不信の時代に、映画は何ができるか。アリ・アスターとの対話
Ari aster
photography: nils junji edstrom
interview & text: umi ishihara
アメリカにある架空の小さな町「エディントン」を舞台に、政治的信条の異なる2人の男が市長選で争う姿を描いた映画『エディントンへようこそ』。コロナ禍、ブラックライブズマター、陰謀論といった2020年の社会問題を、西部劇という伝統的な映画ジャンルを通して強烈に風刺している。
インタビューでは、Ari Aster (アリ・アスター) 監督の政治的な意見を深堀しつつ、この時代に映画を作ることについて話を聞いた。ものすごい速度で暗い方向に進んでいく世界で生きる私たちが、どうやって人とつながり直すことができるのか?『エディントンへようこそ』は、その一つの回答になっている。多くの悪夢を描いてきた監督による「現実世界こそが悪夢だ」という主張が響くスリラー映画。
不信の時代に、映画は何ができるか。アリ・アスターとの対話
Film
—数日前にトランプ氏が来日し、新しく就任した高市早苗首相と会談したニュースを見ました。アメリカの政治や、世界で起きていること──たとえばガザでの虐殺など、そうした政治的な出来事はあなたの映画制作にどんな影響を与えていますか?
『エディントンへようこそ』を観てもらえれば分かると思います。映画そのものが答えを語っているので、言葉で良い答えが出せるか分かりませんが……。 2020年以前は、現実世界を舞台に映画を作ることにそれほど緊急性を感じていませんでした。でも今は違います。世界があまりに狂っていて、むしろ現実から切り離された世界を作ることのほうが不自然に感じるんです。 自分がやっていることを別の世界に置き換えたり、現実から乖離させたりしようとすることに違和感があります。
—今の社会状況を描くアプローチは、次の作品でも続くのでしょうか。
たぶんそうなると思います。私はいつも自分の心に引っかかっていることや、危機的な状況にあるとき、あるいは何かを乗り越えようとしているときに脚本を書くことが多いです。 でも今は、私生活でどんなことが起きていても、世界全体で起きていることに比べたら些細なことに感じてしまう。だからこそ、今は世界中で起きている出来事について考えたり、整理したりしたいという気持ちが強くなっています。
—SNSなどのメディアと比べると、映画はとても「遅い」メディアだと思います。制作に時間がかかり、完成までに何年も要することもあります。そんな中で、映画というメディアの特異性は何だと思いますか?また、変化の激しい現実に映画はどう反応できるのでしょう。
今回の作品では、2020年を舞台にしたことが大きな助けになりました。脚本を書き始めたのが2020年だったのですが、その時すでに「世の中の状況は変わっていくだろうけれど、2020年という年自体は、いつ公開しても意味を持ち続けるだろう」と感じていたんです。 確かに今は変化のスピードがものすごく速い時代です。朝のニュースが夜にはもう古くなっていて、その間に新しい出来事が400も起きているような感覚さえあります。何もかもが速すぎて、じっくり考えたり理解したりすることが難しい。今、私たちの「時間との関わり方」は、5年前、10年前とは全く違っていると思います。「変わってしまった時間の感覚を、映画でどう表現すればいいのか」「人と人との関係の変化を、どう描けばいいのか」と、常に考えています。なぜなら、私たちはいままさに変化の渦中にいて、その変化はあまりに速く、これまで存在しなかったものが次々と生まれているからです。今起きていることはすべて「前例のないこと」のように感じられます。アメリカで起きていることも、ソーシャルメディアの状況も、いわゆる“カルチャー・ウォーズ(文化的対立)”も、大きく変容しました。そこにさらにAIが登場し、テクノロジーが私たちの生活に与える影響は、もはや圧倒的なものになっています。
—『エディントン』の制作中、監督が Twitter のアカウントをいくつも作っていたという記事を読みました。そのことについて少しお話しいただけますか?
当時はロックダウン中で、みんながお互いに離れ離れになっていました。Twitter は世界とつながり続けるための手段でした。でも、だんだんそれが自分をおかしくしていることに気づいたんです。常に落ち着かず、イライラしているような気分になってしまって。 その頃から、「インターネットの中で生きている人々を描く映画を作りたい」と考え始めました。彼らは、自分たちがネットの中に生きていることに完全には気づいていません。現実の世界にいるつもりでも、実際には、彼らが「現実」を見ているその「窓」──つまりスクリーンやSNSによって、世界そのものが歪められてしまっているように思えたのです。
—私は個人的に陰謀論というテーマにすごく興味があります。信じているわけではないんですが、トピックとして関心があるんです。監督は、どんな人が陰謀論にはまると思いますか?
私たちみんなが、ある意味で「陰謀」に関わっていると思うんです。あなたは「信じてはいない」と言うけれど、きっといくつかは「これは本当かも」と思うものがあるはずです。あなたが陰謀論というテーマに興味を持つのも自然なことです。 というのも、今のように陰謀論が蔓延する背景には、「権力は腐敗するものだ」という共通認識があるからです。権力者たちは、私たちの目に見えないところで何かを決めていて、私たちの生活に関わる決断が閉ざされた場で行われている。表面的には「何が」起きているかは見えても、「どう」起きているのかまでは分からない。それは事実です。そうした状況が、社会全体にパラノイア(被害妄想)を生み出すことになる。そして、実際に悪意ある行動も見えてしまうから、疑い深い人たちは特により一層、あらゆる物事の間に「つながり」を見出そうとする。 しかも今はニュースが一極集中していないので、自分で「どの情報を信じるか」「どれを事実とみなすか」を選べてしまう。そうなると、世の中は混乱と分断に包まれます。だからこそ、陰謀論がこれほど広がるのも理解はできますが、同時にそれはとても危険なことだとも思います。
—陰謀論は、人々の分断を引き起こしていると思いますか?
むしろ、人々がすでに深く分断されているからこそ、「陰謀的な考え方」がこれほど広まっているんだと思います。以前は陰謀論なんて「社会の片隅」にあるものでしたが、今や完全に主流になってしまった。昔は「陰謀論者」と呼ばれる人たちは社会のごく一部でしたが、今では私たち全員が少なからず陰謀論者になっていると思います。程度の差こそあれ、陰謀的な思考はあらゆるところに入り込んでいる。 そこから抜け出すのは本当に難しい。なぜなら実際に「陰謀」が存在するのも事実だからです。もちろん昔から陰謀はありました。でも今は、何もかもが陰謀だと言われる時代になってしまい、そのせいで「本当に存在する陰謀」までもが信用されなくなっているんです。
—今、興味のあるSNSはありますか?
正直に言うと、特に「興味がある」SNSはありません。SNSはものすごく有害だと思うので。ある意味、世界を壊してしまったとも感じています。ただし、それは「SNSそのものが悪い」という意味ではなく、それがどのように使われてきたかの問題です。SNSは本来「ツール」であって、別の方向に発展する可能性もありました。 けれど、SNSがもたらした民主化のあり方は、結果的にあまり良いものではないと思います。たとえば、これまで社会の中で重要な位置にあった専門家が排除され、「専門知識なんて誰でも持てる」という風潮になってしまった。私はそれには賛同できません。とても危うい問題だと思います。今では、誰の声も同じ重みを持ってしまっているんです。
—本当に、どの人の声も同じ重みだと思っていますか?
ええ。特にアメリカは「成果主義」の国ですから、すべては自分次第という考え方です。だから人々は、気づかないうちに自分を搾取するような働き方をしてしまう。そしてインターネットの本質は、「注目」をめぐる経済(アテンション・エコノミー)です。つまり、誰がどれだけ人の注目を集めるかという競争社会の中で生きている。その結果、私たちは他人とだけでなく、自分自身とも競い合って注目を奪い合うようになってしまったんです。
—『エディントンへようこそ』を観た後、観客にどんな感情を持ってほしいですか?また、右派の観客からの反応はどうでしたか?
右派の観客からの反応は分かりませんし、多くの人に届いたかどうかも分かりません。この映画は、ある問いかけで終わります。その問いとは「この道を進み続けたいのか?」ということです。 この映画は、あえて読み取りにくいように作ってあります。だから右派の人が観れば、映画の一部には共感するかもしれません。私は右派ではないですし、映画を最後まで観ればそれは伝わると思います。でもこれは政治映画というより、「政治を扱っている映画」です。そこが難しいところですね。私は政治的な人間ですが、特定の立場を支持して「この人たちは良い、あの人たちは悪い」といった単純な構図の映画を作るのは、視野が狭すぎると感じました。実際にはもっと複雑なことが起きているし、「良い人/悪い人」という分け方そのものが罠なんです。私たちはその罠に何度もはまっていますが、その間にも、はるか頭上ではもっと大きなことが次々に起きてしまっているんです。
—正反対の意見を持つ人と、どうやって話したり歩み寄ったりできると思いますか?
今の時代、それはほとんど不可能に近いんじゃないかと思います。みんな自分の周りにある情報にすっかり浸かっていて、「僕が知ってることを君が知らないなら、君はバカなんでしょ?」みたいな態度になりがちだからです。特にアメリカではその傾向が顕著です。 ネットを見れば「この人は悪い」「この人はバカだ」という断定ばかりが広がっていて、そうなると人は反対意見から遠ざかってしまいます。もし私が君に「君はバカだ」と言ったら、君は私から距離を置くだろうし、もう話しづらくなりますよね。だから問題なんです。人々がどうやって再びつながればいいのか、正直分かりません。 でも、つながり直す必要はあります。もし希望があるとすれば、人々がガードを下ろし、お互いを自分の世界に招き入れることなんじゃないかと思います。でも今は、みんなそれぞれ別々の小さな世界の中で生きてしまっているように見えます。
—映画監督になるために一番大事なことは何でしょう。
一番大事なのは、粘り強さですね。それと、自分が伝えたいことを持っていること、自分の「声」を持っていること。この世で作られる映画の多くは、どこかで見たことのある繰り返しのようだと感じることが多いんです。だから私は常に、何か違うものを探しています。そして、自分の作品が際立つものになるよう心がけています。
—短編映画を作っていた段階から、初めての長編映画『ヘレディタリー/継承』を作るまでの過程が知りたいです。どのようにして長編映画を作ることになったのでしょうか。
短編映画を作っている間も、ずっと長編映画を作ろうとしていました。だから長編を作る機会がなかった間は、少なくとも何か作業を続けるために短編映画を作っていたんです。私は長い間、長編映画を作ろうと試み続けていました。 ただ、短編を作ることが、長編映画を作らせてもらえる説得材料になったわけではありません。でも、その過程で学びが増え、監督として成長し、自信がついていきました。試してみて上手くいかないこともあれば、上手くいくこともあって、その「上手くいくこと」が増えるたびに、自分のスタイルが少しずつ見えてきたんです。
—いつ自信がつきましたか?
時間はかかりましたし、少しずつですね。ある意味では、まだ自信がないんです。
—今も?
そうですね。少なくとも、映画を作る方法は分かっていると思います。自分が何をしているか、ある程度の美学を持っていること、俳優とどう向き合うかも分かっています。 でも、新しい映画を作るときはいつも「うまくできなかったらどうしよう」「俳優とうまくやれるかな」「良くない作品になったらどうしよう」と不安になります。私の作品を気に入らない人もいるでしょうし。 だからといって、自信がありすぎて「絶対失敗しない」と思って取り組むと、作品に悪影響が出てしまうんです。私が心配したり緊張したりするのは、それだけ作品を大事に思っているからです。あなたが「監督に必要なものは何か」と私に聞いたのも、それだけ映画制作を大事に思っているからでしょう。 映画を作ること、アーティストであることの意味を探そうとしている。それはいつも変わらない私の問いです。「良い映画とは何か?」 正直、分かりません。自分が完璧だと思える映画を作れたこともありません。いつも「もう少しこうすればよかった」と後悔しながら作品を終えます。そして、その後悔が、次の映画を作る原動力になるんです。
—最後の質問です。この先、どんな世界になってほしいですか?
人々が互いに優しく接し、互いに、そして周囲の世界と再びつながれる世界を見たいです。そして、いま世の中が進んでいるこの道から抜け出せることを願っています。













