Ryan Gander
Ryan Gander

「どんなものにもストーリーがある」視点をずらすことで見えるライアン・ガンダーの世界

Ryan Gander

interview & text: yu murooka
translation: kana saito

Portraits/

コンセプチュアル・アートの新騎手として国際的に評価の高い1976 年イギリス生まれのアーティスト Ryan Gander (ライアン・ガンダー) は、「日常生活で気に留めることすら忘れているあたりまえの物事」への着目を出発点に、解釈、表現を行う。その作品のジャンルは、オブジェ、インスタレーション、絵画、写真、映像など多岐に渡る。鋭い分析や知的好奇心に満ち溢れた作品は、見る人の思考や創造力を刺激し、様々な問いを抱かせる。

昨年、予定されていた個展がコロナ禍により延期となったにもかかわらず、それに代えて「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」が開催されたことは、困難な状況をもポジティブに変えていくガンダーの姿勢を、まさに証明する出来事だった。故・寺田小太郎氏によるプライベート・アイ・コレクションを、色や光を操る絶妙な展示方法により、「見る、そして想像する」ことを強く意識させるとともに新しい鑑賞体験をもたらすものへと昇華させた。

クンストハレ・ベルンでの大規模個展(2019年)をはじめ、ドクメンタ(2012年)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2011年)や、セントラルパークのパブリックアート(2010年)などで知られているガンダーだが、東京での大規模個展は今回が初。この7月、満を持して開催される個展を前に、そのクリエイティビティに迫る。(※本インタビューは2021年6月当時に行われた。)

「どんなものにもストーリーがある」視点をずらすことで見えるライアン・ガンダーの世界

―チェスターで過ごした幼少期の心象風景は?ビビッドな記憶や、将来の夢など覚えていますか?

全く同じ造りの家が並ぶ住宅街で幼少期を過ごしました。隣の家に行くと、違う家具が置いてあるだけで、造りは全く同じ。前後が逆さになっている家もあって、まるで鏡像のようでした。そうしたことが、自分の作品に影響を与えたのかもしれません。目を閉じて、実際に自分が置かれている空間にいる自身を想像してみると、全く同じものでも、鏡に写ったように左右非対称なんです。それが鏡にまつわる作品やフィクションの人物を関連させるきっかけになったのだと思います。パラダイムの思想ですね。

「脇役(バルタザール、ヴェニスの商人:第3幕第4場)」(2019-2020)
Courtesy the artist and Lisson Gallery
photography: Mark Waldhauser

家にあったガレージも、私がアーティストになることに影響を与えてくれました。寝室の下にドア付きのガレージがあって、車が置かれる代わりに芝刈り機や他のもので溢れかえっていたのですが、15歳になった時にアーティストになる決心をした私は、父に頼んでガレージにあるものを全て物置に移してもらい、そこを自分のスタジオにしたんです。15、16歳の頃、友達はみんなお酒を飲んだり、フットボールをしたりしているのに、自分は毎晩ガレージに行って絵を描いていました。そんな年頃であれほどアートに興味があったのは、今思うと滑稽なことですね。ただ自分が当時興味を持っていたのは、そこで作ったものや学ぶことではなく、単純にスタジオを持っているということでした。子どもがお医者さんごっこをするように、スタジオと呼べる部屋を持つだけで、自分はアーティストだという気分になれましたし、その感覚が好きなだけだったんですね。「アーティスト」という制服を着ていると、心地が良かった。当時に戻って、金曜日の夜中にでもガレージのドアを開けて、15歳の自分がどんな風だったか覗いてみたいぐらいです。ブラックチェリー味のタバコを吸って、甘い酒を飲んで、ビートルズを聴きながら絵を描いているなんて、クールな15歳ではないけれど、当時はそれなりに有意義な時間を過ごしていました。

―ライアン少年が、アートを志すきっかけとなる出会いや出来事はありましたか。

アーティストの母親を持つマックスという友達がいました。彼女は少しヒッピーみたいな人で、私が住んでいた家は郊外の住宅地にしては珍しくモダンな作りの新築でしたが、彼らはとても古い家に住んでいたんです。家のそこら中に指人形がかけられていて、見たこともない変わったもので溢れていました。暖房すらなく、焚き火があるだけ。テレビでしか見たことがない、本当に存在するなんて思いもよらない家でした。私の家にも絵画はいくつかありましたが、それらはアートというよりはただの絵でしたし、すごく整理整頓されたクリーンな家でした。彼女が絵を描くことで生計を立てていることにも感銘を受けました。その家にはテレビの代わりに、たくさん楽器があって、テレビがなくても楽器を演奏したりして楽しむことが出来ることに、とにかく感動したんです。その頃の私は、もしかして彼女のようになりたかったのかもしれない。みんなに、アーティストにはなるな、アーティストは稼げないし家なんて買えやしない、とか言われたりしましたが、それなら彼女のように暮らしてみてはどうだろうと思ったんです。そうすれば、誰にも縛られることがないだろうし、自分が好きな時にしたいことが出来るだろう、と。変わっていて、非実用的で、そして非論理的なことに熱中している自分がいて、これが自分のしたいことなのだと気付きました。

「もはや世界はあなた中心ではない」(2008) 大林コレクション蔵 Courtesy the artist and TARO NASU photography: TARO NASU

―知的好奇心で満ち溢れた作品の背景には何があるのでしょうか。アイディアやインスピレーションはどこから来ていますか?普段意識していることや観察していることなどあればお聞かせください。

一点から物事を見るというのは時代遅れな考え方で、視点をずらすことで急に風景が変わって見えることが大切です。ベルギー人刑事のポアロやシャーロック・ホームズが得意としていることですが、それは決して簡単ではなく、ある種の才能とも言えます。視点をずらすという能力を持つと、全ての物事を違う観点から見ることが出来ます。私も自分の作品を見る時に、そんな才能を持っていたらなと思います。こういうことって実は子どもの方が得意だったりしますよね。私たちは歳を重ねるにつれて、背負うものがどうしても増えてしまいますし、何かしら決断しなければいけない時も訪れます。自問して、考えて、自分なりの答えを一度出してしまうと、それを自分に問い直すということをしなくなります。しかし、それでは意味がありません。一週間後に答えを知った時、そこから再度自問することなく、ただその答えを導いた自分の予測は正しかったと思い込むだけでは、その予測は予断であり、予断は度を越すと、先入観になります。そうした意味では、先入観は必ずしもネガティブなことだけとは限りませんが。私たちはものすごいスピードで回っている世界に住んでいるので、もちろん物事も常に変化していきます。自分が出した答えを頼りにするしかありませんが、10歳の時に出した答えを40歳になって見てみたら、絶対に間違えているものです。

「2000年来のコラボレーション(予言者)」(2018)
公益財団法人石川文化振興財団蔵
Courtesy the artist and TARO NASU
photography: Stevie Dix

また、歳を重ねるにつれて、教育や学校という文化からも遠ざかるので、子どものための教育を学ぶことは恥だと、予断してしまうことも良くありませんね。大人は、すでに学校で習ったものはこれ以上学ぶ必要がない、と予断しがち。学ぶ環境から遠ざかると、自分が今持つ概念に固執してしまうものです。それでは世界は良くならない。特に、どうしても賛同出来ない意見を持った人の気持ちになって、相手は正しいと一瞬でも思うふりをしてみるのは難しいことですね。それでも、それが出来たらすごく楽しいのではないでしょうか。視点をずらすことで、物事が少しだけ違って見えたり、現実が大きく変わったり。それは物事を見る上で、効果的な手段になるんです。

―ガンダー作品の魅力のひとつに、対話的であることが挙げられます。国や地域を超えて、様々な場所で作品を発表されていますが、言語性よりももっと深い意識でのストーリーや対話性から作品のヒントを得ることはありますか?

ユニークで普通でないものにストーリーを見つけるようにしています。どんなものにもストーリーがあります。たとえば、歩道に落ちている一本のタバコに口紅がついてたとします。それだけで、タバコにストーリーが見えてきますよね。先日、散歩をしているときに、ある看板を見つけました。そこには「路肩に駐車しないでください」と書いてあったんですが、看板の半分が曲げられていたんです。路肩に停めらた車によって曲げられたんでしょう。誰かが、駐車している時に、しないでとお願いしているものを壊してしまう。なんて回りくどい話だと、思わず写真を撮りました。何かが起こった証拠というものは、より大きな物語へのヒントをくれるんです。

「ひっくり返ったフランク・ロイド・ライト+遠藤新の椅子、数インチの雪が積もった後」(2022)
Courtesy the artist and TARO NASU
photography: David Tolley

―COVID-19の影響でイギリスがロックダウンしていたなか、どのように過ごされていましたか?

ロックダウン中にしたこと……そうですね。人は自然に逆らうことが出来ない。だから、それに順応していくしかありませんね。それでも、ロックダウン中はそれまでと違う時間の過ごし方をしていたので、変化に苦労しました。普段なら生活の約半分は展示のために飛び回っていて、家で過ごすことがほとんどなかったので。妻が、私と家で過ごすことに慣れるまで大変そうでしたよ(笑)。家で時間を過ごすことを最初はすごく不思議に感じましたが、慣れていきました。でも、後から気づいたことがあります。私の作品のほとんどは、他の国に行き、その文化の中で自分で見つけたマテリアルや経験がもとになっていたことに。なので、ロックダウンで家にいなければいけないことに苦を覚えましたね。

「時間の問題にすぎない」(2020)
Courtesy the artist

―スタジオに行けない、物流・輸送がストップするなど物理的な制限のなかで、制作から離れる時間もあったのでしょうか。普段と時間の流れが異なることで、過ごし方は変わりましたか? 

携帯で撮った写真を印刷し、他のアーティストが使っているようなスケッチブックみたいに、新しいプロジェクトや作品へのアイディア源にしていました。ロックダウン前は年間5000枚くらい撮っていましたが、ロックダウン中は500枚に減ってしまうほど、インスピレーションに欠乏していた。そのため、使っていなかったアイディアを再考することにしました。人は忙しい時こそ効率的に時間を使おうとしますが、いざ暇になると落ち着きを失って、混乱してしまいます。その結果として、時間をテーマにした作品を作り始めるきっかけになりました。

主観的時間というテーマが常に自分の作品のなかにあったことが、このロックダウンによって時間の使い方が変わるまで気付きもしませんでした。時間が作品の主題になっていることを、今まで定義することはなかった。そこにはプラスの面とマイナスの面があって、作品への取り組み方も変わりました。多くのアーティストが実践している「スタジオ・プラクティス」(スタジオでひとつのことに集中して取り組み、良い結果が出るまで何度も試行錯誤する方法)を自分でもロックダウン中に試してみましたが、自分にはまったく合わないことがすぐにわかりました。私のやり方は、アイディアがあれば、とにかくやってみることです。良いものは良い、悪かったらゴミ箱に捨てて、また新しいものを作ってみる。逆に、時間をかけて少しずつひとつの物を完成させていくやり方は、自分には合っていませんでした。

「クロノス・カイロス、14.58」(2021)
Courtesy the artist and gb agency, Paris
photography: Aurélien Mole

時間がたくさんあるロックダウン中は、物事を後回しにしてしまったり、意味もないことを自分に問いかけたりすることが頻繁にありました。ポジティブだと思っていたことが、実はネガティブなことだったり、その逆もあります。このロックダウンで、私たちは各々の価値について考え直すことになりました。私の作品は、「時間は最も偉大な価値である」という考えに基づいています。たとえば、通貨というのはお金という物質以上に付加価値がありますよね。人々が私の作品のなかだけでなく、ロックダウンのなかで時間という価値について考えていることに気づいた時は不思議な感じがしました。何に価値を置くか、何がより大切なのかということが会話の中に出てくるようになったんです。

また、ロックダウン中はインターネットの世界のなかで過ごす時間も増えました。でも、バーチャルの世界は仮想化された現実みたいで、好きではありません。世界は想像もよらない変わったもので溢れていて、実際に触れたり感じたり出来るリアルな体験の方が好きなんです。匂いを嗅いだり、何かをして怒られたり、怪我してしまったり……インターネット上では回避できることも、現実世界では向き合わなければいけません。

―2021年に東京オペラシティアートギャラリーで予定されていた個展延期の決断から、収蔵品のキュレーション展を行うことにした経緯をお聞かせ下さい。アーティストと美術館やキュレーターとの信頼関係がないと成り立たない今回のプロジェクトに、胸を打たれました。

ロックダウン中、オンラインでたくさんのアートショーを鑑賞しましたが、どれも楽しむことが出来なかった。それなのに、オンラインで今回のキュレーション展の準備をしなければならなかったのは、やはり大変でした。しかし、キュレーターの野村しのぶさんと一緒に仕事が出来たことは大変光栄なことで、感謝しています。展示をするという仕事には、混乱とストレス、そしてたくさんのエネルギーを消費をすることが付き物ですよね。展示とは、ただ作品を作って展示するだけではなく、アーティスト自身を投影するものです。だから、アーティストたちはその展示に時間やお金、そして体力を費やすんです。誰かがその展示について遠回しに批判しているのを聞くのはとても辛いことです。個展であれ、オンラインのキュレーション展であれ、賞をもらうことはないだろうと思っていました。私にとっての賞とは、実際に空間と時間のなかで作品がどう展示されているかを実際に見てもらうことですから。これまで4つか5つの展示をオンラインでしましたが、やはりオンライン上では実際の物体がどれだけ大きいのかが伝わりません。展示を作るなかで楽しみにしていることって、完成したものを見たり、それを観客が鑑賞して楽しんでいる様子を見ることなので、それが出来ないのは残念でした。

今回の展示を見て、素晴らしいと言っている人がいると聞きました。私は実際に見ることが出来ないので、それが確かかはわかりません。美術館側には、展示室の電気を消して、鑑賞者に懐中電灯を配るという提案をしました。斬新すぎるアイディアだったので、キッパリ断られるものと思っていました。東京オペラシティアートギャラリーがとりわけそうという訳ではありませんが、本来美術館は人々の期待に応えるという順応主義的な目的があります。一方でキュレーターではなく、アーティストとしての自分のモチベーションと目標は、その人たちの期待に逆らうことです。なので、彼らがイエスと言ってくれた時は正直信じられませんでした。予備の提案を用意していたくらいです。

野村しのぶさんをはじめとする美術館の皆さん、関係者の方々、スポンサーやサポーター、そしてアーティストの方々に感謝しています。概念的かつ物理的であるこの展示での経験価値は、変革的なものだと思います。その価値とは、普段しないような体験がこの展示ではできるということにあります。そして、鑑賞者が作品のことをただ鑑賞するだけでなく、もっと細かいところまで見て、考えたいと思わせてくれたはずです。また、会場内での鑑賞者の行動や、何に注目するのか、どうして注目するのかについても考えるきっかけになるでしょう。展示というのは、自分の寝室で同じように作れるものではないので、実際に見られなかったことはすごく残念です。けれど、今回の鑑賞者が展示のことを「ヘッズ」と呼んでいるのは嬉しいですね。ポップスターになった気分です。

―2017年の国立国際美術館(大阪)での収蔵品キュレーションも大変話題になりました。今回の展示とは、作家も作品も大きく異なりますが、それぞれの展示の意味合いや性格についてもお聞かせ下さい。

ふたつの展示は見た目やコンセプトこそ違いますが、実はアプローチの方法が似ているんです。それは、伝統的な展示を作る方法を修正したもので、少しユーモアがあって、大胆で、それでいてかわいらしく、何より作品が鑑賞されることを大切にしています。たとえば、よくある iPad を使ったワークショップでは、参加者は自分が作った作品が他の作品と違ってユニークなものだと思っているので、先生に他者と比較されることを嫌います。でも現実はそうではありません。実は私が今まで見てきたどんな作品も似通っていましたが、それはネガティブなことではなく、ポジティブなことなんです。人は同じ考えを持っていて、話す内容も同じで、同じ人を好んだりするので、アートのシーンや学校でも同じような作品が見受けらます。それが共同体として素晴らしいものを生み出すのです。孤立していては、何も生まれません。なので、作品を比較できるように並べたり、ペアを作ったり、通常アーティストたちが好まない方法で展示をしました。今回の東京オペラシティの展示では、鑑賞者によりプライベートな体験をしてもらう展示方法を選びました。通常の展示会場だと、入った瞬間に展示されている作品とそこにいる人たちが目に入ってきます。しかし、そこが暗闇だと、作品をひとつずつ懐中電灯で照らしていくことになります。鑑賞者は通常の展示にはない、作品とより親密でプライベートな体験をするのです。

「なぜフランス人は窓から外を眺める?」(2008) *参考作品 Courtesy the artist and TARO NASU photography: David Tolley

―他者の作品を展示することについて、自分の作品の展示と比べて、作品に対する距離感の違いはありますか?より客観的であろうとか、あるいは、他者の作品をマテリアルとして自分なりの視点を表現しているといったこともあるのでしょうか。

非常に良い質問ですね。マテリアルという言葉を他者の作品を展示する上で使うのは、支配的になってしまうので、少し違うかもしれません。私はアーティストであり、キュレーターではないので、主観的でいるか、客観的でいるかの線引きを、他者の作品を扱う時にはします。つまり、「好きな作品」と「良い作品」は同じではないということです。個人的に好きな作品はたくさんありますが、それが必ずしも良い作品とは限らないでしょう。逆に良いとされている作品もこの世にはたくさんあって、それを私が必ずしも好きなわけではありません。作品を個人的に好きかどうかで見るのと、良い作品かどうかで見るのかは全く違うことです。そもそも良い作品が好きな作品だという考えは迷信ですよね。客観的になるため、作品とアーティストを別々に見るようにしています。キュレーションをすることで、物事を冷静に平等で見ることが出来ます。そういった意味では展示してある作品のどれもが「とても良い」作品です。だからといって、家に持ち帰って居間に飾ろうとは思いません。家に飾る作品は好みで決めるのであって、良い作品かどうかというのは話が違ってきます。この作品が好きな人も大勢いれば、あの作品が好きな人もいて、好みの問題です。ピザが好きな人もいれば、パスタが好きな人もいる。好みの違いを良しとしない客観性というのは、良いことではありません。たとえば、4人でキュレーションされた展示や芸術賞は、集団決定による妥協の塊であり、内容の乏しいキュレーションになってしまう可能性があります。私が今まで見た中で最高の展示は、ひとりのキュレーターが個人の強いマインドと客観性を持ってキュレーションした展示でした。

―今回、延期になった個展(=7月より東京オペラシティにて開催される展示)について教えて下さい。新作を交えた、都内での初大規模展と伺っていましたが。

ここ数年、私の作品が日本で人気を集めているのは、友人の那須太郎氏が画廊(=TARO NASU)で多くの人に作品を見せてくれているお陰です。ひとりの人が作品を見て、それを2人に見せる。その2人が4人に見せるというように、私の作品は広まっていきました。

物体には魂があるという神道の考えに、私の作品はマッチしているのかもしれません。それは、コンセプチュアル・アートの概念にも該当します。ただそれは60年代のAプラスBはCといった退屈で定型的なコンセプチュアル・アートのことではなく、私の作品はネオ・コンセプチュアル・アートと呼んだ方が近いかもしれません。コンセプチュアル・アートには、ロマンティック、面白さ、大規模、悲しみ、など○○コンセプチュアル・アート、と決まった名前がないといけません。そうなると作品を違う観点で見た時に、妥協を覚えたり、しっくりこなかったり、詮索したくなったりします。

大切なのは、物体そのものではなく、それが持つストーリーや魂。そういった点で感情が生み出されるコンセプチュアル・アートというものが、私の持つ神への考えに一致するんです。私たちの一生は、果てしない時間の中のほんの一瞬であるという、いわゆる仏教の感覚に似ています。その果てしない時間の中で、特に西欧で加速化した資本主義の考え方では、必要のない物を必要だと思ってどんどん蓄積してしまっています。本当は10個くらい最小限の物があれば生きていけるはずなのに。

「最高傑作」(2013) 公益財団法人石川文化振興財団蔵 Courtesy the artist and TARO NASU photography: Martin Argyroglo

私たち人間はただ物を集めて、もっと欲する生き物なのです。資本主義の巨大文明化とでも言えるでしょう。例えば、自動車メーカーは毎年同じ台数を生産することは出来ないでしょう。しかし前年より多い生産量でないと、成功したとは言えない。そこには均衡状態という概念はなく、増大という概念しかありません。しかし、それほど増大をする必要があるのでしょうか。人間が常に物を増やし続けたせいでこの惑星は破壊されています。私の作品は、物体の価値や物体に存在する背景に着目しているのであって、物体そのものはアートではありません。なぜならその価値や背景は、家に持って帰ることが出来ないから。私の母がよくこんなことを言います。埋葬布にはポケットがない、と。素晴らしい言葉ですよね、彼女は正しいと思います。ただストーリーは持って帰れるし、他者に残すことも出来る。もし物体がストーリを語れるのであれば、それは良いアート作品でしょう。もし物体がただの絵だったら、それは何でもないただの物です。

―個展が延期となったことで、内容のアップデートはありますか。新作を交えた、都内での初大規模展と伺っています。

日本に行くことを楽しみにしています。温泉の近くに滞在するのも楽しみです。展示に向けた新しい作品の制作も始めました。たくさんの要素で構成された大作で、私のマスターピースとも言えるでしょう。ドライでいて、滑らかで光沢があり、モダンで洗練されていて、そして大胆な作品です。冷淡な見た目とは裏腹に、実は非常に詩的で感情的なこの作品は、鑑賞する人を感情でいっぱいするでしょう。詳しくは話しませんが、時間に関する作品です。私たちが気づくこと、そして時間の過ごし方は最も大切なことなのです。過ごしていると気づきませんが、いつの間にか時間は過ぎ去ってしまうということを、私たちは時々忘れてしまいます。それを考えると涙が出ますね。

Courtesy the artist and TARO NASU
photography: Jon Gorrigan

―イギリスは、ロックダウンが緩和され(※2021年6月当時)、以前よりも大分行動しやすくなっているようですが、ここ最近の生活や、興味の対象等お聞かせ下さい。

私は2回ワクチンを摂取していて、なんだか強くなった気分です。長い間会えなかった人たちに会えて、とても嬉しいです。来週には展示でポルトガルに行きます。インスピレーションが欠乏していたので、アイディアを集めることが出来たらいいなと思っています。そして、もうひとつ恋しかったことは、匂いです。インターネットの世界には匂いがありません。実体験にはインターネットの世界にはないものがありますよね。例えば、実際に展示に足を運ぶこと。行く途中で雨に降られて、傘を持っていなかったからずぶ濡れで展示を鑑賞する。それは晴れた日に行くのとは、全く別の体験になるでしょう。外に出てみると、予測出来ないことが起こりますよね。予想していたものじゃなかったり、想像していた匂いと違ったり、食べたり、感じたり。全ての感覚を使うことがこの現実世界の素晴らしいところなのです。なので、この1年半は感覚が遮断されていた気分でした。ロックダウンが緩和された今、何をしたいかというと、おそらくコロナ禍以前と同じですね。ただ同じレストランを予約するとか(笑)。

―これからやってみたいことは?

自分のスタジオの敷地内に空いた土地があるので、アーティストが住みこみで活動出来る建物を建てたいと思っています。50万、いや、もはや25万ポンドを一口に支援してくれる人たちがいたら、それは実現出来るでしょう。そうしたら、私は建物のドアの上に協力してくれた人の名前を付けます。もし実現すれば、毎年9人のアーティストが3ヶ月この美しい田舎で無料で住みながらアートを作ることができることになります。一緒にランチをして、みんなからアイディアを盗むのも野望のひとつです(笑)。