ロジータ・ミッソーニと祝う、MISSONI 共同創業者タイの生誕100周年
Rosita Missoni
interview & text: Meoh Kawabe
イタリアのクチュール・ニットブランドの MISSONI (ミッソーニ)。その歴史は1953年、創業者のふたり Ottavio Missoni (オッタヴィオ・ミッソーニ) と Rosita Missoni (ロジータ・ミッソーニ) の結婚を機にゆっくりと動きはじめた。MISSONI は66年よりミラノファッションウィークに参加、現在はふたりの娘である Angela (アンジェラ) がクリエイティブ・ディレクターとなりブランドを引き継いでいる。そんなMISSONI一族にとって、2021年は創業者 Ottavio (2013年逝去) が生誕100周年を迎える記念すべき年である。
ロジータ・ミッソーニと祝う、MISSONI 共同創業者タイの生誕100周年
Portraits
“Tai (タイ)” のニックネームで知られた Ottavio は1948年、陸上競技の選手としてロンドン五輪に出場した。このときイタリア選手団のユニフォームのデザインも手がけ、さらに公私ともに生涯のパートナーとなるRosita ともここで初めて出会う。Tai の100歳のお祝いが、くしくもオリンピックイヤーと重なった今年、MISSONI一族が抱いている想いはきっと特別に違いない。
そんなアニバーサリーイヤーに、今年で 90歳を迎える Rosita と話をする機会を得た。Ottavio の妻として70年、ビジネスパートナーとして60年にわたる年月をともに歩んだ彼女に、その人生を回顧してもらった。Rosita は現在も、MISSONI グループの名誉会長兼 MISSONI HOME の現役クリエイティブディレクターとして活躍している。彼女の人生は今現在もとてもカラフルだ。糸1本1本に愛を込めた、まさに MISSONI のニットのように。
類まれな才能が育まれた幼少〜少女期
- Rosita さんの幼少期について教えてください。
私はヴァレーゼ県ゴラセッカで生まれました。幼少期を過ごした家の近くには、母方の祖父母であるトーラーニ家が設立したショール工場があり、両親のアンジェロとディアマンテもそこで働いていました。父は先見の明に優れた人で、絶妙なアイロニーを持つ人。母は縁の下の力持ちで、純粋なエネルギーに溢れている人でした。
- 工場が遊び場であり、インスピレーションを受ける場と伺いました。
工場ではクラフトやファッションを経験として学び、ファミリービジネスの成立ちを目の当たりにしながら育ちました。織布機や刺繍の巨大ミシンから、紡ぎ出される布の色彩に魅了されたのを今でも覚えています。初めて自分で染めたり刺繍をしたのは13歳のとき。その布でビスコース (レーヨン) のセーターを作り遊んだりしていました。外で活発に遊ぶより、山のように積まれた布の中で、ガーメントをつくったりして過ごすのが好きでした。
ラッキーナンバー “7”に導かれて
- Tai (Ottavio) さんとのなれそめを教えてください。
Tai がロンドン五輪に出場を決めた頃、私はイタリアの学生で、フランス語と英語を学んでいました。優秀な学業成績をおさめた生徒は、フランスかイギリスに半年留学できるシステムがあったんです。それで私は寮生活を送りながら、イギリスのハンプストンで過ごす機会に恵まれました。
ロンドン五輪の最初の競技が行われるときに、たまたま観戦に行けることになったんです。会場に到着し、私は出口の横のシートに座りました。その出口は、更衣室から近いところにあって、選手の通り道になっていました。
イタリア代表のハンマー投げの女性選手や、400mハードルの男性選手が通りました。その中で「331」のゼッケンをつけていたイタリアの男性選手が妙に気になったわけです。
なぜだと思いますか。私の頭の中で、パッとひらめいたのは「3+3+1=7」の数字でした。「7」は、ショール工場を経営していた祖父母が1877年生まれということで、家族内でとても大事にしていた数字なんです。だからあの瞬間「この選手が絶対に勝つ!」と確信しました。そしてその選手は、本当に勝ったわけです。
- その「331」の選手こそが Tai さんであり、運命の人になったというわけですね。それから2人の関係はどのように進展したのでしょう。
しばらくして、イギリス留学のカリキュラムが終盤に差し掛かった頃、家族が私に電話をかけてきました。「オリンピックが閉会した次の日の日曜に、友人家族があなたを迎えに行くから、一緒にイタリアに帰国するのよ」というんです。全てのカリキュラムを終えてその当日、車で駅に向かう途中、ピカデリーに立ち寄りました。「なぜ?」と友人家族に聞くと「あと2人、アスリートを拾わなきゃ」というんです。キューピッドが装飾された柱の真下だったのを覚えています、そこで私たちは そのアスリートを待っていると、現われたのです、あの「331」の彼が。彼は27歳、私は17歳になる年でした。キューピットが私たちを引き合わせてくれたのでしょうか、私は今でもキューピッドのネックレスを肌身離さず身につけています。
- そしてイタリアまでの帰路を共になさった。
電車の中でお話しするうち、彼のカリスマ性にすっかり魅了されました。特にユーモアのセンスがとてもよくて、これはずっとリスペクトし続けた才能のひとつです。Tai はいかなるときも、難局に直面していたときでさえ、ユーモアを武器に乗り切ったと思います。戦時中、彼はアフリカに出征し、イギリス人の捕虜として4年の歳月を過ごしたのですが、その話をする際も、“Guest of His Britannic Majesty” (英国陛下のお客様) と表現していましたね。とてもユニークでウィットに富んだ男性でした。
- 帰国後はどうなったのでしょう。
イタリアに無事帰国し、高校卒業も間近に迫ったある日、祝いごとが好きな家族がパーティを企画してくれました。「17歳のバースデーと卒業を盛大にお祝いしよう」と。そのときに、勇気を出して Taiにも声をかけたところ、彼は来てくれました。そこからお互いをもっと知るために「スーベニアブック」(交換日記のようなもの) を始めました。たくさんスケッチを描いてくれました。1951年に婚約に至りました。
MISSONIの構築が始まる
- MISSONI はどのようにして始まりましたか?
1953年に私たちはゴラゼッカで結婚し、ロンバルディア州のガッララーテに移り住みました。その土地で私たちは小さなニット工房「Maglificio Jolly」を設立しました。これが MISSONI のはじまりです。
Tai はそのときすでに、ファッションビジネスのスタートアップのノウハウを持っていました。というのも彼は、6年前からトリエステに小さなニット会社を持っていて、友人でありチームメイトの Giorgio Oberweger (ジョルジオ・オーベルヴェガー) と一緒に、ロンドン五輪の際にイタリアのチームが着用するウールのトラックスーツを製作したりしていました。
当時彼らが編み出したデザインは、ジッパーがいろんなところについている、とても斬新でモダンなデザインでした。ウールのトラックスーツをつくり、マーケットに強い需要を感じました。一方の私は、結婚前に家業のショール工場で働いたこともあり、カッティングやパターン、ガーメントなど素材に精通していました。お互いの技術やキャリアを持ち寄って、小さなニット会社を引き継ぐかたちで、私たちの工房は始まりました。
- 成長への転機はありましたか?
新婚当初、FIAT 500 (チンクエチェント) というカブリオレを愛用していたのですが、手狭に感じはじめて、新しい車を買おうと計画していたんです。そのためのお金を貯めていたのですが、家族に頼まれて、車ではなくミシンを買うことになったことがありました。でもそのミシンに Tai はものすごく興味を抱きました。それで工房用にも一台買い足すことになりました。
こうして、もともとあったニットマシンと新たなニットマシンの2台が自宅の地下に揃い、工房はスタートしました。まず手はじめに得意のトラックスーツをつくりはじめました。その後、ニットのセーターにも着手し、1958年にミラノのデパート、La Rinascente (リナシェンテ) のショーウィンドウのために2体のドレスをつくるまでになりました。マルチカラーのストライプドレスでした。そのドレスに、初めてアイコニックな「MISSONI」のオレンジタグを縫い付けました。ドレスは評判を呼び、500体の製作に至りました。
絆を育むホームベース
- パートナーとして同じ仕事をしながら、同時に良い夫婦関係を長く続けるための秘訣を教えてください。
Tai はスポーツや、スケッチング、ユーモアなど様々な天賦の才を持って生まれた人でした、特に色彩感覚は天才そのものでした。私には幼少期から培ったファッションの技術が備わっていました。その異なる二つの要素が MISSONI を生み出したわけです。Tai はいつも「僕はクリエイターで、 Rosita はそのクリエイターを“クリエイト”した」といってくれました。
- お互いの才能を尊敬し、感謝しあえる関係だったのですね。
Tai のすばらしい才能のひとつにガーデニングがあり、共通の趣味となりました。これもずっと仲良く過ごせた秘訣かもしれませんね。故郷のゴラゼッカからガッララーテに移り住み、2つ目のアパートで、24平米のテラスから始まったガーデニングの趣味は、今住んでいるスミラーゴで、かなり拡張したものになりました。とても広大な土地に、多種多様な木や花やが年中咲き乱れています。自分たちの鶏小屋や畑があり、卵や野菜を収穫して、キッチンで料理をしているとき「豊か」だと感じます。夫と共に愛しんだ時間です。
職住を融合して暮らすことは Taiの希望でした。ここに家と工場が隣接してあります。暮らし、働き、3人の子を育てました。ここにきて40年以上、一度も退屈だと思ったことはありません。冠雪したモンテ・ローザの山脈が見えるからです。タイが1965年のとある日に「君が好きだと思う場所に連れて行くよ」といって、ここスミラーゴに連れてきてくれました。その日は素晴らしく晴れた日で、一瞬でこの景色に恋をしました。家族も近くで暮らしていて、一族が集まる場所になっています。この場所でこれからも家族の絆を紡いでいきます。
- ガーデニングやインテリア、レシピ本などライフスタイルに強いこだわりを持っていいらっしゃいます。Rositaさんにとって「くらし」とはなんでしょう。日々どんなインスピレーションを受けていますか。
Tai と私は徐々に会社の主導権を子供たちに譲り始めました。1998年にデザインの責任を娘の Angela (アンジェラ) に完全移譲しました。それからしばらく、私は彼女たちをサポートするために孫の世話をする「おばあちゃん」として日々を過ごしてみましたが、天職ではなかったようです (笑)
そこから、職場復帰を考えるようになりました。MISSONI HOMEというホームファッションの世界に本格参入することにしました。この事業のルーツは1981年に家業のショール工場と家具生地を作ったことに端を発しています。1990年後半頃、ライフスタイルもファッションの一部だということに気がついて、本格的に立ち上げたのです。今年で21年を迎えます。「週末はこういう場所で過ごしたい」と夫と二人で語り合っていた、私たちの世界観を反映しています。
- Rosita さんの生き様に、憧れる女性は多いと思います。
私の人生はとにかく幸運の連続でした。最高のパートナーに恵まれ、一度も情熱を失うことのない仕事を手にしました。人生は悦びに満ちていて、現在は5人のひ孫がいます。人生最高の悦びは、娘の Angela が産まれた時でした。
2人の男の子を授かって、3人目を妊娠した時、今ほど技術は発展していませんでしたから、性別なんてわからないわけです、みんなは「3人目も男の子じゃない?」なんて予想していましたが、女の子が生まれてきた時、文字通り “跳んで” 大喜びしました。その後、Angela はさまざまな悦びをもたらす娘へと成長してくれました。そんなすばらしい人生に私は感謝しています。