「本物の愛は存在する」ジャック・オディアール監督が自然とたどり着いた演出術
Jacques Audiard
interview & text: waka konohana
4月22日に公開されるフランス映画『パリ13区』を観て驚きを禁じ得なかった。今年70歳を迎えるフランスの巨匠が作った映画とは思えなかったからだ。これまで見てきたロマンチックでクラシックなパリとは異質の無国籍な風景。多様な人種やミレニアル世代の恋愛をモノクロ映像に投影し、フレンチ・エレクトロニカ・シーンの鬼才 Rone (ローン) が音楽を手掛けた本作は、インディーズ監督が制作したようなスタイリッシュで若々しく、みずみずしい作品に仕上がっている。
「本物の愛は存在する」ジャック・オディアール監督が自然とたどり着いた演出術
Portraits
しかし、Jacques Audiard (ジャック・オディアール) 監督の過去作を振り返ると、『君と歩く世界』(2012)では障がい者の性を、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した『ディーパンの闘い』(2015)ではフランスのスリランカ難民を、セザール賞で監督賞を含む4部門受賞した『ゴールデン・リバー』(2019)では今年アカデミー監督賞を受賞した Jane Campion (ジェーン・カンピオン) 監督作『パワー・オブ・ザ・ドック』に先駆けて「有害な男らしさ」を西部劇で表現している。
巨匠がこれほどまでに若々しい感性や世界観を保てるのはなぜなのだろうかーー。今回、Jacques Audiard (ジャック・オディアール) 監督にインタビューすることができたので、セックスシーンにおける”女性のまなざし”から俳優とのワークショップについて語ってもらった。「#MeToo」に揺れている日本の映画界で問題視されている女性映画人の不在、また、「俳優を追い詰めるワークショップ」とは真逆のアプローチをとった Audiard 監督の思いをここに記した。ちなみに、この日の監督の私服はニットキャップにクラシックなスカーフとシャツ。若くてシックな監督の感性が装いにも現れていたと思う。
女性視点は女性脚本家に書いてほしかった
── なぜ、パリの13区をモノクロで撮影したのですか?1970年代の都市再開発により生まれた高層マンションやビルが連り、アジア系移民が多く暮らすことでも知られる地区ですよね。
何度もパリで撮影をしてきましたが、あまりに美術館風で撮影しやすい街ではありません。13区を選んでモノクロで撮影することによって、より生々しいものが表現できるんじゃないか、新しいパリが映し出されるんじゃないかと期待しました。ヨーロッパの街を、アジアの大都市のように撮影したかったんです。そしてモノクロにすることにより、かえって時代をこえた様相が生まれて“現代の時代劇”のような作品に仕上がりました。この映画は Woody Allen (ウディ・アレン) の『マンハッタン』(79)に対する映像的なオマージュでもあります。
── 女性の同性愛を描いた『燃ゆる女の肖像』の監督として成功した Céline Sciamma (セリーヌ・シアマ)、そして若手監督・脚本家として注目されている Lea Mysius (レア・ミシウス) と、本作で共同脚本を務められました。なぜでしょう?
2人とも非常に優れた女性の監督・脚本家です。日本の状況は分かりませんが、フランスではもう何年も前から女性の脚本家たちが非常に活躍していて、あらゆる世代の男性映画人が女性の脚本家と一緒に制作しています。原作となった、アメリカのグラフィック・ノベル作家である Adrian Tomine (エイドリアン・トミネ) の3部作には、3人の女性の登場人物が出てきます。女性を描く映画なら、やはり女性脚本家に書いてもらいたいと思い、自然に共同脚本に至りました。
セックスシーンを意図的に演出しなかったフランスの巨匠
── 本作ではセックスシーンが多いですが、女性脚本家が入っているからか、”女性のまなざし”が核になっていると感じました。しかもセックスシーンには女性振付師である Stéphanie Chêne (ステファニー・シェンヌ) が俳優たちに個別指導をしたとか。
はい。実はこれまで、私はあまりセックスシーンを撮ってこなかったので、セックスシーンを描くのが難しいと感じていたんです。通常、セックスシーンは、「物語のために必要な描写だから、頑張って演じなくてはいけない」という焦燥感に俳優たちが駆られてしまう。しかし、この映画では、人間がセックスするという自然な行為として演じてほしかった。そういう焦燥感やプレッシャーから演じてほしくなかったので、女性振付師を起用しました。美しく自然な動きやしぐさを振付師につけてもらう……というのが自然な演出法として感じたんです。
── オンラインポルノチャットに登場するアンバー・スウィートを演じる Jehnny Beth (ジェニー・ベス) は、彼女のヌードシーンは必要最低限の人数で撮影され、彼女のヌードが「過剰に露出しているとも感じなかった」と海外インタビューやオフィシャルインタビューで語っています。
セックスシーンの演技を私は演出しないことにしたんです。振付師と俳優たちに任せて私は進行具合を確認するためにちょっとのぞいただけ。監督として、彼らがどんなことを生み出すかという新しい驚きも撮影現場で感じたかったのもあります。私は彼らが生み出したセックスシーンをただ記録した。みんながおしゃべりして楽しい雰囲気で撮影は行われました。
監督が演技を演出しないのはなぜか?
── 監督がセックスシーンを演出せずに、振付師と俳優の自主性に任せたというのは面白いですね。エミリーを演じた Lucie Zhang (ルーシー・チャン) も「監督は最初から私に自発性を求め、自分自身で役を作り上げることを望んでいました」、アンバー・スウィートを演じた Jehnny Beth も「君の世界の中で、君自身が演出するんだ」と監督に言われたとオフィシャルインタビューで語っています。今回は演技のワークショップに2ヶ月以上もかけたと聞きました。
そうですね、もともと私は撮影前のワークショップに時間をかけるタイプ。とりわけ、今回はメインキャストの4人のうち、エミリーを演じた Lucie 以外はプロとして経験値が似ていたけれど、Lucie は新人でした。キャストの演技力にバラつきがあった場合、キャストの演技力を均一にするために”時間をかけて”ワークショップを行うのが効果的だと思っています。
── なるほど、特に Lucie には演技コーチが複数ついていたそうですね。
はい、いつも私は外部の演技コーチを雇います。なぜかというと、俳優たちに自然に演技してもらうためには、自由に演技してもらうのがてっとり早いんですね。キャラクターの作り込みも俳優たちに自発的にしてもらうのが一番よいと思っています。ただ、それは俳優たちがキャラクターと自分を同一化するのではなく、キャラクターを解体して作り上げて演技をするという作業が必要になります。そういったスキルをまだ獲得していない俳優には演技コーチをつけるようにしているんです。
カラダから始まる本物の愛はあるのか?
── 「付き合う→セックス→結婚→子ども」の伝統的なパートナーシップのカタチが、フランスでは法律婚以外にも2つの事実婚制度があるから、いまでは「セックス→付き合う→子ども→事実婚/結婚」という流れに変化していると耳にします。劇中のエミリーとカミーユも先にセックスをしてしまい、なかなか恋愛関係を築けません。現代のフックアップカルチャーは本物の恋愛を阻害するのか、それとも、単に順序を変えただけなのか。そもそも、本物の愛なんてあるのかーー。70年代に起きた”性の革命”も経験した監督にお聞きしたいです。
私はロマンチストな楽観主義だから、本物の愛は存在すると答えたいです。ただ、私自身もそういった問いかけにずっと悩んでいて、自問自答するためにこの映画を作った側面もあるんですよね。私の世代はまず言葉で相手を魅了してから、セックスに移行していましたが、マッチングアプリがあるいまの世代は逆になっています。あなたのおっしゃるようにフランスにおける婚姻制度の変化も影響していると思います。それでも、男女の駆け引きや戯れを言葉で紡ぐ”情緒的な恋愛”は可能だと思います。世代が違うので私自身は経験したことがないですが(笑)。
この私の考えは、Noémie Merlant (ノエミ・メルラン) 演じるノラと Jehnny Beth が演じるアンバー・スウィートの逆説的な関係を通して表現しています。オンラインポルノチャットというバーチャルなスクリーンで出会った2人が真実の関係を築けるのかーー。私はかなりのロマンチストなので、セックスから始まる本物の恋愛はあると信じています。