today's study: Barbie

【きょうのイメージ文化論】 #7 ジェンダーロールを解体しつくして、それでも「性」を生きていく ー映画「バービー」について

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【きょうのイメージ文化論】 #7 ジェンダーロールを解体しつくして、それでも「性」を生きていく ー映画「バービー」について

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text: yuzu murakami
illustration: aggiiiiiii
edit: manaha hosoda

写真研究や美術批評の分野で活動する村上由鶴が、ファッション界を取り巻くイメージの変化や、新しいカルチャーの行方について論じる本連載。第7回は、現在公開中の Greta Gerwig (グレタ・ガーウィグ) 監督最新作の『Barbie (バービー)』について。Margot Robbie (マーゴット・ロビー) がバービー役を、Ryan Gosling (ライアン・ゴズリング) が恋人のケン役を演じ、制作中から何かと話題を集めていた注目作から改めて、ジェンダー論を考察。※ネタバレ注意

なぜ、バービー?

バービーは、言わずと知れた着せ替え人形ですが、この映画以前からフェミニズムや人権の文脈では、たびたび論争の的になってきました。

バービー人形が、長らく「美女」の理想像を世界中の小さな女の子たちに刷り込んできたこと。そしてそれへの反省から、同じ「バービー」という名前で、さまざまな人種や、さまざまな体型、多様な職種、障害、ジェンダーの着せ替え人形が発売され、多様性と女の子の開かれた可能性を体現するようになったこと。これによって、バービーはある意味で女性の人権や自己実現について考える/語ることと切り離せない存在となったのです。そんななか、過去への反省をふまえ現在にいたるバービーが、未来に向けてどんなメッセージを発することができるのか?という難題を任せられたのが、グレタ・ガーウィグ監督であり、日本では8月11日(金)に公開された映画『バービー』です。きょうは、「ジェンダーロール(gender role)」をキーワードに、映画『バービー』について考えてみます。

ロールからの解放、解放、解放!

まず、「ロール(role)」とは、役割とか配役、あるいは職業という意味を持ち、これとジェンダー(性)を組み合わせた「ジェンダーロール」は、性別による固定的な役割や期待される役割を示す言葉です。

今回、映画『バービー』の冒頭では、1968年の映画『2001年宇宙の旅』をがっつりオマージュして、バービーが女の子の遊びにおけるひとつのジェンダーロールを解体した革命的存在であったことが強調されます。それまで、小さい女の子は遊びのなかでも常にお母さんになりきって、赤ちゃん人形をお世話する役割を演じてきました。そこに登場したバービーは、女の子を「お母さん役」から解放したのです。赤ちゃん人形で遊ぶ女の子が決まって「お母さん役」になるのに対して、バービー人形を渡された女の子はバービーの母になって世話をするのではなく、むしろ「バービー役」になろうとすることが多かったはずです。そのバービーが、服の着せ替えによってあらゆる職業に就けることは、女の子を勇気づけました。単におしゃれなだけでなく(男性の性的役割と結びつけられてきた職業である)大統領にも、物理学者にも、医者にもなれる。バービーがもたらした解放です。

しかし、この「自分もバービーになる」遊びを通じて、女の子たちのなかにはバービーが体現する「理想的な女性像」が刷り込まれていきます。白人でブロンドで青い目でナイスバディーでおしゃれな(典型的タイプの)バービーは、その条件に当てはまらないか、どう頑張っても、あるいは、めちゃくちゃ頑張らないとそうはなれないほとんどの女の子を苦しめる存在になっていきます。つまり、バービーは女の子たちを「お母さん役」から解放した一方で、同時に「美しくあれ!」という別の理想の押し付けをスタートさせてもいました。登場人物の中で最も若いサーシャ(アリアナ・グリーンブラット)はこのことに怒り、人間界に来たバービー(マーゴット・ロビー)を「ファシスト!」と厳しく責めるのです。

©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

なお、映画の外の実際の世界では、補聴器をつけたバービーや、ダウン症のバービー、トランスジェンダーのバービーもいて、人種や体型はさまざまです。そのうえバービーには職業選択の自由と幅広い趣味が用意されています。映画内のサーシャはそれについてはあまり気にかけていないようでしたが、このような「◯◯バービー」の登場によって、いまバービーは「単一の理想的な女性像」ではなく、多様な美しさを備えています。だからこそバービーランドのバービーたちは、この多様性をとても誇りに思っていて、人間界にいい影響を与えた!と信じていました。お互いを常に認め合い、褒め合うバービーランドは、人間界でバービーが作り上げてしまった「単一の理想的な女性像」という観念はない設定です。

しかし、実際、人間界はバービーランドほど女性の自己実現は進んでいなかったし、同時に、バービーランドには超重大な欠陥があったことが明らかになります。それが、「バービーのボーイフレンド役」でしかないケンの件。「ケン」は、人間界における女性の役割を反転させたキャラクターであり、その世界では「ケン」であるという理由で完全に軽視されています。

ケンは人間界で、男性にこそ多様かつ重要な役割が与えられていることを知り、現状の人間界の構造である「patriarchy=家父長制(映画では男社会と訳されていました)」を持って帰り、バービーランドをケンダムに変えてしまいます。それよって、バービーなしでは存在できないケンという役割だった彼は、バービー(女性たち)の献身を伴って一時的に「男らしい男」/「リーダー」の役を獲得しますが、なんやかんやの後、本当は(「バービーとケン」ではなく)「ただのケン(それだけで十分な存在)」でありたいのだと壮大に歌いあげます。

©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

「婦人科ラスト」がつきつけるもの

ケンたちを欺いてバービーランドを奪還したバービーたちでしたが、主人公の典型的タイプのバービーの悩みは解決しません。「○○タイプバービー」ではないためになんの職業役割も持たないし、当然、ケンの彼女におさまるのでもない、理想的白人美女として作られたのに、美しくなくなっていく、年齢を重ねていく、死を意識する(鬱になる)…もう自分を着せ替え人形であると思えない…と「バービー」の苦悩が描かれます。(ついでに、あくまでマーゴット・ロビーがバービー役を演じていることが協調され、バービーとは「役」なのだ、ということを改めて気づかせるセリフもあります。)

彼女はもう、逆家父長制的なバービーランドさえも居心地が悪いのです。なぜならば、バービーランドであれ、ケンダムであれ、どちらかのキャラクター(=ジェンダー)を頂点とする家父長制的な世界では、「(ジェンダー)ロール」から逃れることができないから。老いや気分の落ち込みがあることが許されず、「バービー」という役(role)を求められる世界には彼女はもういられない。というわけで、バービーは人間になることを決めます。

とはいえ、ここまで散々あらゆる(ジェンダー)ロールを解体してきたバービーですが、バービーランド以上に「役割」を要求し、期待してくる人間界でこれから生きていくのに、ジェンダーロールにどのように向き合っていくのでしょうか。結局、人間界のジェンダーロールに従うしかないんじゃない……?

©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

この不安に対してこの映画なりの落とし前をつけたのが、ラストシーンだと思います。マーゴット・ロビー演じる「バービー」だった女性は、なんらかの仕事に就くための面接を受けに行くのかな、でも、ビルケンシュトックを履いて……?と思わせて、実は婦人科を笑顔で受診します。これにはいろいろな意味が読み取れますが、かつて「わたし、つるぺたで女性器はないの!」と言っていたバービーですから、バーバラと名乗るようになる過程で、女性器が「ある」状態になったのか、あるいは女性器に関する困りごと(つるぺた?)のために、でも前向きに自分の身体を愛するために婦人科を受診するのでしょう(もし、万が一、ここでCA、保育士、看護師、逆に、パイロット、医者、政治家…といった何らかの職についていたらこの映画にほぼ真逆のメッセージが生まれてしまう気がします)。彼女はもう誰かが服を脱がして着せ替えるための人形ではないのであり、そして、仕事(役割)を得るのでもありません。「ジェンダー(性)には向き合うけど、ジェンダーロールは御免です!」という人間界へのメッセージを「婦人科」というセリフ一発でブチかまします。

本作では、終始、バービーランドでもケンダムでも人間界でも、問題が山積みであることが示されますが、その問題は、(どちらのジェンダーが優位に立ったとしても)家父長制な考え方にあります。つまり、「ジェンダーロール」を強制する家父長制は、バービーもケンも(そしてアランも)とにかく、すべての人を犠牲にするということ。でも、わたしたちは、女であれ、男であれ、どんなセクシュアリティであっても、どのような性自認であろうとも、なんらかの「性がある」という状態からは逃れられないし、「つるぺた」ではいられない。つまり、わたしたちが拒否するべきなのは「性それ自体」ではなく「ロール」の押し付けのほうだ、ということなのではないでしょうか。

ちなみに、パンフレットによれば、マテル社のCEOは「マテル社のCEO」という役名で、個人の名前らしき名前はないとあります。それを示すように彼は、売上予測を立てたりする側近の部下たち(彼らも役名はなし)の助言を得たり得なかったりして終始「マテル社のCEO」が言いそうなことを言うだけで「中身」のない感じを殊更に強調しています。彼らは徹底的に「役割だけをまっとうしている人たち」として描かれていると言ってよく、この点でも、本作は「ロール(role:役割)」についての問いに満ちています。

最後に。ぶっちゃけ、バービーランドとリアルワールドがどうやって影響しあっちゃうのか?という件の辻褄とかはあんまり気にしちゃいけなそうだし、終盤の抽象的な部屋の展開はやや煙に巻かれたような気もしているし、中盤ちょっと演説すぎないか?とか、多様なバービーが出てくる前のバービーランドってどんな世界だったのかな?とか思ったりもしました…が、このシンプルな「バービー」というタイトルにこそ豊かな意味が託された、充実の内容だと思います。そして、ピンクコーデの来場客のみなさんがかわいかったです!

ではまた!