Tran Anh Hung
Tran Anh Hung

「愛とは見ること、分かち合うこと」トラン・アン・ユンが語る映画と食、そして愛

Tran Anh Hung

photography: asuka ito
interview & text: waka konohana

Portraits/

アジア出身の映画監督として Ang Lee (アン・リー) や Wong Kar-wai (ウォン・カーウァイ) ほどの一般的な知名度はないかもしれないが、世界中の批評家から抜群の信頼を寄せられる Tran Anh Hung (トラン・アン・ユン) 監督。1993年のデビュー作『青いパパイヤの香り』は、同年のセザール賞最優秀デビュー賞とカンヌ国際映画祭カメラドールを受賞した。その2年後、香港の Tony Leung (トニー・レオン) を主演に迎えた2作目『シクロ』は、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞。

日本人なら、村上春樹の同名小説を Tran Anh Hung 監督が映画化した、松山ケンイチと菊地凛子主演の『ノルウェイの森』(2010)を知っている人も多いだろう。

デビューから30年間、監督は7本しか制作していない。そのせいか、アートハウス映画界では彼は一種のミステリアスな存在感を放つ。そんな Tran Anh Hung の最新作『ポトフ 美食家と料理人』が12月15日に公開される。

第76回カンヌ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した本作は、Juliette Binoche (ジュリエット・ビノシュ) と Benoît Magimel (ブノワ・マジメル) 主演の”美食”映画で、『バベットの晩餐会』や『ショコラ』(Juliette Binoche 主演)に継承される、食を通した愛と人生の物語だ。ミシュラン三つ星シェフの Pierre Gagnaire (ピエール・ガニェール) が完全監修した料理も見どころだが、主演のキャスティングも非常に興味深い。

「愛とは見ること、分かち合うこと」トラン・アン・ユンが語る映画と食、そして愛

なぜなら、Juliette Binoche と Benoît Magimel は2000年代初頭にカップルであり、2人の間には子どももいる。別れてそれぞれに新しいパートナーがいる2人が初めて共演し、恋人同士を演じるのだ。

映画の宣伝のために来日した Tran Anh Hung 監督に映画製作の背景から、Juliette Binoche と Benoît Magimel にまつわるエピソードまでざっくばらんに語ってもらった。

©️Carole Bethuel ©️2023 CURIOSA FILMS- GAUMONT – FRANCE 2 CINEMA

食は嘘のつけない、本物のアート

—なぜ、今回ガストロノミー(美食)を主題にしたのでしょうか?

私にとって、食はアート。芸術を映像化したいという気持ちが強かったんです。とりわけ、食は嘘ではない、本物です。例えば、ゴッホなどの画家を主題にするとどうしてもそこには“嘘”が入りますよね。

—1920年の Marcel Rouff  (マノレセノレ・ルーフ) が書いた『美食家ドダン・ブーファンの生涯と情熱』を選んだ理由は?

あの原作を選んだ理由は、原作にはガストロノミーに関する描写が数ページあり、そこから大きなインスピレーションを得たからです。そこには、食だけではなく、人間の描写もありました。しかし、原作のストーリー自体は好きじゃなかったので、原作の前日譚としてこの脚本を書きました。

—21世紀に生きる私たちの世界にはファストフードであふれています。しかし、映画の舞台である19世紀後半は、主人公が朝早く起きて野菜を畑に取りにいき、新鮮な素材から料理を作ります。フランスの伝統料理が農業から発展したことが描かれていますね。

化学肥料を使わない有機農業は大地や水、そして、私たちの体も汚染しません。主人公が野菜を畑から採る場面を盛り込んだのは、野菜はスーパーで売られているものではなく、大地に根差しているものだと伝えたかったから。食べ物は大地から来ることを私たちは忘れがちですよね。映画内で野菜畑に立っているアンテナは銅線で作られていて、フランスの僧侶が野菜に栄養を与えるために発明したものなんですよ。そもそも、化学肥料がなくてもおいしい食物を育てることができるんですよね。

—今回、フードスタイリストを起用しなかったとか。

通常、テレビや映画では食べ物をよりおいしく見せるためにフードスタイリングをします。しかし、この映画では一切、食べ物を装飾することはしませんでした。撮影のクルーも、「撮影現場で、調理した本物の料理を食べるのは初めて!」と初体験を楽しんでいました。1日の撮影の終わりにはみんなが料理を全部平らげて、一切、食べ物のロスを出さなかったんです。“本物の”料理を撮影する、そして、それを食べる。それが今回のポリシーでした。

—もともと、監督は食の美学をお持ちだったのでしょうか?

20年前から食に関する映画を作りたいと思い、色々な本を読んでいて、この原作に出会いました。実は、日本人女性の料理人を主人公にした本も読んでいたんですよ。結局、プロデューサーがドダン・ブーファンの小説を選んだのですが。

—ドダン・ブーファンは世界の美食家の先駆者だったとか。そもそも、トラン監督と食との出会いは?

私の最初の食育は母から始められました。私の家族はベトナムからの移民で、フランスでは労働者階級でした。だから、食事を囲む器、家や環境が美しいわけではなかった。そのなかでも、唯一美しかったのが母の台所。そこには、マルシェから買って来たばかりの野菜、まだ生きている魚などがいきいきと生きていました。母の美味しい料理を食べるたびに「あぁ、なんて私は幸せなんだ」と感じていましたね。私の母、祖母、そして妻も全員料理が好き。料理を食べて幸せを感じる。なんてラッキーな人生を生きてきたんだろうと思います。

あえて“音楽”を使わなかった理由とは?

—今回、音楽を基本的に使わず、料理の音を際立たせましたね。この映画で聞いた音をまた聞きたいです。

そうですか(笑)。この映画に出てくる料理はレシピもちゃんとあるので、あとで配給会社の人からレシピをもらってくださいね(笑)。私は映像よりも、音の編集にもっと時間をかけます。ポストプロダクションにおいては音が一番大事だと思うからです。それぞれの映像に風味を与えるのが音。色々な台所の音を録音したので、音楽は必要ないと思いました。

—現代は、料理の音を楽しむ余裕がありませんからね……。

そうなんです。音に注力したのは、俳優や観客に“時間”を感じてほしかったから。料理は時間を大切にする格好の行為。時間はとても貴重です。私は料理を作るときのリアルな流れを俳優や観客に感じてもらうために、ワンカット・ワンシーンで撮影したんですよ。

—監督は「色彩の印象派」と呼ばれるほど美しい映像で知られているのに、映像の編集に時間をかけないとは驚きました。映画の冒頭の長い料理のシークエンスは非常に完成されています。

ありがとうございます。冒頭の非常に長い料理のシーンがこの映画における一番のチャレンジでした。これまで、料理のプロセスのすべてを見せる映画は作られてこなかったですよね。だから、それをどうしても撮影してみたかった。確かに、とても難しかった(笑)!なぜかというと、料理人の導線は非常に複雑だから。料理人はどこにスプーンやナイフを置き、次にどう動くかーー。それをどうやってカメラが追っていくか。様々な動きをつなげて、料理人がもくもくと調理する流れを撮影する。これまでの映画は調理している様子を断片的にしか映し出してこなかったですが、私は食の芸術がどのように作られるかを撮影したかったんです。

—料理と映画の制作は似ていると思いますか?

料理と映画は言語的には異なりますが、共通点は“準備”に時間を費やすことだと思います。料理は素材を加工し作り直します。それが新しい味になり、食べてもらう。映画も似ていて、人間の経験を加工して作り直してから、新しい表現を見てもらいます。本質的には似ていますよね。

元カップルだったジュリエット・ビノシュとブノワ・マジメル

—Juliette Binoche はきちんと役作りをして十分に準備をして撮影現場に向かうことで有名です。一方で、監督は現場で演出することで有名です。

彼女は本当に勤勉でストイックな俳優です。Juliette や他の俳優とも脚本について撮影前にディスカッションはしましたが、細かいところまで決めずに、セットで俳優と一緒に作り上げました。何かが生まれる瞬間を映し出したいので、いつもリハーサルなしに撮影します。現場で発見していくのが大好きだから。そもそも俳優たちは、「私のキャラクターならこういう言い回しのほうがよいのでは?」などと撮影前に話してくれるんですよ。俳優からアイディアがあったら、それを試して、数日後や数週間後に俳優と一緒にもう一度見直すときもあります。

—なるほど。この映画で私の一番好きなシーンは、ドダン(ブノワ)がウージェニー(ジュリエット)に「君が食べるのを見ていい?」というところです。非常にロマンチックかつセンシュアルでドキドキしました。あれは監督が考えたセリフなのですか?

はい。誰かを注意深く「見る」ことは、愛を表現する方法だと思います。相手をよく見るということは、もちろん、自分が本当に好きなものを見るということでもあるし、相手のなかに新しさを発見するということでもある。時間をかけて相手を「見る」ことが大事だと思います。画家と同じようですよね。光の動き、色、すべてを見るというか。

—「君の食べるところを見たい」と言われた Juliette の表情が本当に素敵でした。特に、Juliette とBenoît には昔、カップルで別れたという過去があります。だから、2人のラブストーリーは胸に迫るものがありました。あの2人にカップルの役をオファーしたとき、彼らは何と反応しました?

Juliette と私はずっと前からの知り合いで、一緒に映画を作ろうと約束していたので、Juliette の配役は決まっていました。当初彼女は Benoît がこの役を引き受けないだろうと考えていたようです。彼らは20年前に別れているし、一緒に仕事をしたこともない。でも、脚本を読んだ Benoît はすぐにオファーを受けてくれました。とはいえ、別れた2人の演技の相性がどうなるのかは、正直不安でした。でも、撮影中は毎日カメラの向こうで美しい出来事が起こりました。毎日本当に幸せな気分になりましたね。

―それはとても興味深いですね。「愛とは、すでに持っているものに対して求め続けるものだ」という素晴らしいセリフがドダンとウージェニーの間でありました。別れた2人はあのセリフをどのように捉えたのでしょうね?

脚本と違い、Benoît がセリフを発しなかったシーンがありました。そのシーンの撮影が終わったとき、「Juliette の目に夢中になってしまって、セリフが言えなかった。何かを言う必要性も感じなかった」とBenoît が話してくれました。

30年間で7本しか制作しなかった理由

—映画の親密性は真実だったんですね。さて、初監督作品『青いパパイヤの香り』から30年経ち、監督は世界的な成功を収めましたが、7本しか制作していません。なぜたくさん制作してこなかったのですか?

毎回自分にとって挑戦的な企画でないと、作る気にならないから。常に企画を探すのが大変です。例えばこの映画には2つの挑戦がありました。ひとつは、今まで見たことのないような料理表現にチャレンジすること。そしてもうひとつは、夫婦というテーマ。長い関係を築いているカップルには何も起こらないので、それを映画にするのは難しい。カップルは喧嘩もしないし、対立もしない。だから退屈になりかねないですよね。どうすれば人々の興味を引き、深いものにできるか。それも課題でした。

—現代社会において、結婚は難しい制度だと思いますか?

そうですね、離婚も早いですし、特にフランスでは結婚しなくても子どもを持つことができます。つまり、結婚生活を維持するには、価値観をシェアしないと難しいと思います。分かち合いですね。例えば私と妻の場合、私たちは何でも話し合い、分かち合います。死後の世界についても話し合う。彼女は2日前にサイゴンで絵画と彫刻の個展を開きました(妻は女優のトラン・ヌー・イエン・ケーで、『青いパパイヤの香り』に出演後に2人は結婚)。COVID-19の期間は映画を製作できないので、彼女はたくさんの彫刻を制作し、ペンを走らせ、家で意識的にアートを制作していました。私はそんな彼女の興味を一緒に分かち合いたかったので、汚れ物を洗ったり、キャンバスを張ったり、彼女の制作アシスタントとして手伝いました。アートじゃなくても、彼女が好きなことを私も一緒に楽しみたかった。そういう、妻と分かち合う生活は本当に面白くて、大好きです。愛とは「相手を見ること」「分かち合うこと」だと思います。