tsuyoshi domoto
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僕は、僕を生きる選択をする。堂本剛が辿り着いた現在地

tsuyoshi domoto

photography: utsumi
interview & text: rei sakai

Portraits/

堂本剛の独自性に気付かされたのはいつ頃からだろうか。世間が抱くアイドルのイメージに捉われることなく、自身の表現を突き詰めていくその様は、彼にしかできない生き方があることを教えてくれる。

2024年10月に公開の映画『まる』では、主人公であり現代美術家のアシスタント・沢田を演じた。荻上直子監督が当て書きで書いたという本作は、一見堂本と正反対の受け身なキャラクターのように思えるが、表現者としての成功とは何を指すのか、自分が幸せである状態はどこにあるのか、それを模索していく様を見ていると、いまの堂本が辿り着いた場所へ向かっているようにも思える。本作を通して堂本が感じたこと、表現における自己の貫き方、自分自身を捉える方法について、話を聞いた。

僕は、僕を生きる選択をする。堂本剛が辿り着いた現在地

—本作へのコメントの中に、芝居人生で一番難しいものになるとありましたが、具体的にどのような部分がチャレンジングに感じたのでしょうか。

このお話って、スーパー受け身の役だったので、物語りの展開にあれよあれよと巻き込まれていくだけというか(笑)。それが面白いところなんですが、とても難しかったですね。自分発信で事を荒立てたり、沈めたりする方が楽ではあるなと思うので。ドタバタが周りでうごめいている中で、自分は無に近い境地で対話するという感じでした。現場で監督に、「これってどういう気持ちで言っていたりするんですかね」と質問した時も、監督は「きっと」とか「多分」という返答も多く、現場で答えを定めていったシーンもあって、そこも含めて難しかったなと。ライブ感があってとても楽しかったです。

—日に日に飛躍していく沢田に対して「求められていることに応えるのもアーティストとしての義務なのよ」と投げかけられるシーンがあります。今回は当て書きということで、堂本さんご自身の経験と重なる部分もあったのではと思うのですが、このセリフについてはどう感じましたか。

そのセリフは、理解出来なくもないけれど、複雑な気持ちになりましたね。求められることは幸せなことなんですけども、常に応えることだけが人生ではないよなって。誰もが人生は一回じゃないですか。だから誰もが自分の心を大切にして良いとも思いますし、これは好きとか、これは嫌いって色々な方の意見がありますけど、僕は僕を闘いながら生きてきましたし、僕の中にある正義とか真実がいつもちゃんとあります。誰か他の人のことを意見する時間があったら、自分について考えたいし、自分と向き合う時間に変えたほうがいいなと僕は思って生きてきました。やっぱり自分がこう生きていきたいという心にただ素直に向き合っていたいな人生は、ってそんな気持ちになりましたね。

© 2024 Asmik Ace, Inc.

—堂本さんのこれまでの活動を拝見しても、自分を生きることに徹底されていますよね。

人生というものは人それぞれで、それが人生というものだから、自分がとやかく言えないんです。相談される時は違いますけどね。だから沢田の選択も、まあ別にええやんと思いながら読んでいました。自分のことをわかってもらえないって葛藤している人もいると思うんですけど、そりゃそうですよね、自分じゃないんだから。だから、わかってもらう必要もないと思うんですね。突っぱねているわけではなくて、わかりっこないから。このわかりっこない自分の人生を愛を持って理解しようとしてくれる人と一緒にいることは幸せだと思うんですけど、理解しようともしてくれない人、そういう人と一緒に過ごすのは疲れちゃいますよね。そういう視点を持ちながら、きっぱりした感覚で過ごしてるんですよね。

—映画の中で、“諸行無常”や“福徳円満”など、仏教の考えが要所要所で使われていました。人が悩み立ち止まるところ、そしてその答えを見出す先は何年経っても変わらないのだと改めて感じましたが、堂本さんは、先人の思想に答えを見出すことはありますか?

若いときはそこまでピントを合わせていなかったんですが、とはいえ20歳くらいから、自分の生まれた場所、奈良の勉強をするようになりました。そこには1300年前、もっと前から生きていた人たちの色んな想いが息づいているので学ぶことはたくさんありますし、自分のアートワークにも大きく反映しています。たとえば異文化コミュニケーションでいうと、奈良に都があった時は他国の影響をたくさん受けていますけど、コミュニケーションしすぎることで、自分が何なのかすら分からなくなるのは、一番もったいないですよね。我々にとってズレてしまったピントを合わせるという意味では、日本人がいままでどういう想いで生きてきたのかを知ることは、すごくいい時間になるだろうなと思っています。僕は元々そう考える癖がついているので、昔の人はこうやったんやなあとか、おじいちゃんおばあちゃんの話から吸収していました。それこそいまは東京で生活していますけど、奈良県民が東京で仕事してるという感覚を持っていた方が、ピントがボケないのでいいんですよね。自分から自分が幽体離脱していかない感じがあるというか。

—自分が幽体離脱してしまいそうになるとき、どのように自分を認識して、自分に立ち戻っていくのでしょうか。

現在地を見ることですね。Google Earth みたいにバーって引いて見た時に、ここまで歩いてきて自分がやりたいことどれだけできたんかとか、自分が本当に自分として生きれた瞬間がどれくらいあったんか、俺に語ってみろよって。んー、この時は楽しかったな、この時はすごい生きがいを感じたな、この時は本当にすごい嫌やったなとかを振り返って、「で、今どこにいるの?」って問いかけるんです。「いま僕はここに立ってます」、「この後どこに向かって歩いて行きたいんですか?」、「入った部屋を右に向かって歩いて行きたいです」、「じゃあどうすればいいん?」、「んー、こうした方がいいと思います」、「じゃあそうしたらいいやん」くらいの感じで、どんどん自分と対話する。そうしたら、その選択をするためには、どういうことが必要なのかとか、どういうことをすればちゃんと礼儀正しくいけるのかとか、そういうことが見えてきて、少しずつ進んでいくんです。あとは、地元に行けば、とりあえず一回全部シャットアウトできるんですよね。景色をぼーっと見ていたら、ここから始まったんだなっていう自分の原点に立ち戻れるし、現在地も見える。過去でありながら、現在でもあって、未来でもあるみたいな、時空間すべてを持っている場所なので。いまの都の東京に住んでいて、昔の都の奈良に立ち戻るっていうのも、ちょっとSF感があって面白くて。いま話しながら思い出しましたけど、地元に行くことで結果、答えを出してきたっていうことが多かったですね。

—自分の原点に戻ること、大切にしたいです。

やっぱり全部持っちゃうからややこしくなっているんだと思います。テレビを家に置かへんとか、スマホを持たないとか、全部持ったとしても、その機能をすべて活用しなければ、そんなに世間というものに縛られない気もしますし。あとは、すべての人に「この人いいな」って言ってもらうために生きようとしたら、しんどいことになると思うんですよね。自分が好きなヘアスタイルして、メイクして、ファッションして、それで嫌われたら別にそれでいいやんと思ってるところがあります。自分はあんまり気にしてないかな。すべての人に好かれようと思って生きていないから、楽なんだと思っています。