「もう特別なものじゃない」。ギャラリスト・南塚真史が見つめる日本のアートの現在地
shinji nanzuka
photography: Masashi Ura
interview & text: Chikei Hara
2005年に渋谷の雑居ビルの地下に NANZUKA UNDERGROUND (ナンヅカ アンダーグラウンド) を開廊して以来、ファインアートの既存の枠組みにとらわれず、デザインやイラストレーション、ストリート、ファッション、音楽といったジャンルの境界を越えて国内外の作家を紹介してきたギャラリスト・南塚真史。DOMMUNE (ドミューン) の宇川直宏との出会いを起点に田名網敬一をアートの文脈で紹介し、海外のアートフェアで評価を築いて日本へ逆輸入する戦略によって、アートの評価軸そのものを問い直してきた。
開廊から22年目を迎えた2026年9月、NANZUKA はかつてギャラリーがスタートした雑居ビルの跡地に建つ渋谷アクシュへと拠点を移した。5度目の移転となる新スペースのこけら落としは、2024年に88歳で逝去した田名網の個展「DO NOT BOMB」。戦争の記憶をモチーフにした1975年の映像作品「クレヨンエンジェル」や60年代の反戦ポスター「NO MORE WAR」とともに、生前の田名網に依頼した新作の反戦作品が並ぶ、NANZUKA 自体のステートメントのような展示である。
田名網との出会いは、NANZUKA に何をもたらしたのか。アカデミズムの外側から作家を紹介し、渋谷という土地にこだわり続けてきた理由から、社会におけるアートのあり方の変化について、新たな拠点を訪ね、南塚に話を聞いた。
「もう特別なものじゃない」。ギャラリスト・南塚真史が見つめる日本のアートの現在地
Art
—この場所への移転はどのように決められたのでしょうか。
移転は2年以上前に最終決定しました。ここはこのビルのリーシングの最後の区画で共用部に面しているので、飲食店よりもオフィスワーカーやビルにとって公共性のあるものにしたいという希望がビル側からありました。ちょっと悩んだんですけど、見ての通りこれだけ天井が高くて柱のないまとまった空間はなかなか見つからないので、一目で気に入って決めました。
これだけの空間だとアーティストに地力がないと作品が負けてしまう。特に若手アーティストにとってはチャレンジになると思います。アンダーグラウンドな雰囲気ではなくオーセンティックなミュージアムクオリティの場所をあえて作ることで、展示する作品とのコントラスト、カウンターとしても機能させたいと考えています。
—これまでも渋谷を中心に何度か移転されていますね。
NANZUKA は今のビルができる前にこの場所にあった雑居ビルの地下でスタートしました。最初は地下のフロアで DOMMUNE (ドミューン) の宇川さんと一緒に、MIXRoFFICE (マイクロオフィス) と NANZUKA UNDERGROUND というコンプレックス (複合スペース) を作ったんです。その後白金に移り、2年ほどで再び渋谷へ。個人的には3度目の場所が、NANZUKA UNDERGROUND の名前が一番似合うアンダーグラウンドな空間で好きでしたが、ビルの取り壊しとコロナもあって退去し、コロナ後は原宿に戸建てのギャラリー空間を作りました。今回が5回目の拠点移転になりますが、この場所自体への親近感も決め手になりました。
—移転を重ねながらも渋谷を中心に活動してきた理由は何でしょうか。
あえてカジュアルな言い方をしますが、アートは常にかっこよくあるべきだと思っています。ギャラリーを立ち上げた当時、日本のアートはダサくて若い人に関心を持ってもらえないという感覚がまずありました。とにかくかっこよくて新しくてクールなものは、人が集まり、新しい情報が交差する渋谷や原宿、青山の周辺でしか生まれないだろうと。常に新しいものが発信される渋谷という土地が、NANZUKA にとっては大事なんです。
今でこそ人が歩けないほどインバウンドが押し寄せて、みんな写真を撮っている風景がありますが、90年代の渋谷にはもっと様々なレイヤーがありました。感度の高い人たちが集まるムーブメントは、アングラ音楽シーンの弱まりとともに衰退してしまったように感じます。
—新しいスペースのオープニング展は田名網敬一さんです。なぜ今、改めて田名網さんなのでしょうか。
知っての通り、田名網は2年前に亡くなりました。その2ヶ月前までピンピンしていて、制作も準備もして毎日ミーティングをしていたところで、急に倒れてしまった。NANZUKA が培ってきた歴史や文脈、作品の価値を自分自身でもう一度見つめ直す意味でも、改めて田名網の展覧会をやることが今のターニングポイントではないかと思いました。
—本展示では映像作品や「NO MORE WAR」のポスター、タブローも出展されていますね。
1975年に作られた「クレヨンエンジェル」という映像作品は、戦争の記憶をモチーフにしています。田名網は戦争が終わると風景から色がなくなるんだと語っていました。全部が焼け野原で、ただ空だけが青い。そこにクレヨンで描くことで色彩が生まれるという感覚が、彼の戦争の記憶と結びついているんです。田名網は本当に色への情熱がものすごい人でした。ご遺族から聞いた話では、中学生の時にどうしても絵を描きたくて、絵の具を買うために自分の血を売ったことがあったそうです。
「NO MORE WAR」は60年代のカウンターカルチャーを象徴するサイケデリックグラフィックの作品です。田名網はそういう文化を主戦場に、グラフィックデザインからこうした作品を作っていました。入り口の作品「DO NOT BOMB」は、田名網先生に「国立新美術館での個展で、新作の反戦作品を作ってください」と依頼したものです。
—南塚さんはもともと大学で美術史を学んでいたそうですね。ギャラリストになった経緯を教えてください。
当時のアカデミックな美術史は、イコノグラフィーといった図像解説や、社会的・文化的背景と哲学を結びつける研究が主流でした。僕はむしろ現在と未来に関心があって、アートや文化が社会に与える影響を社会学的なアプローチで見ていた。当時の研究対象は独学型のアーティストやストリート、子供、障がいがある人の表現です。大学院まで進みましたが、お世話になっていた教授から「研究は面白いけど、この先アカデミアに就職先はない」と言われギャラリーを勧められました。それまで僕の中にギャラリーという選択肢はありませんでした。というのも当時のアカデミズムでは「ギャラリーはアートをダメにする」とはっきり教えられていたから。日本のバブル期の画商の動きを見れば、その反感が生まれる理由もおおよそ理解できます。そこで教授の勧めで当時銀座にあった伝説的なギャラリー、かんらん舎の大谷芳久さんに話を聞きに行きました。展覧会を軸にアーティストをマネジメントするというより、好きなものをコツコツ研究しながら70年代の作家を紹介する。そういう挑戦的な仕事の話を聞かせてもらいました。
2000年代前半は、小山登美夫さん、石井孝之さん、佐谷周吾さん、大田秀則さんといった大先輩たちが世界で活躍し始めた頃で、面白そうな業界だと思っていました。そんな時に宇川さんと出会い、そんな話をする中で意気投合して作ったコンプレックスが、NANZUKA の始まりです。
—宇川さんとの出会いも含めて、ギャラリーを始める前の時期について教えてください。
宇川さんと仲良くなったのは2003年から2004年で、ギャラリー関係ではなく友達の DJ の紹介で知り合ったと思います。僕も当時はクラブで遊んでいて、ミニマルテクノ全盛期の音楽シーンにどっぷり浸っていました。2003年には、東東京の地盤沈下を背景に地域を盛り上げようとセントラルイースト東京 (CET) というイベントが始まりました。みかんぐみの竹内昌義さんや Asyl (アジール) の佐藤直樹さん、今は小説家の原田マハさんが先陣を切っていて、僕も学生としてお手伝いしながら毎日のように行動を共にしていました。
—南塚さんが出会った当時、田名網さんはどんな活動をしていて、どう評価されていたのでしょうか。
田名網は粟津潔さんの後任で京都造形芸術大学 (現・京都芸術大学) の先生になり、90年代後半は表立った活動をほとんどしていませんでした。教育に熱心で展覧会もあまりやっておらず、その時代の作品は少ない。
2000年代に入り、青山の360°ギャラリーが田名網のグラフィックデザインのポスター展を開いたことで、宇川さんをはじめクラブシーンなどでアンダーグラウンドに活動する人たちから再発見されていきました。2004年の KPO キリンプラザ大阪での「DISCO UNIVERSITY」展も実際に宇川さんのプロデュースで実現しました。宇川さん自身も田名網を師匠だと仰っているように、本当の再発見者は僕ではなく宇川さんです。僕は宇川さんの弟子、田名網の孫弟子として、アートの世界でピックアップする流れに乗った形です。僕が2005年10月にギャラリーを開いた頃、宇川さんは田名網先生の推薦で京都造形芸大の先生をしていました。田名網敬一はグラフィックデザインに留まらず、日本のカルチャーの中で非常に重要なアーティストだという話は、宇川さんとずっと前からしていたんです。「絶対に田名網先生で展示をやろう」と決めて、2006年が明けてすぐに宇川さんにスタジオへ連れて行ってもらい、その年に展示を開催しました。まさに最初から NANZUKA UNDERGROUND の何たるかを、まさに田名網敬一が象徴していたわけです。
—NANZUKA が一貫してアンダーグラウンドに目を向けてきた理由は何でしょうか。
2005年当時は、アンダーグラウンドという言葉がまだカルチャーとして意味を持っていたという言い方はできると思います。90年代に渋谷や青山、原宿周辺のクラブから新しい音楽のプレイヤーが次々に出てきて、そこにファッションやグラフィックが好きな人たちが集まっていた。当時はアートと見なされていなかったビジュアル表現の感性を共有する場所が2000年代前半まではギリギリ存在していました。僕はそこで宇川さんと出会い、そうした文化の最終基地として NANZUKA UNDERGROUND と MIXRoFFICE を作ったんです。アートの文脈でいえば、アンダーグラウンドという言葉が文化的な意味で日本に入ってきたのは、おそらく60年代後半のヒッピーカルチャーからカウンターカルチャーにかけての流れです。70年代の田名網は、まさにその文脈を体現しています。
—アンダーグラウンドそのものが持つ面白さを、これまでどのように伝えてこられたのでしょうか。
僕の世代にとって60年代や70年代のラディカルさには憧れを持っていて、傍から見ても別世界です。その時代を実体験し、波に乗って作品を作っていた証拠がここに並んでいる作品なんです。これをどう伝えるか考えた時日本ではおそらく響かないだろうと思いました。日本で溜め込んでも宝の持ち腐れになるので、海外に発信して逆輸入する一手で戦略を立てました。2006年にアートフェア東京で田名網を前面に押し出し、2007年には上海のアートフェア ShContemporary (エス・エイチ・コンテンポラリー) で紹介しました。上海で隣のブースだったドイツの Galerie Gebr. Lehmann (ギャラリー ゲーブル・レーマン) や、フェアのアートディレクターを務めていたジュネーブの Art & Public と仲良くなって田名網をプレゼンし、2008年にそれぞれ展示をやらせてもらう機会を得ました。そうしてヨーロッパで最初の足がかりを作り、その流れで Frieze London (フリーズ・ロンドン) (2010)、Art Basel (アート・バーゼル) (2011)と、田名網のソロプレゼンテーションを次々に実現していきました。
海外では、幼少期の戦争体験を持つ田名網が、アメリカの資本主義や大衆文化にある種洗脳されるように作品を作っているという文脈で語られます。でも作品をよく見るとアメリカ礼賛のメッセージはなく、自分のトラウマや個人の記憶、体験を語ることで日本の戦後の葛藤そのものを体現している。そこを理解してもらい、田名網を通じて戦後を生きた日本人の感性を視覚的に伝えることにフォーカスして売り込んでいきました。NANZUKA のギャラリーのプログラムも、日本人作家については田名網の文脈を強化することを主眼に選んできました。ある意味で、メインストリームのアートから評価されていない人を紹介していると言えるかもしれません。
—NANZUKA は今年で22年目に入ります。ギャラリーとしてのターニングポイントは感じますか。
始めた当初は約5万円のポスターと、10万〜20万円ほどのオリジナルを販売していました。始めた当時は売れる自信があったんですが、蓋を開けたら全然売れなくて。アートフェアでもうちだけいつも浮いていました。その後リーマンショックがあり、日本は大震災も経験したので、市場が低迷してしまい2013年ぐらいまでは本当にしんどかったです。ただ2015年ぐらいから急に SNS の影響が強まりマーケットがシフトしていきました。それまでクローズドで権威的だったアートのサークルに大衆的なオピニオンが入ってきて、うちが扱うアートにもたくさんの「いいね」がつくような感覚がありました。Tumblr や Facebook、Instagram でそれが加速し、コロナというイレギュラーな出来事もあって、マーケットは長く過熱しすぎていたと思います。
今はそうした流れが落ち着いたから俯瞰して言えますが、それを動かしていたのはいろんな人の欲望です。インスタでいいねを押して参加したい人、所有して投機したいコレクター、作品と写真を撮って自分をアピールしたい人。そうした欲望が乗数的に重なるとアーティストへの影響は非常に大きくなり、作家も作品を消費的に作るようになるし、自己意識も膨らんでいく。それに応える形でギャラリーを動かしてきた面もあります。NANZUKA では売り方や転売禁止のルール、情報共有などで自制的にコントロールしてきましたが、今思えばやはりマーケットは不健康な状況でした。
—NANZUKA はいわゆるオーセンティックなアートギャラリーとは違う動き方をしてきたと思います。日本と海外では、アートの置かれ方はどう違うのでしょうか。
NANZUKA は、アートの人たちがやらないような遊び心のある企画やパブリケーションで、アートの敷居を下げたいという意識で運営しています。日本におけるアートの立ち位置や存在意義は、欧米とも中国とも全く違います。中国はアートに求めるニーズが明確で、特異な社会だからこそ逆にアートが機能している。NANZUKA でもこの夏に中国の若手アーティストを紹介するグループ展を開催しましたが、実際に新しいアーティストが次々に出てきています。欧米にとってアートは自分たちが築き上げた西洋文明の発明であり、文化的な優位性を証明する成果でもあるので、そこを崩せず大きく動けない。
日本ではアートの価値も、ギャラリーやアーティストの社会的地位も長らく低く、この状況を改善する必要があると唱えてきました。これは僕がギャラリーを始める20年前から、先輩方がずっと言ってきたことでもあります。理由の一つは、バブル期に価値のないものを売りつける悪徳な画商が横行したこと。ギャラリーは入りづらく、売りつけられる怖い場所だという印象から、未だに抜け出せていません。もう一つは、そもそも日本社会で現代美術があまり必要とされていないことです。アートから思想を学べるとは思われておらず、なんだかよくわからないものとして捉えられているのが大部分です。日本の場合はそうした思想や哲学を学ぶ機会がないというより、アートでなくても漫画という巨大なカルチャーからストーリーや文章で補完できる、もっと簡単に学べる土壌があるんです。だから1枚の絵に向かって無言で想像や思考を巡らせなければいけないアートはどうしてもハードルが高くなる。これは根本的には教育の問題でもあるので、優劣で語れるものかは正直わかりません。むしろ日本は世界的に見ても、ダントツの文化大国であることは間違いない。これだけのバリエーションと表現と行動力があるので、表現規制を絶対にしないことが最も重要です。
—南塚さん自身は、現代美術の面白さをどう捉えていますか。
歴史的な芸術より面白いのは、現在進行形で作品が作られていることです。作家は昔のことではなく、未来のことを考えて作品を作る。そのバリエーションは無数にあって、それぞれの思想や哲学でその人が思う未来を描いている。根底にあるのは「自分は生き残りたい」という欲望であり、そうでなければ自分の生き方が死んでしまうから、歴史に対してどうアプローチするかを考える。ただ作品自体は未来に残るので、そこに功名心というか価値の提示があるわけです。
—先ほど漫画の話もありましたが、西洋型のアートシステムと日本の関係についてはどうお考えですか。
2019年にニューヨークとロサンゼルスの Jeffrey Deitch (ジェフリー・ダイチ) で「Tokyo Pop Underground」という展覧会をキュレーションしました。戦後日本のアンダーグラウンドの文脈を紹介する展覧会でしたが、その時に説明したのが、もともと日本にはアートという言葉も、芸術や美術という言葉もなかったということです。明治政府がウィーン万博に出展する際、「アートという言葉があって、どうやらこれを規定に出品するらしい」と、アートを芸術と翻訳したのがこの国のアートの始まりでした。西洋化と富国強兵を推し進めた明治政府が輸入したアートの概念は写実的な表現であり、実際にウィーン万博で展示したのは江戸時代の紙でできた精巧な人形でした。
でもそれ以前から日本にはもちろんアートがあった。江戸時代の浮世絵のように、表現芸術はもともと大衆が世俗的なものの一部として自生的に育んできたもので、特別なものだとは思われていない。その感覚が大事なんです。漫画が当たり前になっているのと同じで、日本はもともとそういう文化の上でアート的なものを享受している。なので、アートを特別なものとする西洋型のシステムに追従する必要は本質的にないと思っています。このギャラリーに「ソーシャルフレンドシップ」というタイトルをつけたのも、もう特別なものじゃないという意思表示です。日本におけるアートのあり方はそれで良くてそこに回帰すればいいというメッセージを持っていて、 IP とのコラボレーションや漫画など、ジャンルの境界を超えて協業する理由もそこにあります。
—最後に、南塚さんにとって「コンテンポラリー」とはどうあるべきものですか。
可変的であるべきだと思います。アカデミックなアートは基本的に保守的で、元来の定義から動きたがらない。僕が学んだ美術史学では研究対象は基本的に100年前のもので、それより新しいものは価値が定まっておらず、芸術として認定するには早すぎるとされていました。でもコンテンポラリーは今現在であり、さっき言ったように未来の話でもある。だからこうじゃなきゃいけないと保守的になるべきではなく、常に柔軟でいることが重要です。「現代アートは伝統的なアートの枠に収まらなくて良い」という開き直りが大事です。そこから、「こんなものはアートじゃない」と言われるものでも一度俯瞰して見てみる。そこに我々が学ぶべきテーマがあるかもしれないし、それを読み解けるかどうかが問われる。新しい発見はそこにあるんだと思います。
















