Yoko Yamanaka
Yoko Yamanaka

山中瑶子に訊く、“映画の作法”と“いい加減さ”を兼ねた映画の作り方

Yoko Yamanaka

photography: chikashi suzuki
interview & text: aika kawada

Portraits/

弱冠27歳。山中瑶子監督にとって長編商業映画一作目となる『ナミビアの砂漠』が公開されて2ヶ月近くが経つ。公開直後の熱は冷めやらず、今もなお、驚きと感動が広がり続けており、映画館へ足を運ぶ人が絶えないという。カンヌ国際映画祭で高く評価され、山中監督が「国際映画批評家連盟賞」を女性監督として史上最年少で受賞したことでも知られる本作だが、それよりも日常的に「ナミビア、観た?」と多くの人が話題にしている印象が強い。鑑賞後の感想は賛否両論で、作中の細かい演出や意味深な結末についてまで憶測が飛び交うのも興味深い。現在進行形で最もホットな話題作なのだ。
主人公は、河合優実が演じる21歳のカナ。今どきの女の子で、一見20代を謳歌しているようだ。しかし、自由奔放で粗雑な彼女の一挙一動に見え隠れするのは、退屈さ、絶望、やり場のない苛立ちなど。嘘つきで暴力も辞さない癇癪もち、そのくせ人一倍傷つきやすいカナの言動は、次第にエスカレートしていく。彼氏を優柔不断なホンダから自信家のハヤシに乗り換えて、新たな生活を始めてみても彼女は満たされない。勤め先の脱毛サロンも、最低限の人間関係はあるものの空虚さが漂う。彼女が七転八倒し、傷だらけになって行き着く先とは。
本作の類い稀な面白さについて、フォトグラファーの鈴木親と紐解き、撮影するにあたっての秘話、さらには山中瑶子監督の知られざる半生について監督自らが語ってくれた。

山中瑶子に訊く、“映画の作法”と“いい加減さ”を兼ねた映画の作り方

—映像作品に関心を持つきっかけとなった作品はありましたか?

山中: たくさんあって、正直どの作品かわからないです。子どもの頃は親が厳しくて、自由に映画やテレビを見せてもらえない環境で育ちました。でもピアノ教室や絵画教室には通ったりと、習い事はしっかりさせてもらっていたんです。なので、もともと広く芸術に関心があった方だとは思っています。

鈴木: 映画館へ行くようになったのはいつですか?

山中: 高一のときですね。当時、数学が苦手で点数が悪かったので、先生に気に入られたいと思っていて。学校の近くに映画館とボウリング場が併設している商業施設があったのですが、映画館の半券を持っていくと、ボウリング1ゲームが無料になったんです。ボウリング好きなその数学の先生に「映画館に行ったら半券をください」と言われていたので、友人たちと映画館に行くように (笑)。そのうち、地元の長野市にもミニシアターがあることを知って一人で通うようになり、そこでいろんな作品に触れました。ある日美術の先生に、映画にハマったと言ったら、「これを観たほうがいい」と Alejandro Prullansky (アレハンドロ・ホドロフスキー) 監督の『ホーリーマウンテン』と Peter Greenaway (ピーター・グリーナウェイ) 監督の『ZOO』を渡されました。

鈴木: サイコパスじゃないですか (笑)。すごいチョイスですね。

山中: 今思うと、本当にやばいですよね。でも、それがきっかけでグッと作家主義の作品に興味を持ちました。それから日々 TSUTAYA でランダムにレンタルして観たり、映画を観るために東京まで出たりするようになりました。

—山中さんの場合、映画の鑑賞時期がぎゅっと凝縮しているんですね。そして、大学では映画製作を学ばれたと。

鈴木: 映画に対する感覚は、映像作品という感じなんですか?

山中: いや、もう「映画」ですね。総合芸術だと思っています。

鈴木: 映画が総合芸術だと自分で気がついたんですか?

山中: いえ、本かなにかを読んで知ったんだと思います。

鈴木: 昔の話になりますが、映画『ガンモ』の取材で日本に来ていた Harmony Korine (ハーモニー・コリン) 監督に出会って。「写真は死にゆくメディアだけど、映画は全てを網羅しているからいかなる芸術の上だ」と偉そうに言ってきたんです。でも「確かにそうだな」と思ったんですよね。

—大学を中退されていますが、理由はなんだったのでしょうか。

山中: その時期は私も尖っていて…。学校に覇気がないし、行っても士気が下がるというか。念願の日芸の映画学科監督コースに入っていたのですが、小学校のように先生が教えた順番にやっていきましょうという感じで。課題にジャンプカット(映画の流れの中で時間を超えてつなぐカット方法)を使ったら、まだ教えていないから使うなみたいなことを言われて。

鈴木: 普通に映画を観ていたら、ジャンプカットくらいは分かるような気もするけど。

山中: 大学のすぐ近くに家を借りなかったこともあって、地味に遠いし、心理的にも行きたくないので朝起きれなくなってしまって。ゴールデンウィークに実家に帰省して、親に「もう辞めたい」と伝えました。

—その頃はどのように過ごしていたのですか?

山中: その時期は、映画を撮ろうという気持ちもすぐには湧かず、とにかく映画を観まくる日々でした。1日に3本くらい観ていたかな。基本、一人で見ていました。というのも、クラスメイトは広告的な作品に惹かれる子が多くて。私はジャンルを問わず観るべきだと思っていたのですが、好きなジャンルにだけ興味がある人がほとんどでした。なので、映画を総合芸術だと捉えている人もまだいなかったと思います。

—映画鑑賞に没頭したのは、視野を広げるためにですか?

山中: そうですね。自分がどういう映画を作りたいかわかっていなかったので。ひたすらに観て学ぶ、ということをしていました。

—いろんな監督のいいと思ったところを躊躇なく引用して、ご自身でも「真似している」とおっしゃっているのも印象的です。

鈴木: たくさん要素が入っているから、『ナミビアの砂漠』の引用を細かく辿っていったら、たくさんの映画監督や作品に出会えると思うんです。最初、何も考えないで映画館で鑑賞した時は、Ari Aster (アリ・アスター) 監督の『ボーはおそれている』のアンサー作品のように感じたし、ところどころに David Fincher (デヴィッド・フィンチャー) 監督の影響も感じた。手ぶれが映像の中にある不安な感じは、今の東京の若い子たちの気持ちがセリフを介さずに伝わってくる。その表現は、Wong Kar Wai (ウォン・カーウァイ) 監督の『恋する惑星』みたい。これも香港返還前の作品だから、当時の若者の不安を表現していると考えられるしね。とにかく、言葉ではなくて映像手法や仕草で表現しようとしているのがすごいなと。

山中: セリフで説明しないことは気をつけています。そうならないために、何かほかの表現はないかなと探っています。リハーサルを入念にした上で、現場でもまだ違和感が残っていればセリフは変えますし、役者がしゃべりにくそうだなと思わないところまでなじませたいというか。

鈴木: ぶっ飛んだキャラクターでもセリフが頭に入ってくるのは、言葉がリアルだから。形式的なテキストみたいな言葉だったら「こんなやついないよ」となって、登場人物に共感できない理由になったりするし。

山中: もちろん、中には「なんて説明的なセリフなんだ!」と思いながらも素晴らしい映画もあると思うんですけどね。

鈴木: そういう作り方をしている作品は、また話が変わってくるとは思います。『ナミビアの砂漠』はそういう風に作っていないからこそ、全体を通して自然に繋がっているように感じるんだと思うんです。タイトルが出てくるまでも44分くらいかかるし、文字の入れ方も独特。無茶な感じだけど、映画の歴史を踏襲しながら新しい要素も入れているのがいいなと。

—タイトルは、なぜあのデザインに?

山中: タイトルは止め画で出したいなというのは当初から考えていて。あのシーンでどこを止めようと思って探したら、カナのすごくいい瞬間があったんです。でも、そのカットを選んだら、タイトルを入れられる場所が左端にしかなくて (笑)。投げやりな部分もあるんです。

鈴木: デジタルのちょっといい加減に見える映像やいきなり入るズーム、固定しているけど画面が揺れているとか、絶妙にエモーショナルな表現になっている。雑なようで丁寧。矛盾する要素が入っているのって大事じゃないですか。そのバランスが良くて。近年の人で、こういう表現ができる人がいるんだと驚いたんですよ。「また映画を観よう」と思わせてくれるというか、自分に映画熱が戻ってきたんですよね。

山中: 光栄です! そういえば、もちろん『ナミビアの砂漠』が完成した後に『ボーはおそれている』を観たんですが、「Ari Aster 監督は、同じことを考えている!」とすごく驚いてしまって。親子観も含めて。

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—それは、嬉しい驚きだったんですか。

山中: 何か同じトラウマでも抱えているんじゃないかと推測してしまいましたが、めちゃくちゃ嬉しかったです。正直、ヒットした『ミッドサマー』はあまり好きではない作品だったんです。世間一般的には、『ボーはおそれている』の方が評価されていないじゃないですか。だから、ちょっと悲しい。

鈴木: 山中さんが他の監督と違うと思うのは、他者についてもちゃんと描いて、その上で人々が交錯するというところ。『ナミビアの砂漠』についても、1つの視点では語れないというか。そこは『ボーはおそれている』に似ています。よく、“現代版の〇〇監督”と例えたりするけど、山中さんは他の誰にも置き換えられないような気がするんですよ。

—カナのようなエキセントリックな登場人物を描くことに葛藤はありましたか?

山中: 観て嫌な気持ちになる人がいるだろうなとは思っていました。何かのトラウマを誘発させるような要素はある内容なので。でも、それは避けてはいけないという気持ちもありました。いかに映画の中で倫理的に間違った人を描くか。映画で描いちゃいけないものは無くて、描き方だと考えています。何を撮っても傷つく人はいると思うけど、自分なりの倫理観をもって、いろんな人の話を聞いたり、できることをする。あとは、思いきりダメな人間を描いた作品をたくさん観ました。それで、「大丈夫だな」と自分が納得できて責任が取れるラインを探ったんです。

—カナが彼氏と取っ組み合いの喧嘩になったときにうまいこと殴り返していて、全然負けていない。男女のキャラクターのパワーバランスの描き方も新鮮でした。

山中: カナが男性や物語の展開に従属しないように描きたかったですね。男性の描き方については、いろんな意見をもらったのですが、女性に都合が良すぎだと言われたこともあります。

鈴木: 男性の登場人物には、納得感がありましたけどね。その場を収めるために適当に謝る感じとか。男性側が料理をマメにするのに対して、カナは調理していないものをむしゃむしゃ食べるのも今っぽいなあと。

—一方で、様々な年代の女性が登場して、同性間は縦の関係が描かれていますね。

山中: 脱毛サロンの後輩は、かつてのカナかもしれないし、隣人は未来のカナかもしれない。今はカナが混乱している時期であっても、彼女のこれまでとこれからを決定づけるものではないと。それをすごく考えていました。

—そのような年齢が違う同性間の関わりは、何からインスピレーションを得たのでしょうか?

山中: うーん。やはり母親ですね。カナは、母です (笑)。というのは冗談ですが、小さい頃から母の感情の波を見てきたので。自分はこうはならないぞと思うじゃないですか。でも、そういう感情表現が私にも内面化していて、出そうになるときがある。あのときの母はこういう感情と思考の流れだったのかと、と今になって答え合わせしているような気持ちになることがあります。

—カナの勤め先が脱毛サロンという設定も秀逸で、いまの社会のムードが表れていました。どのようにして思いついたのですか?

山中: お客さん側の大学生の立場だったことがあって。18歳くらいの時に、友人に誘われて脱毛サロンにカウンセリングに行ったんです。作中に3人組の大学生が登場しますが、まさにあれは私。その場のノリと今日を逃すと料金が高くなるという売り文句で、まさかまんまと契約させられることになるとは (笑)。当時は何も知らなかったし、いい社会勉強でしたね。

鈴木: 人をよく観察していますよね。映画の人物設定に無駄がない。『あみこ』のレディオヘッドが好きかサンボマスターが好きかという設定も良かった。それだけで、どんな人物かがわかるんです。カナの服装や歩き方、食べるもの、日焼け止めの塗り方に至るまで全部そう。Sofia Coppola (ソフィア・コッポラ) 監督の『ロスト・イン・トランスレーション』もだけど、登場人物は全部周りの人だからね。

—カナのネイルの色やスタイリングなど、スタイリストの高山エリさんに、衣装についてのリクエストはしたのでしょうか?

山中: 一番はヘルシーにしたいと。あと、カナ自身に明確な好みがあるというよりも、ざっくりとした「これは着ない」とか「この色は選ばない」という感覚の方が強い気がして。では、カナのテーマカラーを決めましょうとなり、曖昧なレモンイエローにしました。

鈴木: レモンといえば、本田が出張から帰ってくる時のカナのふらふらとした歩き方に、梶井基次郎の小説『檸檬』を思い出したんです。なんとも言えない虚無感と不安感、閉塞感が。

山中: 梶井基次郎の『檸檬』は学生時代のバイブルなんです。子どものとき、唯一本は読むことを許されていたので。逆に言うと、それしかやることがないというか。当時はみんなと同じようにゲームとかしたかったのですが、そういった環境の影響は、今思うと良い意味で大きそうです。

鈴木: 作品からいろんな過去の文学や映像作品が頭をよぎるのが面白い。きっとダイレクトに引用してなくても、山中さんの血肉となっていて作品に表現されているんでしょうね。よく見ると部屋の中が反転していたり。細かな仕掛けに、どうしても何度も見て考察したくなるんですよね。

山中: ちょっと遊びすぎちゃっただけなんですが (笑)。

鈴木: 今の日本や世界情勢だと、先が見えない不安が漠然とありますよね。こういう時代はいい作品が生まれるんです。だから、第2期映画黄金期と言われるのもわかる気がする。フランスの90年代も経済が落ちて同じムードだった。仕事がなくて子どもも減って、どうしようもない状況だったけど、そんな時代だからこそ若い人にチャンスが訪れたんですよね。Vincent Cassel (ヴァンサン・カッセル) が主演だった Mathieu Kassovitz (マチュー・カソヴィッツ) 監督の『憎しみ』や Leos Carax (レオス・カラックス) 監督作品もそう。

—先ほど、映像に遊びを入れすぎたとおっしゃっていましたが、具体的にはどのアイディアのことですか?

山中: スタッフは若くて、20〜30代が多かったんです。脚本を書いている段階から話を聞かせてもらっていて、「何でも思いついたら言ってほしい」と言ったら、本当に何でも教えてくれて。部屋の反転も、途中に登場するルームランナーも私の発想ではないんです。アイディアを出してくれた人も、初めに明確な理由はなく直感的に思いついたらしくて。

鈴木: インプロ(即興)みたい。でも、それがジャストアイディアだけで入れている感じもしない。現場がいいんですね。

山中: まさにそうです。ほかの人からのアイディアは、自分で納得いく理由を見つけられたら採用するようにしていました。例えば、相手が経験値がない人であっても、私はその人の直感を信じているんです。むしろ、経験のある人の方が経験則で話しがちなので。同じことの繰り返しというか。高い完成度は後々ついてくるものだと思っているから、比重は置いていません。だから、いい加減なところも積極的に取り入れています。

鈴木: 芸術はそうですよね。突発的なものと経験値がいい比率で成り立っているもの。そのバランスがピタっとハマっているんだと思う。危うさみたいなのも感じるし。

—今後、描きたいものは何でしょうか。

山中: 一度、個人の話は離れたいと思っています。集団や組織のようなものを描いてみたいです。あとホラー。

—「Z 世代の映画監督」と言われることについてはどう思っていますか?

山中: 一度も Z 世代を描こうと思ったことはないし。そもそも、私は明確な Z 世代ではなく、ミレニアルとの狭間らしいんですよね。どちらでもいいんですが。だから、Z 世代は年長者がよく分からない若者に対して使う言葉くらいに思っています。

鈴木: 『ビフォア・サンセット』の Richard Linklater (リチャード・リンクレイター) 監督や音楽なら Nirvana (ニルヴァーナ) を「ジェネレーション X」と呼んだ時代もあったけどね。本人たちは、どう呼ばれようが気にしていなかっただろうけど。

—カンヌ映画祭では、毎回女性監督の発言についても話題になっていますが、山中さんご自身は、女性監督であることについてどう考えていますか?

山中: うーん。言わないと誰もやってくれないから。何でもかんでも口にしないと、すでにそこにいる人たちの都合のいいようになってしまう。だから、私も気軽に発言していきたいとは思っているんです。以前、大林宣彦監督と山戸結希監督のトークを聞く機会があって、その時に大林監督が「まだ世の中には50%の映画しか存在しない」と言っていて。それは男性監督たちが撮ってきた映画だと。残りの半分は君たちが作っていってとおっしゃっていたんです。「すごくいいこと言うなあ。その通りだなあ」とグッときたのを覚えています。もちろん、ほかのジェンダーマイノリティの監督も活躍できる映画界であってほしいです。

鈴木: 男性監督と女性監督、どちらが優れているとかではなく、人口比率の問題だと。これからも山中さんの活躍、期待しています。

©2024『ナミビアの砂漠』製作委員会