Mauricio Guillén
Mauricio Guillén

「ノーと言えるようになったら、すべてが変わってくる」 世界を飛び回るマウリシオ・ギジェンの旅と写真

Mauricio Guillén

phorography & interview: chikashi suzuki
translation & text: tomoko ogawa

Portraits/

メキシコに生まれ、ニューヨークの美術大学 Parsons School of Design (パーソンズ美術大学) 在学中の90年代には、『purple』や『Dazed & Confused』『i-D』といったファッション・カルチャー誌で撮影を手がけ、その後も国際的にアーティストとして活躍する Mauricio Guillén (マウリシオ・ギジェン)。東京都写真美術館「写真とファッション 90年代以降の関係性を探る」展 (現在開催休止) に合わせ初来日を果たした。来日期間には、2017年に発生したチアパス地震後、甚大な被害を受けたメキシコ南部オアハカ州フチタンの先住民サポテカ族を訪ねた旅の記録と思索をたどる個展「Yoo Gunaa (ヨーグナー)」も People にて開催された。もともと日本のカルチャーが好きだったという彼は、新しい学びの場として毎年訪れたいと思わせるほど彼の感性を覚醒させたそう。同時代に『purple』のページを飾っていた写真家の鈴木親が聞き手となり、Mauricio と写真の関係について紐解く。

「ノーと言えるようになったら、すべてが変わってくる」 世界を飛び回るマウリシオ・ギジェンの旅と写真

個展「Yoo Gunaa」のレセプションの様子。PUGMENT (パグメント) の2020年春夏コレクション展示会と同時開催

― Mauricio が写真に興味を持ったのはいつ頃なんですか?

そこから本当に聞きたい? 録音用に iPhone3台は必要になると思うよ (笑)。10歳くらいの頃だったと思うけど、父が持っていたカメラを僕にくれたんです。105ミリのレンズを搭載した Nikomat (ニコマート ※ニコンが1960年代に発売したフィルム一眼レフカメラ) で、それがいかに素晴らしいレンズを持ったカメラなのか説明してくれたのを覚えています。当時はその価値も使い方もわからなくて、写真が撮れるようになるまで1年はかかったかな。家族アルバムの最初のページには、そのとき僕が撮った写真が残っています。

― 専門的な写真の勉強もしたのですか?

カメラを譲り受けてから数年後に、映画監督になりたいと思うようになりました。そのためにカメラを持ち歩いて撮影することから始めようという意識はハッキリと持っていましたね。メキシコには Alfonso Cuaron (アルフォンソ・キュアロン) が卒業した映画専門学校があったんだけど、僕は伝統的なメキシコの家庭に生まれて、メキシコで映画を勉強するという選択肢があると知らなくて。当時、メキシコで最初にできた現代美術館が始めた写真学校の短期コースに通っていました。でも知ったかぶりな講師が多くてとても退屈だったので、その学校を辞めてメキシコから逃げ出しました。

― 10代後半の頃?

18歳くらいだったかな。昨日、ちょうど大野一雄さんのインタビュー映像を観ていたんですが、彼は、芸術を教えることはできないと言っていて。出産のように自分の中で育んで外へ出て行くものだと。本当にその通りだと思います。メキシコの女性写真家の Iturbide Graciela (グラシエラ・イトゥルビデ) も、映画監督を目指して学校へ通ったけれど、途中で行くのをやめて、かの有名な Manuel Álvarez Bravo (マヌエル・アルバレス・ブラボ) のアシスタントをしていました。それがいかに重要であったかを、彼女はインタビューでよく話しています。何をすべきかを教わるのではなく、ただ彼を観察できることが学校だったと。僕は彼女のような体験をしたことがないから、それがうらやましくて。条件なしに受け入れてくれる、文化的に父親のように見守り続けてくれる人とは出会わなかったので。

― 僕もそういう人はいないかもしれません (笑)。最初にお金をもらった仕事は、どんな撮影だったんですか?

1991年にメキシコを出て、18歳で映画と写真の仕事をしようと思ってパリに行き、そこでいくつかの報酬をもらえる仕事をしました。ただ頼みやすかったんだと思います。パリに住むメキシコ人アーティストの家を撮影したり。あとは、ワクワクはしない仕事が多かったかな。新しくてまだ無名だったZARA (ザラ) のウィンドウを夜に撮る仕事とかね。

―  何のツテもなくパリへ?

その頃、父がメキシコで、ある写真家を助けていて。その人のカメラが税関検査で止められてしまったとき、それを父が解決したんですよね。当時のメキシコではよくあることだったんですけど。それで、その写真家が「もしあなたの息子さんがパリに来ることがあったら、連絡をください」と言ってくれたんです。それが、Mario Testino (マリオ・テスティーノ) でした。3回ほど彼のアシスタントをしたんですけど、僕は世界一最悪なアシスタントでしたね (笑)。当たり前のように遅刻して、早退して。僕は甘やかされた子どもだったので、もちろんすぐクビになりました (笑)。Mario は今となってはいい友達です。

個展「Yoo Gunaa」のメインイメージとして使われた写真。「バハレケ」と呼ばれるメキシコの先住民サポテカ族の絵

― Wolfgang Tillmans (ヴォルフガング・ティルマンス) のアシスタントもしていたんですよね。

Mario Testino にクビになった数年後に Tillmans のアシスタントに就きました。その頃にはだいぶマシな人間になっていたので、今度はクビにはなりませんでした。でもフルタイムで誰かのアシスタントをしたことはないんです。

― Mario にクビにされて、Tillmans に出会うまではどうしていたのですか?

もうそれは辛かったですよ。Mario の撮影現場は、何もかもが素晴らしかったから。いい音楽が流れていて、ケータリングも素晴らしいし、18歳の美しいペルシャ人のモデルもいるし。映画も芸術も全てがそこにはあって「これこそが人生だ!」と僕は勘違いしてしまったんですよね。だから、気づいたときにはクビになっていて、それっきり。Mario にハシゴを外された後は、パリの雑誌『ELLE』専用の、酷い労働環境のスタジオに就職させられたんです。辛かったですが、パリ郊外にあるそのスタジオへ通って、午前6時から午前1時まで働いた半年間は、エゴイスティックな僕にとってとてもいい経験となった。そうするうちに、パリで仕事をやっていくのは簡単ではないことがわかった。ほとんどの世界では、仕事をするには、基本的にあなたが何者であるか知られている必要があるじゃないですか。あなたが誰とつながっていて、何人のフォロワーがいるかは関係なく、良し悪しを判断する能力を持っている人もいるはいるけれど。悲しいことだけど、その頃でさえ、いい作品を作っていても、誰も興味を持ってくれなかった。僕はフランスの人に興味を持ってもらうように、パリを出て、パリ以外で仕事をし始めました。でも、それは時間の無駄のような気がしてきて、学校に戻ることに決めたんです。

― それで美大へ?

はい。École des Beaux-Arts (エコール・デ・ボザール) に試しに行ってみたんですが、フランス語がほとんど話せないメキシコ人の僕には向いてなくて。それで、奨学金をもらって、パリに分校があるニューヨークの Parsons School of Design へ行くことにしました。Parsons が興味深かったのは、パリで入学して、ニューヨークで卒業ができること。あと、Parsons といえば裕福な家の出じゃないと通えない大学として知られていましたが、その正反対ともいえる、当時アメリカで唯一無料で通えた私立大学の Cooper Union (クーパー・ユニオン) との交換プログラムがあったんです。Cooper Unionには実力で選ばれた学費免除の人たちがいて、その後の友人となる人たちとそこで出会えたことは、僕にとってとても重要な出来事でしたね。写真家の Chris Moore (クリス・モア) もそのうちのひとりだし、Susan Cianciolo (スーザン・チャンチオロ) ともその頃に会いました。

― そうだったんですね。

僕にとっての Parsons は、ニューヨークというよりは、とてもアメリカ的なものでした。パリの分校の先生たちはみんなアルコール依存症で、アメリカの中のヨーロッパ的というか、信用と公平性を重視していて、とても堅苦しい感じでした。Cooper Unionの先生たちはその対極でした。生徒もすごく自由で、誰もが天才でした。クラス全員が1時間遅刻しても、先生は文句を言わなかったし、映画を見て公園でただ遊んでいただけでした。最後の年に作品を発表するのですが、みんな傲慢だから、ちゃんと作品を出す人はあまりいないんです。僕は大学のすべての機材を使って映画を作ったので、先生に「ちゃんと仕事をした人がここにいます」と言われたくらい (笑)。彼らは自分がどう評価されるかはどうでもいいし、仕事に戻る気もないという態度もよかった。全く異なる社会をどちらも見ることができたのはよかったですね。

― それが、ちょうど『purple』で仕事を始めた頃ですよね?

そうです。僕は、1994年から97年までニューヨークにいたんですが、なんとなく美学が合ったんだと思います。ローワー・イーストサイドのニューヨーク的なビジョンが『purple』にはあったというか。ニューヨークに来てからは、パリに戻る旅が今まで以上に楽しくなっていて、惰性でずっとパリにいられると思ったくらいでした。でも、快適であることってちょっと危険でもあって。現実逃避しているだけだったりするので。ただ、僕はパリで結構成功した方だと思います。何人かの人が僕の作品をとても気に入ってくれたし。KOSTAS MURKUDIS (コスタス ムルクディス) やMartin Margiela (マルタン・マルジェラ) の初期の公共の顔となっていた人とか。

― Patrick Scallon (パトリック・スキャロン) ですよね。

そう! バスローブみたいな服を着ていた彼が、絶対行くべきだと教えてくれたギャラリーで初めて出会ったのが、Tillmansの写真だったりして。とにかく、パリへの旅で作品を見せて回ったことは意味がありました。

― それから、ファッション写真も撮るようになったんですか?

当時、意識的にファッションの撮影をしたのは、2回だけです。Susan Cianciolo の最初のコレクションを撮影しましたが、まだ彼女を誰も知らない頃です。それよりも前に、当時パリにいた田村千晶というデザイナーのコレクションも撮影しました。彼女はすごく繊細で優秀なデザイナーで、川久保玲さんにも評価されていました。

― その写真、『purple』で見た記憶があります。

そうかもしれない。彼女が、僕の撮った写真をいろんなところに見せて回ってくれたんですが、みんな洋服よりも写真の方を気に入ってくれたみたいで…… それ以降、彼女から連絡が来ることはなかったので、これは僕の見解でしかありませんが。でもこの撮影がきっかけで、『purple』や他の雑誌でたくさん仕事をすることになったのは確かです。

― 彼女は次の Comme des Garcons になるかもしれないと言われていましたもんね。90年代に彼女はあなたの写真で有名になったと僕は思っていました。Margiela のアシスタントだったLutz Huelle (ルッツ・ヒュエル) も知っていますか?

Tillmans を通して会ったことがあります。『purple』の食事会で一緒に過ごしたことも覚えています。Lutz と Alex がほぼ裸で猿みたいに木にぶら下がっている Tillmans の有名な写真「Lutz and Alex sitting in the trees」(1992)がありますが、あれは最高にTillmans 的だと思う。Tillmans は、触るものすべてを金に変えるギリシャ神話のミダス王みたいですよね。何を撮っても素晴らしく見えてしまう、信じられない目を持っている。特に、あの当時のささやかなイノセンスが素晴らしいと思う。

― Mauricioは一番いいときのTillmans のアシスタントをしていたと言えるんじゃないですか?

彼のアシスタントをしていたのは、1997年にロンドンに引っ越してからです。一番いいときだったかどうかはわからない、まだ彼の一番いいときは来てなかったかもしれないし (笑)。それ以前にもニューヨークで2、3回ファッション撮影を手伝いましたし、MoMAが開催している現代写真家の展示シリーズ「New Photography」に彼が参加したときもアシスタントをしました。Tillmans はユニフォームみたいに迷彩柄のパンツにチェックのシャツを着て、Dr.Martensのミリタリーブーツを履いている人だったんですが、その展示のオープニングのときだけは、Yohji Yamamoto を着ていたのを、すごく覚えています。

― ファッションとアートの世界、どちらもを行き来している感覚はあります?

いやいや。僕はできる限り飛び回り続けているだけ。ただ、ファッションの世界はすごくスピーディーで、しんどいじゃないですか。アートとファッション、どちらの方が大変かはわからないけど、僕はアートの世界に戻ったことで、逆にファッションのことをより明確に考えられるようになったのかもしれないと思うことがあります。アートの世界にいると、何かを求められているときだけ、周りから親切にしてもらえる。ある意味、変わった仕事の仕方ですよね。何も説明せずに仕事ができる部分はとても気に入っているけれど、同時にすごく怖いことでもあって。僕自身が尊敬してやまないのは、商業的な仕事をするために苦しんできた人たちだから。例えば Corinne Day (コリンヌ・デイ) の師匠でもあり、絶大な影響力を持つ Nigel Shafran (ナイジェル・シャフラン) は有能な写真家ですが、彼は商業的な仕事をするのが大っ嫌いな人なんです。でも、彼が定期的に撮影しているUS版『VOGUE』はちょうどいいユーモアがあって、素晴らしい。僕にとって彼は、最高のコマーシャル写真を撮る人。たとえ彼自身がそれを嫌っていたとしてもね (笑)。僕がロンドンに住んでいたとき、お茶をするたびに、彼は「生活費を稼がなきゃ」と言っていた。僕は人生で一度もそういう風に考えたことがなくて、それが問題なんですよね。

― お金を稼ぐことは興味がないんですか?

お金を理由に仕事をやろうと思ったことはないですね。僕はファンタジーの中で生きているので、ビジネスマインドじゃないんです。どうやって生活ができているのか自分でもよくわからないんですが、あんまり気にしていません (笑)。ずっと飛び回っているから、生計を立てるのは実際のところ大変なんだけど、僕はそもそも苦労することが好きみたい。その状況が僕の目を飢えてさせてくれるから。

― Elein Fleiss (エレン・フライス) と働く人たちは、あまりお金のことを気にしてない人が多い気がします。

お金がありながらいい仕事をしている人たちは尊敬に値すると思うんです。なぜなら、お金があっても、何も面白いことをしていない人たちがたくさんいるから。僕が知りたいのは、実際はお金を持っているのに、貧しそうに見せかけながらアングラな仕事をしている反体制的風な人たちのこと。彼らはなぜそうしているのか。反体制的な感情は、お金に余裕がないから生まれるものだと思うし、ゲットーから来た子どもだからそうなるというわけではないですよね。今回東京で Elein と会って、お金の話をしました。彼女は収入がないことを心配していました。

― 確かに。僕は Elein が好むフォトグラファーは、ファッションの仕事は来ないけれど、ファッションの人に好まれる人だと思っているんです。

彼女はファションを楽しんでいるだけで、あんまり真剣に考えているって感じではないですよね。あなたが彼女にインタビューした記事を読んで、改めてそう思った。ただ言えるのは、僕自身は着飾ることが好きだし、洋服が大好き。今回の旅の予算の半分はカメラに、残りの半分は日本の美しい洋服に使っちゃうくらい。Elein も僕も当時はみんな、Nikon のヴィンテージな雰囲気で撮れる同じカメラを持っていましたよね。彼女の写真を正直いいとは思ってなかったんですよ。でも最近、彼女が始めたInstagram の写真は素晴らしくて、語りかけてくるものがある。もし彼女が新しい雑誌を出してくれたら最高ですよね。彼女にしかそれはできないと思うから。

― 『purple』はどんな存在でしたか?

こないだ六本木蔦屋でたくさんの雑誌を見ていて、美しい写真はどこにあるんだ?と思った。僕自身、もうどこを見ればいいのかわからなくなったのかもしれないけど。『purple』の影響力は驚くべきものだったし、今でも『purple』は紛れもない存在として残っているとは思います。でも、僕がかつて一緒に遊ぶことができたものと同じゲームは続いていないというか、それこそがあの雑誌の美しさだったと思う。あの瞬間のスナップショットを生み出すための絶大な才能を持っていた雑誌。最後のアバンギャルドだったのでは。

― コンセプトありきで写真を撮っている人もいますけど、Mauricio の場合は意図を感じさせずして、どこか設定しているようにも思える。曖昧なところを撮っているのか、それともあらかじめコンセプトを決めているんでしょうか。

これはとってもメキシコ人らしい回答になるけど「イエス」であり「ノー」です。メキシコでは「イエス」と言っても、「ノー」と誤解されるのでもっとタチが悪いか (笑)。コンセプトがある場合、理想を言えばその意図は気づかれない方がいい。その答えに行き着いた理由はというと…… ちょっと話は長くなりますが、ロンドンへ引っ越した後、僕は一度完全に壊れて迷走していたんです。学生の頃から『purple』『i-D』『Dazed & Confused』とかで仕事をしていて、雑誌がブームみたいに流行って、僕もトントン拍子にMAPというエージェンシーに所属することが決まって、『W magazine』でも仕事をすることになった。その時のフレッシュで自由な存在として、選出されたんです。ただ、あまりにも成功しすぎると、その魔法は買収され奪われてしまう。そして、地獄の入り口はあらゆるブランドとの仕事でした (笑)。人生の中ではかなり稼いだ時期でしたが、とにかく時間がなかった。それで、エージェンシーを辞めました。何もかも辞めてまた考える時間ができたけど、幸せではなかったかな。

― お金はあったけれど。

25歳でニューヨークとロンドンにどちらもアパートを持てるくらい。でもあっという間のことでした。ただ、すごく疲弊していたので、そこから潔く立ち去れたのは、正しい決断だったと思います。新しく何かを起こすためには、何かを欲しがることを止めなければならない。僕はずっとアーティストになりたかったし、Andrea Rosen Gallery (アンドレア ローゼン ギャラリー) で個展をしたかったけど、突然何もかも興味がなくなってしまったんです。クレイジーなファッション業界でどっぷり仕事をした3年間が終わると、『purple』からも離れてしまった。Elein と Olivier (Zahm /オリヴィエ・ザーム)、みんなが少しずつコントロールを失っていったとき、僕は最終的に「ノー」と言いました。「ノー」と言えるようになると、何をするか、何をしないかを決めることができるようになるから、すべてが変わってくる。それは今でもすごく重要な教訓であり続けています。

― 『purple』からも離れた後はどうしたのですか?

お金があったので、1年かけて自分の考えを少し整理して、いろんなことに挑戦してみました。メキシコから助成金を得て、修士号を取るためにロンドンの Royal College of Art (ロイヤル・カレッジ・オブ・アート) に通い始めました。そのとき思い始めたのが、考えることは良いこともあれば毒にもなるということ。だから、コンセプトを考えることはあまりしません。でも、今回の個展「Yoo Gunaa (ヨーグナー*サポテカ語で母胎を意味する)」では、自分自身のためにステートメントを書く必要があった。写真を解釈するためじゃなく、30年ぶりにメキシコに戻るという大きな事実とその状況について話すために。長い間、故郷から離れて生きていきたので、壮大な旅の話をすることはすごく面白いものでした。

―『purple』時代から今回の展示までが延長上にある。Mauricioの旅自体が写真なんですね。変わっていないというか。

その通りです。変わった旅でしたけどね。Tillmans が今でも忘れられないことを2つ教えてくれました。まず第一に、私がMAPに所属して不満を感じていたときに、「(不満に対して)何かすればいい。さもなければ文句は言うな」と言われました。これは、僕の人生で得た最高の教訓のひとつです。彼の言うことは正しいし、これでもう文句を言わなくていいんだと思った。もうひとつが、「人はピンのように止められない。止められたと思ったら君の負けだ」と。僕は勝つとか負けるというアイデアは信じていないけど、彼が言いたいことはわかる。なぜって、今日も人々は何者かになろうと、もがいているから。僕が何をしてるかなんて関係ない。哲学者かもしれないし、英語教師かもしれない。その方が面白いじゃないですか。僕は来年、大きな個展を母国のメキシコでやるのが楽しみなんです。帰国次第、それに向けて集中したいと思っています。

― なんだかんだ、ずっと働き続けているんですね。

それ、誰も指摘してくれないですが、そうなんです。僕はいつも働いている(笑)。今回、日本にいる間にも撮影の仕事をしました。僕って人間は全く計画性がなくて、完全に直感で生きてるなと思います。さっきの続きになるけど、Royal College of Art へ行ったあとは、アーティストとしてロンドンで3年くらいキャリアを積んだ後、 2012年にドイツのフランクフルトの Museum für Moderne Kunst (モダン・アート美術館) で個展を開けることになったんです。そのときに展示したのが、16mmフィルムの短編映画「Avenida Progreso」。それが色んな国際映画祭に出品されて、かなり評価を得たことをきっかけに、映画の世界に入ることになりました。今は、いくつか書籍を作るプロジェクトも進行しているんだけど、全部一度には取り組めない。僕は、仕上げることが苦手な人間だから (笑)。もう少しプラクティカルにならないといけないとは思っているんだけどね。

― 「Avenida Progreso」は観ました。美しい瞬間がありましたよね。長編映画にも取りかかるとか?

今まで短編映画を何本か撮ってきたので、いつかは長編を作りたいと思っています。ひとつ構想はあって、Tennessee Williams (テネシー・ウィリアムズ) が書いた『The Catastrophe of Success』という短編があるんですが、その文章に出くわしたとき、自分は一人じゃないんだと実感したんです。創造そして成功の悲劇について彼がメキシコで書いた短い文章なんですが、自分自身をアーティストに近いと考えている人は、人生を疑う瞬間が一度はあると思うんですよね。成功の絶頂期に彼が書いた文章は、僕自身にとってもすごく意味があった。脚本家を入れて長編映画にするか、自分の脚本で進めるかどうかを悩んでいます。