過去の自分とのやりとりで音を重ねる。原摩利彦がとらえる存在の共鳴
marihiko hara
photography: teo josserand
hair & make up: yuri kohara
interview & text: chikei hara
2009年にアルバム『Nostalgia』の発表を皮切りに、京都を拠点にしながら国際的に活動する音楽家の原摩利彦は、音のアフォーダンスによって悠久の時間の流れにある力強さを描いている。原ならではのスタイルから築かれる音楽は、自身の作品制作に留まらず、メンバーとしてダムタイプへの参加、2016年に開催された名和晃平とダミアン・ジャレによる舞台『VESSEL』の劇伴を坂本龍一との共同制作するなどコラボレーションも多く手掛け、国内外を代表する作家からの信頼は厚い。近年では単独公演『For A Silent Space』でのアンサンブルの制作や社寺や野外でのサウンドインスタレーションから映画音楽や舞台、ダンスの劇伴に至るまで、その活動の幅は多岐にわたっている。
原が音楽制作で参加する野田秀樹脚本・演出による舞台『正三角関係』は7月から始まった東京公演を皮切りに、国内外4都市での上演が予定される。近代文学を代表する作家・ドストエフスキーの最高傑作と名高い長編小説『カラマーゾフの兄弟』を起点に、「日本のとある時代の花火師の家族」として唐松族の物語を創作した舞台である。公演に合わせて東京に滞在した原に、制作との向き合い方と彼の根底にある思想の捉え方について、対面で話を伺った。
過去の自分とのやりとりで音を重ねる。原摩利彦がとらえる存在の共鳴
Portraits
ー近年のライフスタイルや制作に変化はありましたか?
プライベートでは2020年に子供が生まれたこともきっかけになり、パンデミック以前と以後では全く働き方が変わりました。それまではやりたい様に仕事を優先して、自分が好きな様に色んなところに飛び回っていたんですけど、2020年は特に1年間全く外泊しなかったですし、それ以降も家族中心の生活に変化しました。息子は現在4歳になりますが、2歳になる頃からは自分の仕事現場を見せるようにしています。今年ソウルで行った韓国国立現代舞踊団の公演にも一緒に現地まで行き見てもらいましたし、今回の舞台でも1ヶ月ほど東京で過ごしながら稽古場に連れていき、レコーディング現場では指揮を体験させたりもしました。このライフスタイルになってからはやはり子供との時間を1番に考えるようになりました。
ー制作面でも、お一人で没頭していた時とは違いを感じますか?
変化はやはり感じますね。プラクティカルなことで言うと、作曲する時間が極端に短くなりました。それまでは1日中やって朝まで作業していたんですけど、今は息子を幼稚園に行かせず妻と2人で育児をしている関係もあって忙しくない時間が本当に無くなりました。子供が寝付く19時ごろからやっと仕事し始めて、1日に2~3時間と限られた時間でもかなり集中して制作できる様になりました。大体は育児で疲れてダウンしてますけど笑。でも前よりクオリティが上がったというか、より深い音楽が作れてるような気はしてます。自分にとって今の家庭や環境の変化がそうさせてくれていると感じます。
ーちょうどお子さんが生まれた年は、前作のアルバム『Passion』を発表された時でもありますね。今後発表されるであろう作品やアルバムは、子供が生まれた後に制作されたものと言うことになる?
ちょうど今は次のアルバムを作っているところです。まだコンセプトなどは見つかってない状態ですが、この1年はパレスチナの悲惨な状況があって毎日殺されてる子供たちがいる状況を見ていると、自分の子供だけではなくもう少し広がって見えてくるというか。彼らのことも自分たちの子供として見る気持ちになってきてます。実際にインスタなどでパレスチナで暮らしている人と直接コンタクトを取り、ドネーションなどもしながらこの問題について考えています。自分の家の庭に落ちた爆弾が不発弾だったため、ギリギリで生き延びることができた話を実際の写真と共にそのまま教えてもらいました。今はそこが自分の中で考えたい部分です。
ーパレスチナの凄惨な状況がそこにある環境の変化は大きな事実です
普段音楽を作る動機はさまざまで、自分から音楽を作るときもあれば、依頼されて音楽を作るときもあります。依頼されることが嬉しいし、それはそれですごく楽しいですが、同時にその経験から培ったことをソロの作品をアルバムとしてまとめる過程につなげられたらいいですね。ただ気持ちいいから、キャッチーだからということだけではなく、何かと一緒になることで初めて作品として形にできたらと思ってます。なかなかすぐはできないんですけどね。
ー少し抽象的な質問になりますが、原さんの音楽に共存している完璧さと不定形な余白はどのようなバランスから制作されているのでしょうか?拝聴していると、空間的な広がりもあるような、クリアだけど物質感も感じさせるような印象を受けます。知覚可能な距離で捉えられるような音作りというか。
自分は完璧主義者ではないので結構いい加減な性格だと思っていて。とにかく根から明るい性格なので、ポジティブな気持ちを常に持っていて、もういいやと投げたくなる気持ちとしっかりしなければと思う相反する要素があると思ってます。なので作曲する時は時間を置いて寝かせるようにしています。作ってすぐに出すことはあまりなくて、しばらく経ってからもう1回聴くようにしています。あとは今作った音だけではなく過去に作った音の素材を持ってきて重ねることが多いですね。シンセサイザーソやソフトウェアの音と自分でフィールドレコーディングしたものなど、いろんな素材が混ざり重なりあうところで音楽を制作してます。
ー時間を置くことで一体になる?
技術面でもそう感じることがあって、自分の耳もやはり変わっているので昔良いと思った音でも今聞くとすごい固く感じたりしますが、過去の古い音と新しい音をミックスすると広がりが生まれることもあります。もちろん今の自分としてアルバムを発表するので、全て新しい音で構成するあり方もいいんですけど、そうした時に音色のマンネリズムがある気がして、それを誰かとのコラボレーションや演奏によってでも解消することはできますが、過去の自分とのやり取りを通して1つの自然な成り行きとして築いています。
ー過去の音はどうやって引っ張り出しているんですか?
自分のパソコンのローカルフォルダ内にあるファイルを検索で当てずっぽで聴くような探し方をします。もちろんプロジェクトによっては制限があるものもあるので注意しながらですが、例えば “piano” や “pf” と入れると、どのファイルかわかんないけど何かが出てくるので偶然性に任せるところもあります。データベース上での操作と楽器に触れる感覚とかが重なり合うような制作の仕方ですね。結構エレクトロ寄りの制作スタイルだとは思います。ピアノの鍵盤に触りながら作る時もあるんですけどコンピューターの作業はとても多いです。最近ではフルオーケストラじゃないですけど、3〜40人ほどのアンサンブルを書く機会も増えてきて編集や加工、パート譜作成までコンピューターで作業を行ないます。
あとこれは音色に関係しますが非西洋楽器とよばれる楽器への興味はやはり強いです。これまではサントゥールというペルシャの打弦楽器や笙を使うこともありました。最近では工藤煉山さんという「空道」という特殊な尺八を自ら作る奏者と制作しました。彼は竹を取って切るところから始めて、細かく調整しながら音を作ってる方で、一般的な尺八の音だけではなくアボリジニのディジュリドゥのような音を出せたりします。今はペルシャやアラブの音楽に興味があります。
ー非西洋的なメロディー、リズムにはどの様な魅力を感じますか?
例えばサントゥールと一緒に演奏するときに、楽譜を書いてこうして弾いてくださいと指示するのではなく、古典の形式を音楽に取り入れる様なあり方を考えます。よくやるのは話し合いをしながら、古代から伝わる旋律・音型から、作品の題材に合うものを引いてもらい、共存できるような音を一緒に考えていくような作業です。
ー協調というか?
協調してない時もあって、はたまたリミックスとも違うんですけど、それがコンピューターでエレクトロミュージックをやるようにやりやすくて、ピアノとは合わない音であってもそのずれを楽しむこともあります。コンポジションという言葉って元々は配置という意味だから、いろんな音を配置するだけで1つの音響体というか音楽になるはずで。そうしたスタンスは数年前から一貫しています。
ー劇伴制作も同様の組み立て方を?
舞台作品では題材について考えてディレクターにこうしてほしいと要求されるよりも先に、自分はこう考えてるということを示す制作をしています。例えば関係する土地まで行って音を収録したり、関係する音色や楽器探しから行うこともあります。武満徹は映画音楽でいろんな楽器を使ってみる試みをしていました。
ー自身で台本から解釈しながら、ラリーをすることが音作りやインスピレーションの膨らみにつながる?
舞台の中でも芝居については、実はほとんど野田さんの作品しか手がけたことがありません。始めて野田さんのお仕事をもらったときは、これからは劇の仕事がいっぱい来るだろうと思いましたが全く来なくて笑。野田さんの本は難解すぎるので、台本だけだとちょっと分からないんですね。なので稽古場に多く立ち会います。稽古初日から毎日稽古場に行って本読みを聞いて足りない音を考えたり、立ち稽古になると毎日音響さんに音を渡して、芝居と合わせます。違うってなったらその場で常に修正していきます。
ーその難解さは今回の舞台だから?それとも野田さんだからこそですか?
野田さんだからですね。新作の場合は稽古場で台本に修正が入りながらどんどん変わっていきます。野田さんがどこを向いてるのかなというのを常に考える様にしています。これはどういう意味ですかと聞くんじゃなくて、野田さんがどこを目指して何を見てるのか、寄り添いながら見て感じることでもあります。あと最近は、野田さんからあまりオーダーがなくて。もちろん違う時は違うと言われますし、ここにSEが欲しいというオファーはボンボン言われますけど。メインテーマに関してはそんなにオーダーがなくて信頼してもらってることを感じます。だからこそ余計に緊張はするんですけどね。
ー自身の制作から演劇、ダンス、映画音楽に至るまで本当に多様ですよね。
この数年で特に映画音楽を本格的に手がけるようになってきて、今年もある映画に関わっています。坂本龍一さんと共同で音楽を担当したダミアン・ジャレの『Omphalos』では、メキシコシティに僕だけが行って3週間かけて最後仕上げをするやり方をしました。最近の韓国国立現代舞踊団は、事前に仕上げてから調整していくようなやり方です。それぞれ作り方が全然異なりますね。自分は飽きっぽいというか、1つのことをずっとやるのがあんまり好きじゃない性格なのもあって、色々やれる方が楽しいですね。
ーコンテンポラリーダンスの場合はどのような制作の組み立て方を?
この間まで立ち会いをしていた韓国国立現代舞踊団のダンス公演でも特に、オーダーがなく60分作ってくれというオファーを受けたので結構大変でした。でも違うのは違うと言われます。現地入りするまでは送られてくるビデオを見ながら合わせていき、 現地では毎日リハーサルに立ち会って、気になったところを少しずつ修正していくような形です。初演が終わってもう少し改善できるところをアップデートしていく。今オランダでやっているエラ・ホチルドの作品への音楽では、数ヶ月前から少しずつ曲を出していき、彼女たちのリハーサルが始まると NODA・MAP の稽古終わりに毎晩電話がかかってきて修正をしていました。でも電話の内容も、こうしてほしいというよりかはビデオを見てどう思う?と言われ、対話をしながら作り上げていくという方法です。全然みんなやり方が違うんで、その場、瞬間で合わせていくような形ですね。
ーその時はより自分を出していくようなコミュニケーションになるんですか?
こちらの流儀があまり通用しないような場面でもあるので、逆に自分を出さないように心がけていますね。 1番大事なのは自分の音楽がその作品に合うかどうかなので、自分が一歩引いた時にどれだけ自分の良さが残るかが一番大事になります。「自分」を出す時の判断って結構良くなくて、エゴが出る時ほど罠にハマりやすいというか。それはソロのときとは別のあり方で、劇伴や映画、舞台の劇伴ではそこが1番大事かなと僕は思います。
振付家と話しながらコミュニケーション取ってるうちに段々とわかってくることもあるので、ダメと言われるだろうと思いながらあえて音出すこともあります。でもそれは結構必要な手続きで、こういう音楽って口で伝えてもやはりズレがあるので、音として出さないと伝わらないこともあります。歌舞伎の人と仕事する時には演目がみんなの中にアーカイブされているので、例えば忠臣蔵の何段目を持ってきてこうしましょうというような伝え方で通じますよね。自分の場合はやはり電子音響的な部分があるので口では伝えられないことが多い分、きっちり出して反応を見るようにしています。
ー現在の原さんの興味や関心は?
人間が音をどのように捉えるかには一貫して関心があります。日本列島に住んでいた古代の人の夜への接し方とかは今とは全く違いました。当時の人たちにとって、夜というものは異界での恐怖や畏怖そのものでした。今よりもっと遠くの音も聞こえただろうし、どんな音が聞こえていたか、それをどの様に耳を澄ませて人々が感じていたかに興味がずっとあります。平安時代には鳴動がありました。天変地異や政変が起こる前に、 春日大社や神社の石や山がゴゴというような音を立て、またはポンと空気が抜けるような音がなっているという音の記述が残されています。そういうものへの興味と音楽は直接的に結びついているというよりかは、地下水脈でつながっているような印象ですね。
ー話題は戻りますが、
夫を爆撃で亡くし、1歳の子供を育てながら出産を直前に控えてテント生活をしている人や15歳や13歳といった年齢の子たちが家族を支えるために日々奮闘していることを知りました。現地の物価が高騰しており、爆撃から逃れるための避難にも輸送費と避難先のテント (闇市で売られている) にも相当お金がかかります。病院で出産しても2時間後には灼熱の不衛生なテントに新生児と帰らなくてはなりません。どうしても見過ごすことができなくて、部屋を借りる資金を寄付しました。その他、何人かにも支援していましたが、次第に「10カ月ぶりに果物を食べた」「鶏肉を食べた」と報告をしてくれるようになり、少しずつ信頼関係を築きました。今では毎日「どうしてる?」とメッセージが届きます。
自己資金で支援を続けるのは難しいので、支援しているパレスチナの人たちに「寄付を募るための音楽を作りたいから声や音を送ってもらえないか」と相談したところ、「喜んで!」と音を送ってくれました。そうして出来たのが『To the sea』です。ジャケット写真も提供してもらっています。今は Bandcamp のみで販売し、売上全額を寄付しています。この曲を発表してから、子供たちの声やパレスチナの音がどうやって音楽になるのかを理解してくれたようで、新しい音を何も言わなくても届けてくれるようになりました。
自分の音楽を通して、今、僕が知りうる世界の状況を共有できれば嬉しいです。また以前SNSで流れてきた動画で “Palestine does not exist.(パレスチナなんて存在しない)” と白人女性が嘲笑って叫んでいるものがありました。この言葉がどうしても忘れられず、そしてとても傷つきました。この言葉に対して、今僕は音楽を作って抵抗しようとしている気がします。今後、仲間たちに声をかけて、作品を増やしていこうと思っています。