「時代の事象をくぐりながら、撮り続けること」篠山紀信インタビュー
kishin shinoyama
photography & interview: chikashi suzuki
text: tomoko ogawa
これまで時代の事象を追いかけ、“激写”し続けてきたカメラマンの篠山紀信さん。現在、彼の個展「新・晴れた日 篠山紀信」が東京写真美術館(以下、都写美)で開催中。1974年に『アサヒグラフ』誌で連載され、後に写真集にまとめられた『晴れた日』(平凡社)の構造をベースに、二部構成で60年にわたる活動で生み出された116作品が展覧されている。2004年、東京のオペラシティ・ ギャラリーで開催された「ヴォルフガング・ティルマンス展」で遭遇して以来、親交があるというフォトグラファーの鈴木親さんを聞き手に迎え、撮る対象も手法も大胆なまでにばらばらな写真を一貫して撮り続けてきた、篠山紀信写真の力強さについて語ってもらった。
「時代の事象をくぐりながら、撮り続けること」篠山紀信インタビュー
Portraits
鈴木親(以下、鈴木):まさか篠山先生の写真が都写美で見られるとは!今年一番の驚きです。
篠山紀信(以下、篠山):親さんから最初に何を言われたかというと、「なんでこんなところで展覧会をやるんですか?」でしたからね。
鈴木:だってびっくりしたんですもん(笑)。先生がここでやるのか!と。絶対、都写美では展示されることはないのかなと勝手に思っていたので。
篠山:私もそう思います。本当にすみません、やっちゃって。本当に魔がさしたとしか言いようがありません。私がこんな立派なところでなんで展覧会ができるのかって。
鈴木:一般的に大多数の人が写真を見るときは、だいたい誰が撮ったかよりも、何が、誰が、どこが写っているのかのほうが重要視されますが、篠山先生の写真は後者にフォーカスしている写真じゃないですか。でも、都写美で展示するとなると、誰が撮ったのかのほうが重要視されてしまう。今までいわゆるみんなが考える写真家というステレオタイプをすり抜けて、一番ドメジャーなところをやってこられていたから。
篠山:これまで僕のことを認めて、「篠山ってちょっといいかも」と思っている人は、こういう展覧会をやったことに対して失望するかもね。「ついにあいつもか!」みたいな。
鈴木:いやいや、逆ですよ。写真家になりたい人はこういう場所で展示することを目指すもので。先生はすごい写真家なのに、これまでそこをすり抜けてきた唯一の人ですから。
篠山:そうね。この展覧会が相当駄目だったらいいんですけど、そこそこちゃんとしちゃっているんですよね。だから、私がそこに関して上手く答えるのは難しいですよ。だけど、もし写真を始めた頃にこんなものがボンと建ってさ、ここで展覧会をやらなきゃ写真家とは認められないというような権威的な存在だったとしたら、反抗したとは思う、きっとね。でも、そういう権威的ものをここからはあんまり感じないけどねぇ。それほど目の敵にするほど、大したもんじゃありませんよ。ここを敵として、「こんなところでやるとは!」と思うあなたもちょっと小さいね、心持ちがね。
鈴木:はい(笑)。
篠山:皮肉じゃなくて、僕は今回都写美で展示させてもらえたことをとても光栄に思っているんです。やっぱり、60年間の記録を初めから本や図録としてパラパラと並べても見る方は訳がわからないですから。配布している『作品解説』を僕自身が書いているのも、写真と一緒に見てもらえたら、少しはわかってもらえるんじゃないかなという思いからなので。
鈴木:今回、「新・晴れた日 篠山紀信」で116点を全部見せてもらって思ったことが、一般的に写真家は美術のように言語化されて、評論されることが基本にあるにも関わらず、先生の写真は言語化しづらいというのがすごいなと。しっかりプリントして、額縁に入れて写真を絵画に模していくとか、写真を文学化していく人もいて、そうすると批評はすごくしやすくなる。でも先生の写真は、写真でしかない。それを視覚化しているからこそ、言葉にできないんだと見終わった後に思ったんです。普通だったらすぐに感想が出るところ、最初に被写体の強さみたいなものがバンと来るので、これを言ったら先生に怒られるかもしれないとも思うんですけど、非写真的なところが全くないんですよね。でも、あれは先生にしか撮れない作品だなぁと。
篠山:(拍手)。
鈴木:(笑)。怒ってません?リアクションがないから怒ってるのかと(笑)。
篠山:いやいや怒ってないよ。
鈴木:たとえば、Wolfgang Tillmans (ヴォルフガング・ティルマンス) は、写真という手法を使って現代美術をやっている。一方で、Richard Avedon (リチャード・アヴェドン) は絵画に近づけていくような写真家ですよね。でも先生は展示でも、額もつけずにいつもパネルにしちゃう。
篠山:額装する意味が、ちょっとよくわかんないんだよね。
鈴木:グラフィックというよりは写真。すごく安い言い方ですが、先生の写真を見ると、写真=カメラ、という感じがあって。過去の批評を読んでみても、先生を一言で言い表す言葉がひとつも出てないので、言語化がほぼほぼ無理な写真家なんだろうなと。
篠山:これ以上のことを誰が言うんですか!その通りです。
鈴木:全体を通して、発展してきたカメラの歴史も見えてきますよね。大抵の写真家は、自分のシグネチャーとして同じカメラだったり、機材だったり、プリントだったり、何かしらの手法に執着するじゃないですか。先生はその執着もなく、本当にカメラと人が一体になったみたいに新しいカメラが出たらさっとそれを使って、全部使いこなす。いろんな外国人の写真家と会ったりしてきましたけど、先生みたいなタイプの写真家は一人もいないんですよね。唯一無二というか。
篠山:それはそうですよ、とは私には言えないですけどね(笑)。
鈴木:『晴れた日』(1975)も、事象だったり人物を1冊の写真集の中で並列化していて、そこには Richard Avedon がやっていた白バッグで人を並列化していくという手法が入っていたり、連続する船の写真というページ構成には、Jonas Mekas (ジョナス・メカス) の連続性といった手法が出てきます。ひとつの写真に対してひとつのコンセプトだったら批評しやすいけど、先生の写真はいろんな要素が全部入っている。そこはあえてやってるんですか?
篠山:いやー、あえてなんかやってないよ。僕はカメラを使っていろいろやってるだけ。親さんみたいに写真を知的に分析し、よく知ってる人が見ると論理的になっていくんだろうけど、僕は割とそういうふうにはやらないんです。感覚で、勘でやっちゃうんですよね。だからこの展示も、5枚くらいの作品を見終わると、次に全然違うものがあって、また違うものが来て、何十人かのカメラマンのグループ展だと言ってもおかしくないような見え方しちゃうわけです。でも、本当にこれは僕が全部撮ってるんですよね。
鈴木:それがヤバいんですよね、普通に考えると。
篠山:ヤバいって言ったって私はこれしかできないんだから。しょうがないんだよねぇ。
鈴木:コマーシャルのフォトグラファーであれば、クライアントの希望でカメラを変えたり撮り方を変えるのは当たり前ですが、先生の場合は主体的に撮りに行きながらも、被写体に合わせてカメラや撮り方を臨機応変に変えていきますよね。だから、自分を反映するように撮るような作家のエゴが本当に見えない。最初からそのスタンスなんですか?
篠山:最初からだよね。60年間これ。
鈴木:恐ろしいですよ。普通、必ずエゴが出るものじゃないですか。それをストックして自己確認するみたいなところがあるはずなのに。
篠山:それには理由があります。僕はお寺の次男坊だったでしょう。本当はお寺を継ぎたかった。これからは駄目でしょうけど、当時はお寺が一番楽に思えたんです。でも次男坊だと継げないから、何かしなきゃいけない。
鈴木:それで写真と。
篠山:60年代の初めは、写真という仕事は本当にキラキラと輝いて見えていたものなんです。カメラだって、ローライフレックスがあってライカがあって、みんなドイツのものですよ。写真雑誌も今より全然数があった。ということはカメラメーカーが自分のカメラを売るために宣伝する本を作らなきゃいけない。その本を作るということはその本に見本の写真を撮ってくれる先生がいなくちゃいけない。そして先生に騙される若者がいなきゃいけない。業界全体がすごくキラキラしてたんです。
鈴木:この写真家が好きでという入口ではなかったんですか?
篠山:全然。商売です。
鈴木:商売でやってる写真家のほうが芸術家風情を出すような気がしますし、やっぱり先生はそう言ってるだけで、商売だけなんてことはないですよ。
篠山:そういう人は駄目なカメラマンだね、確信犯ですからね。僕なんかは基本、芸術に興味があったわけでもなく、「仕事として俺は写真をやるんだ!」とハッキリ言ってましたから。気持ちはあったけれど、僕は写真部にいたわけでもないし、写真のことなんて全然知らない。だからちゃんと教えてくれるところがないと駄目でしょう。そんなときに新聞広告に、小さい枠だったんだけど、写真を教える学校、日本大学芸術学部写真学科の存在を知って。入ったらとんでもない学校でさ!ちゃんとした大学なんだよね。
鈴木:というと?
篠山:僕はどういうカメラを使うとどう撮れるのか、暗室でどう薬を調合するとどうなるか、引き伸ばし機でどうやったらプリントを焼けるのかとか具体的なことが知りたかったわけ。そのためには行くべきじゃない立派な学校だったんです。日大は4年制でしょう。だから、「第二外国語はドイツ語ですか? フランス語ですか?」とか聞かれる。もっととんでもないのは、1年生は体育の時間があって、跳び箱を飛べと言われる。「跳び箱で突き指したらどの指でシャッターを押すんだ? コノヤロウ」ってなりますよ。それで、技術を学ぶために半年後に2年で卒業する専門学校の夜の部に通うんです。
鈴木:東京綜合写真専門学校へ。
篠山:そう。はじめはフォトスクールという名前だったんです。そこは、「俺は写真をやってやるんだ」という真剣な志のもとに入ってくる人ばかりだから、海外から来た人もいたし、けっこう面白い人がたくさんいたね。それこそ「写真がアートだ!」とか難しいことを教えるために、奈良原一高さんや細江英公さんが先生として3カ月に一度くらい来ていた。『コマーシャル・フォト』や『日本カメラ』の編集をやっている先生が彼らを呼ぶんです。写真家は雑誌に出たいから、編集の先生に胡麻を擦るためにやってくるわけです。そこで、当時の『コマーシャル・フォト』の編集長だった玉田顕一郎さんに、「おい、お前学校でいろいろやってる作品があるだろ。持ってこい!」と言われて、おそるおそる持っていくと、「いいじゃないか。これ見開き4万円で使ってやる!」と夢みたいなことを言うんですよ。少年は心を震わせて騙されますよ。このすごい人についていけば何とかなると。でも、要するにあの頃はみんなガツガツしてたのね。ここが重要なところなんです。みんな気持ちが、良く言えばワクワクしてた。その時にライトパブリシティからカメラマンの求人募集があったんです。
鈴木:日大の同級生でもある沢渡朔さんが、「篠山さんは学生のときから突っ走っててすごかった」とおっしゃってました。
篠山:唯一、あの人だけはすごいと思う。写真館の息子さんだったり、家を継ぐと言いたいためだけの人がほとんどでしたから、写真を覚えなきゃいけない!というガツガツした人は少ないんですよ。沢渡さんはというと、日大二高出身なので受験勉強をしないで入ったでしょう。だけど写真が好きで、本当に上手かった。僕が「写真を見せてくれますか?」と言ったら、「いいですよ」とバッグから『カメラ毎日』を取り出して、開いたページに、高校生の部・特選とありましたから。しかも見開きで。当時、ものすごく人気のアイドル歌手だったザ・ピーナッツが、日劇の舞台の前に立っているのをアップで撮っていて、ちょっとブレてるんです。僕みたいに初めて写真を見る人でも、この人は上手いなとわかったし、すぐこの人とは友達になろうと思った。
鈴木:へぇ。
篠山:沢渡さんは、本来ドキュメンタリーの人なんです。僕らが大学生の頃は、60年安保闘争の時代で、日本は政治の季節でもあった。国会の前に反対運動のデモ隊が集まっている様子を、毎日彼はカメラを持って真剣に撮りに行ってたんです。僕も一緒に連れて行ってもらって撮ってみたけど、あんまり面白くないよね。僕は仕事として撮るわけだから、そういうのは全く関係ない。でも、そのときの写真(「日米安保条約反対デモ 1960」)が、会場入って最初の方に2枚展示されています。だから、その写真があるのは沢渡さんのせい、じゃなくておかげなんです。それとフォトスクールとかいろんなことのおかげで、僕は「坊さんにはなれないけど、何になる? カメラマンをやるしかない!」という真剣な気持ちでしたから。「アートをやりたい」とか「芸術だ!」とか言ってるのはチョロいんだよ。
鈴木:本当に先生はそこを超えてますもんね。しみじみ思うんですけど、作品に向ける情熱からは金儲けだけとは思えませんよ(笑)。
篠山:金儲けのためですよ。だって、究極の目的は何ですかと言われたら、お金じゃないですか。お金がないと4×5(シノゴ)を買うことも自分の家に暗室を作ったりもできない。それで、技術を覚えてアルバイトをやりました。展示入口すぐのところにアイロンの写真(「アド/バルーン 1966」)あるでしょう。隣には、立川ユリが眼鏡をかけた写真(「Yuri 1968」)がある。あの2枚はコマーシャル写真としてもすごく上手いじゃないですか。学生時代から、ああいうものを俺は撮るんだと勉強してたから、上手かったんですよ。でも、撮るためには、何十万もするリンホフ・スーパー・テヒニカも、ハッセルブラードの6×6(ロクロク)の一眼レフも買わないといけない。「お金儲けだ」と言うとみなさん笑うけど、そうやって稼いだ金で僕はカメラを買い、使いこなし、勉強していたんです。じゃないと仕事が来ないから。いわゆる写真家とは志がちょっと違うかもしれないけど、写真というのをちゃんと真面目に、真剣にやってたんですよ。なんかすいませんね(笑)。まぁ、遊びでやってるんじゃないぞという考えではいました。
鈴木:他の人は、まずお金とは言いませんからね。
篠山:言うのが恥ずかしいんですよ。でも、お金がないとあのとき写真はできなかった。当時はお金が本当にまわって、アルバイトをすれば本当にお金が入ってきたましたから。展示の最初に飾ってある写真(「天井座敷一座 1967」)は、天井桟敷の旗を持ってる人たちが海にいる写真です。あれは、新宿二丁目に「ナジャ」というバーがあって、そこに行くと四谷シモンや若いカメラマン崩れやアート崩れの人、天井桟敷の役者とかがいた。澁澤龍彦さんや三島由紀夫さんもたまにいて、編集者なんかも集まってガンガンやってる場所があったんです。そこで寺山修司さんに「キミ、写真やってるんでしょ。安いんでしょ。ちょっとうちの撮ってくれよ」と言われて、撮りに行ったのがあの写真。唐十郎や丸山明宏、今は美輪明宏だけど、ああいう人たちと普通に夜遊びに行くと友達になれた。そういうふうに、いろんなことができるエネルギーが渦巻いてたの。日本は今より全然貧しい国だったけど、本当に元気だったし、面白かった。みんながそういうふうにワクワクしながらやってた。いい時代ではありましたよね。
鈴木:それが、先生が今やっていることにつながっているという。
篠山:あれは学生時代の僕が撮った、本当に一番初めの仕事です。隣のデモの写真はさっき話した沢渡さんに連れて行ってもらった写真。安保闘争で樺美智子さんが亡くなった時期。でも今のミャンマーの抗議デモのように、何百人もの人が拘束されるような深刻な雰囲気はなかったね。でも、東大の紛争も大変だったけどね。
鈴木:そこに入っていこうとは思わずに、撮るだけなんですもんね。
篠山:うん、とんでもないよ!
鈴木:Josef Koudelka (ジョセフ・クーデルカ) もジプシーに入って撮っているけど、でも本当に入り込んではない客観性がある。みんなクーデルカがジプシーの中に入り込んでると勘違いしているんだけど、先生のように一歩引いているのが見えるんです。
篠山:そうですよ。
鈴木:日本は写真道みたいなものにとらわれすぎて、それがお金は大事と言いづらくさせていますよね。ヨーロッパだと、道のようなものを追求しないから、お金の部分は本当にちゃんとドライ。日本では、先生のようなやり方は道から逸れていると思う人が多いけれど、実際は違っていて、冷静なだけという。
篠山:冷静でないと駄目。僕が道とかまやかしだと思うのは、実家がお寺だからです。ああいうことはやらずに、やっぱり自分で働いて稼いだほうがいい。地球の裏側のリオのカーニバルに行った写真(「オレレ、オララ 1971」)なんか見ても、みんなが夢中で踊ってる写真を撮るときに、「おまえどけ」とか「こっち来い」なんて指示は絶対できないじゃない。つまり、写真は全部受動的でいいんだと。相手からいただければいいんだと学んだわけです。若い頃は、世界は俺のためになんでもやれるんだと勘違いしちゃうでしょう。でも、写真を撮っていたらみんながそんなことは無理だと教えてくれたんですよ。
鈴木:たぶん今の子が今の話だけを聞いたら、カメラを押せば撮れるというふうに解釈してしまうかもしれないけど、先生は死ぬほどちゃんといろんなものを見て勉強して、吸収していますよね。簡単に言うと、写真以外の世の中のこともきちんと見てらっしゃいますよね。
篠山:そう。でもそれは写真のためですよ。写真をやるためにそれはちゃんと見ておかなきゃ。
鈴木:僕は Tillmans が初来日したときに初めて先生にお会いしたんですけど、「Tillmans?どんな奴だ、撮らせろ」と言って来たという伝説を聞いて、すごいなと驚いて。大先生という立場になったら、全然異なるアプローチをしている写真家を知っても、自分の道があるからとたぶん見ないフリをしたりするものだと思うんです。でも、篠山先生は、そう言って入ってきて、印画紙だけを使った作品「Freischwimmer」シリーズの前で8×10(エイトバイテン)でバンと撮っていて。本当にヤバイ人だなと。
篠山:まぁチョロいですよ。でも僕は、みんながちょっと、「えぇ……」という反応になることも半分わかったうえで、お金に特化して話したわけで。それ以上に、写真は簡単に撮れるようで本当に難しいんですよ。だから、それを自分のものにするには、やっぱり失敗も含めて、相当なトレーニングと覚悟が要りましたね。いろんなことをやりました。
鈴木:篠山さんがエイトバイテンを三台同時に使ったシリーズも、変な話、Andreas Gursky (アンドレアス・グルスキー) と手法は一緒じゃないですか。
篠山:そうそうそう。
鈴木:普通のフォトグラファーだったら、ずっとこだわってそのやりっぱなしでいくじゃないですか(笑)。
篠山:それをやらないと Andreas Gursky になれないからね。僕はくだらないと思ってるから、Gursky をやったら、「次、誰かいないの?」って。
鈴木:最初に戻っちゃいますけど、言語化する人は、写真を現代美術にすることで高尚なものにしていきますが、写真は高尚になればなるほど本質から外れていくから、先生はただ写真を追求しているんだなと。
篠山:普通は60年も続けないですよ、こんな馬鹿なこと。それはね、今僕がお金と執拗に言ったのは、初めはそれくらい貪欲にやっていかなければできなかったことは事実だし、写真をやっている知り合いもいなくて、何もいないときには、沢渡さんなら沢渡さんの最高の部分を僕は欲しいと思ったし、あるところの人からは本当に吸収してガッと持っていくことはありました。時代、時代によって流行が出てくる度に、僕は「何だよこれ流行りかよ」と言わずに、「流行りいいね~」ってどんどん乗るタイプ。「これちょっと面白そうじゃない?やろう」とやっていく。僕はそういう人なんです。
鈴木:写真家で最初に動画のシリーズを始めたのも篠山先生ですよね。動画が出てきたときカメラマンは拒否反応をしていたところを、ヒョンとやってらっしゃいましたね。
篠山:動画は苦労する割には儲からないからあまり続けなかったけど、でも面白いからね。
鈴木:先生には、ほぼほぼカメラ小僧的な強さがありますよね。
篠山:カメラ小僧は好奇心の源泉だから。それがない人は写真なんて辞めたほうがいいと思いますよ。やっぱり、写真というのは好奇心からグッと入っていく。篠山好奇心(笑)。
鈴木:(笑)。本当に何年経ってもそれが失われることないですね。
篠山:でもね、もう飽きてきた。それを言うと、みんなここぞとばかりに「総集編だ」とか「回顧展だ」とか言いたがるから、あんまり言わないようにしてるんだけどね。だって、写真ってまだ発明されて200年も経っていないんですよ。なのにいろんなことがあったわけです。ガラスの乾板から始まり、だんだんフィルムになり、2000年を境にデジカメになってと変遷を経るわけだけど、僕が一番中に入り込んでやったのは暗室の現像、定着。それを引き伸ばして焼いていったというところだけ。そして、それを紙を使った印刷というメディアで発表していった。だいたい70年代から始まり、2000年くらいまで続いた、その一番の山と重なったわけだよね時代が。だから、写真家は時代とも合わないと駄目なんですよ。
鈴木:自分から合わせていってもいますよね。
篠山:うん。合わせてもいる。今、紙がいいって言ったって、何十年前に100万部売れていた『明星』も、今はジャニーズ事務所の機関誌みたいになってしまったり、いろんな変遷があって、これからもどんどん変わっていくだろうし、もっと面白くなっていくかもしれない。どんなことになるかは誰もわからない。ただ僕が思うに、僕が生まれた年齢、時代と、写真というものがピタっと合っていたということは事実なんですよ。
鈴木:プリント技術も向上した時代ですもんね。
篠山:そうです。そこにビタっと合って、まぁ粋なことをしてたわけですよね。
鈴木:ひとつ希望としては、大先輩がエイトバイテンで撮った写真の本物のプリントを美術館でぜひ見てみたいです。出力は出力で面白いんですけどね。
篠山:僕、そういうところにはあんまり興味がないんだよ。
鈴木:そうなんですよね。
篠山:うん、そこはプリント屋がやってくれればいいやと思ってるから。
鈴木:単純に見たいというのはあります。先生のやり方はカメラに重心がある感覚なんだろうな。写真を高尚なものじゃなく、ただ写真として捉えている。やっぱり、撮った瞬間が一番すごくて、その後にこだわらないというか。1回セレクトしているのを見たときに、パッと見て選ぶのもすごく早くて。普通はセレクトも撮影と同じくらい価値があるとされているけれど。
篠山:親さんは真面目な人で、本当に写真というものを真面目に考えてやってる。仕事というよりも、写真を愛してるよね。僕も真面目には違いないんだけど、時代差があるから。親さんの考えている写真と僕が携わってきた写真とはどうしても違ってくるよね。
鈴木:しかしこんなに意識せずに、事象を作ってきたフォトグラファーはなかなかいませんよ。
篠山:時代っていうのは必ずいろんな事件や状況があって、我々はそれを潜りながらモノを作ってきてるわけじゃないですか。だから、そういう事象に出合い、自分で体感し、くぐりながらやっていくのは、それはそれでいいんじゃない?とは思ってますよ。