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「私は超多面体のアーティスト、いつか角が取れて○になる」 なみちえインタビュー

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photography: utsumi
interview & text: mami hidaka

Portraits/

アーティストとして音楽活動や着ぐるみ制作に励み、加えて兄妹でタッグを組み YouTube を配信するなど、多彩で独自性の高い表現を展開するなみちえ。#MeToo や Black Lives Matter、コロナ禍で連帯のムードが強まり、「私たち」「人類」と主語が拡大していくなか、なみちえは PARCO の広告に乗せて「あなた」と指差すようなメッセージを世に届けた。東京藝術大学を首席で卒業後、さらに勢いづくなみちえは今どのような展望を持っているのだろうか。なみちえを高校時代から知る、美術家で文筆家の肥髙茉実が訊く。

「私は超多面体のアーティスト、いつか角が取れて○になる」 なみちえインタビュー

「才能とは、一番楽しい努力。」

芸術家 なみちえは言う。

 

他人と比べて探した特別よりも、

自分の中で見つけた特別こそ大切だ、と。

 

PARCOコーポレートメッセージ

「SPECIAL IN YOU.」 第16弾 なみちえ編より

 

──「他人と比べて探した特別よりも、自分の中で見つけた特別こそ大切」。この言葉の背景を教えてください。

「特別」という言葉には、他人と自分を比べないといけないという前提があるので、まずその構造を批判する必要がありました。なみちえが特別な存在だとカテゴライズされ、広告に出演し、その私が「みんな特別」と言うことに対して責任感があるとと感じたからです。多くのメディアはこれからも無責任に勝手に私にレッテルを貼って時にはマイノリティとしての発言や連帯を求めてくる事もあるでしょう。マイノリティに手を差し伸べるマジョリティという構造が蔓延る中、マイノリティがマイノリティらしくないことを言うと怒られるという理不尽な状況が発生する。でも私は平和のシンボルでもなければ、何かをエンパワメントするつもりもない。誰かにキャラクターを強いられる筋合いもない。今、私のやってる事はアーティストとして自分が選んだ表現を行っているだけなんです。

国籍や性別の分断を強めるような軽率で声の大きい記事は、無断転載されやすく、無断転載の無断転載、さらには事実無根のまとめ記事までつくられてしまう。これは私の実体験でもあって、どうにかして根も種も絶やさないと負の連鎖から解脱できないんじゃないかと日々不安になりますが、PARCOの広告で自分が思う「特別」を自分の言葉で発信できたことで、ようやくそのカルマを解消出来る気がしています。

── 撮影地は、地元・茅ヶ崎ではなく葉山なんですね。

茅ヶ崎よりも海が綺麗なので、近所の葉山の海岸を撮影地として提案しました。私が生きている世界は外国や土地という概念もなく、世界の見方としては「家」と「その他」のふたつだけなんですよね。実家のアトリエは、母が家の設計を考えるときになみちえの部屋としてつくってくれた絶対的な場所。でも今座っている椅子が「なみちえのためにつくられたもの」ではないように、家を出た瞬間にすべてがそうではなくなってしまう。私はずっと自分の部屋とアトリエに引きこもっていたので、でも地元そのものや、自分が地元でどのように生きてきたかを深く語れないことは、自分がすごくニュートラルな状態にあることだと思っています。例えば本当の幸せは、わざわざ口にしなくても幸せだと思えることだろうし、差別がない状態は、差別という概念そのものがない次元の話だろうし。東京に比べると茅ヶ崎は時間の流れが遅いかもしれないけど、私が思考を巡らすスピードはどこにいようが速いことには変わりないはず。唯一自宅とアトリエに流れる時間だけがその速さを保てているんです。

孤独は別に悪いことではないし、誰かに補ってもらえるほどの孤独ならそれは孤独ではないと思う。むしろ私は孤独を超えて孤高になるための準備をしています。私がつくる着ぐるみは、他者とコミュニケーションを取るためのものではなく、自分の内側にアプローチするためのものです。孤独を超えて孤高になるには恵まれた制作環境にいると思います。 私がつくる着ぐるみは、造形へのこだわりや可愛い要素が作用して結果的に外の世界へと拡がっていきましたが、私にとっては昔も今も変わらず自分の内側にアプローチすることが一番重要です。

 

── なみちえさんにとってアトリエは自分の身体を拡張させたような空間で、着ぐるみも同様に、孤独を超えて孤高になるための装置に見えます。だからこそライフワークなのかもしれないですね。

受験生の頃は、画塾の先生から「どうして着ぐるみをつくるのか」と言語化を求められて、上手く言葉で表現できないことに悩んでいました。でも今思えば、言語化なんて一生完璧にはできないものです。私には、昔からつねに何人もの自分が自分を見ているようなメタ視点があって、人間は脱げない着ぐるみだと思い続けています。着ぐるみ制作はその感覚を具現化するためのライフワークですね。

── 着ぐるみやヒップホップは明快なメディアなので、ついその明快さに気を取られがちだけど、以前なみちえさんが「短歌を詠むような感覚」でラップすると言っていたことから影響元も気になっています。

悲しいものを悲しいまま表現しても悲しいだけなので、ポップのスタンスを取っています。ユーモアを大事にして、アイロニーをポップに昇華させたい。ポップさの理想はブレイク前の米米CLUBです。カールスモーキー石井さんが「sure dance」って曲のライブの途中で突然寄り目のパフォーマンスをしたり、バックダンサーに妹さんを起用していたりと、すごくかっこいいんですよ。カールスモーキー石井さんに憧れて、「おまえをにがす」で寄り目を取り入れたくらい (笑)。バズる前にずっとこの動画を見ていました。様々な楽曲中のアドリブやスキャットは久保田利伸さんへのリスペクトが強いです。「おまえをにがす」は、ギリシャ神話を参照していたり、あと二年くらいは解釈の余地がありますよ!

もともと着ぐるみ作家のはずが、ここ最近はとてもありがたい事にコメンテーターとしての仕事依頼が来たり、なみちえの発言やヴィジュアルを求められることが多い。ただ、学歴「藝大首席」のイメージが先行して、社会的な問題について喋ることを求められすぎていると昨年は感じました。コメンテーターとして何かにコメントするよりも作品を作る、作品で語る時間の方が多く欲しいというのが正直な気持ちです。どれだけ社会に物申したところで問題が変わるわけではないはずですから。来た仕事に対して構造批判しすぎると見事に全部バラしになってしまいます。でも周囲の期待を裏切っていくことは自分に対する期待になるし、今年はより良いものを生み出すためにもっと周囲に迷惑をかけてもいいと割り切っています。自分が思ったことはきちんと伝えないと、”本当の自分”が具合が悪くなってしまうので。そうやってメディアの構造批判をして自ら仕事をなくしていたら、結果的に仕事が減り、家でずっと寝ていました (笑)。でも私が家でずっと寝ていても、その間PARCOの広告の私が街中にもインターネットにもいて、私がブロックした相手や私のことを嫌いな相手もきっとどこかで広告を見ているわけですよね。そういう意味で広告出演は面白いなと思いました。

 

 

── YouTube や Twitter に関しても、キャッチーで洗練された言葉を積極的に発信している印象。なみちえさんの表現の根底にはハッカー的な感覚が通じている気がします。

多重人格性を自覚して、アーティスト活動を通じて自分のなかにいるたくさんの人を整理している感覚があるし、ハックも意図しています。SNS は一つのハック的な手段だし、とくにツイッターはつぶやいた140文字が面白い (interesting) か否かの文化なので、Twitter 社がつくったその構造/システムに則ってユーモアとキャッチーを心がけたツイートをしています。

私が高校生のころ、茉実さんが「政治家のクソコラとかをアップするツイッタラーとか YouTuber とか、いわゆる“廃人”と呼ばれる人たちが自覚的に芸術を生み出していったとき、私たちはその批評性とユーモアに勝てないかもしれない」と話していたのをすごく覚えてて。私はそれを自覚的にやろうとしている部分があるんです。その実践のために YouTube のシステムや YouTuber 的なテンションを使って、メイクアップ動画とかの構造批判をしています。TAMURA KING TV もそういうモチベーションで出来上がってるかも。「芸術性を持った YouTuber は面白い」とずっと思っているし、私みたいに本当のアーティストが YouTuber になり、またアーティストに戻る……みたいな動きも面白いだろうし、そこに脱レッテルの鍵があるはずなので。

よくいう「尖ってる」人は、つまり面が少ないということなんじゃないかな。尖り方を間違えて自分に刺さっちゃってる人もいますよね。私は「尖ってる」と言われることが多いけど、実際はいろんな面を持つ超多面体のアーティストになって、最終的には角が取れて球になりたい。丸くなるためにもう一つ新しく始めたことが、グラフィティアートです。

 

── たしかに丸くなるには「脱アーティスト」や「脱レッテル」は不可避な気がします。おそらくアーティストには、自分の尖っている部分をさらに尖らせたい人のほうが多いと思うので、なかなか YouTube には踏み込まないかもしれないですね。

アーティストが YouTube をやる事例は少ないので、いい目の付け所ではあるはず。意外とアイロニーとポップの良いバランスを知らない人が多いので……。ピカソの「バラ色の時代」とか「青の時代」とか、昔から、自分で設定したものを自分で壊して新しい何かを立ち上げるというのがアーティストの所作なので、極論アーティストは「脱レッテル」しかしていないと思うんです。そこに対して他者の意見とか関係ない。私自身、SNS は発信するだけでほとんど見ていないし、TL は三島由紀夫とトリスタン・ツァラしか流れてこないようになっています。

 

── それは偏りすぎてません? (笑)

超偏ってるし、だんだん見るのが怠くなって結局TLを見なくなる (笑)。でもそうやって自分に流れ込んでくる情報をコントロールしています。あと自分のブランディングにすごく気をかけてる。自分へのリスペクトが一番他人へのリスペクトに繋がると思うので、堂々と孤高を楽しんでいます。SNSは体力を使わずできることなのでやっているけど、私からすると iPhoneは、電源を消せばただの石板なので正直あまり意味がないんです。世界が変わっているように見えて、実際は何も変わっていないかもしれない。PARCO の広告でも私が言った様に私が変われば全てが変わる。ただ社会がつくってしまった面白くない構造に則ってメイクマネーはしたくないので、特に昨年からはその構造から早く脱却したいと強く感じています。広告も表現空間として捉えていて、アーティストとして表現したい形で表現します

 

──いい意味で、その領域に土足でズカズカ入っていくような。

そう。二項対立や分断を強めて偏った価値観を再生産するような広告やメディアは、それらの問題を大衆の興奮の材料として扱っているだけだと感じてきています。差別や分断をなくそうという試みは支持するけど、私自身は今はそこに言及したくないです。私はたしかにオシャレでかっこいいし可愛いと思うけど、「私の顔や声じゃなくて、あなたがあなたの顔と声使って物言えば?」と思うんです (笑)。私はアクティヴィストではなくアーティストとして、自分がやりたい表現をやっていくだけ。

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