sophie calle
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現代美術家ソフィ・カルを惹きつける「不在」なるもの

sophie calle

photography: kanade hamamoto
interview & text: masanobu matsumoto

Portraits/

トレードマークのキャッツアイのサングラス。ウエスト部分には、ちょうどインタビューの数日前に授賞式で受け取ったという「高松宮殿下記念世界文化賞」のメダルがベルト代わりに巻き付けられている。その出立でカメラの前に、少し微笑んで立った Sophie Calle (ソフィ・カル)。現代のフランス、いや世界のアートシーンを代表する現代美術家の一人だ。現在、東京・丸の内にある三菱一号館美術館では、世界初公開作品を含む、彼女の作品が多数展示されている。展覧会タイトルは「不在」。この言葉から改めて見えてくる現代美術家としての彼女の姿―

現代美術家ソフィ・カルを惹きつける「不在」なるもの

極めて私的で日常的な出来事をベースに、テキストと写真、映像を使って、どこか物語性豊かな作品を発表してきた Sophie Calle。その作品の魅力は、まず独自のアプローチにあるといえるだろう。例えば、友人や見知らぬ人に自分のベッドで8時間寝てもらい、その姿を写した写真とインタビューをもとにしたテキストで構成された《眠る人》。パリでふと出会ったアンリBなる男性をヴェネチアまで尾行した《ヴェネチア組曲》。《ザ・ホテル》シリーズは、自身がメイドとなって働いていたホテルで、宿泊者の私物や彼らの痕跡を写真とテキストで記録したものだ。

かつて、大学で思想家・社会学者の Jean Baudrillard (ジャン・ボードリヤール) の元で学んだこともあり、どこか社会学的なアプローチのようにも思えるが、自身、「社会学者でもジャーナリストでもなく、私はアーティストです」ときっぱり言い切る。その通りだ。どこかフィールドワーク的な追跡や記録といった方法論に目が向けられがちな彼女の作品だが、その根底にある関心は、社会学やジャーナリズムの枠には収まりきらない、実に大きな広がりを持っている。

美にまつわる作品もある。盗難に遭い不在になっている作品について、額だけが残されたその展示物の前で、学芸員や警備員、来場者などに「何が見えるか」を問いかけながら制作された《あなたには何が見えますか》。パリのピカソ美術館で、その休館中、作品保護のために紙に包まれたピカソ作品を写真に納めた《監禁されたピカソ》。

また私小説的な作品も彼女の真骨頂だ。両親や愛猫の死といった悲しい出来事を向き合った《自伝》シリーズ。1999年に東京にあった原美術館で発表された《限局性激痛》は、恋人との別れとその心の治癒の物語でもある。

そうした彼女の作品の多くを占めるのが、「不在」や「喪失」といった主題だったことを改めて知ると、妙に合点がいく。現在、三菱一号館美術館で開催中の展覧会『再開館記念「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル』は、Lautrec (ロートレック) と彼女の二人展だが、その主題でありタイトルにもなった「不在」は、自身の重要なテーマとして、Calle 本人が提案したものだという。

上記の《あなたには何が見えますか》や《監禁されたピカソ》、また《自伝》シリーズといった代表作に加え、本展初公開作品も並ぶその会場で、彼女にその創作哲学を聞いた。

—今回の展覧会の「不在」というテーマは、これまでのあなたの作品にも通底するもの。ただ、その中でも、母や父、愛猫の死、恋人との別れなどの出来事を起点とした作品は、どこかセルフセラピー的な部分があると以前話されていましたね。

その点については、結果的に自己セラピーになっている場合もありますが、セラピーのために作品をつくっているわけではありません。私の創作の動機は、自分に起こった出来事や感情を、文学的にあるいは私的にテキストを書くことであったり、イメージを紡ぐことであったり、あるいは壁にかけるようなものを作る、本のページを埋めるといったことですから。ただ、セラピー的な側面があるとすれば、例えば、母の死や大切な人との別れを主題にしたものです。それをテーマにすることで、その出来事に対して、ある種の距離を置いて見ることができますから。その状況を表す言葉やイメージを見つける作業の中で、痛みのようなものが突然なくなるようなことがあります。

—今回の展覧会では、これまでの代表的な作品が並ぶ中、デリケートな作品であるため、この美術館に飾られないで眠っている Redon (ルドン) の《グラン・ブーケ》を着想された作品が初公開されています。まさになかなか表には出てこない「不在」の作品がきっかけになったものです。これについては、これまでの作品制作と同じように、美術館の関係者にインタビューしながら、作品をつくられたそうですが、何か印象的なエピソードはありましたか?

今、印象に残っているエピソードは、何もありませんね。その過程で私自身が興味を持ったことは、すべてテキストに消化していますから。そして、その制作を行なったのはもう4年の前のこと。テキストにしたこと以外はすべて忘れました。だから、テキストがすべて。そして私のテキストが、すべて真実です。

—すべて真実。これは、時に「現実と虚構を交えながら作品をつくる」と紹介されてきた、あなたのこれまでの作品を見る際にも、重要な言葉かもしれません。

「すべて真実である、けれども必ずしも現実ではない」と言ったほうが、正しいかもしれません。例えば、苦しみのようなものは、しばらくその人の中に残っていくもの。だけど、私が作品で語っていることは、私がテキストを書いている数分間の感情であったり、また出来事が起こる1年前のこと、1年後のことだったりします。また、作品づくりにおいては、その出来事や感情を表すのにふさわしい、最もよく聞こえる言葉を探し、最もよく語りうるイメージを探し、選んでいるわけです。そういう意味では、実際にあった出来事を作品という形にするわけなので、すべてが現実ではないということです。そして、そもそも私はアーティストであり、ジャーナリストでも社会学者でもありません。

《海を見る》(海のある地域に住みながらも、特別な事情で海を見たことがない人たちが、初めて海を見る姿を捉えた映像作品)はご覧になりましたか? 実は私が彼らとは、彼らを撮る前に、あまり言葉を交わしていません。彼らをあまり知らないうちに撮影したのです。それは、この作品では「感情」を表現したかったからです。その人たちが海を見るその視線あるいは、カメラが捉える彼らの背中や肩などを通して、彼らがそこでどんな感情を持ったのかということ。ジャーナリストではありませんので、彼らについて何か知ろうとするのではなく、ただ単にそこで生まれる感情を表現したかったのです。

—しかも、その作品では本人たちがまったく一言も喋りません。それが、かえって作品としての強度や豊かさを感じさせます。

ええ、私もそう思います。この映像では、彼らを正面からではなく背中側から撮影しています。その感情で震える背中は、多くのものを語っていると思います。

—個人的には、本展の最後の展示室にある《オートプシー》という作品も印象的でした。死んでしまったかのように、静かに寝そべっているポートレートですが、これはご自身にとってどういう存在でしょうか?

これは、私自身の死です。ある時、友人である Jean-Baptiste Mondino (ジャン=バプティスト・モンディーノ) が私のポートレートを撮りに来たのです。そこで、彼は、今、どのような作品をつくっているのか、どのようなことに関心を持っているのか、と聞いてきたので、私は、両親の死と自分の死だと答えました。ちょうど、この展覧会の最初の展示室の作品をまとめようとしていたのです。そうしたときに、彼が提案してきたのが、このポートレイトを撮ることでした。実は、私はそのとき、今回の三菱一号館美術館での展覧会の前に、死んでしまうのではないか、恐れていたのです。この美術館が展覧会で扱ってきたのは、すべて物故作家、つまり死んだ作家ばかりで、今回が、現存している作家の初めての展覧会だと聞いたので。私はこの展覧会まで死にたくなかった。なので、一種の死に対する挑発としてこの写真を撮りました。それは、同時に、死という恐怖というものにもなりましたが。

—これまで、作品にしてきた「不在」や「喪失」といったテーマ。ご自身の死は、もしかしたら、究極の「不在」なのかもしれません。

そうですね。ただ、確実に言えるのは、私が死んでしまったら、もうこの「不在」というテーマについて、私自身が作品をつくることはできないということです。