yoshihiko ueda
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「終わった後もそこに残る思いを見ていたい」上田義彦

yoshihiko ueda

photography: hiroki watanabe
interview & text: tomoko ogawa

Portraits/

広告写真の第一線で活躍するほか数多くのオリジナル作品を手がけ、見る側の記憶に残るイメージを生み出し続ける写真家 、上田義彦。変わりゆく風景を前に、自分が暮らした家がいつか解体されるかもしれないと喪失感を抱いた日、上田はある物語を書き始めたという。移り変わる時代への感情や、幼い頃の記憶を思い出して書き留めたものを土台に、15年の歳月を経て、脚本、撮影、編集まで自身で行い、ひとつの映画として完成させた。海を望む高台の一軒家に暮らす、ある家族の一年を描く『椿の庭』である。本作に流れる時間は、静けさと重なって、見ている私たちの記憶に優しく触れる。本作で映画監督デビューを果たした彼が語る、映像を撮るということ、そして記憶が宿る物を守っていくということ。

「終わった後もそこに残る思いを見ていたい」上田義彦

— 写真家である上田さんにとって、映像はどういう距離感で関わってきたものなのでしょうか。

僕は写真から始まりました。ただ広告の仕事をやっていく中で、27~28歳の頃だったと思います。突然、ムービーカメラを回すことになった。その初めての現場で今となっては笑える経験がありました。それまではなんとなくムービーも写真と同じだろうと思っていたところがあった。「上田さんのいつもの視点でムービーを撮ったら新鮮になるんじゃないか」という依頼を受けて、90秒の NTT の CM を引き受けた。ところが現場でフィルムがバーッと回り始めカメラをパンしていたら、ああこれはフィルムが動いていて途中で止められないんだなと。写真は1カットですが、ムービーの場合、「これはいい」と回し始めたら、「あれ、いつ止めればいいの?」となってしまった。これは僕がいつも一発勝負のつもりで何でも現場で決めるということが裏目に出てしまい、ちょっと待ったと。ムービーは時間が映るんだと。恐ろしいなと。

 

— 恐ろしいというのは?

つまり、1枚の写真と比べたときに、時間経過が映るということを改めて認識しておかないと困ったことになってしまうという。そこで、瞬間ではないこと、時間経過が映るんだということ。そういう、とてもシンプルな違いを実感したわけです (笑)。

 

— 写真は、「考えるより前に撮れ」と言いますしね。

そうですね。もっと極端に言えば、何かを感じたら「見る前に撮れ」というぐらいの意識。写真においては、それがすごく大事だと思っています。当然、写真でも事前にどこでどういうふうに撮りたいという考えはありますが、あくまでそれは抽象的なものです。実際にカメラをのぞいたら、「あ!」という瞬間にシャッターを切る。見えていることに対して、動物的に反射する。たった1枚のためにその瞬間を捉えられるかどうか、捕まえることができるかどうかということに集中する。

 

— 映画を撮影するときも、その姿勢は変わらないものでしたか?

演出があるので、フィルムを回し始めてから止めるまでの時間の長さは当然考えてはいるけれど、ある一定の時間のなかで欲しい一点を捕まえる作業、という意味では同じような気がします。

 

— 広告の世界でムービーカメラを回すようになった頃から、映画を撮りたいという思いはあったのでしょうか。

ぼんやりとはあったかもしれないですが、実際自分が撮るとは思っていなかった。大変そうだし、気軽に手は出せないなと(笑)。当時、あまり深く考えたことはなかったと思います。でも、自分が写真、映像に対して思うことは、今も昔もあまり違わない。歴史を振り返っても、映画を最初に撮った人は当時の写真家ですよね。やっぱり、フィルムに対して光を考えること、何をどう写したいかを考えることは、写真も映像も一緒です。フィルムという根本的なところでは違いは実はほとんどないんじゃないかと今も思っています。

 

— もともと区別して考えてはいず、延長線上に発生したんですね。

そう。尚且つ、こうでないといけないことって、この世の中に一切ないと思うんです。絵画にしても陶芸にしても彫刻にしても、正解なんてものはないというか。正解について考え始めたら、どんどん型通りになってゆくしかなくなる。そんなものは面白くもなんともないからと。そんなものはないんだと、一人の人間が何をしようが構わないと僕は考えていて。だから、写真を撮っていたら映画を撮ることになった、というのはすごく自然なことと思っています。

 

『椿の庭』予告

 

— もちろん取り組む姿勢に違いはないとは思うのですが、映像の場合、編集という作業が写真以上にダイレクトに作品に反映されますよね。

そうですね。同じ素材なのに編集によって全くガラリと変わってしまう。恐ろしいことですよね。同じシーンもどう編集するかによって違って見えてくる、そこで全て決まっちゃうところがあります。

 

— 今回、編集をしているなかで気づいたことはありましたか?

シーンのなかで感じている余韻。そのシーンが終わった後の余韻を大事にしたい。だからどうしてもシーンを少しでも長く伸ばしたいが、そうすると優に3時間を超えてしまう(笑)。作業しながらわかったのは、僕は人が台詞を言った後に、その人なりの結末があったとしたら、その後もその姿をずっと見ていたい、そこを撮りたいんだと。何かを語っている最中よりも語り終わった後の余韻を。語りかけられた相手が言葉を聞いた後にそこに残る思いというか、そんなものを見ていたい、見届ける必要を感じているんだなと。

 

— それは、写真でも一貫してある上田さんの視点のような気がします。

写真はある瞬間を切り取りますから、断片的に見えるかもしれないけど、その1枚の写真を見続けることができるのかということが重要な問題なのです。見る側がその写真の前から立ち去るまで、その時間は続く。どれくらい写真の強度があるのか。それは内在しているものを生け捕れているかどうかによる。ただ綺麗にうまく撮れているかではなくて、写真を見ている人が、その写真を見ることをやめるまでこの瞬間は続くんだと思わせる程、存在がぼってりと写っているか。長い時間見られることに耐えることができる強度のある写真、そんなものを撮ろうとしている。断片なのに全体を感じることができる、瞬間なのに永遠を感じさせる時間。それは見る側との関係性の中で生まれるものだと思います。そして、映画にも僕はそれを求めているんだなと思っています。物語の起承転結だけではなく、心に残ってしまうような瞬間、瞬間を映画に編み込みたい。

— 本作で、一軒家に暮らすのは、富司純子さん演じる祖母とシム・ウンギョンさん扮する孫娘で、よく訪ねてくるのは鈴木京香さん演じる長女ということから、三世代の女性の物語のようにも感じたのですが、物語を書くうえでそこは意識されていたのでしょうか。

女性の物語を書こうとは思ってはいなかった。結果的にそうなりましたが。

 

— 写真家になられたのもお姉さんの提案がきっかけとのことですし、人生において、女性たちに影響を受けているからこその女性の物語だったのかなと想像したんですが。

まさにそう、僕は女性にものすごく影響を受けている。運命はほとんど女性に握られているんだなと思うほどです。自分に強い影響を与えたのは、姉であったり、母であったり、祖母、妻、娘たちです。当然男性にも影響を受けた人はいますが、ある種敵対関係というか、戦わないといけない強い盾のような存在として、父親がいたり、兄がいたり、息子がいたりという気がします。女性に守られ、包まれている感覚。どうしても女性の影響なくしては自分のことは語れないなと思います。

 

 

— 人はいつかは死を迎えますし、家もいつかは壊れてなくなってしまいますけど、物があれば記憶として残りますよね。写真も一つのフィジカルな物として残ることを考えると、上田さんは記憶に対する思いが強いのかなとも思うのですが、物に執着する部分はありますか?

そうですね、ある場合もあります。特に子どもたちが小さな頃の物に対しては、そんな感じがあります。赤ちゃんの頃の洋服なんて、見ただけで記憶が全部蘇る。よちよち歩いている姿とか、低いテーブルに手をかけてチュパチュパやっている姿とかね。それを捨てるなんてできない。だから、そんな物がたくさんあって、困っているんです。もうこれだけはとっておきたいというものを大人になった本人に選ばせるか、目を瞑って誰かに捨ててもらうしかないですね(笑)。僕が選んだら、「これは捨ててもいいんじゃない?」っていう物であっても、「いやぁちょっと待って、ダメだな」となってしまう。整理にならなくて困った性質だなと思います。

 

— 忘れてしまうことをわかっているから、執着するというところはありますよね。

そう思います。僕はすっかり忘れてしまう。だから余計に危ないと思って捨てられない。映画のなかでも物を見ると思い出す瞬間を描きました。物を見ることによって忘れていた記憶がよみがえる、でも見なければ、余程の思い入れのある記憶以外は覚えていない。強烈だったりどこか不思議だったりという出来事は憶えていても、それ以外の日常の記憶なんて全く思い出せないものです。でも、それにまつわる物を見たら、一瞬でパッと蘇る。そういうものですよね。