noguchi
photography: sayuri murooka
interview & text: sawako fukai
1990年代以降の日本写真界を代表する作家のひとりである写真家・野口里佳。富士山やロケット発射場、太陽、海、生きものたち──身近な風景から宇宙規模の現象までを射程に収めながら、私たちが世界をどのように知覚し、理解しているのかを静かに問い続けてきた。その作品は、科学的な視点と詩的な想像力が交差する独自の世界観によって国内外で高く評価されている。近年はロンドンでの個展「Life on Planet Earth」や、東京都写真美術館での大規模個展「野口里佳 不思議な力」などを開催し、あらためて注目を集めている。
野口の写真には、「わからなさ」がつきまとう。虹や光、人間の姿といった身近なイメージも多いが、感情を強く説明することはない。野口はそれをただ見ている。そのまなざしを、私たちもまた見ている。見ているはずなのに、「わかった」と頭や心で理解する直前で、その感覚はすっとほどけてしまう。そこに残るのは「わからなさ」そのものだ。
世界を「わからないまま」見つめるということ。写真家・野口里佳のまなざし
Photography
そもそも私たちは、この世界をほとんど何もわからないまま生きている。どうして雨が降るのか。どうして誰かを好きになるのか。どうして植物は育ち、どうして雨の音を聞くと気持ちが落ち着くのか。どれだけ経験を重ねても、全てを理解することはできない。野口の写真は、そうした根源的な「わからなさ」を、喜びと好奇心を持って受け止め、写真を通して語りかけているように感じられるのだ。わからないまま世界と向き合うことの面白さを、そっと思い出させてくれるように。
今回は、7月4日から渋谷のヒカリエホールで開催中の「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」を機に、その創作の源泉と世界の見つめ方について話を聞いた。一つ一つの質問に対して、背筋を正し言葉を選びながら、まっすぐにこちらを見つめて丁寧に答える瞳の中に、「不思議な力」のプリズムのような好奇心と、透明な視点を感じた。
―今回は「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」に参加されるということで、現在まさに設営の真っ最中だと思います。個人的な印象なのですが、野口さんがこのように「日本の女性写真家展」という枠組みの中に参加されること自体が、実は国際的に見ても新鮮な気がします。
グループ展にはいろいろ参加してきたのですが、あまり「女性」という枠の展覧会に呼ばれることは無かったなと思います。私が写真を始めた1990年代頃は、ちょうど女性の写真家がたくさん出てきた時期だったので、当時も女性写真家にフォーカスした企画自体はいろいろあったように思いますが、でも私はそこから少し外れた場所にいた感覚はあったかなと思います。
―「潜る人」などの作品を発表されていた時期ですよね。
そうですね。「潜る人」は、大学院にいた時期 (1995年) に作っていた作品ですね。
―今回の展覧会は「まなざし」がテーマです。野口さんご自身は、「見る」という行為をどのように捉えていますか? 「潜る人」しかり、野口さんの作品は初期から現在まで、ある独特の「見る」方法というか、世界の見方が非常に一貫している印象があります。例えば子どもの頃の記憶からでもいいのですが、「見る」ことをどう捉えてきたのか、お聞かせいただけたらと思います。
そう。「見る」ですよね。事前に (インタビューの) 質問を拝見して、自分にとって「見る」行為ってどういう行為なんだろうって改めて考えていたんです。それで、ある時いい答えが思い浮かんだのですが、ふっと消えて思い出せずにいて。さっき「あっ」と一瞬掴みかけたのに、また逃してしまった状態です、今 (笑)。
―そうでしたか (笑)。例えば私たちは常に何かを見てはいるものの、じっと見つめている瞬間は実はあまりなくて、情報として処理していたりしますよね。でも野口さんは、ある現象を普段からじーっと観察しているタイプなのかな、と想像したのですが。
そうですね。狭いところには入りやすいかもしれません。
―狭いところ、ですか。
はい。でも、「見る」という行為は、私にとっては積極的な行為というよりは、「受け取っている」という感じの方が強いかもしれません。
―小さい頃の視覚的な記憶って、鮮明に残っている方ですか?
怒られた記憶とかは鮮明にありますけど (笑)、人よりも視覚的な記憶がすごく強いわけではないなと思います。全然違う話になってしまうのですが、しばらく鍼に通っていたことがあって、先生は目が見えない方だったんです。徐々に視力を失われたそうなんですが、その先生が子どもの頃に見た花の話をよくしてくれて。その話が、聞いていると花の香りがしてきそうなくらいすごくビビッドなんですよ。「その記憶は自分の宝物なんだ」とおっしゃっていて。「見る」ということ、「見える」ということはすごいことなんだな、と改めて感じました。当たり前すぎて、結構おろそかになっているのかもしれないですね。
―「見る」に関連してですが、作品によってさまざまな種類のカメラを使われていますよね。初めてご自身のカメラを手にされたのはいつ頃ですか?
大学に入ってからです。最初はニコンの一眼レフを使っていました。
―写真学科に入学されてから、ということは、「写真をやろう」と思ってからカメラを買ったのですね。
そうですね。カメラと出会ったことで、世界がぐっと広がっていく感じはありました。
―一般的にカメラというものが向かっている方向性は、より解像度が高く、より広く、視覚以上に完璧に写し込めることを目指しています。それに対して野口さんは、胃カメラを改造した特殊なカメラを使ったり、カメラに細工をしたりと、あえて「見えない」部分をつくるような操作もされていますよね。
意図的にやっているというよりは、私はやっぱりカメラが好きなんですよね。だから、「さあ、このカメラで何ができるだろう」と考えるんです。このカメラでしか見えないものがあるんじゃないかなって。あと、カメラはどんどん「写る」ように開発が進んでいきますが、逆にカメラが持っている欠点を生かしたいと思うところもあります。そのカメラが苦手なところを伸ばしたいとか、もっとできることがあるかもしれない、というところから作品が始まっていくこともあります。
―「こういうものを撮りたいからこのカメラを使おう」というふうに、撮りたいイメージからツールを探すのでしょうか。それともカメラが野口さんのもとにやって来て、「これで何が撮れるだろう」と考えるのか、どちらでしょうか。
どちらもあります。最初にアイデアがあって、どんなカメラで撮ろうという時もあるし、「さあ、このカメラで何を撮ろう」という時もあります。でも大抵は、向こうからやって来る感じですね。胃カメラの場合も、たまたま友人が改造して撮れるようにしたのですが、「使ってみない?」って手渡してくれて。おそらくその友人は、私だったら何か見つけるんじゃないかと思ってくれたと思うんです。そこから「さあ、この胃カメラで何をやってみようか」と考え始めました。ですから出会い自体は、探すというよりは、もう少しシンプルなものなんです。
―向こうから「やって来る」ものなんですね。
「やって来る」感じです。で、順番待ちしているカメラもありますけどね (笑)。「いつかこれで何かできるかな」と思っていたり、逆に「これを撮るなら、どんなカメラで撮れるんだろう」と、出会いを待っているアイデアもあったりします。
―野口さんの作品にとって、タイトルはいつもとても大切だなと感じます。比較的短く、詩的な感情を直接的に表現するようなものは少ないですよね。単なる名詞や形容詞だったりする。でもイメージと重なると、その短い言葉が科学や詩、哲学にすごく接近して感じられるんです。
私は小説がとても好きで、言葉に対する興味というか、言葉が作る世界ってすごいな、というのは幼い時からありました。
―どういった作品を読まれるんですか?
最近だとカズオ・イシグロとか。昔からすごく好きなのは、Richard Brautigan (リチャード・ブローティガン) というアメリカの作家です。
―英語で読まれます? 日本語で?
ブローティガンは英語でも読みました。カズオ・イシグロは日本語で読んでます。日本語の訳も素晴らしいですよね。
―タイトルは、その作品を撮っている時にすでに決めてあるのか、それともイメージをまとめてから付けるのでしょうか。
初期の頃は、タイトルが先にあるということもありました。でも、今自分がやろうとしていることが一体どういうことなのだろう、と手探りで考えながら近づいていくような感覚で。最初から言葉があるというよりは、まず写真があって、そのあとに言葉を見つけることの方が多いですね。
―言葉を見つけるプロセスには、やはり悩まれますか?
悩む時は、もうめちゃくちゃ悩みます。ものすごく時間がかかる時もありますね。
―海外での生活も長かったと思いますが、言語的なバランスは英語と日本語でどのように考えていらっしゃいますか?
基本的に日本語で考えています。なので、できるだけ日本語でタイトルを付けようと思っていて。先に英語が浮かんだらそれでもいいなと思うんですけれど、大抵は先に日本語があってそれを英語で言うなら何て言うかな、と考える順番ですね。ただ、昨年制作した映像作品は、英語のタイトルの方が先に浮かんだんです。自分にとってはとても珍しかったので、新鮮でした。
―野口さんの作品には、不思議なことが起きているけれど決して説明されきらない、という魅力があります。さまざまなインタビューや批評文を拝読していると、そのことを表現するために、誰もがうまく説明しようと言葉を探しているような印象があるんです。作品の中で「わからなさ」を残すことについて、どのように考えていますか。
私はわからないことをわかろうとして作品を作っているところがあると思います。でも「わかりたい」と口では言いつつも、実は「正解は知らなくていい」ってどこかで思っている。私にとって写真というのは、一種の口実のようなもので。世界で起こっている面白い現象を楽しく眺めるために、写真という口実を使っている、そういうことなのかなって思ったりします。
―「わからない」は、謎めいた「mysterious」 ではなくて、驚きとしての「wonder」 の方だ、ということですね。
そうですね。
―野口さん自身が持つ 「wonder」 が作品に現れているところが、非常に魅力的です。
例えば、やかんから湯気が出ているのを見ていると、「ああ、水って沸かすとお湯になるんだよな」って、すごく気になるわけです。でもそれって、わざわざ口に出すと「何言ってるんだ」という話になりますよね。でも、私は人間や他の事象に対しても、いつもそういうことをつい考えてしまう。でも沸騰の原理を科学的にきちんと説明されたとしても、頭では理解できるけど、心から「わかった」とはならない。だから、火にかけると水ってお湯になるんだよということを、ただ延々と作品を通してやっているような感じなんです。特に、2014年の「不思議な力」というシリーズは、それまでずっと外に向かっていた「わからなさ」に対する視点が、家の中で要素を組み立てていく方向へと変わった作品でした。私の中では、一つの大きな変化だったと思います。
―2022年に東京都写真美術館で開催された展覧会では、映像作品もいくつか発表されていました。映像はいつ頃から撮り始めたのでしょうか。
2015年にキヤノンギャラリーS で開催した展覧会の時にカメラをお借りして。その時に撮影した「夜の星へ」という作品が一番最初の映像作品です。それまでもテスト的に映像を撮ったことはありましたが、作品として手応えを感じたのはそれが最初です。
―映像というメディアの手応えはいかがですか。
最近はとても面白いなと思っています。なんというか、写真は息を止めるような感覚があるんですよね。でも映像は、ずっと流れていくものですし、時間と深く関係してくる。ただ、アプローチとしては映像も写真も同じで、「これは写真では捉えきれないな」というものに対して、映像を使っていくという感じです。
―編集はご自身で?
はい。それほど難しい編集はしていないですけれど、自分でやっています。
―プリント作品はフィルムが中心ですよね。デジタルではあまり撮られないのでしょうか。
いえ、そんなことないです。映像作品はデジタルですし、今ちょうどデジタルで写真作品を作ろうとしているところです。やっぱり、あの身軽さというか、スピード感というのは魅力的です。
―ベルリンから沖縄に拠点を移されて、8年過ごされたと伺っています。曇り空も多く、緯度が高くて乾燥したベルリンから、まったく違う自然環境の中へ。ご自身の視点にも影響はありましたか?
あったと思います。やっぱり沖縄は生命力がすごくある場所ですし。一番大きな違いは、ドイツは直線が多いけれど、沖縄はすごく有機的で、曲線が多いところですね。いろんなものが崩れていったり、溶けていったり、暑さで腐っていったりする。全てが柔らかくて、変化していく。植物も、少し放っておいたらジャングルみたいになっていくような力があって、それがすごく面白かったです。
―海外にいると、日本人女性の表現として見られる機会も多いと思います。作品に対するリアクションで、日本と海外で大きく違う部分はありますか?
作品に対する感想というよりも、トークなどで作品について説明する時に、国によって違いを感じたりします。どの言語で考えているのか、ということにも関わるんでしょうね。たとえばドイツだと、すごく論理的に説明しなきゃいけないという印象はあります。もともと言語自体もそういう構造だし。でも私は基本的に、トークも日本で話すのと同じようなトーンで話すんです。「こう思って、こうやってみた」「私はこれにすごく疑問を持って、これを始めた」みたいに。でドイツの学生は「こんな説明でいいの?」とポカンとしている。でも以前メキシコでトークをやった時は、私の話が向こうの人たちの理解とすごく自然につながっている感じがあって、「スペイン語圏ではやっていることがすっと伝わるんだな」という独特の感覚がありました。
―面白いですね。野口さんの、ぽん、と置かれたようなシンプルなタイトルや、宇宙的な視点の作品を基準に、さまざまな国や視点、見る側の反応のバリエーションを知ることができる。例えば、「鳥を見る」というタイトルも、野口さんがあの作品を通じて提示した視点と、例えばイギリスの野鳥が多い地域の人が「鳥を見る」と聞いた時に連想することはきっと違う。
自分の中でも視点がジャンプする時があるんです。「鳥を見る」は、最初にタイトルを決めていたのですが、初めの頃は日本野鳥の会に参加して、いろんな場所へ実際の鳥を見に行っていたんです。でも、だんだん「私がやろうとしていることは違うな」となりまして、最終的にはまったく視点の違う作品になりました。だから順番が違ったり、迂回したりするけれど、同じ着地点には到達している感じもありますね。
―写真は鑑賞者個人が持っている記憶や想像力と直結した時に、初めてイメージが出来上がるような気がします。そういう意味で、タイトルやイメージに、受け取る側の想像の広がりが限定されるような言葉やモチーフがあると、そこで説明されすぎてしまう。野口さんの作品は、その寸止め感がすごく気持ちがよくて、こちらが自由に思える余白が残されているんです。
自分では、できるだけ正確に、とは思っていて。間違いなく伝えられる言葉を探しているつもりなんです。そうすると、短い言葉になってしまう。
―撮影は日常的にされているんですか?
日常的に撮っている時もあれば、「もっとカメラを持たなきゃな」と思いながら、全然撮らずに生活している時期もあります。でも、いったん何かテーマを見つけると、例えば一つの場所にずっと通い始めたりと、ある一定の時期その対象にすごく集中して、その方向へ向かって歩き続けるような感じはありますね。その入り口を探すために、ただカメラを持って歩く、散歩のようなことも以前はよくしていました。実際にあとで見返すと、作品と作品の間の、「次は何をやろうかな」と思っている時期に撮った写真って、とても面白いんですよね。作品が始まってしまうと、多少は寄り道をしながらも結局はゴールに向かっているので。それよりも、迷いながら歩いている時の方が面白いなと思います。
私の場合、カメラの操作についてもそうなんですけど、やり方を覚えるまでのぎこちなさみたいなところにこそ、チャンスを感じている部分があります。習得するまでにいろいろ失敗を重ねる中で、何かを発見していく。「このやり方でできる」とわかったら、正解がわかったからもういいな、と自分の中で完結してしまうことも多い。作品に「わからなさ」が提示されているとしたら、それは私自身の「ぎこちなさ」と、どこかでつながっている気がします。
―しかし現代は、その「わからなさ」とか「できなさ」が、どんどん無くなって気がしますよね。あらゆる操作が簡単になり、できることが増えたような錯覚を覚えますが、私たち自身の能力はそんなに変わっていない。
そうですね。やっぱり回り道をするとか、道に迷うとか。今はもう、あまり道に迷わないですもんね。携帯を見ながら最短距離で移動する。もちろん、最短で行ける良さもあるとは思うのですが、やっぱり迷ったところや間違えたところにこそ、面白いものがあるんですよね。
―今回の展覧会には、異なる世代の多くの日本人女性写真家たち30名の作品が並びます。他の出展作家の方の作品を見て、共感したことや新たな発見はありましたか。
私自身、昔の女性写真家の中には存じ上げない方もいて、そういう意味では勉強不足だったなと思いましたし、同時にさまざまなタイプの作品があることに感銘を受けました。
私はあくまで個人として見られたいという気持ちが強くて、「女性写真家」と呼ばれることには長い間抵抗がありました。でも今回の展覧会で、さまざまな時代の女性たちの写真を見返してみると、その幅の広さに驚いて、私自身も「女性写真家」という言葉に対して先入観を持っていたんだなと気づきました。それは私にとって大きな発見だったなと思います。
―AI や画像生成技術によって、「写真とは何か」が改めて問われる時代になっています。野口さんにとって、写真でしかできないこととは何でしょうか。
生成 AI 技術にはとても興味があります。現在、私は大学で教えているんですけれども、先週、去年大学院を卒業した学生に「AI と写真」についての授業をしてもらったんです。彼女は学生時代に生成 AI 技術を使ってバナーなどを作る会社でアルバイトをしていて、AI が盛り上がっていく時期をずっと現場で見ていたそうで、「ぜひその時の話をしてほしい」とお願いして来てもらったんです。話を聞いていて、すごく面白いなと思いました。
例えばボラって「飛ぶ」じゃないですか。水面をジャンプしたりするのを、誰しも一回くらいはどこかで見ていると思うんです。でも、いざ写真を撮ろうとすると、なかなか難しい。私は以前、飛んでいるクジャクを撮っていた時期があるのですが、クジャクも飛んでいる姿をうまく撮ろうとすると、なかなか成功しないんですよね。
でも実は、クジャクって結構遠くまで飛べるみたいなんです。私が通っていた沖縄の離島の隣の島でも同じ種類のクジャクが繁殖していて。ということは、ある時その島まで飛んだクジャクがいたということなんですよね。であれば、そのクジャクが飛んでいく時に、海の上で飛んでいるボラと出会っている可能性がある。それは私の「心の中の風景」なんです。多分、私が残りの人生を全部費やしたとしても、その瞬間は撮れないと思う。でも AI だったらそれを見られるじゃないですか。で実際に試してみたのですが、やはり「こうじゃない」ってなるんですよね。もちろん、打ち込む文章を変えていけば、もっと自分の「心の中にある風景」には近づけるかもしれない。でもそこで努力したところで、それでどうなんだろうって。
結局、自分が見なかったら、私にとっては意味がないんだと改めて気づいたんです。だから私が写真に求めていることは、今お話しした「ボラが海の上でクジャクと出会っているところを撮りたい」という衝動そのものなのかもしれない。だから写真でしかできないことは何なのかと考えたら、やっぱり私にとっては「経験」なんだと思います。「心の中の風景」を技術で作り出すことはできるかもしれないけど、経験することはできない。経験できなければ、画像を生成できたところで、多分、私にとってはそれは意味がないんですよね。
―やっぱり「生きている」ということなのかもしれませんね。AI で生成した経験と、身体で経験したことは根本的に違う。もちろん違う意見もあると思いますが、私にとってはそう感じます。
「生きている」は、すごくいい言葉ですね。その言葉の方が、もっと正確かもしれない。最初の質問だった「見る」ことの答えも、それに近いような気がしてきました。私にとって「見る」ということは、「生きている」ということ、そのものなのかもしれないです。














