写真家・川内倫子インタビュー
Rinko kawauchi
photography: mitch nakano
interview & text: mami hidaka
日常のなかの何気ない一場面から自然風景、神道の儀式などの崇高なイメージまで。高い抽象度を保ちながら、じわりじわり被写体の幅を広げる川内倫子。何を写していてもそこには必ず「川内倫子」というスタイルがある。
そんな川内の写真展『When I was seven. 』が、現在、青山のアニエスベー ギャラリー ブティックで開催中だ。ここでは2019年で誕生から40周年を迎えた agnès b. (アニエスベー) のアイコニックアイテム「カーディガンプレッション」をモチーフに、川内が自身の40年の時と重ね合わせて撮り下ろした写真30点を見ることができる。同展の開催を記念して写真集『When I was seven.』も刊行された。
写真家・川内倫子インタビュー
Portraits
今回、川内のポートレイトを撮影した写真家の中野道は、彼女の存在こそ写真の道に進んだきっかけだったという。「川内さんの『うたたね』で、それまで写真では得たことがなかった感情を経験しました。文章以外の手段で、人にこんな感情をもたらす本があるなら自分もやってみたいと思い、それが写真家を志したきっかけです。川内さんの写真作品は一枚で見ると川内さんの主観が強いけれど、連作で見たときには、自分もその絵のなかに存在していたような感覚になる。『うたたね』も『AILA』も、今回のシリーズも、川内さんの作品世界には、自分が少年時代にかかっていた夏休みの魔法のようなものを思い出すんです。なぜか川内さんの作品世界のなかに僕が経験した世界や時間も存在する気がして、これは自分が日本人だからなのかと考えたけれど、世界中の人々も川内さんの世界に共感しているあたり、国籍問わず人間の潜在的な部分に訴えかけるものがあるんだと」(中野)。
中野がこう話す『うたたね』は、何気ない日常風景や草花を繊細にとらえながら隣り合わせの生と死を照射した川内の写真集。01年に川内は、この『うたたね』と『花火』の2冊で第27回木村伊兵衛写真賞を受賞した。
そしてこの新刊は、川内の愛娘をモデルとした前編と、40年前に7歳だった川内自身の亡霊的イメージとして「かおるちゃん」を登場させ、当時を回想する後編からなる。川内が、本作のコンセプトを決めた経緯について語ってくれた。
「基本的には依頼のお仕事以外で人を被写体に選ぶことはないのですが、家族だけはずっと撮り続けています。今回agnès b.とコラボレーションするという意味では、なるべくこの自分のスタイルに近いアプローチを取るほうがよりコラボレーション感が強まって良いかなと思い、プロのモデルさんではなく自分の娘にスポットを当てて撮影しました。最初は、娘だけでなく夫や母にも「カーディガンプレッション」を着てもらい、撮影しましたが、登場人物が増えるのは違うなと途中で気がついてやめました。加えて、カーディガンプレッション の『40周年』というキーをどう入れていくかということで、40年前当時7歳だった自分の代わりにちょうど今年7歳になる『かおるちゃん』にもモデルをお願いし、娘との2本立てで展開しました。人はどうしても情報の多い被写体なので撮ることが難しく、これまでは主に自然や動物、日常風景などを撮ってきましたが、今回の作品は、人という被写体を通しても今までのように変わらない姿勢で作れたのでよかったです」。
以前は「写真を撮るとき、その一瞬に集中することで過去も未来もなくなるように感じる」と語っていた川内だが、本シリーズは、意図的に過去と未来どちらも濃く表現されている。今回、さまざまな時間軸を移動するような制作を経て、川内は「かおるちゃんを通して自分自身の影を追いかけるなかで、はからずもつねに自分には小さい女の子がいることを改めて実感しましたね。やはり幼少期の自分が置き去りにされている感覚が常日頃から自分にあったんだなと。彼女の体型や髪型が当時の私とほぼ同じだったこともあり、撮影途中は何度も胸が締め付けられました。まるで本当に当時の自分と会っている感覚になった」と話す。
「川内倫子」の作品を特徴づける空気と光をはらんだような独特の質感は、圧倒的な知識量と実験の積み重ねから生み出された。川内いわく、「『自分のカラーはなんだろう』と試行錯誤していた時期、35mmから4×5、中判でもハッセル、ローライ、ブロニカ、マミヤなど、様々な種類のカメラを試しました。そのなかで相性が良かったのが、ローライフレックスです。ビジュアルも可愛いですし(笑)、その時代にローライを使っている人は見当たらなかったので、個性を出しやすいかなとも思いました。もともとローライに出会う前も、レンズは柔らかいものを選んでいたし、シャープなものよりもソフトに映るものを好んでいました」とのこと。
そんな彼女の評価は、写真だけでなく写真集における構成の手法にも及ぶ。また『りんこ日記』『そんなふう』などのエッセイでは、飾り気なく物事の真髄に触れる文章を発表し、人々を魅了してきた。「俳句的」と評される川内のスタイルは言葉と写真が密接な関係で結ばれているが、そういったアプローチへの意識が芽生えたのはいつごろだったのだろうか。
「制作のために走り書きしたメモがキーとなったり、逆にエッセイを書くときは、写真から一行思いついたりイメージが膨らむこともある。やはり写真に引っ張ってもらうことが多いです。写真集をつくるときは、ある程度ステイトメント的なものを書いたりするけれど、そういうことをしたほうがいい場合としないほうがいい場合がありますよね。たとえば『うたたね』は一切文字を入れず、表紙にもタイトルすら記さなかった。いっぽう初めて Aperture (アパチャー) というアメリカの出版社から写真集を出したときは、完全に向こうの本のつくり方に合わせましたし、テキストも評論家の方に書いてもらいました。最近は日本と海外で製本に差はなくなってきましたし、わりとなんでもありですけど、当時の欧米では、布張りで評論家にテキスト書いてもらうという、スタンダードかつクラシックなつくり方が主流の一つでした。『写真集』という文脈のなかでどう読んでいくか、ということが海外において私の作品を初めて見る人の手助けとなる場合もありますし、間口を広げる意味でそういうつくり方をしました。写真の読み方もいろいろあると思うんですけど、欧米の文脈の中での自分の作品がどう受け止められるかを考えました」。
世間では引き続き Instagram (インスタグラム) が流行し、より手軽に技術的な写真を撮影するためのカメラやスマートフォンも年々増えているが、川内自身は、写真において技術が先に立たないよう「情報の足し引きは、主に編集やセレクトの段階でするようにしています。料理と一緒で、最後に塩加減を調整するような感覚です。上手に撮れすぎるとコマーシャル写真のように見えてしまう。かといって排除された写真がほかのものとどう違うかというと、完全に自分の肌感覚なので説明が難しいんですけど。綺麗に写りすぎているとき、構成の文脈に合えばいいけれど、どうしても少し浮いてしまうことがある。ただ、つい癖で技術的にきれいに撮ってしまうことがあるので、そういうものははじくときもあります」 とこだわりのバランスを教えてくれた。
04年に「りんこ日記」をスタート、Instagram ローンチ翌年にはアカウントを開設するなど、インターネットとのつながりも深い。「Instagram はアカウントの開設こそ早かったけど、じつは結局ほったらかしにしたままずっと使っていなくて、一昨年ごろからようやく利用し始めました。それくらいSNSにはあまり必要性を感じていなかった。一度やり始めるとキリがないし、そこに時間が取られるのは怖いと思っていました。ただ始めてみると、友達の日常を見たり、展覧会の告知をするのにもすごく便利なツールですよね。いまはつかず離れずのいい関係性でできているかなと思いますけど、やっぱりどこかで中毒性があるというか、お酒やタバコと同じで、ある距離感を保つことが大事。禁酒日じゃないですけど(笑)、意識的に断つ時間を設けないとつい触ってしまうので、そこは危機感を感じています」。
夏休みを終えて新学期を迎える前日の8月31日、インターネット上では #8月31日の夜に というハッシュタグが散見された。これは不登校の児童や学生、そして会社に行きたくない社会人などに向けて「どこに行くのもどこにも行かないのも自由だ」といった趣旨のメッセージを届け、それぞれを励まし合うためにつくられたタグだ。9月が始まってから半月のタイミングで開幕した本展のステイトメントには、川内自身が幼少期に経験した息苦しさと絶望についても明かされている。
《学校に行くのがつらかったから、長い夏休みは束の間の休息だったけれど、毎朝行きたくないラジオ体操に通い、早く1日が終わらないかとばかり考え、人生に絶望していた。子供でいることは不自由で退屈だったから、早く大人になって自立したいと意識下で切望していた。… あれから30年近く経ち、自分の娘にこのカーディガンを着せて撮影してみた。感慨深くもあり、過去の自分が置き去りにされたかのような気持ちにもなった。今年7歳になる、かおるちゃんにお願いして、公園を散歩しながら撮影した。あの頃の自分と同じように髪の長い彼女の後ろ姿を追いかけていると、40年後は娘と一緒に楽しく暮らしているよ、時間がかかったけど、生きていてよかったと思っているよ、と、息苦しかった幼い自分に向かって伝えたい気持ちになった。(ステイトメントより抜粋)》
美大入学を機に写真活動をスタートさせた川内だが、それまでの長い期間はどういったことで自身のモチベーションを保っていたのだろうか。その苦い記憶を、いま愛娘を育てるなかで活かしていると川内は語る。
「幼少期にはコンプレックスやトラウマの意識が強いけれど、それこそが作家になったモチベーションでもあるんです。幼少期に生きづらかったという記憶が、いまこうして写真を使って作品を制作することにつながっているし、もしあの経験がなかったら別に作品をつくる理由はないと思うんです。今回は辛かった記憶が、作家としてのモチベーションになっているんだと再認識できた制作でもありました。精神医療でもよくあるように、インナーチャイルドと話すことによって過去を克服していくということを、私の場合は作品制作を通じてやっていたんだと再認識しましたね。幼少期の自分はよくサバイブしたなと思います(笑)。子供ってすごく弱い存在だし、大なり小なり、子供はみんなしんどい思いをしていますよね。『どうしてこんなに押さえつけるようなことを言うんだろう』と感じてしまう日本の教育もあって、学校もしんどかったですし。みんな同じがいいといわんばかりの価値観の押し付けというか、そういう場所から抜けていくのが子供の大変さだと思います。なので、娘にはそういう押さえつけはしないようにしています。かといって完全にフラットにしてしまうと、それもきちんとしたしつけにならない。悪いことをしたらそれが悪いことだときちんと教えなきゃいけない。ただし、頭から押さえつけるような伝え方はダメ……何がいいのかわからないのが本音です。撮影期間中も娘の成長には眼を見張るばかりでした。彼女は普段から撮られ慣れているけれど、この撮影が終わる頃には『もう撮らないで』と言ってきたり。それは自分の意思をはっきり言えるようになったということですよね。今では着る服も自分で選ぶようになりました」。