写真家・髙橋恭司インタビュー
Kyoji Takahashi
by Daisuke Yokota
はたして写真はどこまでいけるのだろうか。90年代、広告写真のシーンで異端として名を馳せ、業界や芸能とは適度な距離を取りつつ、今日もどこかで写真を撮り続ける“写真家・髙橋恭司”の1万字インタビュー。
写真家・髙橋恭司インタビュー
Portraits
90年代、美しくもどこか不穏な質感を持った髙橋恭司の写真は、広告であるとか作品であるとかいう議論を華麗にスルーして世界中で強烈なシンパを生み、後の写真家たちに多大なる影響を与えた。そして、彼がいつだってメインストリームに疑問を呈するオルタナティブな存在であったことも、下の世代が憧れてやまない理由の一つである。個人的な印象では、髙橋恭司はとても音楽的な写真家だ。写真のカテゴリーにとらわれず、自身の身体の中に元々ある“流れ”に対して忠実になることで、既視感のないフォトジェニックな世界を構築している。そして、2000年代に入って広告写真の世界から突如姿を消したかと思うと、2008年からは再び写真集を立て続けに発表するなど、世間でいうところの“カムバック”を果たした。まったく新しい作家性を携えて……いや、以下のインタビューでも本人が触れているように、それは作家性と呼ぶべきではないのかもしれない。それは、ついに iPhone7 なんて代物まで世に出てしまった今に、写真概念を更新しようとする試み。なぜこんなにも勇敢でいられるのだろうか。あるいは、俗世に絡め取られず、写真に真摯でいられるのだろうか。今こそ、高橋恭司という作家のタイムラインを丁寧に掘り返してみたい。かくして実現したインタビューは、テキストにして1万字を超えた。
—髙橋さん、タバコはずっと吸っているんですか?
1日1箱くらい吸っています。マルボロだと2箱吸っていた時もありましたけど。10代で吸っていて、20代は禁煙していて、30代でまた吸い出した(笑)。でも、吸わないほうが体調は良いし、ご飯が美味しいんだよ。
—何か運動をしていた時期はありますか?
中学生の頃に剣道だけ。初段。今は何もしていない。
—髙橋さんが高校生の頃といえば、1970年代中盤ですよね。
そうです。学生運動の後だったから、学校も荒れていて、みんなやる気がなかった。
—髙橋さんは当時のヒッピームーブメントにコミットしていたんですか?
していたと思う。地元の益子は民藝運動の街だったんです。焼き物とか。だから、ヒッピーとかアーティストが外からたくさん入ってきて、僕が中学高校の時にはそういう人たちと一緒に遊んでいました。特殊な環境でした。The Band (ザ・バンド) と Bob Dylan (ボブ・ディラン) の全米コンサートの音源を聴かせてもらったり、Ben Shahn (ベン・シャーン) の絵を見せてもらったり、色々遊びを教わっていたんです。だから、東京はちょっと野暮ったいと思っていた。
—当時、文化度でいうと、東京よりも益子のほうが高かったということですか?
あくまで印象だけど、そう思っていました。
—高校生の時はどんなカルチャーにハマっていたんですか?
バンドです。オールマン(The Allman Brothers Band/オールマン・ブラザーズ・バンド)がやっていたような南部のルーツ・ミュージックを白人が再解釈したものをカヴァーしていました。その頃、僕はギターを弾いていました。
—勉強はできる方でしたか?
勉強はほとんどしていなくて、登校拒否に近かった。当時はそんな言葉もなかったから、単純に「休みが多い人」です(笑)。
—その頃、写真とはもう出合っていますか?
そうです。アパチュアという出版社(1952年に非営利の財団として創立)が Robert Frank (ロバート・フランク) みたいな海外の作家の写真集を出していたんです。薄くて安いやつ。田舎の本屋さんにも置いてありました。あとは、Norman Seeff (ノーマン・シーフ) が『ホットショット』というモノクロの写真集を出して、それも見ていました。Frank Zappa (フランク・ザッパ) とか Joni Mitchell (ジョニ・ミッチェル) のジャケットを撮っている人です。
—たとえば、Robert Frank の写真について、カテゴリーやジャンルを意識しながら見ていましたか?
Robert Frank の写真はちょっと冷たい感じがして、子供には難しかった。
—定期的に読んでいた雑誌はありましたか?
『Rolling Stone (ローリング・ストーン) 』です(※初の日本版は1973年に刊行)。当時は掲載されていた写真がすごく綺麗でした。誰か撮っているのかわからないけれど、飛行機の席にベルトで縛り付けられているオールマンのギターの写真が印象的でした。
—その頃、何か夢はありましたか?
僕自身はシニカルでした。未来は暗いと思っていた。
—何も入れ込むものがないという感じですよね。受験はされたんですか?
一応。勉強していなかったから大学はどこも受からなくて、美術の予備校に通いだしたんです。でも、そこは楽しかったです。その頃、将来は壺でも作れば食っていけるだろうとか思っていた。未来に対しては楽観的ではなかったけれど、現実に対しては楽観的だったから。
—一浪した後、桑沢(デザイン研究所)に入学されますね。
その頃、Frank Stella (フランク・ステラ) とか Jasper Johns (ジャスパー・ジョーンズ) とかのミニマルアートが流行っていたんです。僕は中でも立体作品が好きだったから、それで桑沢の立体デザイン科というのに入りました。
—当時の桑沢はどういう立ち位置だったんですか?
プロダクトデザイナーを多く輩出している学校だったんですが、僕はそれを知らなかった。単に立体的な造形をやりたいと思っていただけで。
—これがやりたいという明確な方向性があって、そのギャップに苦しむことはなかったんですか?
それはなかったです。戸村浩さんという幾何学形態を研究している人の授業が特に面白くて。
—自分なりのアウトプットはどのような形で行っていたんですか?
毎日課題をこなすだけで精一杯だった。かなりキツい。徹夜しないと間に合わないくらいで。1日1課題なんです。時間かかるんですよ、作るのって。だから、アウトプットに対する不満はなかった。
—時代の空気や身のまわりに対するアンチテーゼもなく?
ないです。当時がどんな時代なのかよくわかっていなかったから。オリンピックとか万博とかには否定的な人が多かったと思うけれど。時代ということでいうと、建築とか土木がメインで、広告はあんまり重視されていなかったような気がする。その後、急激に進化してくるわけです。パルコの CF に Tom Waits (トム・ウェイツ) が出てきたりして。
—桑沢デザイン研究所を卒業した後は就職しましたか?
社長含めて3人しかスタッフがいない小さなデザイン事務所に入りました。ボスは忙しいけれど、僕はできることが何もなかった。入社して半年くらい経ったあとに会社が夏休みに入ったんですが、ちょうど自分の保険が満了になったので、それならニューヨークに行こうかと。そしたら会社が「1ヶ月休んで良し。給料も出す。そのかわりに資料を送ってくれ」と言ってきて。
—資料?
むこうの洗剤のボトルとか、そういうデザインのことが知りたかったそうです。個人的にはニューヨークの摩天楼が見たかった。当初はアメリカを横断するつもりだったんだけど、結局ずっとニューヨークにいました。知り合いの美術学生の家のロフトに泊まっていました。
—音楽はニューウェイブの時代ですね。
桑沢の頃は Talking Heads (トーキング・ヘッズ) が1番人気者でした。
—ああ、良い時代です。余談ですが、Talking Heads はなぜそんなにポピュラーになり得たんだと思いますか?
当時はバンドをやっている人が多くて、下手くそでも大丈夫だって思わせてくれたからじゃない?(笑)アート系で攻めてくるし、音楽のセンスは異常に良かったと思う。ちなみに、David Byrne (デヴィッド・バーン) が『トゥルー・ストーリーズ』を映画化した時には、映画のスティールをエグルストンに依頼しているんです。
—すべてが有機的にリンクしていた時代に思えます。
Talking Heads は Howard Finster (ハワード・フィンスター) に絵を依頼していますし。
—髙橋さんの写真集(『THE MAD BROOM OF LIFE』)にもエグルストンのポートレートが収録されていますよね。
あの写真はニューカラーへのオマージュなんです。
—話を戻すと、写真はニューヨークで撮り始めたんですか?
そう、お父さんのニコンを持っていったんです。現像してみたら綺麗に撮れていて。のんきな話です(笑)。
—当時、髙橋さん自身に「○○のように撮ってみたい」という意図みたいなものはありましたか?
何もない。以前の写真は改めて見ると良いのか悪いのかよくわからない。当時は良いと思っていたんですが。
—それが写真家を志すキッカケですか?
そうです。会社はその年に辞めました。写真家としてどうやって成り立つのかとか、そういうことはわからなくて、まあ無名だし何をやっても良いわけです。だから直感で自分がイケていると思うことをやろうと。会社に勤めていたときは図面を書く字が汚いと怒られていたんですけど。それに、夕方で光が綺麗なのに事務所の中で図面を書いていると泣けてきちゃって(笑)。
—でも、それですぐに仕事が舞い込んできたわけじゃないですよね?
もちろんそうです。どうやってやったら良いかわからないから、とりあえず桑沢に行ったら小さい広告代理店の電話番を紹介されて、そこで2年間くらいバイトしていました。社長が写真家でしょっちゅう地方に出ていたから、その間に電話に出られる人がいないということで。場所はワタリウム美術館のむかいのビルです。
—駆け出しの写真家にとっては理想的な環境ですね。
昼休みに写真集をよく眺めていました。勉強になりました。Walker Evans (ウォーカー・エヴァンズ) とか。ある時、Robert Mapplethorpe (ロバート・メイプルソープ) の個展が開かれていたんだけど、誰も名前の読み方がわからなかったっていう、そういう時代の話です。僕も写真を買おうと思ったら30万だと。給料7万なのに(笑)。それでマルイのクレジット使おうと思ったら上限超えちゃって買えなかった。当時はそんなモノクロを見たことがなくて「すごい!」と思ったんです。すべてが行き当たりばったりだった。目の前がワタリウムじゃなければどうなっていたことか。
—他にはどこで写真を勉強していたんですか?
学生の頃は桑沢の図書館で写真集を見ていました。アルファベット順だったから、Berenice Abbott (ベレニス・アボット) から順に(笑)。
—ご自身でも作品、というか写真は撮り続けていたんですよね?
家のトイレを暗室にしていました。お昼と帰りに外苑でぱぱって撮って、焼いて、の繰り返しです。「ボール」っていうジーパン屋があって、そのウィンドウとか。今もそのやり方はあまり変わらないです。
—そういえば、その頃洋服は何を着ていたんですか?
古着です。古いイギリスのジャケットとか。テクノカットで。
—髙橋さん、テクノカットだったんですか!?
ニューヨークに行った時にヴィダルサスーンで働いている知り合いがいて切ってもらったらテクノカットになったの。ジャパンとか流行っていたから。
—当時、生活は成り立っていたんですか?
友達はみんな心配していました。何もしてないから。時々、学校の先生から会社案内パンフレットの撮影とかを紹介してもらっていました。知らない工場の中を撮影するのは楽しかった。
—そこから写真家としてブレイクスルーしたキッカケを教えてください。
20代後半になると「何かすごいやつがいるらしい」という噂が業界の中で広まったんです(笑)。
—なぜ、そこで髙橋さんが注目されたんでしょう?
日本の写真の流れを知らなかったから、何か新しい写真に見えたのでしょう。
—そうなんですね。ニューカラーのようなムーブメントは日本にもきちんと伝搬していたのでしょうか?
どうなんでしょう。リアルタイムではそのあたりをあまりちゃんと理解していなかったです。ただ、海外では、『Vogue Italia』など写真のことを伝えようとする動きがあったと思います。Bruce Weber (ブルース・ウェーバー) のモノクロの写真集が出版されたりもして。
—その頃に使っていたカメラは?
80年代は4×5ですね。90年になって8×10を使うようになりました。
—自分はこういう写真を撮るべきだというような、テーマみたいなものは持っていましたか?
僕の場合、こういう風に撮ろうと思ってもできないんです。相手のオーダーを聞くことができない。技術的な問題もあったのかもしれないけれど、何かそれも違うような気がする。つまり、色んな要望があって写真ができていくのではなく、写真があってそこに要望を合わせていくという考え方でした。内容がある以前に、そもそもそれが写真的であるかどうか。この前、伊藤俊治さんの『写真都市』という評論を見つけてはじめて読んだんです。そこに書いてあったことを乱暴にまとめると、写真という概念の上に都市は成り立っている、と。
—つまり、現実のほうが写真の後に立ち現れると?
もともと写真的な構造を持っている都市を写真で撮っている、ということです。ファッションで言えば、ファッション写真から次のファッションを考えるとでも言えばいいのかな。現実は現実で、別の場所にエンターテイメント=虚構があるという考え方ではなく、虚構をきちんと撮ることで写真としてのリアリティを構築するということです。広告の世界でも、何より先にコマーシャルフィルムが展開される。ある意味では、商品よりもそれが重要なんです。言い換えれば、虚構を作っているわけですが、“イメージこそが現実より大事”なんです。
—現実の作り方みたいなものですね。そう考えると、広告が力を持ち始めた時代に、髙橋さんの写真がポピュラリティを持った理由もわかるような気がします。
部分的にポピュラリティを持つ、ですね(笑)。それで、業界の中で何人かが「良い」と言い出すとカルトになる。さらに、そこに一般性を持たせるときはジャンル化されていく。「髙橋恭司風」とか。
—髙橋さんが15年くらい広告の世界から離れていた間に、自身の写真の作風も変わりましたよね。それは個人的な変化なのか、社会的な文脈とリンクした変化なのか、どちらですか?
うん、それは、「21世紀において写真が何なのか」という問題は難しいんです。僕は、21世紀に新しい写真的な概念があるかもしれないというところを模索している。50歳を過ぎてもこんなことをやっていると思っていなかった(笑)。ずっと模索中です。
—私も写真が先にあって現実がそこに付随されていくという考えた方のほうがロマンチックだと思います。ちなみに、僕の世代だと、髙橋さんの90年代の写真よりも先に復帰後の写真が入ってきたという人も多いんです。最近、髙橋さんに紹介されて知り合った写真家の川谷光平君もその1人で。
そのほうが良いです。さっきからずっと考えていたんだけど、僕は写真に個別性なんてないと思っている。
—極論、誰が撮っても同じじゃないかという。
という可能性があるのではないかと。
—写真には匿名性があり、それがつまり写真ということだ、という問いかけが残っているということでしょうか? また、それが“復帰”後のモチベーションになっていますか?
そうかもしれません。それまでは個人作品としての写真集の時代がありました。でも、今はそうじゃないことがやりたいと思ったんです。相対的な作家の違いとか、全体的な流れの中での立ち位置とか、そもそも写真ってそういうものなのかという疑問があって。そのことは伊藤俊治さんが自著の中で見事に書いているんですけど。
—最近の髙橋さんの写真を語ることは、写真の歴史を逆行することにもなり得るのかもしれません。
そうかもしれません。
—その動きに共鳴している他の作家は思いつきますか?
Thomas Ruff (トーマス・ルフ) とかどうでしょうか。1枚しか見たことしかないんですが。
—ファッション写真についてもお訊きしてみたいです。今は、写真家の作家性と対象となるファッションの間にどう共通項を見出すかに力を注ぎがちですが、先ほどの話を踏まえると、髙橋さんが考えるファッション写真の構築の仕方が気になってきます。
僕は面白がってトライしています。僕は写真概念の一部にファッション写真があるという考え方を持っています。洋服はメディアを無視して成り立つものではないから。写真によるイメージを洋服がまとうんです。例えば、ゴダール映画の中に出てくるかわいこちゃん、ハンサム君のボーダーが着たい、ということがあり得る。その洋服を着たらどうなるんだろうという。その絵の中に入るんです。
—個人的に、今ファッション写真をやるなら近未来を描くべきだと思っているんです。こういう街の中に、こういう人がいて、こういう関係があって、そこにこういうファッションがあるっていう、それが現実になっていく様子を見たいというか。それはとても映画的だとも言えると思うんです。
先日、スタイリストの首藤綾子さんに声をかけていただいて、『MAN ABOUT TOWN』というロンドンの男性ファッション誌で写真を撮りました。この中では、今話したようなことを実際に試しています。とてもクオリティが高い雑誌です。
—デジタルとフィルムはどう使い分けていますか?
両方使っています。そういえば、ある撮影の打ち合わせで「フィルムもお願いします」と言われたのに、それを忘れてずっと使っていたフィルムカメラを売っちゃったんです。撮影前日は焦りました(笑)。それで、手元にピントの出せないM3しかなかったから、M8で距離を測ってから、その場所で構えて撮りました。
—修理はできないですか?
カメラのバランスが崩れちゃうから、中を開けるわけにはいかないんです(笑)。
—現代において、フィルムだけを使うことはノスタルジーに足を突っ込むことになると思いませんか?
そう思いますが、僕にもノスタルジーはある(笑)。
—ノスタルジーだからって否定も肯定もしないということですか?
最近、ノスタルジーも悪くないなと思ったことがあったんです。ポーランドの現代作曲家で Valentin Silvestrov (ヴァレンティン・シルヴェストロフ) という人がいます。それが Richard Wagner (リヒャルト・ワーグナー ) みたいなノスタルジックなメロディだけでできている。「現存している様々な音楽のエコーである」と本人はインタビューで話しています。ノスタルジーといっても、高級なものです。
—あえて写真を撮る目的を言うとすれば?
写真を撮る行為に目的はない。だから、玩具なんです。高性能な機械と人間とで競い合いながら、何かエラーのようなものが出ることを期待しています。
—けっして諦めるだけではなく、「機械は人間より優れている」という新しい前提を共有した上で何をするかという問題でしょうか。
そうです。どうやってその隙を突くかというのが僕の仕事だと思っています。完璧さみたいなものに付き添いながら、エラーが出るんじゃないかというのをひそかに期待している。そこに原因も結果もない。可能性としての自由を探るということです。だから、諦めと同時に希望も持っています。その道具を“使っている”と思いきや、実は完璧な道具に僕たちが“使われている”んです。だけど、ところどころ隙を見て、イメージを組み立てる。それが現代の情報になるのではないかという考え方です。
—先ほど髙橋さんがお話されていたように、「新しいリアリティを構築するための表現」という意味では、ポップミュージックや映画も同じように語ることができるかもしれません。
そうです、そうです。それぞれイメージの出口は違うけれど、イメージを作るという点では一緒なので。イメージがあってからアクションがある。だから、「土曜日はダルいからやめようかな」とか思わずに、あくまでリアリティを構築するためのスタート地点だから、軽やかにやろうと思っています。諦めちゃいけないし、達観してもいけないんです。
<プロフィール>
髙橋恭司(たかはし・きょうじ)
1960年生まれ。栃木県益子町出身。写真家。作品集に『ROAD MOVIE』(1995年・リトルモア)、『Takahashi Kyoji』(1996年・光琳社出版)、『Life goes on』(1997年・光琳社出版)、『彩宴』(2009年・対照)、『煙影』『流麗』(共に2009年・リトルモア)、『飛伝来』『艶身(いろか)』(共に2011年・月刊人)、『SHIBUYA』(2016年・BANG! BOOKS)など多数。
HP: http://kyojitakahashi.com