chie hayakawa
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孤独な魂がゆらめく情景。早川千絵が『ルノワール』を撮って考えたこと

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photography: daehyun im
interview & text: mayu sakazaki

Portraits/

「映画を作る過程そのものが、映画になり得るほどに愛しく、感動のかたまりのような時間なんです」。そう語るのは、『ナイアガラ』と『PLAN 75』に続き、『ルノワール』がカンヌで高い評価を受けた早川千絵監督。闘病中の父と、仕事と生活に追われる母のもとで、11歳の想像力豊かな少女・フキが過ごすひと夏を繊細に描き、多くの名作を生んだ「映画の中の子ども」像を新たに作りあげた。これまで早川監督が描いてきたさまざまな人物は、それぞれに孤独な魂を持っている。けれど、生きていれば何かの出来事を通して、他者と心が通じ合う瞬間は必ずある。早川監督にとって、それが子どもの頃に観た一本の映画との出会いだったように。『PLAN 75』で社会的なテーマを扱ったのとは対照的に、パーソナルな経験を掘り下げた『ルノワール』を通して、彼女がどんなことを考えたのか。カンヌから帰国したばかりの早川千絵監督に、今回の作品について、そして映画づくりについて話を聞いた。

孤独な魂がゆらめく情景。早川千絵が『ルノワール』を撮って考えたこと

─『ルノワール』では、ひと夏の間に起こる断片的なエピソードがコラージュされていますが、ポスタービジュアルを見て想像する内容とギャップがあり驚きました。死、喪失、断絶など、痛みを伴う経験が主に描かれているのは、自然とそうなっていったのですか?

そうですね。本当に自然と見えてきたという感じです。最初は自分がなぜこのシーンを撮りたいのか、なぜこういう人が出てくるのかわからないまま繋げていって、シーンを削ったり順番を入れ替えたりといった編集が終わりに近づくにつれて、「こういう映画なのかもしれない」という全体像がだんだん見えてきたんです。出来上がったものを観ていただいてからは、みなさんから聞く感想によってまた新しい発見があったり、そういう映画になりました。

© 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners

—主人公のフキは両親以外にも、さまざまな種類の大人たちと関わっていきます。彼らが画一的な大人じゃなく、それぞれに弱さや不完全さみたいなものを持っている姿が印象的でした。

ずっと「子どもを主人公にした映画を撮りたい」と思っていたのですが、きっと10代や20代で作っていたら、子どもにばかりフォーカスしていたと思うんです。周りの大人をただミステリアスな存在として、ときに憤りを持って描いてしまっていたかもしれない。でも、私自身が親の立場になり、40歳を過ぎたことで、その弱さや不甲斐なさみたいなものが理解できるようになったというのはあると思います。以前よりも大人に対する目が優しくなったというか、親密さを持って彼らを見つめられるようになったのかなと。

—頭では理解できていても、感情の部分で受け入れられないという時期はありますよね。

そうですね。私も20代頃までは「大人に抗いたい、受け入れたくない」という子どもの気持ちがあって、どこか責めたくなるような感情が残っていました。でも、今はそれがスッと抜けてきたような実感があって、ちょうどいい時期にこういう映画が作れたんだなと思います。

—物語の中でフキは超能力や催眠術に興味を持ち、大人たちも不確かなものに大金を使ったりします。そこにはコントロールできないことに対する衝動だったり、祈りのような感情があるように感じたのですが、早川監督ご自身はどんなことを考えましたか。

フキの家族は、みんな同じ屋根の下に暮らしているけれど、それぞれ別のものに救いや癒しだったり、ソウルメイトだったり、そういうものを探している3人なんですよね。家族がお互いを見ていなくて、外にそれを求めているから、一緒にいてもどこか孤独で。だけど嫌いあっているわけじゃなく、なんというか、情のようなものもある。そして、そういう孤独な人たちが他にもたくさんいる、という情景にすごく惹かれるんです。ドラマとかを見ていると、家族の誰かが病気だった場合、「死なないで」と悲しんだり、献身的に看病したり、すごく愛し合っているというのが前提にあるじゃないですか。でも、そういう家族ばかりじゃないんじゃないか、フキたちのような家族もいるんじゃないかなと考えていました。

—ひとつの家族像を描くときに、映画の舞台となる80年代という時代はどう影響しましたか?

80年代ってものすごく経済が上向きになって豊かになっていった時代で、ぱちんとバブルが弾けてなくなってしまう、その手前の時期を描いているんですね。みんなが未来に希望を持っていて、どんどん自分たちは幸せになっていくだろうっていう上向きの気持ちがある。その一方で、足もとにある人との繋がり、家族の繋がり、コミュニティの繋がりが変化して、それぞれが孤立していった時代でもあると思うんです。だからこそ、家の中じゃなく外に自分の世界を見つけ始める、そういう時代の雰囲気が物語の背景として大事だったというか。

—伝言ダイヤルが出てくるシーンもありましたが、今でいう「出会い系サービス」ですよね。誰かと繋がりたい、自分のことをわかってほしい、という普遍的な欲求がある。

そうなんですよね。当時は今よりずっと無防備ですし、電話番号を知られるのが怖いっていう感覚もそれほどなかったと思います。今のSNSと同じで、孤独な魂がそれぞれにあるという。

—フキは好奇心から無意識に危険に近づいていきますが、何か刺激的な出来事を通して現状を打破したい、という感覚が子どもの頃の自分にもあったのを思い出しました。

女の子って小さな頃から危険と隣り合わせで、でもそれをまだ頭でちゃんと理解していなくて、ただ漠然と感じているんですよね。危ないことかもしれないっていうのがわかっているから親には言えないけれど、怖さ半分、興味半分というところもある。そんな複雑で多面的な時期の女の子特有の感覚を、映画で描きたいと思っていました。

—坂東龍汰さんが演じる薫の家を訪れるシーンは、すごく緊張感がありました。

やっぱりああいうシーンを、実際に11歳だった鈴木唯ちゃんに演じてもらうには、かなり気をつけなければいけないという思いがありました。なので、最初の段階からインティマシー・コーディネーターと心理士の方に入っていただいて、事前に打ち合わせをしつつ、彼女がやりたくないことはやらないと決めて。坂東龍汰さんとも友だち同士のようにコミュニケーションを取ってもらいながら、これはお芝居だからねと伝えて、終わったらすぐに普段通り遊んでもらったり。彼女に負担のかからないような形をみんなで考えて撮っていましたね。

—鈴木唯さんは、フキと同じように短期間でどんどん成長し変化していく年齢ですよね。演じていくなかで、彼女が変わっていった部分はありましたか?

唯ちゃんはすごく責任感が強くて、プロ意識がある人なんですよ。長い撮影なのできっと体調にも波があったと思うんですけど、そういうところは見せずに、1日も撮影を休むことがなかった。それと同時にすごく子どもらしくて、人形でずっと遊んでいたり、絵を描いたり、かくれんぼしたりもする。そういうバランスがすごく面白かったですね。途中からはフキについて唯ちゃんに何か説明する必要もほぼなくなって、言わなくてもすんなり演じてくれる。「この人はわかってくれているな」という信頼感を持ちながら撮影することができました。

—最初からそうだったわけではなく、だんだんと信頼関係が出来上がったというか。

そうですね。最初はまだわからない部分も多かったですし、どこまでこの長丁場を持たせられるだろうかっていうのが未知数だったんです。もしかしたら、唯ちゃんの体調や心の問題で撮影ができなくなる可能性もあるだろうと想定していました。でも、思っていたよりもずっと伸び伸びと楽しそうにやってくれて、本当にやればやるほどフキになっていった。「今日はどういう顔を見せてくれるんだろう」って、毎日楽しみになるほどでした。

—しかも、オーディションでいちばん最初に会った人だったんですよね。

そうなんです。唯ちゃんが最初に来てくれて、これは運命だと思ったくらい(笑)。フキが劇中でやっている動物の鳴き真似も、そのときに披露してくれたんですよ。唯ちゃんと出会ってから、フキのキャラクターもどんどん具体化していきましたね。フキならこういう動きをして、こういうことを言うだろうというのが見えてきて、それを脚本に組み込むことができました。

—劇中では、フキが見る「夢」が現実と混ざり合うように登場します。恐れだったり、願望だったり、フキの心の中で起きていることが表現されているようで、すごく共感しました。

私自身がよく妄想や夢想をする子どもだったので、そういう現実との境がない感覚を表現したかったんです。夢のシーンが好きだったと言ってくれる人も結構いて、やっぱり映画だからできる表現なのかなというのは感じました。

—フキと同じマンションに住む北久里子の役は、『PLAN 75』でも印象的だった河合優実さんが演じていましたね。独特の語り口と冒頭のシーンに繋がるエピソードが、人間の不気味さとか、わからなさみたいなものを表しているようで、ゾッとする怖さもありました。全体の中でもどこか異質な魅力のある彼女のシーンは、どのように生まれたのでしょう。

確かにあのシーンは、ちょっと異質なんですよね。だから脚本執筆時は「削ってもいいんじゃないか」と言われることが多かったんですけど、私自身はすごく好きなシーンです。まったく知らない他者の、ものすごく親密な話や秘密みたいなものをたまたま聞いてしまう経験って、自分の人生にもあったような気がして。河合さんが演じた久里子という女性も、まさかこんなに小さな子どもに話すつもりはなかったけれど、だんだんとゾーンに入っていくというか、その瞬間だけ不思議なスポットに入ってしまう。その感じをどうしても入れたかったんです。

—怪談を語っているようでもあり、どこか色気みたいなものを感じるシーンでもありました。

本当はもっと長いシーンで、編集で少しカットしているのですが、河合さんは何度テイクを重ねてもまったく間違えることなく完ぺきに演技してくれました。だんだんと催眠状態になっていく様子を淀みなく説得力のあるお芝居でやられていて、本当にすごいなと思いましたね。

© 2025「RENOIR」製作委員会 / International Partners

—『ルノワール』には全体を通して「死」がつきまとい、影を落とすようなシーンが続きますが、観終わったあとは不思議と清々しい気持ちになりました。それは、最後に明るい未来を感じさせるようなシーンが入っていることも大きいと思うのですが、早川監督は映画の中に「希望」を描いておくことについて、どのように考えていますか。

フキは11歳の少女ですが、この年代のときって「家族」や「学校」というすごく狭い世界の中で生きていると思うんですね。でも歳をとっていくにつれて、どんどん世界が広がっていって、色々な人と出会って、きっと彼女はいつか家族のもとを離れていく。そういう出会いが救いにもなるし、新しい可能性にもなるっていう人生の希望みたいなものを見せたかったんですね。あのシーンはフキの夢の中かもしれないし、お母さんの夢の中かもしれないし、起こるかもしれない未来の予知夢みたいなものかもしれない。きっと彼女はこれから海を超えて色んな人と出会い、すごく開けた未来が待っているというのを示唆させたかったというか。

—何かを示唆することはあっても、映画を決めてしまうようなシーンはあえて入っていないように感じました。核心に触れそうで触れない、周縁をなぞることで輪郭が見えてくるように設計されているというか。映画のバランスを調整するなかで意識したことはありますか?

現実の私たちが生きている世界や日常でも、わからないことってたくさんあるじゃないですか。目の前にいる人が何を考えているのか、誰と会っているのか、ほとんど自分には見えないというのが前提にある。だから、映画の中でもそれが普通だろうなっていう認識がなんとなくあるんです。映画だからそれが全部明らかになったり、事細かく説明されるっていうのは、むしろ現実から離れるんじゃないかと思ってしまう。「あの人がこうなっているのは、お腹が空いているからなのかな、何か嫌なことがあったのかな」とか、みんな普段から想像力を働かせているし、そういう能力が人には備わっていますよね。映画を観ていても同じように想像するだろうし、そっちの方が面白いんじゃないかという思いがあります。だから、見えない部分まで描きすぎるよりも、観た人が考えを巡らす余地を残したいといつも考えていますね。

—『ルノワール』で影響を受けた作品として、Víctor Erice (ビクトル・エリセ) の『ミツバチのささやき』、相米慎二の『お引越し』、Edward Yang (エドワード・ヤン) の『ヤンヤン 夏の想い出』などを挙げられていましたが、少年少女の眼差しを持つ映画として、どんな影響を受けたのでしょうか。

それぞれまったく違う魅力があるのですが、多分『お引越し』の影響がいちばん色濃く出ているかなと思っています。高校生のときに観てから、もう大好きになって、田畑智子さん演じるレンコがしばらく頭から離れなかった。なぜかはわからないけれど、彼女のすべてをずっと見ていたいと感じるような魅力がレンコにはあるんです。それは『ルノワール』の唯ちゃんも同じで、彼女さえ撮っていれば映画として成立するんじゃないかと思うほどでした。

—早川監督は小栗康平の『泥の河』を観たことが映画監督を目指すきっかけになったそうですね。そして、『泥の河』も子どもを描いた作品であったと。

そうですね。私が『泥の河』を観て感銘を受けたのは、自分が子どもながらに感じていたけれど言語化できなかった感情や気持ちが、映画の中で描かれていたからでした。子どものときに「わかる、これ」と思ったあの感じが、映画にのめり込むきっかけだったんです。「この映画を作った人は、私の気持ちをわかってくれているんだ」と感じたことで、初めて映画の作り手を意識した瞬間でもありました。なので、もし叶うのならば『ルノワール』を観た子どもが、「ああ、わかる」って、当時の私のように感じてくれたら嬉しいなと思います。

—ちなみに、鈴木唯さんが完成した作品を観たときの感想は聞きましたか?

日本で試写会をやったときは感想を聞く時間がなかったんですけど、カンヌの公式上映のときに隣で観ていたんですね。それで観終わったときに、「いい映画だね。私が審査員だったらこれに賞をあげるよ」って言ってくれました(笑)。とても嬉しかったですね。

—前作の『PLAN 75』では社会的なテーマを、今回の『ルノワール』ではよりパーソナルな部分を掘り下げていくというアプローチがあったかと思います。『ルノワール』を作り終えた今、どんな気持ちになっていますか?

う~ん、なんと言ったらいいのか……。自分が作品を作るときは、これがどこまで人に届くだろうか、伝わるだろうかっていうところにいつも不安があったんですね。でも、『ルノワール』では、カンヌでも何か響き方が違うというか、伝わっているという感覚にすごく手応えがあったんです。この方向で間違っていないんだなと思えましたし、自分が観たいものを作れば、同じようにそれを好きだと言ってくれる人がいるんだなというのがわかったというような、そんな気持ちに今はなっています。

—これまでに1人で制作する写真や映像作品での表現もされていた早川監督にとって、さまざまな人たちと関わる映画づくりは、どんな魅力があるのでしょうか。

映画って、本当にいっぱいの人と一緒に作るじゃないですか。そのすべての過程がすごく面白い、愛しい時間で、これ自体が映画になるんじゃないかというくらい良い時間なんですね。スタッフとロケーションを探しているときに、同じ景色を見て、みんなで同じように心奪われる瞬間もあれば、「自分にもこういうことがあって」と、すごくパーソナルな話をするときもある。準備期間も、撮影中も、編集中もそうなんですけど、そういう時間にみんなが交わす会話だったり、見ている景色、起こる出来事っていうのが、私にとってはものすごく親密で、心が動くものなんです。本当に、映画づくりそのものが感動のかたまりだなと思います。

—『ルノワール』は、日本、フランス、シンガポール、フィリピン、インドネシア、カタールの国際共同製作作品でもあります。それは、映画にどんな影響を与えていますか?

仕上げの作業はほぼ全部フランスでやったのですが、そこにじっくり取り組めたのは大きな違いだったのかなと思います。私は日本で長編映画を作ったことがないので単純に比べることはできないんですが、例えば同じくらいの予算の映画を日本で仕上げると、もっと短い期間になることが多いと聞きました。かつ、フランスでは労働時間がきちんと決められていて、朝9時半に行って午後6時か7時には仕事が終わるというサイクルが、創作にとってもすごく有益でした。やっぱりちゃんと頭と身体を休めてから作業に取り組める環境は良かったなと。時間をかけるということは、やっぱりお金もかかるんですけど、昔の方がそういうことをちゃんとやっていたような気がするんですね。今の日本全体を見ていても、お金も時間もかけなくなると、やっぱり色々なものの質が下がっていってしまうという印象があるので、そこは変わりたいところです。

—カンヌの学生部門で『ジンジャー・ボーイ』が評価された田中未来さんなど、若い女性監督たちが早川監督の背中を追っているかと思います。彼らにどんな言葉を伝えたいですか?

私が20代の頃って、全然やりたいことができなかったんですよ。それは自分に勇気がなかったりとか、怠惰だったっていうのもありますし、女性が映画監督になるのは難しいっていうイメージが当時すごく刷り込まれていたのもあって。だから彼女たちが10代や20代で映画を撮り始めていること自体が素晴らしいと思いますし、本当に尊敬や羨望の眼差しで見てしまうんですけど(笑)。とにかく、映画は撮ったもの勝ち。勇気を持って撮り始めることができたなら、もうそのまま突き抜けてほしいですし、私も同じ土俵に立っていると感じています。

—やりたいけれどなかなか踏み出せないという思いは、監督ご自身が経験されたことですか。

そうですね。私は子育てや社会人経験を経て40代で映画監督になったので、あの頃の自分には、一歩踏み出せば気持ちが楽になるよと言ってあげたいです。やりたいという気持ちを持ったまま何もしないのが、いちばん辛いですから。勇気を出してやり始めたら自然と元気が出てきて、自分自身がすごく変わったんですよ。今はやりたいことが見えない、わからないっていう人が多いと思うので、何か好きなものがあるってことだけで、すごく幸運だと思うんです。少しでも好きな気持ちがあるなら、小さなことでも何かやってみたら道は開けていくんじゃないかなと思います。