俳優・加瀬亮インタビュー
ryo kase
photography: masahiro miki
interview & text: tomoko ogawa
日本国内にとどまらず、活動のフィールドを世界に広げる俳優・加瀬亮。彼の最新出演作『ベル・カント とらわれのアリア』が11月15日(金)より公開する。1996年にペルーで起きた日本大使公邸占拠事件に着想を得た本作の中で、多言語をマルチに操る日本人通訳者を演じた加瀬亮に話を訊いた。
俳優・加瀬亮インタビュー
Portraits
Ann Patchett (アン・パチェット) の原作ベストセラー小説を『アバウト・ア・ボーイ』の Paul Weitz (ポール・ワイツ) 監督が映画化した『ベル・カント とらわれのアリア』が公開される。1996年にペルーで起きた日本大使公邸占拠事件に着想を得た本作は、武装した反政府ゲリラグループと、彼らの人質となった異国から集まる人々が言語や立場の壁を越え、静かに、けれども着実に心を通わせていく様子が描かれる。
実業家のホソカワの通訳としてテロの現場となった副大統領邸に偶然居合わせ、自身も人質に取られながらも、人質として残された人々との通訳を任されることになるゲン・ワタナベ役を演じたのは、俳優の加瀬 亮。日本国内にとどまらず、これまでも Clint Eastwood (クリント・イーストウッド)、Martin Scorsese (マーティン・スコセッシ)、Abbas Kiarostami (アッバス・キアロスタミ)、Hong Sang-soo (ホン・サンス) ら世界の名だたる映画監督の作品に出演してきた彼が、多言語が飛び交う現場で、言葉を操る役を務めた経験について語ってくれた。
—本作で加瀬さんは、渡辺 謙さん演じる実業家ホソカワの通訳の役でご出演されていますが、ゲン・ワタナベというややこしいお名前で (笑)。
そうですよね (笑)。原作者の方が、渡辺 謙さんのすごいファンらしくて。
—そうだったんですね。今回、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語などをマルチに操る通訳者を演じられて、通訳という仕事に求められる素質って何だと思われました?
語学のセンス、状況の把握、相互の気持ちや立場を理解するとかいろいろあると思いますが、演じた役から感じたのは、こんなに受けとめなくちゃいけないのか、ということですね。自分の意志がどうのこうのというより、まずは相手の思うことを人に伝えるという役割だったので。
—Paul Weitz 監督とは、撮影前にどんな対話をされたんですか?
Julianne Moore (ジュリアン・ムーア) さん、謙さん、それからベンハミン役の Tenoch Huerta (テノッチ・ウエルタ) さんと監督とで、本読みのような機会があって、それぞれが希望を言うんです。英語が話せない設定の謙さんは「次のセリフをこう言いたいから、こんなニュアンスの日本語訳にしてほしい」とか、共演者全員にそういった提案があるので、それをまず全部受けとめなきゃいけなかった。英語だけならまだしも、スペイン語とかフランス語とか多国語で。実際、映画に使われているのは一部分で、本当はもっとたくさん通訳したんですよ (笑)。通訳場面って、映画の中で見せると同じ内容のことを重ねて観客に伝えることになってしまうので、もちろん切られることも想定してはいたんですけど、撮影するときは訳さないといけなかったので。
—それぞれの希望を聞いて、臨機応変に変えていったんですか?
日本でセリフを覚えて現地に行ったんですが、現場では台本もどんどん変わるし、みんなもどんどんアドリブをし出すし。それで毎日気絶しそうになって、ストレスなのか腕が上がらなくなってしまいました、途中で。
—それは相当なストレスですよね。みんなの言い分を理解できる立場だから、知らんぷりはできないですし。
そうですね、双方の事情がわかるので。もう、通訳の役はやりたくないですね (笑)。
—となると、もしやセリフを覚えるというより、語学を学ぶことが求められる現場だったんですか?
どうですかね。基本的にはセリフなので。現場で誰かがアドリブをし出したときは、とにかく、手が空いている共演者を捕まえては「セリフがこう変わったから、訳をどう変えていいか教えてくれ」と頼む、ということを常にやってました。ただ、実際の通訳がするように同時通訳をすると相手のセリフにかぶってしまうので、タイミングをみたりするのも、けっこう大変でしたね。セリフの半分くらいがスペイン語だったんですけど、僕はスペイン語を全く話せないので、アルフレド役の Noé Hernández (ノエ・エルナンデス) やテノッチが手伝ってくれて、日常も必ずちょっとした会話を振ってくれたりしてました。汚い言葉も教えてくれたりしましたけど (笑)。
—アメリカ、ポーランド、メキシコ、ノルウェーなど、いろんな国から集まった役者が揃う現場だからこその面白さがあったと思うのですが、いかがでした?
文化の違ういろんな国から役者が来ているというのは、すごく楽しかったですね。それぞれ気質も違いますし、考え方も違うので、芝居のやり方も違ってきますし。アメリカや南米の役者とはけっこう違いが大きいなと感じたのですが、ヨーロッパの役者たちとは、考え方がなじみやすかったですね。
—通じるものがあったんですね。
そうですね。すぐに打ち解けたのは、ノルウェーやドイツの俳優でした。でも、語学を教わっていたからか、メキシコの俳優のテノッチやノエたちともすごく仲良くなりましたね。
—言葉自体は理解し合えてもあまり話が通じないという状況は社会では日々起こっていると思うのですが、人間関係を築くうえで言葉はどのように重要だと思いますか?
科学的にはコミュニケーションにおいて言葉の果たす割合は少ない、とも言われていますけど、やっぱり一言もしゃべれないとなると難しいですよね。同じ単語を使っていても意味が違っていたりすることはよくありますよね。お互いの文化の違いや、文化が一緒でも前提が違っていたりするので、誤解や失敗や衝突はたくさん起こりますから。それらを修復できる寛容さを持てたらいいですね。人だから間違うこともあって当たり前と言いますか。
—二元論では語れないのはもちろんわかっていても、何が正しくて何が正しくないのかを考えさせられる作品ですよね。
そうですね。もちろんテロ行為自体は賛成することじゃないと思いますけど、物事はどこから切り取るのか、どこから話を始めるのかで見え方が全然変わるので。この映画は架空のフィクションですけど、当時、実際の現場で MRTA (トゥパク・アマル革命運動) の人たちがどういう思いでペルーの日本大使館に突入したのかは、たくさんの資料が残っているので見てみてほしいですね。彼ら側から見れば、権力側のペルー政府軍の見方とはまた全然違うと思いますので。
—加瀬さんは、正しさって危険だと思いますか?
正しさは固まるとすごく危険だと思います。自分でも何が正しいかはわからなかったり、変化したりしますよね。権力や権威主義的なものは、歴史を振り返ってもどうしても腐敗しやすいものですし。仮に正しい人がいて、その人が権力側についたとしても、結局ずっとは正しさを維持できないんじゃないですかね。人間はそこまで完全にできていないと言いますか。なので、監視するまたは批判する、常に自身を含めて点検するようなことをキチッとしてかないと、と思いますね。それはジャーナリズムの役割でもありますけど。宗教、人種、文化はもちろん、もっと言えば個人個人みんな違うのが当たり前で、それぞれが違う中でみんな一緒に暮らすときに、「これが正しい」とか「これが間違いだ」と押し付けるんじゃなく、いろんな角度から点検しないと非常に窮屈なことになると思いますね。
—確かに。権力を責めること自体が批判の対象となる傾向もありますよね。
そうですね、権力は怖いですからね。昔は戦争体験をした人がたくさんいて、その経験を語り継ぐ人たちもたくさんいて、その頃のことを知っている人たちは権力が何をしたのかを身を持って知ったわけですよね。そういう体験から、監視したり批判したりする精神が生まれたと思うんですけど、時が経つにつれて忘れさられていったというか。どれだけひどかったかとか、苦しかったかとか、そういうのが忘れられていって、考えなくなってしまったというのもあると思いますね。まぁ、それが平和と言えば平和なのかもしれないですけど、点検するような作業は常に必要だと思いますね。
—映画も社会的影響力のある一つのメディアですが、加瀬さんご自身は映画に何を求めて参加されているんでしょうか?
僕自身はやっぱり言葉にできないようなもの、を求めています。少し質問と離れますが、この映画のみんなで食事をしているシーンって、ユートピアと言えばユートピアじゃないですか。「こんなの現実的にはありえないよ」と言ってしまえば、それで終わってしまう。でも、ちょうどそのシーンの撮影の前にみんなが親交を深めれるようにと立食パーティーがあって、そのときにゲリラ側のリーダーのテノッチが脚本を読んで、「これはユートピアだ」と言っていて。「ただ、今の世の中でユートピアを見せられるのは、映画しかないんじゃないか」とスピーチしたんです。そのスピーチの後に一斉に拍手が起きていたので、みんなもこの映画に関してはそういう思いだったんじゃないかなと。
—フィクションだから嘘がつけるということではなくて、フィクションだから見せられるもの、というのはありますよね。
そうですね。フィクションでもイメージは人の中に残りますよね。ユートピアと言えばユートピアかもしれないですけど、そういうシーンを映画の中で描くことは良いことかもしれないですね。
—本編を観ながら、終わりはわかっていても、そこへ向かう中で変化していくそれぞれの感情を擬似体験する感覚がありました。
Christopher Lambert (クリストファー・ランバート) さんが演じたシモン役がわかりやすい例ですけど、ゲリラ側の Johnny Ortiz (ジョニー・オルティス) が演じたギルバートに、もう会えない息子の面影を見出すんですよね。そういうところから優しさとか、寛容さとか、人を思いやるとか、理解するとかっていう感情が出てくる。時間をともにすることによって、知り合うことによって、「違い」ではなく、何か親しみを持てるようなことを発見していくんですよね。まあ、あーいう辛い体験はしたくはありませんけど。
—そういう思いをしたくない、と考えることも抑止力にはなりますよね。
そうですね、みんな基本的に自己中心的なのは変わらないわけですが、ただ今はどんどん個人個人という主義になっているように感じるんですけど、自分もそうであるように他人にもその自由がある、と想像することは大事だと思いますね。
—映画では、Julianne Moore さんが演じ、Renée Fleming (ルネ・フレミング) さんが吹き替えをした歌手ロクサーヌ・コスの歌うオペラがある種、境界線を超える鍵として作用しますが、加瀬さんご自身は、オペラはお好きですか?
今まで全然聴いたことがなかったです (笑)。ただ、ロケ場所はものすごく広いお城みたいなところだったので、その空間に響き渡っているオペラの音声はとても綺麗だと思いました。
—最後に、昨年春に個人事務所を設立されたことで、何か変化があれば教えてください。
より自分のペースで仕事をするようになったくらいですかね。あとは自分で実際に会社を作ったので、その際に、当然今まであまり知らなかったことをたくさん勉強しました。
—より楽しんでますか?
そうですね。楽しくやってると思います。